荒木村重のwikipediaによると「荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた。」
ここの一文で荒木善兵衛が荒木村重の息であったことが判りました。
そして次のようなものも出てきました。
「津々堂のたわごと日録」さんのブログよりです。
https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/7c450601bdde30fdefc405d96763b279
「荒木善兵衛
荒木村重の子。天正7年に摂津有岡城(伊丹城)が没落した際に荒木村重はその子善兵衛を明智光秀の陣所に連れて行き、光秀は細川忠興に依頼して善兵衛を丹後加佐郡河守(現大江町)の城に入れてもらった。慶長5年の田辺籠城には大手を守り、細川氏の豊前移封に従って門司城付となり、そこで病死した(閥閲・年譜)。但し「寛政譜」等の諸書は村重の子に新五郎村次と弥四郎村基の両人を挙げるのみ。光秀の女婿だった新五郎が善兵衛と同人か。」
明智光秀と関係があったのです!
すごい展開です。
しかもこの丹波加佐郡河守(大江町)は九里の祖蓮忍入道が地頭であったか~と思われる場所です。別な蓮忍かもしれませんが。ピンポイントででてきましたね。細川家高守城も河守御荘の「こうもり」から来ているものと思われます。
なぜ明智光秀に・・・と考えるに、それは荒木氏が土岐氏とのつながりがあるからだと思うのです。
(荒木村重は池田氏の娘を娶っていることからも、またその出自からも土岐氏と関係がありそうなのです。)
明智光秀の娘が荒木村重に嫁ぎ、離縁し、従弟佐馬助光春に嫁いだようです。(明智光秀:徳永真一郎著)
総合してみますと、細川忠興の妻(後にカソリック教徒となり細川ガラシャとなる)も明智光秀の娘であり、荒木村重の妻も明智光秀の娘であり、と、姉妹であったことから明智光秀を通して細川氏の所に村重の息を預けたことが予測できます。
ちょうどガラシャとなる前の名前「明智玉(珠)」が娘を出産する年あたりが幼き荒木善右衛門を預かった年となりそうです。
この善右衛門がさらに以前記事にしていた「谷氏」とも繋がり、「佐々(前野)氏」とも繋がってきます。
やはり、九里と近い間柄の荒木氏です。
で、「坂橋」はどこにいるのでしょう。私にもまだわかりません。方向違いでないことを願うばかりです。
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