今、書き手(小説等の執筆愛好家)の間でですね、すっごく話題になっているんですよ。
編集者として界隈で一目置かれている 佐渡島庸平 氏が某イベントで語られたトークに対して、賛否両論入り乱れまして。
こんな感じです。
佐渡島庸平トークイベント 「超一流のプロとその他のアマ」論の行方
ま、本来のテーマは『うまい編集ってなんだ? プロとアマの境界線』ってことだったんですが、ちょいと違う方向へ話題が逸れた件にもたくさんのツッコミが入っています。
が、しかし!!(^-^;)
これは私の邪推に過ぎないのですが、もしかしたら、敢えて違う方向へ論点をズラしたのではないか、という可能性もあるんじゃないでしょうか。
イベントであるからには、だいたい客層が定まってきますよね。
編集仲間が興味を持って参加するよりも、プロの小説家になることを視野に入れた『プロ予備軍』が、編集者が書き手に求めることを何か教えてくれるだろうという期待を伴って訪れるのを前提としているのではないかと思います。
あ、ちなみに途中ですが、たまに言われます校閲と校正の違いはこんな感じです。
⇒ 『校閲と校正の違い 』
『校閲』も現在、ホットワードと言って良いぐらい話題に上ります。主にこのツイートの影響ですが。
⇒ 『新潮社の校閲すごいっ!校閲のプロの仕事っぷりが話題』
ま~、そんな感じでですね、最初のリンク(『~~論の行方』記事)にも出てきましたが、佐渡島 氏も編集者として常々、『嘆かわしいプロ』にも触れてこられたのかもしれません。
ところがトークイベントを聴いているのは、プロの世界を夢見て目をランランと輝かせる若手たち。そりゃあ、編集者としては未来の名作を生み出す金の卵を見つけては育てたい、世に良い作品を出していける編集者になりたいと望んでおられるのではないかと思うのですよ。いくら御自分に思うところがおありでも、目の前でいくつも希望に満ちた瞳が並んでいるのを、
(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)
って雰囲気にしたくないじゃありませんか!?(;^-^)
締めとして使われたのは、こういったお話でしたよね。
このトークイベントの話題が、ここに主軸を置いてしまうのは、甚だ困ると思うわけです。
当然、『超一流でないプロ』の話に繋がってしまいますし、
「どういった著者に困らされましたか?」
みたいな質問も飛び兼ねません。下手な事を正直に話してしまいますと、当然、プロの界隈にも伝わってしまいます。プロだってナイーヴな方が多いですから、下手打ってモチベーションを下げてしまうのは回避したいところですし、界隈全体の『編集者』信用も失墜させてしまう可能性だってあります。
ですから、そちらに話を進めたくないがために、わざわざ
「超一流と、それ以外のアマがいるだけだ」
という、センセーショナルな切り口から始めたのではないだろうか、と、私は思うんですよ。
もしそうならば、見事な誘導だと言わざるを得ません。
編集者だってね、本を出版する時に帯の煽り文句を捻ったり、巻末で解説を書かれるケースまでございますでしょ。
それぞれ「本を手に取って頂ける・買って頂けるように」「その本を、より愛して頂けるように」と文章を考える、これも一種の『著者』と言えるかもしれませんよね。いかに消費者・読者の心を掴むか。その命題に対して真摯に取り組む姿勢は、作家と編集者を両側に乗っけた天秤を一方的に傾けさせるものではないと思います。
しかし、プロの編集者として
「天秤の向こう側が上がりっぱなしじゃないのか(=内向きの思考ばかりで誠実に読者と向き合っていないのではないか)」
という嘆きを感じる時があり、それをおっぴらに口に出せない。
さらに言えば、逆に
「こちらがいくら頑張っても、なかなか天秤のこちら側が下がらない(=担当する作家が凄すぎて追い付かない)」
みたいな場面もあるのかもしれません。
その後者を『超一流』と呼び、前者を『それ以外のアマ』(職業小説家だとしても)と表現されたのかもしれないなぁ、と思うわけですよ。
良い本を出すために、前者の時、編集者はせっせと天秤の向こう側へ分銅(重り)を載せて行く。
その分銅を、にべも無くポイポイと捨てて行く作家にも出会う。
そんなやるせなさも、この『話題の摩り替え』には込められているのかもしれないなぁ…………なんて考えると、胸中複雑ですね。
ま、全て私個人の邪推に過ぎないんですけれどもねっ!!(;^-^)
←例のアレです!! お気が向かれましたら。
編集者として界隈で一目置かれている 佐渡島庸平 氏が某イベントで語られたトークに対して、賛否両論入り乱れまして。
こんな感じです。
佐渡島庸平トークイベント 「超一流のプロとその他のアマ」論の行方
ま、本来のテーマは『うまい編集ってなんだ? プロとアマの境界線』ってことだったんですが、ちょいと違う方向へ話題が逸れた件にもたくさんのツッコミが入っています。
が、しかし!!(^-^;)
これは私の邪推に過ぎないのですが、もしかしたら、敢えて違う方向へ論点をズラしたのではないか、という可能性もあるんじゃないでしょうか。
イベントであるからには、だいたい客層が定まってきますよね。
編集仲間が興味を持って参加するよりも、プロの小説家になることを視野に入れた『プロ予備軍』が、編集者が書き手に求めることを何か教えてくれるだろうという期待を伴って訪れるのを前提としているのではないかと思います。
あ、ちなみに途中ですが、たまに言われます校閲と校正の違いはこんな感じです。
⇒ 『校閲と校正の違い 』
『校閲』も現在、ホットワードと言って良いぐらい話題に上ります。主にこのツイートの影響ですが。
⇒ 『新潮社の校閲すごいっ!校閲のプロの仕事っぷりが話題』
ま~、そんな感じでですね、最初のリンク(『~~論の行方』記事)にも出てきましたが、佐渡島 氏も編集者として常々、『嘆かわしいプロ』にも触れてこられたのかもしれません。
ところがトークイベントを聴いているのは、プロの世界を夢見て目をランランと輝かせる若手たち。そりゃあ、編集者としては未来の名作を生み出す金の卵を見つけては育てたい、世に良い作品を出していける編集者になりたいと望んでおられるのではないかと思うのですよ。いくら御自分に思うところがおありでも、目の前でいくつも希望に満ちた瞳が並んでいるのを、
(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)(´・ω・`)
って雰囲気にしたくないじゃありませんか!?(;^-^)
締めとして使われたのは、こういったお話でしたよね。
このトークイベントの話題が、ここに主軸を置いてしまうのは、甚だ困ると思うわけです。
当然、『超一流でないプロ』の話に繋がってしまいますし、
「どういった著者に困らされましたか?」
みたいな質問も飛び兼ねません。下手な事を正直に話してしまいますと、当然、プロの界隈にも伝わってしまいます。プロだってナイーヴな方が多いですから、下手打ってモチベーションを下げてしまうのは回避したいところですし、界隈全体の『編集者』信用も失墜させてしまう可能性だってあります。
ですから、そちらに話を進めたくないがために、わざわざ
「超一流と、それ以外のアマがいるだけだ」
という、センセーショナルな切り口から始めたのではないだろうか、と、私は思うんですよ。
もしそうならば、見事な誘導だと言わざるを得ません。
編集者だってね、本を出版する時に帯の煽り文句を捻ったり、巻末で解説を書かれるケースまでございますでしょ。
それぞれ「本を手に取って頂ける・買って頂けるように」「その本を、より愛して頂けるように」と文章を考える、これも一種の『著者』と言えるかもしれませんよね。いかに消費者・読者の心を掴むか。その命題に対して真摯に取り組む姿勢は、作家と編集者を両側に乗っけた天秤を一方的に傾けさせるものではないと思います。
しかし、プロの編集者として
「天秤の向こう側が上がりっぱなしじゃないのか(=内向きの思考ばかりで誠実に読者と向き合っていないのではないか)」
という嘆きを感じる時があり、それをおっぴらに口に出せない。
さらに言えば、逆に
「こちらがいくら頑張っても、なかなか天秤のこちら側が下がらない(=担当する作家が凄すぎて追い付かない)」
みたいな場面もあるのかもしれません。
その後者を『超一流』と呼び、前者を『それ以外のアマ』(職業小説家だとしても)と表現されたのかもしれないなぁ、と思うわけですよ。
良い本を出すために、前者の時、編集者はせっせと天秤の向こう側へ分銅(重り)を載せて行く。
その分銅を、にべも無くポイポイと捨てて行く作家にも出会う。
そんなやるせなさも、この『話題の摩り替え』には込められているのかもしれないなぁ…………なんて考えると、胸中複雑ですね。
ま、全て私個人の邪推に過ぎないんですけれどもねっ!!(;^-^)
←例のアレです!! お気が向かれましたら。
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