「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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猿丸大夫(さるまるだゆう) と 小野氏

2018-11-03 21:06:54 | 小野氏

『奥山に紅葉ふみわけなくしかの声きくときぞ秋は悲しき』猿丸大夫

葛城氏の末裔であったかもしれない小野妹子。
小野妹子の生母は葛城氏の末裔とされ、そのことは小野妹子が大和朝廷に仕えることができた一因であるとされているそうです。

小野篁から始まる(線は繋がっていないようだが…)横山党となっていく「小野氏」の始まりは下記の系図となります。




http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%89%8E%8A%DB%91%E5%95v/5/

『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある。これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。『二荒山神伝』にも、『日光山縁起』と同様の伝承が記されている。『二荒山神伝』は江戸時代初期の儒学者林道春が、日光二荒山神社の歴史について漢文で記したものである。


3. 陸奥国小野郷の比定地として、現在の福島県南会津郡下郷町(旧長江村)の小野岳、同県田村郡小野町、新潟県東蒲原郡阿賀町(旧実川村、後に鹿瀬町小野)、山形県東田川郡庄内町狩川などが挙げられる。

猿丸神社という名前のお社もあります。
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/walk/p12.html

猿丸神社(さるまるじんじゃ)

 禅定寺峠のかたわら、本町と大津市曽束町との境界に鎮座し、祭神は、猿丸大夫です。
 猿丸大夫は三十六歌仙の一人として知られていますが、『古今和歌集』に詠み人知らずとして「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」として詠まれた歌が猿丸大夫の作といわれています。

 伝記に「住吉猿丸大夫、近江栗太郡田上川を溯り、隣村小田原村を経て此の地猿丸の北麓に当たる渓間経路を西に上り、怪岩、奇石多き絶佳の風光を賞嘆されしとて、人此岩を猿丸大夫腰掛石と云う。昔時、大石曽束と禅定寺との境界論争がよく行われたので、社殿を現在の処に遷した」とあります。

住所 宇治田原町大字禅定寺小字粽谷44
ここは綴喜郡なのです。京都府と滋賀県の県境にあります。



藤原実範の妻が『小野資通の娘 』であったこともココと関係してくるのではないだろうか?と思ったりしています。
そして、横山党ともこの時代からの付き合いかも知れません。

猿丸大夫と言えば、大友黒主の名も挙がってくるのですが、下記のページが面白かったです。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-44.html

この記事は「九里を探して三千里」ともリンクしていて、だんだん区別をつけ難くなっている私です。



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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
曽束まで歩いて行きました (自閑)
2018-11-16 19:53:36
猿丸大夫の墓の為に宇治田原から歩いて、大津の石山駅迄行きました。
方丈記、無名抄に記載があるからです。源経信、俊頼の領地との事で、俊恵の弟子たればこそと思っております。
鴨長明の足跡を歩き通したのが、京都の最もの成果です。
途中、鹿と車しか会いませんでした。
拙句
妻問ふやしかも歩きて疲れたよ
(然もと鹿の懸詞と実際の歩距離を)
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猿丸大夫 (kunorikunori)
2018-11-17 18:17:38
自閑さま

いいですね~!
私も、京に住んで歩け歩けで、あちこち見て回りたいです。
でも、その前に勉強してから行かないと、もったいないですよね。
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Unknown (Unknown)
2019-01-24 17:49:15
武蔵7党は新羅系と言う記述が確か有りました。安倍氏も新羅系と言う話が確かあります。

ちなみに越後にこの武蔵7党系苗字は沢山あります。なんでも鎌倉時代に逃げてきたと言う話があるそうです。

村上にいる本間氏は昔佐渡から逃げてきたと言う話がありますし。揚北衆に武蔵7党系苗字がかなりいます。
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コメントありがとうございます。 (kunorikunori)
2019-01-25 10:04:31
ご来訪ありがとうございます。
鎌倉時代のいくつもの乱で敗れたものが、逃げていたのですね。

和田氏も宗実が越後に行き、中条となっていったようなのです。あまり詳しくはないのですが…

毛利氏も季光の息が生き残り越後に残っていたそうですので、武蔵七党もそうとなれば、伝手を頼って行き延びるために‥‥なぜ越後であったのかを調べると何かわかりそうですね。

越後に親鸞の妻であった恵信の「三善氏」もいたと思うのですが、この方々は、鎌倉時代の「三善康信」の系と同じなのでしょうか?気になっています。何かお聞きおよびでしたら、教えてください‼!

今、比企尼を調べていて、三善氏との関係がありそうでしたので。三善氏の妻は、大中臣でした。
そして、もしかすると比企尼の父親もそうかもしれません。
もう一つのブログに書いています。どうぞよろしく。https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/36579d14a20708205241f06d10a89017


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このブログでは、 (sakahashi・sakabashi)
2019-01-25 10:08:06
失礼!
このブログでは、私はsakahashi・sakabashiでした。
調子よく、九里で書いてしまい、失礼しました。(笑)よく見ると、もう一つも九里に。。。
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Unknown (Unknown)
2019-01-25 11:32:25
大中臣で思いつくのは中条市にちょいちょい見る小俣氏とかは何か関係があるのではないでしょうか?

越後の毛利だと長井氏と関係していると思います。長井氏は木戸、味方村に大きい家があった筈です。

親鸞で越後繋がりだと逆さ竹がある鳥屋野地域ですかね。

長尾氏の影響が出るまでは新発田から三条までは新発田藩の影響があったと言うのを何処かで聞いた事があります。この辺は記憶が曖昧なので確定してる話では無いかも知れませんが。
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小俣氏の情報、ありがとうございます。 (sakahashi・sakabashi)
2019-01-25 21:31:05
小俣氏のことは知りませんでした。
確かに、大中臣氏と近い所にいますね。
こちらのページにありました。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02109.htm

恵信の父は「前越後介三善為則」為教とも書きます。ここにいたと思われます。⇒中頸城郡板倉町

今、地図で確認して見ましたら、意外にも越中に近いところですね。鎌倉の三善氏は確か越中国と関係があったので、同族だったかもしれません。

鳥屋野、とやの珍しい名前ですね。
聖籠町のせいろうも読めませんでした。
難しい!ですね。
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