一昨日の「新田老談記」に続く話になるのだと思います。
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戦国遺文 後北条氏編 補遺編 のなかに「坂橋(氏名)」と書かれてる部分を見つけました。
250頁に記載されている「坂橋」は、周囲も「坂」のため、可能性大?
しかしgooglebooks、しかも部分のため、後日図書館で見て確かめなければならないと思います。
後北条氏の配下に成田氏もいて、その忍城のあるのが現在の「行田市」になると思うのです。
その行田市に「坂橋」が多いことが判っています。
が、戦国時代はカオス状態で目まぐるしく周囲の状況が変わっています。
まずは、後北条氏と成田氏の関りをwikipediaにより確認してみました。
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室町時代後期(戦国時代)に山内上杉家の家臣として活躍した成田顕泰またはその子・成田親泰は、児玉氏、忍氏などを滅ぼすなど勢力を広げ、忍城を中心に成田氏の最盛期を演出した。
しかし上杉顕定の死後の上杉家家督争いで上杉顕実に味方して敗れ、勢力を衰退させた。
顕泰の孫の成田長泰は弱体化した山内上杉氏を見限り後北条氏、ついで上杉謙信に仕えたが、謙信の不興を買ったため再び後北条氏に寝返るなどめまぐるしい動きを見せた。
長泰の子の成田氏長の代には小田原征伐で後北条氏に味方し、一時所領を失った(忍城の戦い)。
だが氏長の娘甲斐姫が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けるなどの幸運にも恵まれ、大名として返り咲き下野国烏山を領した。
氏長の跡は弟の成田泰親が家督を継承し関ヶ原の戦いの後は徳川氏に属したが、その子の代に後継者争いが起きたため改易となった。子孫は御家人、次いで旗本となった。
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では、新田老とは?由良氏とは?…
全く知らない人名ばかりで、しかも複雑な何度も変わる関係図…困ったなぁ。というのが本当の所です。
memo:小野~横瀬~由良(新田?)
memo:金山城の場所確認
memo:前に「坂橋」 後ろに「板橋」 二つの名前があった可能性は?
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memo:成田氏分限帳 坂橋不在 板橋存在
memo:北条家(永禄年間)分限帳 坂橋不在 板橋存在