屋根犬日記

マイレコメンなアレコレの備忘録&ご紹介をします。

河合継之助

2016-12-18 05:13:42 | 日記

幕末の長岡藩の一武人。幕末の長岡とは譜代大名が統括していた地域で、戦国時代には謙信や信玄の活躍した地域のイメージがあります。

江戸時代、ここには新潟湊があって北前船賑やかな折には、上方との物流も盛んで、領内の田地の改良・新墾田開発も成功したため、実質の石高は公開されていた石高以上に優秀な地域だったと・・・。

イワユル幕末、長期に安定していた徳川幕府も晩年は、経済的な不具合や下層武士達の励起、海外からの刺激に抗いきれず、帝まで担ぎ出されてイヨイヨ支配階級の交代を余儀なくされる時期が刻々と迫って来て、この時代の老害状況が露呈していくプロセスのお話しは、今でも多くの書物や研究で興味深く知らている歴史のハイライトですネ。

先の戦国時代のエネルギッシュなイメージとは裏腹にスタティックにつまり、一見安定していたイメージのある徳川300年も、その開幕当初、大阪城が炎上瓦解して行く様に、今回は幕府が維新にとって代わる頃、長岡藩は錦の御旗を掲げて北上してきた官軍には半ば、強引に佐幕派と色分けされて、結果的に北越戦争へ突入すると・・・。

継之助は若い頃から武人として藩を守り、当時の正義を貫く熱い心を持って勉学し藩政にも深く関わって行く様な男だった。

彼の才能は海外の火力にも殊の外、敏感で有事迫る空気にも敏感に感応して、当時日本に三つしかなかったガトリング砲を始め、アームストロング砲や最新式の火器を、当時は既に貧窮していた財政を立て直してしまった辣腕で短期間に掻き集め、藩内の軍事育成にもその熱意を注ぎ込みました。

官軍にも幕府にも中立で維新をやり過ごしたかった彼の理想は、津波の様な時代の流れに飲み込まれるかの如く、黒白の烙印を押されて・・・。

彼への世間の印象は今尚、賛否両論なれど御本人は体力・武力よりも実利を第一とする読書派で勉強家であったと・・・。好戦的などと揶揄される場合もあれば、藩を守るために忍耐を重ね最終的に致し方無く武力へ訴えること止む無しの道を選ばざるを得なくなってしまったとも・・・。

この戦争で負傷した傷が素で継之助は、若干40年の生涯を閉じたのです。

埋もれた英雄、士の一人、河合継之助のお話しです。