つぶやき城。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

猿橋城@新潟県

2024-01-06 18:00:00 | その他城
2024年1月6日

年明け四城目は新潟県妙高市にある猿橋城に行きました。

おそらく知っている人は、ほぼいないであろう超マイナーな山城です。
前日に上杉謙信の居城である春日山城に登城し、春日山城の支城はこの界隈に多く存在しているのでネットや本で調べていました。

その中で支城かも分からず、誰がいつ何のために築城したのかも不明な城が猿橋城だったので、一番ミステリアスな城を攻略することにしました。

もう一点は、やはり人が少ない山城は冬を越えると熊が怖いので、一応熊が冬眠中の冬の内に攻略したいというのが、もう一つの理由でした。


猿橋城は新潟県と長野県の県境にある場所にあり、駅からは果てしなく遠い位置。

今回は車で行きました。

廃校となった小学校の脇に看板があったので、看板通りに向かいました。



山道の入り口。

雪もいい感じに溶けているので、予定通り登ることにしました。

時間は15時頃。微妙な時間でしたが、さっと登って雰囲気を見たらすぐに帰れば大丈夫と過信したのが間違いでした。



妙高市の市指定史跡なので、山道は整備されています。



右側の開けている場所は元々は畑か田んぼであったと推測します。

時期のせいか現在は広大な敷地が広がります。



振り返っての一枚。



まずは比較的、緩やかな道が続いていて道も通りやすいですね。





左手は急な斜面になっています。








いよいよ急な斜面を登り始めます。
山城っぽい雰囲気も出てきました。


主郭まで1/3ほど登ると90度に折れ曲がり、雰囲気もガラッと変わりました。



一応、生えてる木に100m間隔くらいで案内があるので、今のところ特に問題なく遺構を探しつつ先に進みます。



遺構かは不明ですが、土塁のように盛り上がった場所を発見。



実はこの辺りで道に既に迷っていました。

木が少なくなり、何処が城郭までの道なのか分からなくなっていて、この土塁が伸びている方向へ登って行ったのですが、途中で曲がるのが正解だったようです。



結果として道は間違っていましたが、斜面を登り進めると堅堀のようになっていることに気付きました。



近接して隣にも同じように堅堀のような斜面に沿って縦長に大きな窪みがありました。

こちらの方がやや幅広いですね。

城の遺構かは不明ですが、人工的に作られたのは間違いなさそうです。



おそらく道を間違えたかなと気付いたのですが、そのまま上に登れば尾根沿いを歩けるのではないかと思い、そのまま先に進むと獣が掘ったような穴を発見。

動物の足跡が周りの至る所にあったので、危険を感じつつも先に進みます。

後から地元の方に聞いたら、猪が掘った穴の可能性が高いとのこと。
やはり、道を外れるのは危険が多いと改めて感じました。



尾根まで登ったものの、木が多くて先に進むことは困難と判断して、一度登った道を下ります。

ここで大幅な時間をロスしてしまいました。



再度正しいルートに戻ることができ、食い違いになった道に出ました。

これぞ山城!
テンションが上がってしまいます。



途中、謎のスペースを発見。
堀のように不自然な斜面が半円状になっています。

遺構かは不明。
しかし、すごく気になります。
推測でも知ってる方がいたら教えて頂きたい。



謎の半円状の堀の脇を通って主郭へと進むことができます。
※本当に堀なのかは不明。



そして謎の堀の脇を登るとすぐに、また食い違いになっています。

きっと主郭が近い証拠。



さらに主郭に近ずくに連れて地形の凹凸が多くなっています。



この道の先が尾根で、90度曲がれば主郭になります。

かなり狭い道で右手は自然地形の高い堀のようになっていて、左手は急斜面の崖です。



まさに尾根沿いを歩いているという感覚。
山の形状がハッキリ分かります。



主郭は段々になっていて、まるで戦艦のように細長い曲輪。



人の足跡があるので、この時期に登城した強者が他にもいるようです。



振り返っての一枚。
まるで船の先端です。

女性といたら間違いなくタイタニックをしたくなるような形状。

残念ながら人の声も気配も全くない秘境のような地で、一人でテンションが上がってるオッサン。

寂しすぎます。



山頂には休憩所のような小屋があります。



雲がかかってますが、右手には標高2400mクラスの妙高山があります。

ちなみに、妙高山の麓は上杉謙信が川中島に出兵する際のルートでした。



左手は茂みがあって写真では見え辛いのですが、こちらにも山脈が広がります。

ちなみに、こちらも川中島に出兵する際のルートでした。

猿橋城を挟んで信濃への交通ルートがあるので何かしらの関係がある可能性が高いのかと勝手に妄想します。

また、猿橋城の形状として全体が急斜面な為、周りに曲輪らしきものはありませんでした。
主郭もかなり細長く大きな曲輪ではないので、居城としての城郭ではなく他に意図した役割があったのではないかと想像できます。



小屋の前には記念碑がポツンと建っています。
猿橋城の標高は370mなので、山城の中でも割と高め。

春日山城からは車で約20分ほど。
やや遠目ですが双方見晴らしが良い城なので主郭から見える位置です。

どうしても春日山城及び上杉謙信との関係性を探りたくなります。

この時、既に15時45分頃でやや薄暗くなってきてました。



小屋の裏に周ると空堀のようになっていて、主郭を守るための防御機能で間違いないかと思います。

そして、この先には尾根を分断する大堀切があるようです。

後から知ったので、大堀切を見なかった事に後悔。



日が落ちてきたので、太陽の光が少しでも当たる帰りは反対斜面を降る別ルートを選択。

写真でも伝わるほど、主郭の周りがかなり急斜面に切り出されているのが分かります。



こちらも山の形状が分かるほど尾根に沿って降ります。



振り返っての一枚。

帰りのルートはかなり斜面が急なので、連続した食い違いの道になっていました。

こちらのルートは廃校になった小学校の脇から出てきました。

やはり登ったルートの方がお勧めかもしれないですね。

ミステリアスな猿橋城は、登城してみると遺構らしきものが多く、想像よりも断然楽しいものでした。

探せばもっと遺構が眠っていると思われます。

情報が乏しい山城は初めてでしたが、逆に想像が膨らみ、宝探しのような感覚になったので、新たな楽しみ方を知ってしまいました。

猿橋城の近くには鳥坂城跡なる山城があるので、早ければゴールデンウィークに再度、上越地方に来たいと思います。


今回、遅い時間帯に登城したことで、帰りの山道は薄暗くなったのでライトを照らして一人で下山することになりました。
楽しかった反面、非常に反省の多い登城となりました。


今回の件の報告書をまとめました。

①そもそも登った時間が遅かった。
遅い時間だったので、サッと登って軽く雰囲気を見たら途中で引き返そうと思っていました。
→堅堀を見たら宝を見つけたかのようにテンションが上がり、さらなる宝を探したくなり登城を続けた。

②道を間違えた
確かに正規ルートが途中で分かり辛かったので道は間違えたとしても、気付いてからもけっこう先に進んだので引き返さず先に進んで、知らない山なのに新たなルートを探そうとした。
→正規ルート以外は獣のみが通る道があるので危険。

③それでも登り続けた
あと少しで山頂だからと思い、勿体なさを感じてしまい先に進み続けた。
→戦国時代の戦同様、撤退するのも勇気であり戦略である。

今回は事故もなく無事でしたが、自分が遭難してしまう思考を持ち合わせていたことに怖さを感じました。

山城は想像も膨らみ、宝探しのようで楽しい反面、やはり自然を相手にするので危険も多くある事を再認識しました。
標高370m程度と侮ったのが本当の反省でございます。

やはり、山城は可能な限り一人ではなく複数で行くのが間違いないと実感致しました。

以後、このような事が二度とないよう、全力で努めて参ります。

以上


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春日山城@新潟県

2024-01-05 12:00:00 | 100名城
2024年1月5日

新年を迎え三城目は新潟県の春日山城。
ついにワタクシの好きな武将、上杉謙信を語る時がやって来ました。

上杉謙信は生涯70回も戦い、勝率は95%とも98%とも言われており、戦国最強であったのは間違いありません。

最大のライバル武田信玄とは12年も戦い続け、戦国時代最大規模の死傷者を出した第四次川中島の戦いや、織田軍に大勝利を納めた手取川の戦いは有名です。

そして上杉謙信といえば、義を重んじていたこと。

そんな上杉謙信が居城としていたのが、新潟県上越市にある春日山城。

巨大な山城で、本来は豪雪地帯の越後はこの時期に登城する事は難しいのですが、今年は暖冬で圧倒的に雪が少ないので、快晴を狙って登城しました。



車は春日山神社に止めることができます。
急な階段を登り、新年なので春日山神社で参拝してから登ることにしました。



春日山城の登場ルートは主に3ルートあり、中心の本丸を基本として左右真ん中から通るルートです。

そして、各ルートには上杉家にとって重要な家臣団が鉄壁の守りを敷いています。

幾つもの曲輪を併せ持つ春日山城の案内地図を見るだけでテンションが上がってしまいます。



まずは上杉謙信像を拝みに行きますが、背後には春日山城が見え、城のメインとなる三の丸、二の丸、本丸が段になって連なっています。



快晴でこれ以上ないくらい、絶好の登山日和です。
整備された道を進み、一番左手のルートから攻めていきたいと思います。



年末の写真。
実は6日前にこの時期に登城できるか、一度雪の状況を調べに来ました。

今日はさらに雪も溶けて、少しは登りやすくなっていると思われます。



堀が縦に伸びているので堅堀のようにも見えます。

右手の高い土堀のようになっている上には、直江兼続の屋敷があった場所です。



アスファルトで舗装された道の右手は春日山城の主郭部。左手は巨大な谷になっていて、ここにも削り落として作ったような曲輪が段になって連なっています。

城のスケールが大きすぎて、見どころが多すぎます。



左手から行くルートはなんと崩落していて道が塞がっています。

先日の地震の影響なのかは不明ですが、一度引き返します。



真ん中のルートから主郭部を目指すことにしました。

土塁みたいな遺構が先に立ち塞がります。



まずは三の丸に上がります。
ここは上杉謙信の養子の息子、上杉景虎の屋敷と、米蔵があった場所です。



三の丸を囲むように土塁で防備されているのが分かります。



土塁の上に登っての一枚。
雪が残っているので、かなり登りにくかったのですが、逆に雪のおかげで凹凸が分かりやすく、写真でも地形の変化が見て取れます。

土塁の形も雪のおかげでハッキリ。



三の丸はけっこう大きな曲輪面積なのが分かります。



至る所に曲輪の周りを囲む形で帯曲輪があります。
こちらも雪で分かりやすくなっています。



三の丸から上に登ってくると二の丸跡に到着です。
上には主郭の本丸が見えます。
二の丸は本丸を囲むように、細長く配置されています。

もし敵が攻めて来た際は、この二の丸が最後の砦として重要な役割を果たすようになっています。

そして、二の丸のこの先には直江兼続の屋敷の曲輪に繋がっています。



二の丸から見た三の丸。
高低差があり、守りに堅い城造りがされています。



続いて二の丸から主郭部へさらに登ります。



本丸脇には春日山城で一番高いところにある天守跡に到着です。

しかし、1月1日の地震によって天守跡に亀裂が入ってしまい立ち入り禁止になっていました。

しかし、天守跡から見る山が絶景です。
入れないのは残念ですが無事の復活を願います。

天守跡を左手に見て、右側が本丸ですが一度反対側に降ります。



天守跡から階段を降りると、井戸曲輪があり巨大な井戸があります。

雨や雪解け水が地下水として砂岩に浸透して井戸を潤していると考えられています。

どうやって、この井戸のポイントを探り当てたのかは不明らしいのですが、この春日山城が長いこと繁栄したのは、生活に欠かすことのできない水をこの井戸で手に入れたから。かもしれないですね。



井戸曲輪をさらに降るとすぐに急な階段になっていて、鐘楼跡があります。

山城の特徴でもある、尾根を降りて登るパターン・・・



鐘楼跡から見た井戸曲輪。
尾根を分断したことが分かりやすいほどのV字。



左手が井戸曲輪、右手が鐘楼跡。
分かりやすいほどの堀切です。

山城ファンなら誰でもテンション上がるやつです。



鐘楼跡から見て、井戸曲輪の反対側には上杉景勝の屋敷跡があります。

本丸の背後は養子の息子、上杉景勝が守っているので、これで本丸は上杉景勝、上杉景虎で守っていることが分かりました。

そしてさらに、上杉景勝を守るように上杉家の重臣柿崎家。上杉景虎を守るように直江家という城の配置になっています。


右手が鐘楼跡、左手が上杉景勝屋敷跡。
こちらも見事な程のV字。

至る所に曲輪や堀切があります。


上杉景勝屋敷跡の下には柿崎家屋敷跡があります。

巨大な曲輪で、防御ラインとして多くの兵を置けるようにしたのでしょうか。

正解か不正解かは分かりませんが、そんな妄想を繰り広げながら山城を歩くのが何よりも楽しい。



再び来た道を戻って本丸跡に向かいます。
右手が天守跡、左手が本丸です。


やっと本丸跡に到着です。



本丸からは見た景色は一段と綺麗で全体を見渡すことができます。



上越市の街並みを一望することができます。
この地を支えたのがこの海。

海と雪山と街並みが同時に見れる絶景。
この景色を独り占めしているようで、ベンチに座りながら、しばらく眺めていました。

400年以上前はこの景色を見て上杉謙信は何を考えていたのでしょうか。

この地から数万の軍勢を連れて信濃、北陸、小田原、千葉など関東管領の上杉謙信は出兵したと想像しただけでもゾクゾクしてしまいます。



護摩堂跡。
上杉謙信は真言密教を深く信仰していて、護摩を焚いて戦勝や息災を祈願したのがこの護摩堂でした。




この護摩堂から山々が綺麗に見えます。
ちなみに妙高山は標高2400mクラスで日本百名山です。



護摩堂の曲輪の一段下には、毘沙門堂があります。



お堂の中には毘沙門天の尊像があります。
上杉謙信はこの毘沙門堂に籠り経を唱えました。

毘沙門天は悪魔を降ろす神であり、上杉謙信は自らを毘沙門天の化身として戦国時代を生き抜く。

また上杉軍は降魔の軍として、毘の軍旗を陣頭にかざしました。

ちなみに上杉軍のもう一つの軍旗は龍。
龍の軍旗は上杉軍が総攻撃をかける時にのみ掲げました。



直江家屋敷跡。
三つの登城ルートの内の一つは、直江家が防備しています。



直江家屋敷跡から見る三の丸跡と二の丸跡。
目の前には帯曲輪が残雪でハッキリと見えます。

重要な郭を守るために、斜面を水平に切り出して防御力を高める役割がありますが、直江家屋敷跡を囲むように帯曲輪が配されています。



直江家屋敷跡を降ると春日山神社に繋がります。

その途中に食い違いの虎口があり、道が人工的にジグザグに作られています。



これも城を防備するための役割があり、下から攻めて来た敵は、この虎口でスピードが落ち、攻め手の軍が一時的に詰まったところを攻撃します。



虎口の下部には空堀があります。
さすが中世の名城。

山城のセオリーを全て取り込んでいます。





この空堀、下から見ると真ん中の堀上を中心として左右が空堀となっています。



空堀右側



空堀左側



空堀の下には千貫門の跡があります。
幾つもの古絵図で必ず書かれている門で、土塁が一部分断されているので、ここに千貫門があったと考えられています。



主道も土塁で囲まれています。

幾つもの空堀、土塁、虎口。
春日山城にとってこの場所が如何に重要な箇所だったかが分かります。

このポイントだけで、山城の魅力を全て凝縮したような贅沢な遺構が密集しています。



さらに降ると春日山神社に到着ですが、その途中の山道は写真のようになっています。

地形を削って通り道にしているのですが、完全に土堀になっています。



この上から攻撃されたら、大軍勢でも容易に先に進む事はできないかな。

日本五大山城なだけあり、城郭の周囲5〜6kmの巨大な城郭で200以上の曲輪が並びます。
まさに戦国時代を生き抜いた城。どこを歩いても見どころが満載。

上杉謙信は49歳の時に春日山城で亡くなりました。
その後上杉家は景勝と景虎による家督相続の争いとなります。
景勝が家督を継いだ後は1598年、上杉家は会津に移封となり、最終的に関ヶ原で負けた事で、山形県の米沢で明治まで存続しました。

春日山城は1607年に廃城となり、歴史の表舞台から消えました。

しかし、戦国最強の武将は今でも街に根付いています。

近いエリアに春日山城の支城が多く存在していますので、これから少しずつ攻略する予定。

その際に少しずつ小出しで上杉謙信のことも書いていきたいと思います。




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松本城@長野県

2024-01-02 17:30:00 | 100名城
2024年1月2日

新年の始まりは小諸城から始まり、続いて松本城にやってきました。

城好きなら誰もが知っている、現存12天守であり国宝です。

現存12天守とは江戸時代より前に作られた天守。

日本には2万5000〜5万近くの城があり、天守閣があった城は全国で170程と言われています。

その中で現存している天守は12城しか残っていないのです。
有名な大阪城や名古屋城は復元なのでこの現存天守には該当しません。

一国一城令、戊辰戦争、廃城令、第二次世界大戦。
いくつもの出来事によって、日本の城は姿を消してしまいました。

松本城がいかに貴重な城かお分かり頂けると思います。



松本城へは松本駅から一番近い、黒門側から入城します。



進むと早速、松本城の天守群と水堀が見えてきます。

この堀の水は湧き水。背景にも映る北アルプスなど、山々に囲まれた松本城は豊富な水が湧き出ているようです。



入り口の高麗門を進むとチケット売り場があります。



チケット売り場は大きな枡形になっていて、巨大な黒門が行く手を阻みます。



門の形状は渡櫓門。
復元の門ですが、こちらの黒門は設計図が残っていなかったので名古屋城を参考にして復元されました。

新年なので装飾されています。



黒門を抜けると本丸御殿跡に出ます。
本丸御殿跡内に管理事務所があり、御城印を購入することができます。

そして、奥には巨大な高層天守群!

松本城は乾小天守、渡櫓、大天守、辰巳櫓、月見櫓の五つの建築物で構成された連立式天守です。

ちなみに、この五つの建築物全てが国宝に指定されています。



黒光りした黒漆塗りの下見板。
漆喰は湿気や水に弱いため、湿気が多い地域や雪が多い地域では建築物を保護するために使われました。

白漆喰の純白な城も素敵ですが、黒の城も威圧感があってカッコいい!



小さな穴は鉄砲狭間、縦細の穴は弓狭間。
敵が攻めてきた際、鉄砲と弓で入り口は防御体制が敷かれています。

当然、角には石落としも設置されています。


右側が乾小天守、左側が大天守。その二つを繋ぐのが渡櫓。
渡櫓の下が入り口となっています。



松本城の大天守は五層六階。
天守の高さは29.4m、重量1000tもあるようで、昭和の大改修の前には土台の支持柱が腐食して自重に耐えきれず、天守は傾いていました。

そこから改修して元の姿に戻した技術は見事です。



入り口からニ階に上がります。
松本城では四階が一番急な階段で最大斜度61度。
階段中央に上りと下りを分離する手すりが無いので、狭い階段を行き交うのが恐怖でした。



ニ階には火縄銃などの展示物が多く展示されています。

天守閣に城主が住んでいると思われがちですが、城主は本丸などの御殿に住んでいました。

城に立てこもって戦う最後の戦法、籠城戦の際の軍事施設であり、最後の砦が天守の役割でした。

通常は武器庫として活用されていました。



竪格子窓。
鉄砲狭間だけでなく、こちらからも敵を狙えるように設計されていると考えられます。



二階からの乾小天守と渡櫓。天守群を目の前で見れるベストポイント。



やはり現存天守の内部は当時の技術を見ることができて魅力的です。

松本城ほどの木造高層建築物を維持していくのは、想像を超えて大変なことです。





内側から見た破風。間近で見ることができます。
破風があることで城は華麗になり、威厳がでます。



最上階の天井。
桔木構造という技術。

梁が井形に組まれています。
屋根の先端まで伸びる桔木を挟み込んでテコの原理を利用し、重たい瓦屋根の先端が下がらないように工夫されています。

寺院で使われる技術を採用したようです。


大天守→辰巳櫓→月見櫓と連結しています。
写真は月見櫓。

乾小天守、大天守、渡櫓は1593年に築城。
辰巳櫓、月見櫓は1634年に増築。

戦国時代から平和な江戸時代へと移りゆく時代を見て取ることができます。

月見櫓は名前の通り、お月見をするための建築物なので、平和の象徴と言われています。



下から見た月見櫓。
軍事施設の大天守と、優雅な月見櫓が連立して迫力がすごい!



本丸跡からの一枚。
夕暮れ時の太陽が映し出す、山々と天守のシルエット。
後ろにはビルも何も無いので、この景色は約400年前と何も変わらないはず。



一の門。
こちらも門を抜けると巨大な枡形になっています。


先には太鼓門があります。
江戸時代は倉庫として使われていました。

明治に破却されましたが、平成4年に石垣を復元。平成11年には太鼓門が復元されました。

現在は耐震対策工事中。



太鼓門の鏡柱の脇には巨大な石垣が目を惹きます。

玄藩石と呼ばれていて22.5tもあるそうです。
よく城門の脇に大きな石が置かれています。

理由としては、これだけ大きな石を運ばせる事ができるという、権威の象徴だからです。





この立派な太鼓門を復元するために、発掘調査と復元作業で8年の歳月を要しました。

失うのは一瞬ですが、失われた歴史的建築物を復元するには大きな時間と予算が必要です。

それを実行している行政は素晴らしい。
行政の力なくして復元はあり得ません。



太鼓門を抜けると二の丸跡があります。



二の丸御殿の絵図。
部屋数50室、建坪600坪

松本城は1727年に火事によって本丸御殿が焼失した為、政務を行う場所は二の丸に移されたそうです。









見る角度によって、四季折々で全く違う顔を見せてくれる松本城。

どこを撮っても絵になります。

江戸時代の終わりと共に、侍の時代が終わり城は不要なものとなりました。

廃藩置県によって全国の城郭は売り払われたり取り壊され、松本城も門や櫓が壊されました。

天守は現代のお金で2350万円ほどで個人に売却されました。
東京の新築一軒家の半分程の金額!

個人に売却された城の末路は、ほぼ壊さたようです。やはり大きな建築物は維持するのが大変だからですね。

当時の副戸長がみすみす壊される松本城を憂い募金などを募り、買い戻しに成功したことで松本城の天守は売却と破却を免れ現在まで残り続けています。

市民の力で守った城は、今では国の宝としてこれからも保存されていきます。

また、季節を変えて来たいと思います。


城×食事
和食処たかぎ
松本城から激近の信州そば店。

ざるそば880円。
超細切りの信州そば。

鰻丼セットは驚きの1600円。
創業140年以上の超老舗は値段も安く大満足!




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小諸城@長野県

2024-01-02 12:00:00 | 100名城
2024年1月2日

年が明け2024年、おそらく激動の一年が始まることでしょう。
被災された地域の方々の無事を祈り、一日も早い復興を願っております。

新年一発目の城巡りは小諸城からスタートしました。



個人的に小諸市自体、あまり馴染みがなかったので地図でチェックしてから車で向かいました。

ちょうど長野市と群馬県高崎市の中間くらいでしょうか。
電車の場合は信濃鉄道の小諸駅の目の前に城跡があります。

小諸城は日本100名城に選定されている名城。

最初に向かったのは大手門。
大手門は駅前北口にあり、
本丸や二の丸のある曲輪と大手門と付随する三の丸のある曲輪は、しなの鉄道の線路で分断されています。



こちらは大手門公園として独立した広場となっています。
完全に街の一部に溶け込んでいて、市民の為の広場となっています。



ゆったりとした感じが良きです。



肝心の門は迫力満点の櫓門。
国重要文化財に指定されています。



慶長17年(1612年)に仙石秀久によって建造された門で、当時は瓦葺は珍しかったらしく瓦門とも呼ばれていました。



今回は中に入れませんでしたが、限られた日によっては観覧することもできるようです。



鏡柱も巨大で、城の玄関口として申し分のない威厳さを備えながらも華麗な外観。

書院造のテイストが入っていて、内部は畳張りの居間になっているようです。

普通は天守や櫓も含めて、城の建築物は木の板で床を構成することが多いので、かなり珍しい櫓門です。



表口の城門は城の顔なので個人的には一番好きです。

ちなみに小諸城の大手門。
他の城と比べて何か違和感にお気付きだろうか?

通常これだけ立派な石垣を備えたら、石垣の上に櫓を乗っけるのですが、よく見ると小諸城は門と石垣が独立している不思議な作りをしています。



上が小諸城の大手門。下が江戸城の外桜田門。
比べると違いがハッキリ分かります。隣にある石垣の方が門より高いです。

小諸城は城下町よりも低いところに造られた穴城であり、日本で唯一の造りをしています。



門の隣の石垣は展望できる場所となっています。
公園となっている広場は、当時三の丸がありました。



右手には馬場があったそうです。

線路の下を潜ることができるので、駅の南側に向かいます。



潜ってすぐに迎えるのは三の門。
こちらは石垣の上に土塀を建て、その土塀と櫓門が接続しています。

ちなみに、門に掲げられた懐古園と書かれた文字は徳川家康の筆らしいです。



お土産屋の脇を通って本丸に向かいます。



既に立派な石垣がお出迎えします。
他の城よりも一つ一つの石材が大きいので、迫力があります。



振り返っての一枚。
堅固な石垣と三の門がカッコいいです。



坂を登り切るとニの門跡があり、石垣で造られた虎口になっています。

この虎口の石垣にどんな建築物が建っていたのか、当時の様子がすごく気になります。



虎口を抜けるとすぐに二の丸の入り口と巨大な枡形になっています。



二の丸入り口。



脇には大きな鏡石があります。



二の丸跡は見晴らしが良き。
第二次上田合戦時に、徳川秀忠率いる徳川本陣は上田城を見晴らせるこの二の丸に置かれました。

そして上田城を舞台に歴史に残る戦が勃発します。



二の丸から見た虎口。

上から見下ろすことが無いので、この角度から見れるのはレアかも。
上から見る虎口も美しいです。



本丸方面に直進すると、左手に南の丸が現れます。



南の丸は少し高めに置かれています。



一方、右手には北の丸があります。



防御機能性を兼ね備えた曲輪が、綺麗に配置されています。



先の本丸を目の前にして黒門橋を渡ります。
二の丸と本丸は完全に分断されていて、この黒門橋を渡ることでしか、攻め込むことができないようになっています。


黒門橋の下は地形を削り落としたような、大迫力で巨大な堀切?堀?になっています。

下から攻略することも不可能とすると、やはり本丸を攻めるには黒門橋を渡るしか無いようです。
しかし、数千数万の軍勢がこの橋に集結したら、一気に攻撃を受けて甚大な被害は免れないですね。



黒門橋を渡ると、いよいよ本丸跡です。
本丸も一段上がっていて、直線的に三の丸→二の丸→本丸と段になった連郭式の城郭なのが分かります。



本丸を目の前にして最後の虎口が現れます。
ニの門より高い、約5m程の石垣に囲まれます。




本丸跡は現在、懐古神社となっています。
こちはで御城印を購入することができます。

神殿の脇の細い道から天守台跡に行くことができます。



天守台はコンパクトですが、豊臣秀吉が天下統一した時代には金箔瓦の三層の天守がありました。

秀吉の子飼でもある仙石秀久の城だったので、金箔瓦が許されたものと思われます。

金箔瓦は限られた城にしか使うことが認められていませんでした。



天守台から見た石垣!



柵がないので少し怖いですが、この角度から天守台の石垣を撮れるのもレアです。



ちなみに天守は寛永の初めに落雷で焼失してしました。

その後、江戸幕府からの許しが出なかった為に再建はされませんでした。



石垣は野面積みで高さは約6m。
天守が隅に置かれ、本丸を囲むように石垣で取り囲んでいます。

さらに、この石垣の上を歩くことができます。



天守から見た景色。
先には北アルプスの絶景を望むことができます。

いつも通り、昔もこの景色を眺めていたのだろうと妄想します。
過去も現代も、そしてこれからも変わることなく人を魅了し続ける景色です。



石垣の上を歩いて本丸を後にします。



本丸跡を下から確認!
下から見ると、より一層美しい石垣を眺めることができます。









下から見た天守台。
先ほどの上から見下ろす石垣も良きですが、やはり石垣は下から見上げた方が個人的に好きかな。



富士見台からの眺望。

目の前には千曲川が流れており、小諸城は千曲川の断崖を利用し、さらに浅間山の田切地形の深い谷を空堀として活用しているので天然の要害によって堅固な城となっています。





二の丸、本丸はこんな断崖の上に配置されています。

小諸城は武田信玄の命を受けた、軍師山本勘助が縄張りをして城郭を整備したと伝わっています。

武田氏が滅びると織田信長の家臣、滝川一益の持城となり、織田信長が倒れると北条氏が侵攻。

その後は徳川、北条、上杉、真田による争奪戦になりました。

最終的には豊臣秀吉の仲裁があって徳川の所領に。

しかし、豊臣秀吉が天下を統一すると徳川家康は関東に移封。
仙石秀久が小諸五万石の大名として城主になります。

江戸時代、小諸藩初代藩主となった仙石秀久は大手門や石垣を含めた城郭整備、城下町や街道の整備も行いました。
その後、小諸城の城主は徳川氏・松平氏などに変わり、元禄15年(1702年)与板藩(新潟県長岡市)から移封された牧野氏が十代・170年に渡り藩主を勤めました。
小諸城の歴代城主を見ても、戦国時代に重要拠点だったことが分かります。
まるで山城のような天然の遺構と、近世の石垣などの遺構が同時に見ることができて魅力ある城でした。