最近、いじめが絡んだ、少年の事件の報道が続きました。
また幼児虐待など、おいたわしいニュース報道も数多くあります。
いじめに対処できなかった学校教育現場や、こどもを保護できなかった児童相談所の対応など、問われるべきことがらはたくさんあろうかと思いますが、今回は、その本質に迫れればと存じます。
いじめや幼児虐待に関しては、私は昔から存在したと思っています。
子育てが苦手な親というのは、今も昔も一定の比率で存在したと思うからです。
ただ現代は、社会的背景が全く違っています。
マスコミの報道が、盛んになされるようになってきた点は大きいと思います。
高知県須崎市鳴無(おとなし)神社
しかし最も重要なことは、子供に対する一般的日本人の、宗教的な価値観が変化しているということです。
それは、日本の子供の教育環境を、歴史的観点から見るとわかるのです。
以前の日本社会は、子供は地域で育て、躾(しつけ)をすることが当たり前・・・ということが、完全に定着していた社会だったのです。
それは、農村部、都市部に違いはありません。
日本全土がそうだったのですね。
これは世界的に見ても大変稀な、そして誇るべき日本の歴史だと思います。
皆さま、七五三という日本神道の儀式を御存知ですね。
これの由来は諸説ありますが、その中で最も有力な説には、古来よりの日本の、信仰観を垣間見ることができます。
それは、七五三という儀式が、
『七歳までの子供は、神様の所有物』 という、日本神道の宗教的価値観からはじまった神事だということらしいのです。
つまりその説だと、「神様の代わりに、その子を産んだ親が子供を養育しているのだ。」という宗教的価値観が、日本にはあったということになります。
つまり価値観的に言うならば、その子を産んだ親は、「神様の子の養育者」でしかないわけです。
高知市高知八幡宮
三歳、五歳になったら、その子の親は、神社に育児の途中経過を報告に詣(もうで)ます。
そして子供が七歳になれば、
「神様、子供が七歳になったので、私(親)のものとして、引き取りに参りました。どうか御許し下さい。」
と許可を得るために、神社に詣でます。
それが七五三の由来です。
つまり以前の日本社会では、誰から生まれようが、「子供は、七歳になるまでは神様のもの」だったわけです。
ですから、誰の子供であっても慈しみ、乳がでなかったら出る者が与え、躾(しつけ)が出来ていなかったら、たとえ誰の子供であっても、悪さをすれば叱っていたのです。
日本社会は世界レベルで言えば、子供を大変可愛がり、とても子供にとってやさしい社会です。
世界の共通の常識では、子供は不完全な、手のかかる邪魔者でしかありません。
ですから外国、特に遊牧系の歴史を持つ国では、子供は一日でも早く大人になるよう、厳しく養育される傾向があります。
私が子供の頃は、まだそういう価値観が薄っすらと残っていたのか、私は随分と、ご近所さんから叱られていました(笑)
そしてそんな時、私の両親は、叱って下さった方にお礼を言っていたのを覚えています。
今そんなことをすれば、相手の子供の親から怒られることの方が、むしろ多いと思います。
それは、現代日本社会が、「子供は、その親の所有物である」という価値観だからだではないでしょうか。
つまり、親でない他人が、その子供のやったことに、口出しできない風潮ができあがっている訳ですね。
幸福の科学学園那須本校
私はこの、日本古来の伝統的な、「子供は神様のもの」という宗教的価値観がなくなり、子供はその親の所有物という、唯物的価値観となってきたことで、子供が虐待死や、いじめが原因で死にいたるまで、社会が子供を放置していることが問題だと思うのです。
幸福の科学学園関西校
いじめや乳幼児虐待事件の、報道を見るたびに私が想うこと。それは、
「人間は神の子なのだ。」という強いメッセージを持った、宗教的価値観の定着が必要だと痛感する次第です。


光源はひとつです。
太陽がひとつなように。
同じ太陽であっても、北極と赤道付近では、見える太陽の映像は違うはずです。
また同じ太陽であっても、ある人は「明るさ」を。
ある人は「温かさ」を。
別の人は、「実用性」を説くかも知れませんよね。
世界の宗教は、そういう風に、同じく神の教えでも、見える場所や、説く人の個性によって、違った個性を持っていると思うのです。
宗教や肌の色の違いを、私たちは超えたいのです。
それが私たちにとっての、未来の子供たちへの贈り物です。
そうやったら、神さんの違いで戦争などできんわな。
わしは神道人の家のもんじゃが、嫁の里は真言宗じゃ。
神も仏も、ええもんは、ええもんな。
わからんことは、やっぱりわからんが。
でもそういうのが、世界に広がればええのう。
こちらこそ、いつも勇気をいただいております。
他の宗教と言えども、正しい宗教は、神様の願いのもと、創られたと思っております。
「光源は同じ。」というのが、私たちの信仰観ですし、その証明のためになら、私は命惜しまずの心境です。
それが、世界を救うと思っております。
またそれは、現実的に宗教戦争の動機そのものをなくしていくと信じております。
「宗教は昔のもの。」という、現代の日本の風潮は、払拭しないといけないと思っております。
それは古くも新しくもなく、永遠の価値観だからです。
神様は、宇宙の始まりから終わりまでを統べるご存在だからです。
それは、共産主義国家以外の、世界共通の認識でもあります。
わしは、それがすごいと思うがよ。
それでなあ、そうそう、わしもご近所の大人から、よう怒られとったは。
あはは、そう言われたらそうじゃわ。
そうか、あれは、日本神道の価値観なんじゃね。
ええ話、ありがとな。
また勇気をもろうたわ。