“読み込む”の(1 )
明治18年生まれの祖母は字を読もうしなかった。当然書こうともしない。嫁である母や孫たちが「教えようか」と言っても、「今日は天気がいいから畑へ行かんと・・・」と笑顔で背負い籠に鍬を載せて出て行った。その時代、村の娘たちに出来たばかりの尋常小学校へ行かせる雰囲気はなかったようだ。日清戦争から日露戦争へと続いたころだ。
戦後、選挙に参加できるようになってもこの時分の女たちは、晴れ晴れとしなかった。投票用紙に候補者の名前を書かないといけないからだ。最も苦手とする「書く」という行為である。投票日近くになると近所のおばさんが候補者の名前の字を仮名、確か片仮名だったと思うが、教えに来る。祖母は難聴気味であったために、おばさんはつい大きな声になり、投票の秘密も何もあったものではない。投票日だけ覚えておけばいい7字の形。祖母にとっては「識字とは面倒なもの」なので、仮名文字だけなら簡単だと思うのだが、でも覚えようとしなかった。
生まれ育った石見の地は、島根県の西半分。総選挙は全県一区・定数5で、自民4、社会1のお決まりの結果だったとはいえ、投票率は常に90㌫超の高率で、全国一は祖母たち明治の女たちが担っていたわけである。
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日本語の書き言葉が始まったのはいつごろか。漢字が入ってきてからだといわれる。祖母の名は「コメノ」であった。女の子の名に植物から取るのがはやったのだろうか、米、即ち水稲を連想させる。水稲栽培の技術とともにはいってきたのかもしれない。その後の飛鳥・奈良時代には仏教伝来が、書き言葉の広がりに大きく貢献したであろう。万葉集で描かれる自然や恋心を“万葉仮名”(漢字ばかり)で読んでいると、この時代に書き言葉が急激に発達していく、激しい言語の動きのようなものを感じる。それまで、即ち漢字が伝わるまで、われわれの祖先は文字を持たなかった。“無文字”だったのである。識字率ゼロである。
無文字と言っても、字を書かない、読まないということで、言語そのものがなかったわけではない。祖母は「よう、帰ってきんさった」「早う食べんさいや」などの方言がもっぱらだったと思うが、立派な日本語をしゃべっていたし、毎朝仏壇の前でお経を唱えていたのである。畑を耕し、いつ麦の種をまくか、いつサツマイモの苗を植えるか、その時期をちゃんと記憶していた。冬には、日本海の冷たい風を受けながら、岩のりを採りに行ったし、ワカメ採りの季節には腰まで海につかっていた。海に出るにはその時の天候や潮の流れ具合をちゃんと把握しておかないといけない。収穫に大きく影響するし、間違った判断は死につながる。板ワカメにするには、刈り取ったのを莚(むしろ)に広げて、乾かさねばならない。雨が来たらおしまいである。失敗したのを見たことがない。戦後の食糧のない時代に祖母の知恵が満州から命からがら引き揚げてきた嫁と幼い孫四人を救ったのである。義務教育ですべてが文字を持つ“有(う)文字”世代になったといっても生きる底力は“無文字”世代が上だったかもしれないのだ。
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