つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

茅ヶ崎城@神奈川県

2025-01-18 16:00:00 | その他城
2025年1月18日

午前中に小机城を訪城した後は、茅ヶ崎城に移動!
電車で30分くらいで行けるので、ぜひセットで周って頂きたいですね。

地下鉄ブルーライン センター南駅が最寄りになります。
住所は神奈川県横浜市都筑区。

駅から10分程度で茅ヶ崎城に到着です。



センター南周辺はニュータウンですが、その住宅街の中にポツンと現れる森。

現在は茅ヶ崎城址公園として整備されています。



標高は約35mなので、これから中世城郭に足を踏み入れるビギナーさんも、訪城しやすいと思います。

公園化されているので、至る所にベンチもありピクニックもできそうです。



公園入り口から階段を上がって進むと、中郭と西郭に向かう道で分岐します。

まずは中郭を目指します。



中郭の下には北郭があり、広めな曲輪が広がります。



北郭の前には中郭があります。
茅ヶ崎城は資料が少ないため、解明されていないことが多い城でもあります。

中郭は茅ヶ崎城のメインとなる本丸の可能性が高いエリア。



かなり大きな土塁が中郭を取り囲んでいます。
約4mほどでしょうか。当時はもっと大きな土塁であった可能性が高いです。



中郭も公園として、大きな広場になっています。草木の茂みで分かりづらくなっていますが、全面的に土塁で囲んでいます。

この場所が重要な場所であったことが分かります。



中郭南側には石で区画されています。
発掘調査でここには建物の跡が発見されています。

礎石チックな石垣並んでいますが、実際は掘立柱の跡が発見されているので、礎石の持たない建物でした。

この遺構は倉庫の跡だったようです。

茅ヶ崎城では居住となる遺構はまだ発見されていないようです。

続いて、中郭南側より西郭へ向かいます。



中郭南側出入り口。

土塁が途切れた間には虎口があったのではないかと連想させる造り。



中郭の土塁沿いを西側へ歩きます。
右手には中郭の綺麗な土塁を見る事ができます。



右側が中郭、左側は西郭。
この辺りの遺構は良好で城郭の形がハッキリと分かります。



西郭内部。
左側は土塁なっています。
右手は広い曲輪になっていますが、入ることはできません。



中郭と西郭を分断する空堀は、現在公園の通路になっています。

城跡だと認識して眺めると、綺麗な空堀になっているのが分かります。

北側に向けて傾斜になっているので、もしかしたら割と深い空堀だった可能性があります。



先には虎口跡があります。
手前左側が中郭、奥が西郭。その間に虎口があり、道もグイッと曲げてあります。

案内板もしっかり建てられているので、かなり分かりやすいです。



再度、中郭に戻ります。
やはり中郭を囲む土塁は高さがあり迫力があります。



東郭に行くには、中郭から行くのが近道です。
中郭の南側より出て、左手に進むと東郭に行く事ができます。

階段で下って、すぐに階段を登るので、V字になっているのが分かります。

ここも中郭と東郭を分断する空堀だったとも思われます。

何気なく下って登るだけの階段ではありますが、城の形状を想像しながら歩くと中世の山城らしさを感じる事ができます。



東郭は完全に孤立した曲輪になっていますね。

東郭は茅ヶ崎城で最も高い位置にあることから、物見台の役割があったようです。
現在は木々が多いですが、周囲を一望できる見晴らしの良さがあります。

また、籠城戦の際に最後の最後に逃げ込む曲輪だったとも考えられています。

北側の下には行くことはできませんが、腰曲輪が配されています。



茅ヶ崎城に来た際は、ぜひ見て欲しいスポットがあります。

見過ごしてしまいそうなほど、住宅街に馴染んでいるのですが、北郭の道路には土橋跡があります。



これのどこが土橋跡かというと、台形のコンクリートの形そのものが土橋の形になっています。

つまり、この道路そのものが空堀だったと思われます。



この角度から見ると、よりイメージがつきます。

台形のコンクリートになっている、土橋跡は、右側の住宅地まで伸びていて、住宅地のあたりはもう一つの曲輪であったと思われます。

ニュータウンに馴染みすぎた遺構ですね。
これはこれで面白い保存の仕方です。

コンクリートの上に小さく土橋跡という看板があります。

これ一つあるだけで、まったくイメージが変わります。
この他にも城内には至る所に、丁寧に看板が配されているのは素晴らしかったです。



最後に茅ヶ崎城の南側にある、正覚寺をサラッと見てまわります。
城の麓にありますが、直接行くことはできないので、ぐるりと城の周りを歩いて向かいました。

素晴らしい惣門を見る事ができます。
まるで城門のように立派です。

正覚寺の創建は室町時代とされています。



ハッキリとした史実は分からないのですが、茅ヶ崎城主の菩提寺という話もありますし、北条氏との関わりがあったとも言われています。

その他、ネットでは豊臣秀吉の話もありました。

不明確な部分が多いので、気になる方は調べてみて下さい。



近くには早淵川が流れています。
時を忘れてしまいそうなくらい穏やかです。

約2時間ほど、ゆっくり散策。
住宅地に囲まれた公園ではあるものの、しっかりと遺構が残っていたので、楽しむことができました。

茅ヶ崎城は今でも謎に包まれています。
小机城の支城という説が有力でしょうか。

小田原合戦の際の、戦の記録がないので小机城と同じく小田原合戦の際は戦わず放棄された可能性もあります。

城の全容はベールに包まれていますが、豊臣の大軍勢に対抗するには規模が小さいかなと思います。

しかし、ここには間違いなくこの地を守り抜いた城の息吹を感じる事ができます。

北条氏の滅亡と共に、茅ヶ崎城も廃城となったようです。

謎多き中世城郭は、謎そのものが楽しみ方の一つでもあります。

最後は歩いて15分くらいのところにある、横浜市歴史博物館に行きました。

近いので、併せて楽しめるかと思います。
茅ヶ崎城の御城印も歴博で購入できます。

とても充実した、素晴らしい1日でした。
茅ヶ崎城の中郭で食べたコンビニのおにぎりが、格別に美味しく感じました。



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滝の城@埼玉県

2024-12-29 17:00:00 | その他城
2024年12月29日

柳瀬川を挟んで埼玉県所沢市と東京都清瀬市の県境に位置する場所に、滝の城という城があります。

近くにカインズホームとベイシアがあるので、年末の買い物に行った際に近くの城で検索してヒットしたので訪問しました。

聞いたことがない城で何気なく行ったのですが、結論的には想像を超えた素晴らしい城でした。

サクッと30分程で周るつもりでしたが、興味深い遺構が多くて結局は2時間ほど滞在。


現在滝の城は、滝の城址公園となっていて球技場などがある地域の公園となっています。

車の場合は無料の駐車場もありますが、ワタクシが行った時は年末年始だからでしょうか、駐車場は閉鎖されていました。

電車でのアクセスは東所沢駅から徒歩25分ほど。



目の前を流れる柳瀬川に架かる橋は城前橋。

このような、ちょっとしたPRでも個人的にはとても大事だと思っています。



今回ワタクシは高速道路側の駐車場方面から入城しました。

ちなみに主郭部とされている場所は反対側なので、のんびり歩きながら向かいます。



公園に入るとすぐに池があります。
時間は約15時頃。ランニングや犬の散歩をしている方が数名いるのみで、とても静かです。

この辺りは田んぼもあって平地ですが、右手は森となっていて、約25m程の高低差があります。



森の中に整備された道があるので入ってみました。

先程までいた田畑の景色とは一変して、やや城っぽさの雰囲気が出てきます。



堀切のように尾根を分断したこの辺りには、滝跡があります。

左手が城郭部で右手は城外。
滝の城とは、ここを流れていた滝が由来とされています。



こちらも同じく、気になってしまう形状をした道。
公園整備で作ったのか道なのかは不明ですが、人工的に山を削って道を通しているのは明らかです。

そんな想像をしながら見て周るのが、中世城郭の楽しさ。

資料が少なくて未解明が多い故に、宝探しをしている探検家のように、ワクワクしてくるのです。


小高い丘のような山ではありますが、見ての通り切り落としたような急な崖が主郭まで続いています。

ここが中世の平山城と知って歩くと納得の造り。



公園の反対側に来ると一般道があり、この辺りが城跡とされています。



やや急な坂を登ると、道路がぐるりと周り混んでいます。

まさに道路の中心部が城の遺構となっていて、土塁と空堀になっています。

ちなみに、この道路は視界も悪く交通量が多いので注意が必要です。



坂を登りきると城山神社の入り口があり、そして滝の城の主郭の入り口となります。

派手なノボリ旗には北条家の家紋。



早速、二重堀が現れます。

滝の城は外堀、中堀、内堀の三重で構成された、まさに戦国時代の戦うための城です。


各曲輪を分断するように空堀が設けられています。



高低差は約2.5〜3mくらいでしょうか。

滝の城は関東管領の山内上杉氏家臣の大石氏が築城し、後に北条氏照もしくは北条氏照の家臣が居城し改修したとされています。



素晴らしい遺構が、状態良く残っています。
堀の形状が分かりやすく、草木が整備されているのも好印象!

草木が多くて遺構が分からない城もあるので、その点では中世の城をあまり行ったことがない方でも、楽しめるのではないでしょうか。

遺構の看板も各所に設置されているので分かりやすい。



堀底にも自由に入ることができるのも魅力!

写真では伝わらない迫力を、実際に遺構の中で間近に見ることができます。


  
土橋を渡り鳥居を抜けると、二の丸があります。



土橋から見た右手は、先程歩いていた空堀です。



土橋から見た左手は、二の丸をぐるりと空堀が囲んでいます。

こちらは三日月のように、Rを描いた空堀。
二の丸を囲む空堀が、滝の城の中堀となります。



左手は二の丸で、土塁がハッキリと残っています。

右手は本丸を囲む空堀。
こちらも綺麗なRを描いて、この空堀が内堀となります。



本丸跡には城山神社があり、一際大きな曲輪となっています。



城山神社の本殿には、可愛い猫ちゃんがお出迎え。



人懐っこく、とても癒されます。
ここで参拝している人を見守ってくれます。

滝の城の現在の城主は、この猫ちゃんかもしれません。



本丸からの景色。
遮るものが何も無く、東京方面を一望することができます。

目の前には天然の水堀となる柳瀬川が流れています。
また、生活や物資の流入の観点から見ても、水という資源は城造りおいて、とても重要です。



本丸を見た後は、少し戻って三の丸を目指します。

右手は本丸。もはや芸術。
石垣の城も当然ながら素晴らしいし芸術的ですが、滝の城のように中世の土造りの城もまた良き。



空堀を観察しつつ、土橋を進みます。
先にある少し小さな曲輪は馬出し。



馬出しからのショット。
空堀の前には本丸があり、発掘調査で本丸側に門の跡が発見されました。



発掘調査で本丸の空堀側に門跡が発見されたことで、馬出しと本丸を繋ぐ、木橋があったという仮説が浮上しました。

実際に見てみると、空堀の中でもこの場所だけ、少し堀底が盛り上がっているので、ここに何かがあったのは間違いなさそうです。



馬出しを超えると三の丸があります。
別名は茶呑み曲輪。

北条氏時代に下野、現在の栃木出兵の際はこの滝の城から出陣したとされていて、北条氏照が来た際はこの三の丸で家臣とお茶を楽しんだことから、茶呑み曲輪と呼ばれています。

戦いに明け暮れているイメージの戦国時代のホッとするような話。



三の丸の奥には大井戸跡があります。



三の丸からの景色。
崖の下には腰曲輪のような、東曲輪が見えます。

いつの間にか日が暮れ始めています。



続いて中堀を通って三の丸を囲む空堀を進みます。

写真のように、至る所に土橋があります。



右側が三の丸。

数週間前に行った、同じ北条氏照の居城だった滝山城を彷彿とさせます。

それを何気なく行った城で見つけてしまったので、テンションが上がってしまうのは当然です。



実際に東曲輪にも行ってみました。
横長の曲輪ですね。

ここに何があったのかは不明ですが、この東曲輪は中堀と内堀が交差する分岐点になるので、縄張りの位置付けとしてはとても重要だと思いました。


右手が三の丸、左手は本丸、正面は馬出し。

各曲輪を空堀で全体的に区切って、曲輪同士が堀切になるこの築城スタイルは北条氏らしさがあります。

この空堀は先程の東曲輪に繋がっています。

高低差もあり、堀底から眺めると3次元のようで素晴らしい!



この堀底を歩けるのが良いですね。
振り返っての一枚。

右手が本丸、左手が三の丸。
正面には夕暮れが近づく城下。



食い違いのように、うねった空堀。
張り出した曲輪から横矢で攻撃するのが狙いなのでしょうか。

そんなことを想像しながら堀を歩き進めます。自然の中で繰り出す妄想は最高のスパイス。



一番最初に通った土橋に戻り、社務所側の二の丸と本丸の内堀を歩きます。

高低差は4〜5mくらいはありそうです。



左手が本丸ですが、各曲輪が交互に跳ね出して食い違いになっています。



振り返っての一枚。
右手が本丸になります。

先ほどは堀底がフラットな地形になっていましたが、ここは堀底がキュッと狭まったV型の薬研堀になっています。



最後は霧吹きの井戸跡へ。

ここには龍が住んでいたという伝説があり、内容は割愛しますが、この地域では伝説に由来した地名となっているようです。

本丸の下では七世紀後半の横穴古墳も発見されていることから、神秘的なものを感じてしまいます。

今は、のどかで静かな時間がゆっくりと流れています。



夕暮れも近づいてきました。
柳瀬川から撮った一枚。

右手には滝の城があります。

工夫を凝らした滝の城は、小田原城、八王子城と同じく、豊臣秀吉による小田原征伐で落城し、その後廃城となりました。

その後表舞台からは消え、眠り続けていたことで滝の城には良好な遺構が残っていたのでしょう。
当然、地域の方々が守り続けてきたことも忘れてはいけません。

開発によって失われた城は、日本中に沢山あります、

そして、1925年に埼玉県の史跡として文化財指定されたことで、表舞台から消えた城は今の時代を生き、次の時代に引き継がれています。

5月には戦国滝の城まつりが開催されているようです。

発掘調査を何度もされて、これだけの遺構が残っている城なので、もっともっと幅広い方に知って欲しいと純粋に感じました。

コンパクトな城なので軽装備で行けるし、遺構がハッキリしているので分かりやすいので、中世城郭にあまり行ったことがない方でも楽しめます。

今回、時間の都合で外堀周辺を周ることが出来ませんでした。

北条氏の城だと結論づいた理由には、外堀で障子堀が見つかったことが起因しています。
まさに北条氏を代表する築城術です。

次は、もっと幅広い範囲で散策したいと思います。

年内最後の城巡りは最高の形で終わることが出来ました。




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宇都宮城@栃木県

2024-09-29 15:00:00 | その他城
岩手県に打合せがあるので、前乗りして東北新幹線を途中下車。

初めて栃木県の城を攻めたいと思います。
岩手に行くのなら盛岡城も行きたいと思ったのですが、盛岡城は間違いなく見て回るのに時間を要すると判断し、駅からの距離、規模、知名度等を考慮して宇都宮城に行くことにしました。

盛岡城は来年のゴールデンウィーク前後で改めて行く予定!

宇都宮城は関東7名城で平安時代からの歴史ある城。
幕末では戊辰戦争の主戦場となりほぼ焼失。

残った建築物も空襲で焼失。
最終的には堀も土塁も壊されてしまいました。

しかし、2007年に土塁を外観復元!宇都宮市の観光スポットそして市民の憩いの場として生まれ変わりました。


宇都宮の駅を降りると、川が流れています。
宇都宮は水に恵まれた街。

川は生活だけでなく水路としての役割も果たします。

水路は近世城郭において街の発展のファクターとなります。


豊臣秀吉や徳川家康も水路を造り、整えたことから、その重要度がわかります。



のどかで、景観も素晴らしい街でした。



駅から歩いて15分ほどで宇都宮城跡が見えてきます。

復元された櫓は清明台櫓と富士見櫓。そして、それを繋ぐ土塀です。

写真で見える櫓は清明台櫓。



この土塁は本丸を囲むように設けられていて、清明台櫓の脇には枡形の清水門がありました。



とにかく、土塁が高い!
この迫力に圧倒されます。



手前が清明台櫓。奥に小さく見えるのは富士見櫓。
外観復元とはいえ、この高さの土塁で本丸を囲んでいたと考えると、その姿を一度見てみたかったと思わずにはいられません。



清明台櫓と富士見櫓の間にある橋からのショット。

平成元年の1989年に発掘調査を開始。
堀の場所、深さ、門や櫓の場所を特定し、2007年に復元ですから、実に18年の歳月。



反対側には富士見櫓。
復元した櫓は2基。当時は土塁と土塀、5基の櫓で本丸を囲んで完全防備していました。

土塁は約1/3程の復元です。
しかしながら、完全に失われた宇都宮城は、一部ではあるものの復活を果たしています。



市の努力は素晴らしい。

何も残っていない城は日本に山ほどありますが、こうして可能な限り復元することで歴史に触れやすくなることは間違いありません。



本丸内側からの土塁。
今では広場になっていて、多くのファミリーがそれぞれの時間を探しています。



約10mの土塁を階段から登り清明台櫓を見物。

この櫓は当時、天守を持たない宇都宮城の天守代用とされていたそうです。



一階のみ見学可能。
木造復元というのが素晴らしい。

幅6.89m×5.91m。
高さ10.04mの二層二階。



櫓や門、天守などの建築物は、復元であってもこの先の世代に受け継ぐ大切なものだとワタクシは思っています。



2階は見ることができませんが、無料で開放しているあたりも、宇都宮市の素晴らしい取り組み。

宇都宮城というのが、より市民の皆さんにとって身近な存在になったいるはず。



土塁の至る所にシェルターみたいなのがいっぱいありましたが、これは見なかったことにしましょう。



やはり土塀があるだけでも、全く雰囲気が変わりますよね。

土塀だけでも復元してほしい城は山ほどありますが、これ一つ復元するだけでも根拠のある資料が必要だったりするので大変なのです。



狭間もあり、土塁が非常に良い高いので、縦長の狭間でないと狙う範囲が限定されてしまいます。

考えられた構造ですね。



土塁の上を進むと反対側には富士見櫓があります。



こちらも二層二階。
幅7.88m×5.91m、高さ10.04m。


こちはも一階のみ観覧可能。
本丸の土塁だけで、こんな櫓が5基も上がっていたと考えると、当時はかなり規模の要塞だったと想像します。



櫓内の狭間からは堀がよく見えます。
寺、神社など文化的な建築物は多くありますが、狭間は軍事的施設の城郭建築の特徴です。



櫓内には復元時の軸組の模型が展示してあります。



当時は現在広場になっている場所に本丸御殿があり、日光東照宮に参拝する徳川将軍の宿泊所として利用していたそうです。



富士見櫓からは当時、富士山が見えたことから富士見櫓とされたようです。
二重の櫓ですが、高い土塁と土塀があるとカッコいいですね。

この近世城郭に改修したのは、徳川家康の重臣であった本田正信の息子、本多正純。
交通の要所でもある宇都宮城は江戸幕府にとっても重要な拠点だったのではないでしょうか。

幕末の戊辰戦争によって、宇都宮城だけでなく多くの民家や寺院も街ごと焼失してしまいました。

悲しい歴史はありますが、こうして現代に蘇ったことで、ワタクシも現に宇都宮の歴史を学びました。

やはり歴史はカタチに残してこそ、生かしてこそ強い意味を持ちます。

そんなことを考えさせられた1日でした。



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大垣城@岐阜県

2024-06-25 06:00:00 | その他城
2024年6月25日

仕事で視察のために岐阜県に初上陸。

岐阜県の有名な城といえば、岐阜城、郡上八幡城、岩村城、苗木城、墨俣城、美濃金山城など多くの名城が存在します。

時代を席巻した織田信長が拠点としていたので、まさに歴史舞台の中心にあったエリア。

そして、明智光秀の出身地でもあります。
 


新幹線、岐阜羽島駅に降り立ち大垣市に向かいます。
宿泊も大垣市だったので、次の日は当然大垣城に行くことにしました。

天下分け目の関ヶ原の際に、石田三成が拠点としたのが大垣城。
本来はこの地が関ヶ原の主戦場になると言われていました。

そんな歴史の転換期の中心となった大垣城ですから、当然ながら期待度も大きくなります。

早朝6時に大垣駅前から歩いて大垣城を目指します。



大垣城までは歩いて10分程ですが、その途中にはたくさんの水路が張り巡らされています。



大垣城の縄張りの名残りとなる、水路をひたすら歩いてみました。



当時の絵図を見ると、大垣城は多くの水堀と川を生かした城郭であったことが分かります。

三重の堀で区画した、総構えの近世城郭です。

そして、駅前から続く商店街や細路地を見ても、当時の縄張りをそのまま生かしたような感じがして、城下町らしさが残ります。



朝早かった為、車や人がいなく、のんびり当時を妄想しながら歩くことができました。

400年以上前に、この道を戦国武将も歩いていた事を想像すると、なんか震える。



江戸の街並みも素晴らしいですが、こんなレトロな昭和感漂うのも、個人的には好きです。
ノスタルジックな雰囲気を味わえる大垣市は素晴らしい。



駅前から続くメインストリートから細路地に入ると、大垣城が見えてきます。



大垣城のメインゲートとなるのは東門。

多聞櫓と艮隅櫓が出迎えます。

艮隅櫓は空襲で焼失してしまい復元。消失前は国宝に指定されていました。

多聞櫓は大垣城唯一の現存建築物。

元々は柳口門にあったものを、こちらに移築したとされています。



やはり城門の前に立つと心がワクワクしてしまいます。

天守閣も魅力的ですが、城門も大好きなワタクシ。

敵を迎え撃ったり、肩を並べる武将に対する牽制や威圧を与える城門は、城郭に欠かせない存在となります。



大垣城の天守。裏からのショット!
もちろん、天守も旧国宝です。

層塔型天守で天守の左側には南附多聞、右側には東附多聞が接続した複合型天守。



復元天守を支える石垣。
石材そのものを生かした野面積み。

素晴らしい!
大垣城の石垣は一部を除いて、再建時に修復、積み直されました。


石材が白っぽいのが分かります。

石垣のほとんどが、大垣城近くの赤坂金生山の石灰岩。
石垣の中には化石が多く含まれているようです。

その情報を知らなかった為、化石を見つけることができませんでした。



天気は曇りでしたが、最高のショット。
下段は乾隅櫓。上段には四重四階の天守。

大垣城の天守も一国一城令や廃条例を免れた貴重な天守で、国宝に指定されていましたが、残念ながら焼失。

しかし、鉄筋コンクリート造で当時の外観を完全に復元。
比翼千鳥破風がとてもおしゃれ。

時期的に木々が生い茂っており、天守の前にも木があったので、ここからしか綺麗に撮れませんでした。



城内には昭和初期の写真がありました。
写真で見るとなかなか迫力ある天守です。

悔しいのは終戦の17日前に、日本の宝が空襲で失われたこと。

この大垣城が現存していたら。と考えてしまいます。



こちらは本丸鉄門跡。



現在の大垣城には、本丸への入り口として4つの門と門跡がありますが、当時はこの鉄門前に橋が架けられていて唯一の入り口となっていたんですね。



かつては10の櫓があり、城下町を取り囲んだ総構えの巨大な城郭だった大垣城は、今ではだいぶコンパクトになりました。

草木が多くて、あまり良い写真が撮れないのが残念ですが、焼失したにも関わらずここまで復元したのは、すごくプラスなことかと思います。
模擬で作られた門などには少々疑問に思いますが・・

石川康通が大垣城に入場してから大垣藩ができ、松平氏が現在の近世城郭に改修。
以降、幕末まで戸田家がこの地を納めました。

今でも大垣城はこの地のシンボルとなっていることを実感。
幾つもの時代のヒストリーを持った大垣城は、日本にとっても貴重な城郭といえます。

次こそは岐阜城に行く計画をしたいと思います。


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若林城@宮城県

2024-02-17 12:00:00 | その他城
2024年2月17日

先週の熊本県から今週は福島県で現場視察があった為、週末は仙台市へ。
桃太郎電鉄並みの移動距離です。

宮城県といえばやはり伊達政宗。

そして伊達政宗が築き、居城としたのは仙台城です。
一国一城令により、一つの藩に一つの城しか持てない時代でしたが、62万石を有した仙台藩には3つの城と21の要害がありました。

要害とは一国一城令に配慮した呼び名で、実際は軍事施設なので城と同等。

3つの城とは仙台城、白石城、そして若林城。

実は若林城は仙台の方でも知らない方が多いのです。
伊達政宗の為に1928年に築城し、伊達政宗が亡くなった1636年に廃されました。
政宗自身が細部まで指揮して築城したと言われています。

元は伊達政宗の隠居城と言われてきましたが、研究の結果で実際の執務も若林城で行ったとされています。
伊達政宗の晩年は、仙台城には年に一度行く程度だったようです。

ある意味では幻の城かもしれません。

市営地下鉄河原町駅から徒歩10分程度。



Googleマップの上空写真。
城郭の形がハッキリと分かります。

東西400m、南北350m、土塁の高さ5m。
仙台にも近世城郭の平城があったのですね。



若林城はもしかしたら日本で最も入城するのが困難な城かもしれません。

ちなみに、標柱と説明板があるこの場所が大手門跡。



実は若林城は現在、宮城刑務所になっています。
高い土塁の上には高い塀があり、中を覗くこともできません。

平和な江戸時代に築城された城は、400年の時を超えて難攻不落となっています。



広い宮城刑務所ですが、土塁が綺麗に見えるのはおそらく、隅のこのアングル。

5mの土塁に堀幅約20mの堀跡が巡っていて、土塁や門の配置から戦を意識した城とも言われています。

土塁の高さが際立っています。



刑務所職員の駐車場には入れない為、少し離れた場所からのショット。

塀を作る際に堀の上部を削ってしまったそうです。
本来はもっと高い土塁でした。



若林城の周りには水路が巡っています。

伊達政宗は若林城の築城と共に城下町の整備も行いました。

若林城は今でも発掘調査が続いています。

これまでの発掘調査で若林城の大型建築物は、仙台城の二の丸に移築されたことが判明。

しかし宮城刑務所がある以上、若林城が観光スポットになることはないでしょう。

仙台藩の貴重な遺構なだけに、やはり残念な気持ちになってしまいます。

これ以上、近づくことができない為に若林城の散策は終了です。




しかし、これで終わるわけにはいきません。

調べたら若林城の大手門が移築されていることが判明。


場所は仙台駅から歩いて15分程の若林区新寺にある松音寺にあります。

この一帯はお寺の密集地であり、伊達家に所縁のある寺院が多く存在します。

松音寺に移築されたと言われる山門は、城門らしい威厳ある立派な門です。



裏からのショット。
控柱も梁も木材をしっかりと感じる三間一戸の薬医門。

仙台市登録有形文化財に指定されています。



年季が入った桟瓦葺。
門の上部の丸瓦は三つ巴。しかし、土塀の丸瓦は伊達家の三引両紋です。



門の正面には若林城門と書かれています。

仙台藩二代藩主、伊達忠宗から拝領したと伝わっています。



切妻造り。



土塀の丸瓦は伊達家の三引両紋。
この瓦こそが伊達家との繋がりを意味する確固たる証。



松音寺の鐘楼門。
寺院の門でありながら、鯱が上がっています。



鯱は仙台藩では伊達一門の証だったので、関わりある建築物なのかと思ったのですが、調べても移築などの情報を得ることが出来ませんでした。

ものすごい気になります。

仙台藩には多くの城があったにも関わらず、現存建築が皆無に近いので、本当に若林城の城門であればかなり貴重です。

若林城は大人気の武将、伊達政宗の城なのでもっと多くの方に知って貰いたいものです。



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