つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

小机城@神奈川県

2025-01-18 12:30:00 | 続100名城
2025年1月18日

今日は初めて神奈川県横浜市にある小机城に訪城しました。

小机城は室町時代に築城。
長尾景春の反乱に対して、太田道灌が攻め落としたことで、小机城は一度廃城。

その後関東一円を支配する北条氏によって、再び城として復活しました。

小田原を本城とする北条氏は、城代として笠原信為を任命。

しかし、小田原合戦で豊臣によって北条氏が滅ぼされた事で、やはり小机城も廃城となります。

今残っている遺構は北条氏時代のものになるので、是非行ってみたいとずっと思っていました。

続日本100名城に選定されています。

JR横浜線 小机駅から歩いて10分ほど。
小机駅は新横浜駅からも一駅と、かなりの好立地です。



小机駅のホームから見た小机城。
奥にある小高い山の上が小机城になります。

標高は約50mの山城。



小机駅に着いたのは10時頃。
まずは駅近くにある、地区センターに行きます。

ロータリーを右手に行けばすぐです。
地区センターには続日本100名城スタンプがあります。

そして小机城のパンフレット。
これは事前に持って訪城するのがベストかと思います。

麓には「小机城のあるまちを愛する会」が創ったパンフレットを置いてある民家があります。
こちらのパンフレットの方が、より分かり易かったです。



大きな看板などはないので、登城口がやや分かりづらいですね。

住宅街に囲まれているので、迷惑にならないように節度ある行動が必要です。

そして、この住宅街あたりは当時も根小屋(集落)であったと考えられています。



城内看板で全体の縄張りを把握。



道なりに登っていくと、帯曲輪のように横長の曲輪が広がります。

お城らしく右へ左へと食い違いになっている道を進むと、大きな空堀の前に出ます。

左手は本丸(西曲輪)、右手は二の丸(東曲輪)に分かれます。

まずは、左手の本丸を目指します。



空堀沿いを歩くと、先には土橋が見えます。
右手は本丸(西曲輪)。

本丸を仕切るための空堀なので、かなり深く掘り込まれています。

高低差は約6m。こちらがら本丸南側の空堀となります。



土橋の前には角馬出があります。
虎口などの前に設けることが多く、敵を迎え撃つ重要な防衛ラインといえます。

そして、虎口や土橋の前に設ける角馬出は、北条氏の城でよく見る築城スタイルといえます。



土橋の手前、馬出あたりからのショット。
奥は本丸(西曲輪)になります。

左右が空堀となっていて、本丸に行くにはこの細い土橋を渡るしかありません。

この細い土橋では並んで進むのは不可能ですので、1人ずつ進軍するしかないですね。
これぞ「守り易く攻めにくい」

城とは戦うための軍事施設。

城の本質は、意外と中世城郭の方が強く感じることができます。


土橋から見た右側の空堀。
見事な空堀なのが分かります。

左側は草木でやや分かりづらいかな。



土橋を渡ると、当時をイメージさせる冠木門があり、いよいよ本丸になります。

おそらく、実際は冠木門の手前にある土塁のライン上に本丸虎口があったのではないかと思われます。



本丸は広めの曲輪となっており、周りは土塁で囲まれていています。



本丸北側の空堀。深く急勾配に削り込まれています。

こちらは、立ち入り禁止エリアになります。

本丸北側の空堀は発掘調査対象区域で、令和4年の調査で堀底付近は約49°で急勾配になっているそうです。

2m以上掘っても堀底を確認できなかったということは、相当深い空堀であったと思われます。

これからの発掘調査で様々な事実が明らかになってくることに期待したいと思います。



本丸(西曲輪)と二の丸(東曲輪)の間には、細長い曲輪があり土橋で繋がっています。

整備もされていて、遺構が分かりやすいのが良いですね。



左右には曲輪を分断する空堀があります。
左側が本丸。



右側が本丸。

実際は発掘調査実績が少ない小机城では、本丸も断定はできていないそうですが、空堀でぐるりと囲まれ、独立した曲輪で守りを堅固にしていることを考えると、本丸と想定するのは妥当かもしれません。



本丸と二の丸の間には、細長の曲輪が伸びていています。



謎に設けられた小さな曲輪。

しかし、実際にこの曲輪に立って見ると、二の丸と本丸両方を見渡すことができ、攻撃しやすい曲輪なことが分かります。



先端には櫓があったとされています。



謎の曲輪の左側。
急斜面の崖になっていて、二の丸方面から攻めてきた敵を上から容易に攻撃できます。



謎の曲輪の右側。

反対側には本丸。間には広大な空堀。
こちらも、本丸と謎曲輪の両方から攻撃が可能になっています。



二の丸に向かうと、曲輪の入り口に櫓跡があります。



二の丸(東曲輪)で櫓跡だけ小高くなっています。



二の丸も令和の発掘調査されていて、掘立ての建物があったとされています。



二の丸を降りると、空堀の底を歩くことができます。



竹林が広がっていますが、道も含めて綺麗に整備されています。



空堀が張り巡らされていて、曲輪を分断する圧巻の景色!
堀底からの高低差は約10m。

当時はもっと深かったと考えられます。

横堀で囲んで曲輪を独立させることで、向かい合う曲輪同士は堀切となって分断されるこの築城スタイルもまた、北条氏らしさが溢れています。



芸術的で、アートのように美しい設計です。






もはや言葉はいらない。

これが歴史の表舞台から消え、400年もの間眠り続けた城。

逆を言えば表舞台から姿を消したことで、この良好な保存状態だったとも言えますね。

南側の空堀は、後ほどまた周ります。


東側〜北側の空堀をぐるりと周ったら、一度本丸に行き、もう一つの小机城に向かいます。

小机城はこれだけではありません。

一番最初に本丸に行くために渡った土橋の手前を真っ直ぐ進むと、一度麓に下山させられます。

そして、トンネルを抜けて反対側に行きます。


トンネルを抜けるとすぐに、かなり急な階段があります。



階段を登り切ると先ほどいた小机城の本丸が一望できます。

右奥には横浜スタジアム。



下には高速道路の第三京浜が走っています。
トンネルは第三京浜の下を抜けるためのものでした。



実は小机城は横長に広がった城でしたが、城を破壊して高速道路を開通させたことで分断されました。

今では高速道路が最強な堀切の役割をしています。


細い道を進みます。
主郭があるエリアには人が多かったのですが、皆さんこちらには来られないようで、人の気配が全くありません。



高く山になっている場所は富士仙元。

上には石碑があるのですが、ワタクシは行くのを控えました。



どんどん先に進みます。
小学校の時に知らない森を、友達と探検しまくっていた頃を思い出します。



道の行き着く先は、私有地の駐車場でした。

この辺りは開けたスペースになっていて、最初に見た看板ですと出城の部分にあたります。



主郭側から見た、出城方面。
再び、主郭側に戻って残していた南側の空堀を見に行きます。



本丸から謎の中曲輪まで伸びた南側の空堀。



先には腰曲輪があり、開けたスペースになっています。



左側は腰曲輪で先ほど通ってきた道。右側は中曲輪でこの先端の上には櫓がありました。

堀底を歩けるようになっていたので、当然堀底を歩きます。



さらに先に進みます。



分断された曲輪は、左側が本丸(西曲輪)で右側が謎の曲輪(中曲輪)になります。



急な崖になっているのが中曲輪で、この最頂部に櫓がありました。



北側も素晴らしい空堀を見ることができましたが、南側も芸術的な造りをしています。

コンパクトな城ながら2時間半ほど散策。
見どころは沢山ありました。

発掘調査が今までされて来なかったので、まだ史跡にもなっていないのが現状ですが、令和になって調査が開始されたので、これからの調査結果が楽しみな城です。

現状でもかなりハイレベルな空堀を見ることができますが、当時は20mクラスの空堀だったとも言われています。


森の中を周っている時のワクワク感というものは、年齢を重ねても変わらないもの。

小学校時代の探検好きの少年心は、30年経っても血は変わらないことを実感します。

これだから山城は楽しい!

標高50mくらいなので、山城を行った事がない方でも、十分楽しめると思います。


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滝山城@東京都

2024-11-30 16:30:00 | 続100名城
2024年11月30日

午前中に八王子城を登城し、お昼を食べてか次なる城へ移動。

続100名城で国指定史跡の貴重な城郭、滝山城です。
同じ八王子市に位置します。

北条氏照が八王子城を築城する前に、滝山城を居城としていたとされています。

滝山城は武田氏と戦いの舞台にもなったと記録されています。

戦国時代を象徴する北条氏は、神奈川、東京、千葉、埼玉は当然ですが、群馬あたりまで勢力を伸ばしていた為、上杉や武田など名将と戦いを繰り広げていました。

それゆえ、北条氏が造る城は実践的で、まさに戦うための城。

今では各地で貴重な遺構として残り、城マニア達の心を掴んでいます。



滝山城入口の前までバスが出ています。

八王子城からは車で約30分程。
是非、八王子城とセットで訪れてもらいたい!

麓には無料の駐車場もあるので、大変便利です。



滝山城は北条氏照が永禄10年の1567年頃までに築城して、移転したと近年の研究で考えられています。



大手口から登城しますが、さっそく中世の山城のテイスト。

山を掘って造成したような、狭い道が続いています。



道の途中は食い違いになっているのも、戦国時代らしい造りといえますね。

道の左手は小宮曲輪、右手は三の丸。



小宮曲輪の空堀。
序盤から素晴らしい遺構を見ることができます。



右手の崖の上には小宮曲輪。
高低差の大きな空堀なのが分かります!



小宮曲輪。
曲輪の名称から、北条氏照の家臣小宮氏が活躍していたとされている。



小宮曲輪には土塁などを見ることができます。 

綺麗に草も刈られているので、形状の起伏が分かりやすいです。
 


三の丸の入口。
ここには枡形虎口跡がありましたが、残念ながら車道の整備によって現在は消滅してしまいました。

そして、小宮曲輪のように規模の大きな空堀で三方を囲んでいます。

ちなみに、当時はもっと大きな空堀であったとされていますが、現在でも高低差15mという圧巻の規模。



さらにら大手口の道を先に進むと、食い違いなった道と堀が現れます。

これは後ほど、上からの写真を貼ります。



続いて見えるのは千畳敷という曲輪。
大きな敷地の曲輪が広がります。

現在は芝生が敷いてあり、ファミリーが各々の時間を過ごしていました。



千畳敷から見た先ほどの食い違いの道。

上から見ると道の両脇が堀となっていて、土橋になっています。

ここからは横矢を仕掛けることができます。
かなり緻密に計算された城郭構造をしていますね。

鈴鹿サーキットのようにS字が続きます。



こちらは千畳敷脇にある土橋。
北条氏築城術の一つでもある、障子堀のようにも見えます。

当時はもっと堀が深かったと思われます。

普通であれば、ただ土が盛り上がってるだけで気にも留めない光景ですが、450年以上の時を経ても、この戦国の遺構を目の前にできているのは、ある意味では奇跡なのかもしれません。



千畳敷の向かい側には二の丸があります。

二の丸を囲む空堀は、小宮曲輪や三の丸を遥かに超える規模!

これも後ほど二の丸の周りを歩いた時の写真と共に解説します。


更に本丸を目指して先に進むと、二の丸と中の丸を分断する堀切を見ることができます。

滝山城は各曲輪が堀切や永遠に続く横堀で独立していているのが特徴的。
歩いていて全く飽きることがありません。



右手には中の丸、左手は旧斜の崖になっています。

中の丸は本丸の次に重要な曲輪とされていたので、堅牢に造りで防御機能を高めています。

土塁の残り方から、この場所には櫓門があったと推定されています。



中の丸は広大なスペース。
70m×100mの曲輪には当時の政庁があったそうです。

奥の建物には続100名城のスタンプが置かれています。



中の丸からの景色。
多摩川が流れており、このスポットから下を見ると、幾つもの腰曲輪が形成されているのが分かります。

北の防御も抜かりなく強化されています。



中の丸から、いよいよ本丸に入ることができます。

最後の難関は中の丸と本丸を分断した堀切に架けられた木橋を渡ること。



木橋を渡ると食い違いの枡形虎口。
最後の最後まで執拗以上に守りに忠実な設計。



本丸は土塁で囲まれていています。
中の丸はよりは、やや小さく細長い形状をした曲輪。



紅葉がとても美しい。



11月30日でしたが、暖かくこれが戦国を生き抜いた城であることを忘れてしまいそうな、のどかで静かな時間が流れています。



本丸の角には井戸があります。

底は見れませんでしたが、石積みでしっかりと造られているのが分かりました。



本丸の北側。
本丸には明治45年に創建された霞神社があり、静かにこの地を見守っています。



本丸からの景色。
滝山城は標高169mの東西に伸びる加住丘稜に築かれました。

標高が低いので、気軽に登城できるのがポイント。



帰りは本丸から階段で降りることができます。
おそらく神社の創建時か、後の時代に造られたと思われる階段。



本丸からの階段を下ると、滝山城名物の大堀切に出ます。

奥には先ほど渡った木橋が見えます。



この堀切は圧巻!
15m以上はありそうな、巨大堀切。

調査で当時は今よりも、もっと深い堀切だったことが判明しています。

さすが最後の砦となる本丸を守る堀切です。


続いて、また来た道を戻って、二の丸の周りを歩くことにします。

さっそく空堀と土橋を見ることができます。
写真の通り、右手も左手も空堀になっていて、その間が道になっています。

これが土橋ですね。



二の丸の周りは空堀と土橋だらけで、かなり防御体制を敷いているのが分かります。



空堀の右側が二の丸。
この空堀もかなり高低差がありますね。

しかも、木があまり生えて無いので、遺構の形が綺麗に見えるのもポイント。



南馬出から二の丸に入ることができます。
当然左右には空堀があり、土橋を渡ることになります。

どんなに大群で攻めてきても、この狭い土橋を渡ることになれば、防御が容易くなります。

攻めにくく守り易い。これが戦う城のセオリーです。



土橋の先は二の丸です。

写真は撮っていないのですが、二の丸周辺には多くの馬出があり、特に南馬出と大馬出は連続していて、鉄壁の守備ゾーンな気がします。



大手道に戻る道も、左右には空堀があり、土橋を渡って戻ることになります。

特に右手の二の丸を囲む空堀の規模は、レベルが違いすぎるほど凄いです。

実際に歩いてみて、どこから攻めてきても対応できるような設計になっている気がしました。



二の丸を繋ぐ土橋からの一枚。
右側が二の丸。

堀底からの高低差を見ると、その巨大さがお分かり頂けると思います。



右手は二の丸。
左手は最初に通った大手道です。

草が刈られているので、本当に見やすく素晴らしいです。
今でも埋もれた城は多くありますが、整備してくださっている方のおかげで、現代でも城は輝き続けます。

そして、大手道から登城した道を戻って下山です。


滝山城の戦として有名なのは、1569年の滝山合戦。

武田信玄と交戦して三の丸あたりまで攻め込まれましたが、2000人の兵で守ったという話も残っています。

しかし滝山合戦を機に、より堅固な八王子城を築城したとも言われています。

八王子城への移転によって、滝山城は廃城となりますが、ある意味では廃城によって綺麗な遺構が残っているとも考えられます。


そして、何よりも素晴らしいのは滝山城の保存会の方々が綺麗に整備をして守り続けていること。

東京にもこんなに素晴らしい中世の城が残っています。

先日行った本佐倉城も素晴らしかったが、滝山城も非常に魅力的な城。

いくつかの登城ルートがあり、時間の都合上ワタクシも全てを見ることはできませんでしたので、改めて行く楽しみができました。

今回は北条氏照の居城を日帰りで2城周りました。
八王子城も滝山城もテイストが違いますが、間違いなく東京に残る名城です。


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品川台場@港区

2024-10-20 22:40:00 | 続100名城
2024年10月20日

三日間の岡山、高知、香川の100名城巡りを終え東京に帰ってきましたが、翌日は台場で用事があったので、品川第三台場に行きました。

日本続100名城にも選ばれている品川台場ですが、おそらくお台場に遊びに来ているほとんどの人が知らないであろう江戸幕府による貴重な遺構です。



よくあるお台場の光景。
ビーチには高校生や観光客、ファミリー、カップルなど各々の時間を楽しんでいます。

そんな幸せの時間が流れるこの地で、
江戸時代の1853年、日本に激震が走ります。

ペリー率いる4隻の軍艦が神奈川の浦賀沖に現れました。

江戸幕府は守備を強化するために砲台を建設することを決断。



奥にはレインボーブリッジが見えます。

お台場公園の見慣れた当たり前の光景ですが、レインボーブリッジの下に石垣造りの島があります。

海に浮かぶあの島こそ江戸幕府が造った要塞、品川第三台場です。

こんなオシャレタウンに大砲を放つための島があったなんて驚きですよね。



まるで天橋立のように細い道が島につながっています。

石材で造られた道で、対岸にはフジテレビが見えます。

砲台場は12基建造計画がありましたが、
幕府が開国したことで最終的には6基建造しました。

その内、現存しているのは第三台場と第六台場で現在、国の指定史跡となっています。

一般人が行けるのは品川第三台場のみ。

ワタクシが東京に来たのは13年前。
恥ずかしながらこの品川台場を知ったのは城好きになった最近のこと。

それまで全く存在を知りませんでした。



近ずくと石垣がよく見え、綺麗な切込接を確認できます。

緊急性が高い建築計画だった為、泉岳寺境内や品川の御殿山を切り崩して埋め立てられました。

資材を運ぶための船は1日2000隻。
作業員数は1日5000人。

超突貫工事です。

フジテレビなどがある、現在お台場と言われるエリアも埋立地ですが、江戸期に既に埋め立てられた島を造っていたのですね。



石垣は腰巻石垣になっていて、海と接する下部は石垣。
上は土塁で囲まれています。

第三台場は約150m四方の石垣で囲んでいます。



砲台場の中心部はサッカースタジアムのようになっています。



レプリカですが、大筒をセットする砲台置き場があります。



結局、台場は一度も使われることがなかったのですが、外国から日本を守ることは江戸幕府の威信をかけた事案だったことがわかります。


現在、品川台場には建築物は残っていませんが、想像を掻き立てる跡はしっかり残っています。



石材で形成された防空壕のような穴は、大砲の弾や火薬を収納するための弾薬庫として使用されました。



下から見るとまさにスタジアムのピッチに立っているようです。

砲台場は当時は御台場と呼ばれていました。

徳川幕府の威信を掛けた事業は、今も変わらない姿で残っています。

歴史は今に繋がっている。
まさに、お台場はそれを感じることができるエリアです。



夕暮れが近づくお台場。
レインボーブリッジと高層建築物。

目覚ましい発展を遂げた日本ですが、特にこの東京は世界で有数のビックシティになりました。

しかし、変わらない物もある。
海に浮かぶ第三台場とこの太陽は今も昔も変わらない。

この歴史を伝え繋がるのは、現代を生きている我々。

素敵なロケーションが、エモーショナルな気分にさせる。そんな1日でした。


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本佐倉城@千葉県

2024-10-14 12:00:00 | 続100名城
2024年10月14日

7月から怒涛の忙しさで、なかなか休みがとれない今日この頃。

3連休に城巡りをすると決め、この日のために1週間やり抜いた自分へのご褒美として、城巡りを決行!

本日は千葉県にある、続100名城の本佐倉城と100名城の佐倉城へ。

朝7時半に家を出発し、京成線に乗り約2時間ほどで大佐倉駅に到着。



ローカルな駅。
本佐倉城の続100名城スタンプは、駅の改札を出て左手にありました。



映画に出てくるような駅舎。

電車本数も少なく、駅の周りにはコンビニすら無いので不便と思われるかもしれませんが、一人旅をしているようでエモーショナルになります。

車で城に行くのも便利で良いのですが、電車で行くと旅の雰囲気が出るので個人的には好きですね。



周りは田園が広がり、快晴の空と合わさってまさに絵に描いたような風景。

駅から本佐倉城まではGoogleで25分となっていましたが、全く苦を感じることなく歩くことができます。



遠くに木が生えていない場所があるので、おそらく本佐倉城であろうと思い、周りを注意しながら目指します。



近づくと、堀切?切り通し?のようになっていて間違いなく城郭であることが確認できます。

しかし、ナビに沿ってまずは案内所を目指します。



奥の黒い建物が本佐倉城の案内所。
こちらで御城印も販売。

本佐倉城や千葉氏などの歴史を学ぶことができます。

千葉氏はこの一体、下総を納めていた有力大名。桓武天皇の血を引く関東の名族で、源頼朝に鎌倉に拠点を構えることを進言したり、源平合戦や奥州合戦にも参戦して活躍したことで、鎌倉幕府の中でも屈指の御家人になりました。



案内所でパンフレットもらうことをオススメします。

案内所の前は駐車場になっていますが、駐車場の目の前には断崖絶壁。

本佐倉城は1469年から1486に築城。1590年に豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏と共に千葉氏が滅びるまで110年以上、戦国時代に活躍した城です。



絶壁の上が本佐倉城の主郭となります。
案内所があるこの一帯は、まるでスタジアムのように囲まれています。

これは自然の地形なのか、造られたものなのかは分かりませんが、容易に落とせる城ではないなと感じます。



進むと矢盾が並びます。
もちろん、家紋は千葉氏の月星紋。

ちなみに三日月の上にある星は、神秘な力を持つ存在として神格化されてきた北極星。



先ほど堀切と思っていた遺構は東山虎口で、ここが正門とされていたようです。

高さのあるダイナミックな土塁を貫通する形で、食い違いの虎口になっています。



写真だとやや分かりづらい。
近くで見ると圧倒されます。



土塁の上からのショット。
東山虎口の素晴らしい遺構に、既に満足感があります。
しかし、本佐倉城はこんなものではありません!


土塁上からの景色。

ガイドさんに聞いたら、当時はこの近くまで印旛沼の水があり、足利公方などのお偉い方は船で近くまで来てこの正門から入城していたようです。



続いて城山曲輪と奥ノ山曲輪を分ける大堀切が現れます。

これも見事な堀切!



高低差6mでここには門があったと考えられています。

中世城郭全開の本佐倉城。



大堀切の上から撮影。
ちょっと怖いくらいの高さ。

とにかく遺構の保存状態が良好。



大堀切で道が分岐しますが、まずは奥ノ山に向かいます。
薄暗く、細い道を進むと開けた曲輪の奥ノ山にとうちゃくです。


さらに奥に進むと蔵跡に到着です。
こちらも大きな曲輪で、発掘調査で炭化した米が見つかったことで、この場所に倉があったと考えられています。



見どころは、倉跡の先にあるセッテイ山と倉跡を分断する巨大な空堀。
後ほど下から撮った写真と共に説明したいと思います。



一度、奥ノ山方面から下り、水の手方面から再度入城します。

こちらは険しい道で、セッテイ山方面へと向かいます。
まるで探検しているかのような道を進んでいきます。

右手はセッテイ山。

セッテイ山は接待する場とも言われているし、千葉氏は北条氏の傘下になったので、北条氏が常駐した場所とも言われていて、この曲輪の意味合いは謎のままです。

いずれにしても、セッテイ山は主郭とは分離されていて孤立した曲輪となっています。



セッテイ空堀は驚愕の高低差16m!
中世の城でこのスケールの空堀は珍しいと思っています。

先ほど倉跡上から見た倉跡-セッテイ空堀。
こちらも高低差10m
迷路のようになっていて、敵が攻めてきても一網打尽することができます。



この倉跡-セッテイ山の空堀は長く続いています。
この先には東光寺ビョウという曲輪があり、一番最初に回った東山虎口に繋がります。



最後は城山のいう本佐倉城の主郭に向かいます。
曲輪の入り口には城山虎口がありました。
城山に行くにはこの道一本しかありません。

いかに、本佐倉城にとって重要な場所であったかを示しています。



城山は広めの曲輪となっていて、ここで城主は執務をこなし住んでいたと思われます。



下を覗くと、入城した時に見上げた駐車場があります。
かなりの断崖絶壁なのが分かります。

本佐倉城はまさに戦国時代の城!という見どころが満載でした。

江戸時代は本佐倉城の近くに佐倉城が下総の拠点となった為、本佐倉城は歴史から消えてしまいますが、良好な状態のまま生き続け、平成10年には国の重要な文化財として国指定史跡になり、続100名城にもなっています。

そこには間違いなく千葉氏の息吹を感じることができます。

また、ガイドさんや案内所で働くスタッフさんもとても親切。

発掘調査もしっかりされ、案内のパンフレットも分かりやすい為、理解しながら周ることができます。

そういった努力も感じれるので、素晴らしい遺構だけでなく、とてもオススメの城といえます。



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石垣山城@神奈川県

2024-05-04 14:30:00 | 続100名城
2024年5月4日

最近は出張が無かった為、城巡りに行けていなかったので、ゴールデンウィークを利用して、神奈川県小田原市にある石垣山城に行きました。

続100名城にも選ばれている城跡で歴史の転換期となる、重要な城であり念願叶って訪問となりました。

軽く石垣山城の説明をしますと、織田信長が討たれ、豊臣秀吉が天下統一の目前と迫った時代。

関東方面の最大勢力は小田原の北条氏でした。

秀吉は北条氏の討伐に向けて、全国の諸大名を小田原に参陣させます。

難攻不落の小田原城を攻略するために、海山全てを15万人以上の軍勢で包囲しました。

小田原城の向かい側にある山に、陣を敷いた豊臣秀吉は、関東では初となる石垣の城を築城。これが後に石垣山城と呼ばれるようになりました。

それを小田原城から見た北条氏は降伏。
北条家は滅亡し、秀吉は天下統一をほぼ手中に納めることとなりました。



歩いて登る方もいますが、城の麓まで車でも行くことができます。

上には駐車場もありますが、休日は混雑しています。
電車の場合は早川駅から約2kmあります。

一番最初に現れるのは南曲輪の石垣です。



崩れてはいますが、全体の形は残っています。
高さもあり、かなりの迫力です!

石垣山城の入り口となる場所なので、諸大名が小田原に参陣した際、この石垣を見て度肝を抜かれたのではないでしょうか。



隅石は巨石を使っていて、よく見るとなんとなく算木積みされているのが見てとれます。



調べたところ、まだ算木積みが発展途上時の積み方のようです。



南曲輪の左手はまだ状態が非常に綺麗です。



この石垣を積んだのは、最先端で最高技術を有した穴太衆。
安土城から始まり、幾つもの名城の石垣を積んだ石工職人集団です。

ちょうど新しい技術の転換期あたりの石垣と考えると、この遺構の価値は計り知れません。



二の丸(馬屋曲輪)を囲っている石垣。
ここも、状態が良い石垣を見ることができます。



上から見たショット。
ややアールでスタジアムのようで迫力ありますね。



二の丸は現在は広場となっています。
この広大な芝生の敷地。

即席突貫の工事だったにも関わらず、このスケールの城郭を造るとは、さすが天下人です。



本丸に向かう、物見台あたりの石垣。
状態はよくありませんが、隅石なのは分かります。

この時代の石垣は勾配が緩やかなのが特徴。

後に算木積みの技術が主流になることで、城の石垣はどんどん急勾配で高い石垣へと変貌していきます。



本丸となる本城曲輪の石垣も崩落しています。

城は軍事施設であり、役目を終えると敵又は敵になる可能性がある人達に使わせないために、わざと壊すそうです。

石垣山城も破城の可能性もありますが、関東大震災で多くが崩落したとされています。



中段くらいの石垣は綺麗に残っている箇所もあります。



このショットだと中段の石垣がハッキリ分かります。

勝手な憶測ですが、手前側に崩落した石垣は最上段あたりの石垣で、わざと崩落させたと考えれば、崩落した石垣の裏には最下段の石垣が、より良い状態で残っているのではないかと考えてしまいます。



この本城曲輪は本丸だったので、この城のメインの場所。

さらに小田原城に面した石垣になるので、籠城した北条氏に見せつける重要な石垣だったと考えます。



本丸となる本城曲輪。
二の丸も大きな敷地でしたが、本丸はさらに大きな敷地を誇ります。



本丸からの景色は絶景!
相模湾の豊富な漁場が今も昔も、この地に住む人々の生活を支えています。

しかし、1590年に豊臣軍は約15万人で相模湾にも水軍を置いて、小田原城を全包囲します。



本丸から見た小田原城。

秀吉もきっとここから、同じ景色を見ていたと思うと心が震えてしまいます。



本丸の奥には天守台跡があります。
今では石材が散らばっていて、こんもりと土が盛り上がっています。



天守台の下には西曲輪が広がります。



石垣の規模は南曲輪や馬屋車に比べると小さめですが、しっかりと石垣が残っています。


天守台から獣道のような細い道があったので、降りてみたのですが立ち入り禁止だったのでしょうか。

誰も人がいなかったので早々に撤収。



最初に見て周った二の丸の下に、石垣山城の見どころポイント井戸曲輪があります。



二の丸から25mの高低差があり、石垣が一番状態良く残っています。

この井戸は淀君が利用したことから、淀君の化粧井戸とも呼ばれています。



素晴らしい石垣!
ぐるっと囲んだような石垣。



石垣山城は関東大震災で、多くの石垣が崩落しましたが、この井戸曲輪は430年以上の時を超えて綺麗に残っています。

そして、今でも井戸からは水が湧き出ています。



石の形をそのまま生かした野面積み。
石垣は常に進化を遂げてきましたが、初期の野面積みはやはり個人的には好きです。

小田原征伐後、石垣山城がどのようにして廃城になったのかは、分かっていないようです。

しかし、歴史の表舞台から消えて割と早い段階で廃城になったと思われます。

誰も足を踏み入れない地になっても石垣だけは、この状態として残っている。

これは奇跡というべきか。

穴太衆の技術の高さを感じます。



本来は陣城なので、簡易的な造りになるのが一般的ですが、関東では初の総石垣で天守や櫓をもつ城が完成しました。

四万人を動員して造った石垣山城はわずか80日で完成。

号令と共に木を伐採し、夜が明けたら突如城が出現したので、石垣山城は一夜城とも呼ばれています。



最後は登城した南曲輪の石垣を最後に見て終了です。

総石垣の城は織田信長が作った安土城が始まりと言われています。

石垣の進化を見るのも楽しみの一つ。

天候にも恵まれた一日。

観光客も多く、麓にはヨロイヅカファームがあり、スイーツを求めてきた人も多くいたので、石垣山城は大変賑わっていました。

石垣山城は国の指定史跡であり、続100名城。

天下人豊臣秀吉の凄さ、穴太衆の石垣技術の凄さを改めて感じることができる貴重な城址でした。



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