りぞあかぶろぐ2
ココログで2006年から掲載してきたライフログ「りぞあかぶろぐ」の第2弾です。




清澄庭園では、石に名前が付けてあります。

 

 冒頭画像は、高松宮お手植えの松ですが、傍らの石にもちゃんと札がついていますね。

 見出し画像は、秩父青石。コロナで切れちゃいましたが、妻の友人たちと、以前、寄居方面にキャンプに行っていたのですが、長瀞の石が汚れを分解するんだという温泉があったなあ。

 左の写真は、伊予青石の水鉢だそうです。

 清澄庭園は、江戸時代は久世氏という大名の庭園だったようですが、現代のような様子となったのは、三菱財閥の祖、岩崎弥太郎がこの周辺を買い取り、総合拡張して作り上げたもの。

 石を珍重したのは、岩崎弥太郎の興味関心からのようです。

 当時、海運王になっていたでしょう。以前、鶴岡に行った際、本田様という千石船の長者がバラストがわりに各地の石を収集したという話を聞いた記憶があるのですが、海運で各地の石を集積するようなこともあったのでしょうか??

 庭園は、大正10年の関東大震災の際は、逃げ惑う避難民の避難場所となりました。しかし、庭園も大きな被害を受けました。

 当時の当主、岩崎久弥氏は、庭園を東京市に寄付することとし、清澄庭園として市の公園に加わることになりました。

 左の写真は、石仏群。真ん中は、阿弥陀供養塔。延宝7年(紀元2339キリスト暦1679)(※歴年表示の考え方)作製。その右脇が庚申塔。寛文10年(紀元2330キリスト暦1670)。左の手前が、馬頭観音供養塔。安永3年(紀元2434キリスト暦1774)。

 いずれも由来は不明ですが、岩崎家が明治時代、庭園を造成する際に出土したものと言われているそうです。

 庭園を歩いていると、芭蕉の句碑もありました。

 この句碑は、芭蕉の高弟 宝井其角の門流、其角堂九代目晋永湖により呼びかけられ、芭蕉庵史跡が狭かったことから、清澄庭園に昭和9年10月(紀元2594キリスト暦1934)に建てられたとのこと。

 句は有名なあの句です。

 古池や かはつ飛びこむ 水の音

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