つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

興国寺城@静岡県

2025-02-08 15:30:00 | 続100名城
2025年2月8日

東海道本線で巡る城の三城目は静岡県沼津市にある興国寺城に向かいます。

2月7日:清洲城→大垣城→掛川城ライトアップ
2月8日:掛川城→諏訪原城→興国寺城

諏訪原城で長く滞在したので、やや時間は押していましたが、ほぼ計画通り。

興国寺城は北条氏旗揚げの城として有名です。

戦国時代の小田原北条氏の祖となる伊勢盛時(北条早雲)が今川氏より与えられて城主となったので、小田原北条氏はここから始まったとされています。

北条と名乗ったのは二代目氏綱からです。よって、小田原を拠点とした北条氏の祖は北条早雲ということになります。

鎌倉幕府の北条氏とは別のルーツですが、実際は全く関係が無かったというわけでは無いようです。

北条早雲と興国寺城の関係については、専門家は疑問を呈していますが、事実として興国寺城は今川・北条・武田・豊臣・徳川など領地争いの境界となった城であるということ。

この一帯を勢力下に納めるには必要不可欠な城であったと思われます。



東海道本線からの富士山。
諏訪原城がある金谷駅から、興国寺城の最寄りとなる原駅までは約1時間20分。

知らない街並みを見ながら電車で旅をするのも良き。

原駅に到着したのは13時半頃。

原駅から興国寺城までは約2.7km。歩くと40分以上かかります。
バスが運行していますが、今回は時間の都合上、行きはタクシーを利用しました。

駅前にはタクシー乗り場もあるので、すぐに乗車できます。



タクシーだと10分も掛からないで、興国寺城の登城口に到着です。

国の指定史跡で続日本100名城に選定されています。



あたり一面は広大な敷地で、登城口あたりは三の丸跡になります。

立ち入りはできませんが、土塁が残っています。



三の丸と一段高くなっている曲輪が二の丸。

三の丸には柱穴群が発掘調査で見つかっているので、いくつかの建築物が並んでいました。



二の丸と本丸。
広大な空き地が広がりますが、こちらも中に入ることはできません。

二の丸と本丸の境目となる段差の中央あたりには本丸虎口跡が発見されました。



本丸の巨大な土塁。
まずはこの土塁の大きさに衝撃を受けます。

土塁は本丸をコの字で囲んでいます。



特に本丸の正面にあたる土塁は、推定14mの巨大な土塁です

本丸には穂見神社があり、続日本100名城スタンプはここで押すことができ、パンフレットもここにあるので、見ながら周るのがお勧めです。

穂見神社の脇から土塁の上に登る道が整備されています。



一際高い本丸正面の土塁の上には天守台があり、石垣の一部を見ることができます。

令和2年、令和5年に天守台石垣の発掘調査が行われ、幅20mで高さ5mと確定されました!

調査後に埋め戻されていますが、この石垣の下にもさらに石垣が積まれています。

時代としては豊臣秀吉が天下統一した以降のものと推測されています。



天守石垣の脇を通って土塁の上に向かいます。



天守跡では礎石が見つかり、建築物が2棟建っていました。

しかし、瓦が出土しなかったことから、イメージする壮麗な天守閣は無かったそうです。



天守台からの景色。

手前から本丸、二の丸、三の丸と連郭式になっていて、奥に立ち並ぶ住宅の先には駿河湾が広がります。

当時は三の丸あたりは水濠があり、水堀の役割を果たしていました。

海と山、そして東海道という交通を掌握できる恵まれた立地もあってか、土造りの中世城郭ながら1607年まで興国寺城は存続します。



大土塁の隅は西櫓台跡となっており、そこから眺める本丸西側の土塁もまた良き。



本丸正面の大土塁の上は整備されているので、安全に散策することができます。



本丸東側の土塁。
上から見ると完全に山の尾根の様になっています。

地形の高低差を利用せずに、平地にこれだけの大規模な土塁を形成した城は、初めて見ました



本丸東側土塁の裏側は細い道になっていて、間近で巨大な土塁を眺めることができます。



北曲輪と天守台を分断する大空堀。

驚愕の規模を誇る大空堀は堀幅20〜30m。高さも本丸側は20mは超えているであろう巨大な空堀になっています。



堀底を歩くことができます。
左側が本丸、右側は北曲輪。

左側奥のメタボリックのお腹のように張り出していますが、その上が伝天守台です。

堀底はクネクネと食い違いになっています。



堀底の西側は絶壁になっており、再び食い違いになります。

そして、写真ではニつしか見えませんが三つの謎の洞窟があります。

戦時中の防空壕なのでしょうか。
何の説明書きもない洞窟なので、やや不気味ではあります。



洞窟のある食い違いを進むと、巨大な空堀は岩盤を切り崩した、切り通しとなって空堀の出入口となります。

是非、堀底を歩いた際は見て頂きたいポイント。

空堀を抜けると一般道に出るので、北曲輪を目指して右に進みます。



東海道新幹線が低い位置を走っていて、橋が架かっているので、興国寺城は新幹線の線路によって分断されているのではないかと思われます。

線路沿いを道なりに登ると、北曲輪の入口があります。

北曲輪でも空堀が発掘調査で発見されていますが、復元せず埋め戻されているのかな。
確認はできませんでした。



北曲輪から見た天守台!
やはり大きい!



北曲輪から見た大空堀。
こちらから見た方が、より空堀の規模が分かりやすいですね。

大空堀は堀底がV字の薬研堀。


再度大空堀に戻り、少し気になった場所に向かいます。

本丸東側の土塁裏から階段で下って大空堀の堀底に行けるのですが、大空堀が薬研堀に対して、降りてすぐの場所は箱堀のように底が広がっています。

空堀はそのまま斜面に沿って三の丸方面に続いているのですが、堅堀のようになっていたので、気になって写真を撮りました。


上からのショット。

2列並んだ堀が下まで続いています。
立ち入ることができないのですが、堅堀のようにも思えます。

自分の知識不足か、もしくはそもそも遺構なのかも不明ですが、興国寺城はこれからも発掘調査次第では、まだまだ新しい発見がありそうなポテンシャルを感じる城でした。


最後は御城印を購入しに行きます。
興国寺城を出たのは15時半頃。

興国寺城にはガイダンス施設などが無いので、御城印は地元の幾つかのお店で販売されています。

ワタクシは興国寺城から歩いて5分ほどの、お茶屋の野崎園さんで購入しました。



御城印ついでに、大寒波到来の日でしたが抹茶のモナカを購入!



中はアイスなのに抹茶の苦味があって、サッパリしたモナカ。

もしろ、カロリーゼロ。
美味しいモナカを食べながら、帰りは歩いて原駅に戻ります。



広がる草原。
ひんやりとした気温ですが、空気が澄んでいて素晴らしい時間を過ごしました。

帰りは時間に余裕があるので、原駅まで歩いて戻ります。

歩きながら改めて感じたのは、道がひたすら真っ直ぐなこと。 

原駅までバイパスが横切っていますが、それ以外は真っ直ぐに進むことができる道ばかり。

これが当時の街割とは限りませんが、左右綺麗に道が交差するので、当時の名残の可能性もあるのかなと感じました。

戦うために造られ、実際に戦いを繰り返してきた中世の城というのは、造りの工夫全てに意味があり、生死を分ける緊張感もあります。

残された遺構からメッセージを読み解き、イメージしながら城を歩くのが中世城郭の楽しみ方。



大雪の影響で帰りの新幹線は50分ほど遅れていましたが、天気も含めて全てが、ほぼ計画通りに進んだ二日間でした。

計画通りいくと達成感があります。
これもまた楽しみ方の一つ。



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諏訪原城@静岡県

2025-02-08 11:30:00 | 続100名城
2025年2月8日

掛川城を9時30分に出て、東海道本線で掛川駅から金谷駅に移動。
二駅乗って約15分ほどで到着します。

東海道本線で巡る城、二城目は静岡県島田市の諏訪原城を目指します。

Googleマップでは金谷駅から歩いて約20分くらいで到着となっていましたが、30分以上は歩きました。



駅から諏訪原城に向かう途中は、かなり急な坂が続きます。



空き家が多い住宅の道をひたすら進みます。



山の上は諏訪原城の出丸跡。
登城ルートが分からずでしたが、下から写真を撮っておきました。

諏訪原城に向かうには、主に二つのルートがあります。
一つは旧東海道を通るルートと、県道島田岡部線を通るルート。

ワタクシはまずこの出丸を目指したので県道島田岡部線のルートで向かいました。

こちらは本丸など主郭の下をグルっと周るルート。

しかし、山道を容赦なく車が飛ばしてくる上に、歩道がないのでかなり注意が必要です。



途中には諏訪原城に向かう細い獣道のようなルートがありますが、まずはパンフレットも欲しいのでスルーして、ガイダンス施設を目指します。

ちなみに、このかなり険しいルートで入城すると本曲輪に直結します。



ガイダンス施設あたりから撮影。

諏訪原城は山々に囲まれていて、ロケーションが素晴らしい。
およそ標高220mまで歩いて登りました。



静岡県らしく、広大な茶畑が広がります。
日本列島には大寒波が到来していましたが、静岡県をチョイスして正解でした。

とても寒かったですが、天気には幸い恵まれました。



ガイダンス施設内では、続100名城スタンプや御城印もこちらで購入することができます。
模型もあるのでイメージを持つことができます。

諏訪原城は見どころが多い中世の山城ですので、ガイダンス施設でパンフレットをもらってから攻城をオススメします。

国の指定史跡で、続100名城にも選ばれています。

武田勝頼が馬場信春に命じて築城しました。

歴史の背景としては既に駿河を抑えた武田勝頼は、徳川領の遠江に進出するための足掛かりとして築城しました。

ちなみに馬場信春は武田四天王の1人で、不敗の名将と称された有力な武将。

長篠の戦いで武田勝頼を退却させるために、殿(しんがり)を務めて戦死。

武田家三代に仕えていました。



ガイダンス施設の脇から主郭を目指します。
裏手すぐには復元された大手南外堀があります。

本来は幅は5m、深さ3.3mの薬研堀で、現在よりも深い堀でした。
大半が茶畑になっている為、全容を見ることはできません。

発掘調査では土塁の形跡が発見されなかったことから、城柵で囲んでいたと考えられています。



大手南外堀の近くには、二の曲輪大手馬出があります。

まずは、この巨大な空堀に衝撃を受けます。

写真の左側が馬出。
一際高くなっており、丸型の馬出なので三日月のような湾曲した堀になっています。

死角が少なく攻撃をしやすいのが特徴。



二の曲輪大手馬出の空堀の先には、外堀と馬出しの空堀に架かる土橋があります。



土橋から見た左側の外堀。
写真の右が二の曲輪となり、土塁を形成しているので、かなりの高さのある空堀となっています。



土橋から見た右側の三日月堀と二の曲輪大手馬出。

正直、諏訪原城は掛川市と近かったので、掛川城に行った後に行きやすい城と思い、セレクトした部分もありました。

しかし、序盤から圧倒的なスケールの空堀を見せられ、二の曲輪南馬出と外堀を見ただけで既に満足度が高いです。



土橋を渡り外堀沿いを歩くと、二の曲輪に繋がる新たな土橋に接続されます。

かなり分かりやすい土橋の形状。



土橋から見た右側の外堀は、より一層深さがあり、恐怖を感じるほどの見事な空堀が永遠に続きます。



こちらは土橋から見た左側の外堀。

写真の左がワタクシが歩いてきた二の曲輪南馬出、右が二の曲輪。



渡って振り返っての土橋を撮影。
傑作といえる程、美しく整った土橋。



二の曲輪南馬出と外堀に架けられた土橋。
城の南西端に位置する小規模な馬出。



南馬出の右側は巨大な空堀。

最初に周った二の曲輪大手馬出と横並びになっているので、かなり防御力が高い造りになっています。



左側の空堀。

小さな曲輪でありますが、曲輪内部の貼り床面直上で27点の鉄砲玉が集中して出土したことを考えると、小さな曲輪ながら幾度も戦をした諏訪原城において重要な曲輪だった可能性があります。



こちらは先ほどよりも、大きめの二の曲輪東内馬出。

城の南東側は三つの小規模な馬出が連なって配置されています。

東海道に沿うように馬出を連続させているのがポイント。

また興味深いのは、二の曲輪との境となる堀は、武田氏時代にはV字の薬研堀でしたが、後の徳川時代に箱堀に改修されたことが発掘調査で明らかになっています。



二の曲輪南馬出と横に並んで、二の曲輪東馬出があります。

密集した全ての馬出が、非常に深い堀で分断されつつ土橋で繋がれているので、巧妙で複雑な配置となっています。



曲輪入口には門と思われる礎石が発見されており、やはり武田氏時代の鉄砲玉も出土しています。

調査で空堀の幅9.3m、深さ6.7mと判明し、最南端を防備するには十分な軍事拠点といえます。

来た道を戻り、城の中央〜北側を目指します。


大手北外堀。

諏訪原城大地側全面に突き出していて、先ほどの空堀に比べると、やや迫力に欠けますが、発掘調査で大手北外堀は幅5m、深さ6mの立派な空堀であったことが判明しています。



諏訪原城といえば、二の曲輪中馬出が代名詞です。

日本に幾つもある丸馬出の中で、最大級となるのがこの諏訪原城の二の曲輪中馬出になります。



本当に見事な三日月堀!

二の曲輪中馬出は本曲輪へ向かう二の曲輪の虎口前に配置。

この先には絶対に進ませないと意気込みを感じる強力な造り。

生と死をかけた当時の防御システムは、現在はアートとして人々を魅了し続けます。



三日月堀は二の曲輪北馬出に繋がります。
素晴らしい遺構の保存状態。

諏訪原城全体が、木を綺麗に伐採して整備されているので、より本来の姿に近い形で見ることができます。



中馬出から北馬出に繋がりますが、北側の空堀はV字の薬研堀。


発掘調査で礎石が確認されたことで、二の曲輪北馬出には薬医門が復元されています。


二の曲輪の土橋。
その先には発掘調査で虎口跡が発見されています。



土橋から見た左側、北の外堀。
草が生えていてハッキリとは見えませんが、規模が大きい空堀です。

右側が二の曲輪で、土塁で囲んでいるため、かなり高さのある空堀となっています。

この外堀と二の曲輪中馬出は、完全に二の曲輪を防備しており、この城が軍事施設であることを最も感じるポイント。



二の曲輪には広大な敷地が広がります。



二の曲輪の次はいよいよ本曲輪なので、外側は土塁で防備し中央部には曲輪を仕切る土塁があります。



二の曲輪と本曲輪も土橋で繋がっており、本曲輪は内堀と土塁で囲まれています。



土橋から見た左側の内堀。
二の曲輪と本曲輪を分断する空堀。

どこを見てもスケールの大きい空堀を見ることができます。



土橋から見た右側、二の曲輪との本曲輪の空堀。左側が本曲輪となり、二の曲輪よりも高低差が大きいのが分かります。

二の曲輪を突破されたされた場合、最後は本曲輪のこの空堀から迎撃するので、攻撃しやすいように本曲輪だけ土塁で二の曲輪よりも高くしています。



土橋を渡り切ると本曲輪虎口跡があります。

中世のお墓の一部を門の礎石の根固めに使用されているのが発見されました。


逆光で見えにくいですが、本曲輪の石積みの通路跡。

丸型の石材が積まれていて区画されています。



本曲輪は断崖絶壁。
下に少しだけ見えている道路は、最初に歩いて登ってきた県道島田岡部線。

ここから攻めるのは不可能。
木は死角になるので当時は生えていなかったことを考えると、「攻めるに難く守るに容易い」という戦国中世城郭のセオリーそのままを感じます。

本曲輪からは手に取るように敵の動きが丸見えです。


本曲輪 東側からの絶景。
左側には富士山が綺麗に見えます。

奥には大井川、街を一望できる素晴らしい景色に、興奮していた気持ちが一度落ち着き、しばらく静かに眺めていました。



しかし、絶景のロケーションを眺めた下は、写真のように切岸となっていて、急斜面に切り落とされています。

落ち着いた気持ちも再び沸騰!



本曲輪から内堀の底に降りることができます。

内堀にはカンカン井戸があり、石積みの井戸跡が残ります。

今は埋まって浅くなっていますが、以前はかなり深い井戸だったらしく、石を投げたらカンカンと音が鳴ることから、この名称になったとも言われていますし、武田軍の軍師山本勘助が由来とも言われています。



カンカン井戸から順路に進むと、水の手曲輪に向かうことができます。

割と足が疲れてきていましたが、坂を下ってみます。



疲れが一瞬で吹き飛ぶほどの切岸。

元々このあたりの山は河原が隆起した土地の為、岩盤のように強固なためこれだけの遺構が状態よく残っています。



右側が本曲輪。左側は二の曲輪。

空堀なのか、堀切なのか、切岸なのかもはや分かりません。

ただ、物凄い高さで曲輪が分断してあるのは確か。

どこまでが自然地形で、どこまでが人工的に山を削ったのかとても気になります。



本曲輪は全面的にこのような急斜面の絶壁で囲まれているので、かなり防御力が高いと感じます。

数々の馬出も圧巻でしたが、個人的には水の手曲輪の登城ルートあたりが、壮大で臨場感があり感動しました。


小田原北条氏の築城術は角馬出、武田氏の築城術は丸馬出という通説の中で、諏訪原城は、武田氏の築城術によって築かれたとされていました。

しかし、近年の調査では武田氏が造った諏訪原城をベースに徳川家康が大改修したことが判明しました。

特に巨大な中馬出や大手馬出は完全に徳川家康が築いたとされています。

遠江は徳川と武田が奪い合った場所で、高天神城奪還の為に徳川家康が改修したというのが、発掘調査による現在の考察のようです。

この考察が正しいのであれば、徳川家康は武田氏の築城術を、より大規模にして取り入れたことになります。

そして、最終的には徳川家康は1591年に高天神城を攻略。翌年、武田氏は滅亡。

諏訪原城はその後、徳川家康が江戸へ転封したことを機に廃城になりました。

まだ諏訪原城の全容は未知数ではあるが、これだけの巨大な堀を巡らせているので大土木事業だったのは間違いありません。

それを重機もない当時の人力で造り上げたことに凄さを感じます。


 
帰りは旧東海道を通って金谷駅に向かいます。



旧東海道の石畳。
現在、街道の石畳で当時の面影を残すのは箱根峠と中山道十曲峠、そして東海道の金谷坂のみ。

30m程しか現存していませんでしたが、町民600名の平成道普請によって430mが復元された素晴らしい道です。

諏訪原城が予想を超えて魅力的な城だったの為、予定より大幅に時間を押してしまいました。

再び金谷駅から東海道本線に乗って次の城へと向かいます!



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大垣城【二回目】@岐阜県

2025-02-07 16:00:00 | 続100名城
2025年2月7日

清洲城に行った後は岐阜駅に移動。
今年竣工となる新築ビルの設計打ち合わせにやってきました。



岐阜駅前にある黄金の織田信長像が、めちゃくちゃカッコよかった!
「夢幻の如くなり」と「天下布武」の大きな幟旗が痺れます。

織田信長に縁のある地に足を踏み入れたのだと改めて実感。

やはり織田信長はかっこいい。

打ち合わせが終わったのが14時30分。
急いで大垣城に向かいます。

前回訪城したのが昨年の6月。

数ある城の中で大垣城をセレクトした理由は、前回行った時に訪問時間が早すぎた為に、続日本100名城スタンプを押せなかったこと。

さらに、勉強不足によって大垣城の見どころの一つでもある石垣の化石を、まさかの見ないで帰るという失態を取り戻すためです。



乾隅櫓脇の水之手門跡から入城します。
乾隅櫓は本丸曲輪の北西に位置した二重の櫓。

廃条令で明治に破却されましたが、2010年に鉄筋コンクリートで外観復元されました。


天守は廃城令後も残され、旧国宝に指定されていました。
しかし、残念ながら1945年の7月29日に空襲で焼失。

あと半月で終戦だったのに悔しい限りです。

現在の天守は鉄筋コンクリートで昭和34年に外観復元されました。
内部は資料館となっていて、続日本100名城スタンプもこちらで押すことができます。



天守台の石垣には明治29年の大洪水時に、水が上がった最高浸水点が示されています。

天守台の1mくらいまで水が上がっています。

大変な災害を今に伝える貴重な刻印となります。



天守台石垣。
手前側は築城時に積まれた石垣がそのまま生かされています。

天守直下の石垣は、昭和期に積み直されたそうです。



石階段を登れば天守に到着です。

今ではとても簡単に天守に到着しますが、改修を重ねて江戸時代には三重の堀で囲まれた壮大な総構えの城でした。

その名残として、大垣市内には今でも水路が多く残っています。



天守入り口からのショット。

天守はL字になっていて、左側は天主南附多聞、右側は天主東附多聞。
天守と接合した複合型天守となっています。

石垣の化石を見つけるのが難しかったので、館内のスタッフさんに聞いたところ、わざわざ一緒に歩きながら教えてくださいました。

大垣城の石材は、大垣城から近い金生山の石材を使用していて、水路で運ばれたそうです。



およそ2億5000万年前のウニやヒトデの仲間のウミユリ。



化石は白っぽい石灰岩に多く、よく見てみると沢山見つけることができます。


こちらも、はっきりとした形のウミユリの化石!



ベレロフォンという平巻きタイプの巻貝の化石で、こちらも2億5000万年前のもの。

天守台、西門、西門を出たあたりの石垣で特に多く見ることができました。

これも親切なスタッフさんのおかけです。



大垣城の鬼瓦には桃の模様を見ることができます。

桃には邪気を払う力があるとされていることから、珍しい桃の形が採用されています。



そして更に珍しいのは、西広場側の天守3層目の鬼瓦。
瓦の先端にはまるでカエルみたいなのが鬼に潰されているのが分かります。

これは邪気と鬼と言われ、鬼が邪気を抑えつけているシーン。

大垣城にとってこの方角が鬼門の方角だったので、この1箇所のみ邪気を抑える珍しい鬼瓦なっています。

これもスタッフさんが丁寧に教えてくださったので発見できました。

肉眼で見るのは難しいので、デジカメでズームをして見るのが一番分かりやすいと思います。



そして、東門には刻印石があります。
何から何までありがとうございました。

やはりスタッフさんに聞いて大正解でした!



天守は四重四階の層塔型。

日本では昔から四という数字は敬遠されていましたので、四重の天守は大変珍しいタイプ。

大垣城は関ヶ原の合戦の際に石田三成が陣を置いていた城です。

そして、この大垣城から決戦の関ヶ原へと向かいました。



初代藩主は戸田氏。
大垣藩10万石の礎を築き、明治までの230年間も大垣市を納めました。

昔の絵図を見ると城全体が水で囲まれています。中心部の本丸と二の丸は水に浮かぶ島のようになっています。



今では天守一帯の一部しか当時の面影を残していませんが、当時は美しい景色だったに違いありません。



今回大垣城に来た時から思ったのですが、昨年来た時よりすごく見やすくなった気がするのは、気のせいでしょうか。

以前は天守の前に木が生えていて、なかなか良い写真を撮ることが出来なかった記憶があるのですが、今回は全てがスッキリ見えます。

葉が生えていない季節のせい?

いずれにしても、前回来た時よりもはるかに知識を得ることができました。

そして、お気に入りの写真も撮ることができたので大満足でした。

縄張りなどは前回のブログを見て頂けると幸いです。

大垣城@岐阜県 - つぶやき城ー。のブログ

大垣城@岐阜県 - つぶやき城ー。のブログ

2024年6月25日仕事で視察のために岐阜県に初上陸。岐阜県の有名な城といえば、岐阜城、郡上八幡城、岩村城、苗木城、墨俣城、美濃金山城など多くの名城が存在します。時代を...

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小机城@神奈川県

2025-01-18 12:30:00 | 続100名城
2025年1月18日

今日は初めて神奈川県横浜市にある小机城に訪城しました。

小机城は室町時代に築城。
長尾景春の反乱に対して、太田道灌が攻め落としたことで、小机城は一度廃城。

その後関東一円を支配する北条氏によって、再び城として復活しました。

小田原を本城とする北条氏は、城代として笠原信為を任命。

しかし、小田原合戦で豊臣によって北条氏が滅ぼされた事で、やはり小机城も廃城となります。

今残っている遺構は北条氏時代のものになるので、是非行ってみたいとずっと思っていました。

続日本100名城に選定されています。

JR横浜線 小机駅から歩いて10分ほど。
小机駅は新横浜駅からも一駅と、かなりの好立地です。



小机駅のホームから見た小机城。
奥にある小高い山の上が小机城になります。

標高は約50mの山城。



小机駅に着いたのは10時頃。
まずは駅近くにある、地区センターに行きます。

ロータリーを右手に行けばすぐです。
地区センターには続日本100名城スタンプがあります。

そして小机城のパンフレット。
これは事前に持って訪城するのがベストかと思います。

麓には「小机城のあるまちを愛する会」が創ったパンフレットを置いてある民家があります。
こちらのパンフレットの方が、より分かり易かったです。



大きな看板などはないので、登城口がやや分かりづらいですね。

住宅街に囲まれているので、迷惑にならないように節度ある行動が必要です。

そして、この住宅街あたりは当時も根小屋(集落)であったと考えられています。



城内看板で全体の縄張りを把握。



道なりに登っていくと、帯曲輪のように横長の曲輪が広がります。

お城らしく右へ左へと食い違いになっている道を進むと、大きな空堀の前に出ます。

左手は本丸(西曲輪)、右手は二の丸(東曲輪)に分かれます。

まずは、左手の本丸を目指します。



空堀沿いを歩くと、先には土橋が見えます。
右手は本丸(西曲輪)。

本丸を仕切るための空堀なので、かなり深く掘り込まれています。

高低差は約6m。こちらがら本丸南側の空堀となります。



土橋の前には角馬出があります。
虎口などの前に設けることが多く、敵を迎え撃つ重要な防衛ラインといえます。

そして、虎口や土橋の前に設ける角馬出は、北条氏の城でよく見る築城スタイルといえます。



土橋の手前、馬出あたりからのショット。
奥は本丸(西曲輪)になります。

左右が空堀となっていて、本丸に行くにはこの細い土橋を渡るしかありません。

この細い土橋では並んで進むのは不可能ですので、1人ずつ進軍するしかないですね。
これぞ「守り易く攻めにくい」

城とは戦うための軍事施設。

城の本質は、意外と中世城郭の方が強く感じることができます。


土橋から見た右側の空堀。
見事な空堀なのが分かります。

左側は草木でやや分かりづらいかな。



土橋を渡ると、当時をイメージさせる冠木門があり、いよいよ本丸になります。

おそらく、実際は冠木門の手前にある土塁のライン上に本丸虎口があったのではないかと思われます。



本丸は広めの曲輪となっており、周りは土塁で囲まれていています。



本丸北側の空堀。深く急勾配に削り込まれています。

こちらは、立ち入り禁止エリアになります。

本丸北側の空堀は発掘調査対象区域で、令和4年の調査で堀底付近は約49°で急勾配になっているそうです。

2m以上掘っても堀底を確認できなかったということは、相当深い空堀であったと思われます。

これからの発掘調査で様々な事実が明らかになってくることに期待したいと思います。



本丸(西曲輪)と二の丸(東曲輪)の間には、細長い曲輪があり土橋で繋がっています。

整備もされていて、遺構が分かりやすいのが良いですね。



左右には曲輪を分断する空堀があります。
左側が本丸。



右側が本丸。

実際は発掘調査実績が少ない小机城では、本丸も断定はできていないそうですが、空堀でぐるりと囲まれ、独立した曲輪で守りを堅固にしていることを考えると、本丸と想定するのは妥当かもしれません。



本丸と二の丸の間には、細長の曲輪が伸びていています。



謎に設けられた小さな曲輪。

しかし、実際にこの曲輪に立って見ると、二の丸と本丸両方を見渡すことができ、攻撃しやすい曲輪なことが分かります。



先端には櫓があったとされています。



謎の曲輪の左側。
急斜面の崖になっていて、二の丸方面から攻めてきた敵を上から容易に攻撃できます。



謎の曲輪の右側。

反対側には本丸。間には広大な空堀。
こちらも、本丸と謎曲輪の両方から攻撃が可能になっています。



二の丸に向かうと、曲輪の入り口に櫓跡があります。



二の丸(東曲輪)で櫓跡だけ小高くなっています。



二の丸も令和の発掘調査されていて、掘立ての建物があったとされています。



二の丸を降りると、空堀の底を歩くことができます。



竹林が広がっていますが、道も含めて綺麗に整備されています。



空堀が張り巡らされていて、曲輪を分断する圧巻の景色!
堀底からの高低差は約10m。

当時はもっと深かったと考えられます。

横堀で囲んで曲輪を独立させることで、向かい合う曲輪同士は堀切となって分断されるこの築城スタイルもまた、北条氏らしさが溢れています。



芸術的で、アートのように美しい設計です。






もはや言葉はいらない。

これが歴史の表舞台から消え、400年もの間眠り続けた城。

逆を言えば表舞台から姿を消したことで、この良好な保存状態だったとも言えますね。

南側の空堀は、後ほどまた周ります。


東側〜北側の空堀をぐるりと周ったら、一度本丸に行き、もう一つの小机城に向かいます。

小机城はこれだけではありません。

一番最初に本丸に行くために渡った土橋の手前を真っ直ぐ進むと、一度麓に下山させられます。

そして、トンネルを抜けて反対側に行きます。


トンネルを抜けるとすぐに、かなり急な階段があります。



階段を登り切ると先ほどいた小机城の本丸が一望できます。

右奥には横浜スタジアム。



下には高速道路の第三京浜が走っています。
トンネルは第三京浜の下を抜けるためのものでした。



実は小机城は横長に広がった城でしたが、城を破壊して高速道路を開通させたことで分断されました。

今では高速道路が最強な堀切の役割をしています。


細い道を進みます。
主郭があるエリアには人が多かったのですが、皆さんこちらには来られないようで、人の気配が全くありません。



高く山になっている場所は富士仙元。

上には石碑があるのですが、ワタクシは行くのを控えました。



どんどん先に進みます。
小学校の時に知らない森を、友達と探検しまくっていた頃を思い出します。



道の行き着く先は、私有地の駐車場でした。

この辺りは開けたスペースになっていて、最初に見た看板ですと出城の部分にあたります。



主郭側から見た、出城方面。
再び、主郭側に戻って残していた南側の空堀を見に行きます。



本丸から謎の中曲輪まで伸びた南側の空堀。



先には腰曲輪があり、開けたスペースになっています。



左側は腰曲輪で先ほど通ってきた道。右側は中曲輪でこの先端の上には櫓がありました。

堀底を歩けるようになっていたので、当然堀底を歩きます。



さらに先に進みます。



分断された曲輪は、左側が本丸(西曲輪)で右側が謎の曲輪(中曲輪)になります。



急な崖になっているのが中曲輪で、この最頂部に櫓がありました。



北側も素晴らしい空堀を見ることができましたが、南側も芸術的な造りをしています。

コンパクトな城ながら2時間半ほど散策。
見どころは沢山ありました。

発掘調査が今までされて来なかったので、まだ史跡にもなっていないのが現状ですが、令和になって調査が開始されたので、これからの調査結果が楽しみな城です。

現状でもかなりハイレベルな空堀を見ることができますが、当時は20mクラスの空堀だったとも言われています。


森の中を周っている時のワクワク感というものは、年齢を重ねても変わらないもの。

小学校時代の探検好きの少年心は、30年経っても血は変わらないことを実感します。

これだから山城は楽しい!

標高50mくらいなので、山城を行った事がない方でも、十分楽しめると思います。


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滝山城@東京都

2024-11-30 16:30:00 | 続100名城
2024年11月30日

午前中に八王子城を登城し、お昼を食べてか次なる城へ移動。

続100名城で国指定史跡の貴重な城郭、滝山城です。
同じ八王子市に位置します。

北条氏照が八王子城を築城する前に、滝山城を居城としていたとされています。

滝山城は武田氏と戦いの舞台にもなったと記録されています。

戦国時代を象徴する北条氏は、神奈川、東京、千葉、埼玉は当然ですが、群馬あたりまで勢力を伸ばしていた為、上杉や武田など名将と戦いを繰り広げていました。

それゆえ、北条氏が造る城は実践的で、まさに戦うための城。

今では各地で貴重な遺構として残り、城マニア達の心を掴んでいます。



滝山城入口の前までバスが出ています。

八王子城からは車で約30分程。
是非、八王子城とセットで訪れてもらいたい!

麓には無料の駐車場もあるので、大変便利です。



滝山城は北条氏照が永禄10年の1567年頃までに築城して、移転したと近年の研究で考えられています。



大手口から登城しますが、さっそく中世の山城のテイスト。

山を掘って造成したような、狭い道が続いています。



道の途中は食い違いになっているのも、戦国時代らしい造りといえますね。

道の左手は小宮曲輪、右手は三の丸。



小宮曲輪の空堀。
序盤から素晴らしい遺構を見ることができます。



右手の崖の上には小宮曲輪。
高低差の大きな空堀なのが分かります!



小宮曲輪。
曲輪の名称から、北条氏照の家臣小宮氏が活躍していたとされている。



小宮曲輪には土塁などを見ることができます。 

綺麗に草も刈られているので、形状の起伏が分かりやすいです。
 


三の丸の入口。
ここには枡形虎口跡がありましたが、残念ながら車道の整備によって現在は消滅してしまいました。

そして、小宮曲輪のように規模の大きな空堀で三方を囲んでいます。

ちなみに、当時はもっと大きな空堀であったとされていますが、現在でも高低差15mという圧巻の規模。



さらにら大手口の道を先に進むと、食い違いなった道と堀が現れます。

これは後ほど、上からの写真を貼ります。



続いて見えるのは千畳敷という曲輪。
大きな敷地の曲輪が広がります。

現在は芝生が敷いてあり、ファミリーが各々の時間を過ごしていました。



千畳敷から見た先ほどの食い違いの道。

上から見ると道の両脇が堀となっていて、土橋になっています。

ここからは横矢を仕掛けることができます。
かなり緻密に計算された城郭構造をしていますね。

鈴鹿サーキットのようにS字が続きます。



こちらは千畳敷脇にある土橋。
北条氏築城術の一つでもある、障子堀のようにも見えます。

当時はもっと堀が深かったと思われます。

普通であれば、ただ土が盛り上がってるだけで気にも留めない光景ですが、450年以上の時を経ても、この戦国の遺構を目の前にできているのは、ある意味では奇跡なのかもしれません。



千畳敷の向かい側には二の丸があります。

二の丸を囲む空堀は、小宮曲輪や三の丸を遥かに超える規模!

これも後ほど二の丸の周りを歩いた時の写真と共に解説します。


更に本丸を目指して先に進むと、二の丸と中の丸を分断する堀切を見ることができます。

滝山城は各曲輪が堀切や永遠に続く横堀で独立していているのが特徴的。
歩いていて全く飽きることがありません。



右手には中の丸、左手は旧斜の崖になっています。

中の丸は本丸の次に重要な曲輪とされていたので、堅牢に造りで防御機能を高めています。

土塁の残り方から、この場所には櫓門があったと推定されています。



中の丸は広大なスペース。
70m×100mの曲輪には当時の政庁があったそうです。

奥の建物には続100名城のスタンプが置かれています。



中の丸からの景色。
多摩川が流れており、このスポットから下を見ると、幾つもの腰曲輪が形成されているのが分かります。

北の防御も抜かりなく強化されています。



中の丸から、いよいよ本丸に入ることができます。

最後の難関は中の丸と本丸を分断した堀切に架けられた木橋を渡ること。



木橋を渡ると食い違いの枡形虎口。
最後の最後まで執拗以上に守りに忠実な設計。



本丸は土塁で囲まれていています。
中の丸はよりは、やや小さく細長い形状をした曲輪。



紅葉がとても美しい。



11月30日でしたが、暖かくこれが戦国を生き抜いた城であることを忘れてしまいそうな、のどかで静かな時間が流れています。



本丸の角には井戸があります。

底は見れませんでしたが、石積みでしっかりと造られているのが分かりました。



本丸の北側。
本丸には明治45年に創建された霞神社があり、静かにこの地を見守っています。



本丸からの景色。
滝山城は標高169mの東西に伸びる加住丘稜に築かれました。

標高が低いので、気軽に登城できるのがポイント。



帰りは本丸から階段で降りることができます。
おそらく神社の創建時か、後の時代に造られたと思われる階段。



本丸からの階段を下ると、滝山城名物の大堀切に出ます。

奥には先ほど渡った木橋が見えます。



この堀切は圧巻!
15m以上はありそうな、巨大堀切。

調査で当時は今よりも、もっと深い堀切だったことが判明しています。

さすが最後の砦となる本丸を守る堀切です。


続いて、また来た道を戻って、二の丸の周りを歩くことにします。

さっそく空堀と土橋を見ることができます。
写真の通り、右手も左手も空堀になっていて、その間が道になっています。

これが土橋ですね。



二の丸の周りは空堀と土橋だらけで、かなり防御体制を敷いているのが分かります。



空堀の右側が二の丸。
この空堀もかなり高低差がありますね。

しかも、木があまり生えて無いので、遺構の形が綺麗に見えるのもポイント。



南馬出から二の丸に入ることができます。
当然左右には空堀があり、土橋を渡ることになります。

どんなに大群で攻めてきても、この狭い土橋を渡ることになれば、防御が容易くなります。

攻めにくく守り易い。これが戦う城のセオリーです。



土橋の先は二の丸です。

写真は撮っていないのですが、二の丸周辺には多くの馬出があり、特に南馬出と大馬出は連続していて、鉄壁の守備ゾーンな気がします。



大手道に戻る道も、左右には空堀があり、土橋を渡って戻ることになります。

特に右手の二の丸を囲む空堀の規模は、レベルが違いすぎるほど凄いです。

実際に歩いてみて、どこから攻めてきても対応できるような設計になっている気がしました。



二の丸を繋ぐ土橋からの一枚。
右側が二の丸。

堀底からの高低差を見ると、その巨大さがお分かり頂けると思います。



右手は二の丸。
左手は最初に通った大手道です。

草が刈られているので、本当に見やすく素晴らしいです。
今でも埋もれた城は多くありますが、整備してくださっている方のおかげで、現代でも城は輝き続けます。

そして、大手道から登城した道を戻って下山です。


滝山城の戦として有名なのは、1569年の滝山合戦。

武田信玄と交戦して三の丸あたりまで攻め込まれましたが、2000人の兵で守ったという話も残っています。

しかし滝山合戦を機に、より堅固な八王子城を築城したとも言われています。

八王子城への移転によって、滝山城は廃城となりますが、ある意味では廃城によって綺麗な遺構が残っているとも考えられます。


そして、何よりも素晴らしいのは滝山城の保存会の方々が綺麗に整備をして守り続けていること。

東京にもこんなに素晴らしい中世の城が残っています。

先日行った本佐倉城も素晴らしかったが、滝山城も非常に魅力的な城。

いくつかの登城ルートがあり、時間の都合上ワタクシも全てを見ることはできませんでしたので、改めて行く楽しみができました。

今回は北条氏照の居城を日帰りで2城周りました。
八王子城も滝山城もテイストが違いますが、間違いなく東京に残る名城です。


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