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佐藤愛子、電話中に昏倒したまま動けず!それでも「病院に行くのは死ぬ時と決めている」

2021-09-24 15:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jpからの借用(コピー)です。

1923年生まれで11月には98歳となる作家・佐藤愛子さん。ある日電話をしている最中に昏倒し、そのまま動けなくなってしまいます。ようやく少し身体が動くようになってからご家族の名前を呼ぶも、やってきたのは不愛想な猫のクロベエだけで――。
電話中に昏倒!
思えばこのエッセイを書き始めた時、ふと思いついたのが「毎日が天中殺」というタイトルだったのだが、今思うとあれは神の啓示であったのか。それともこのタイトルをつけた以上は何かことが起きなければならぬという自己暗示が働いているのか。過ぐる5月24日夜、電話中にゆえもなく私は昏倒したのである。
その日の昼過ぎ、難儀に難儀を重ねていた原稿をやっと書き上げ、A誌にFaxしてヘトヘトのまま夜を迎えてダイニングの椅子に腰かけたまま、テレビもつけず夕食もとらずぼんやりしているところへA誌の担当記者から電話がかかった。その応答をしている時だった。
渡した原稿のある個処の文字がよくわからないというので、それじゃ、元の原稿を見てみます、といったところまでは覚えている。原稿を取りに書斎へ行こうとした筈なのに、気がつくと私は廊下へのドアとは反対の方角にぶっ倒れていて、手にしていた筈の電話はどこへすっ飛んだのやら、メガネはふっ飛び大腿から脇、肩、顔、頭、左側面すべてを強打して動けない。
娘一家は2階にいるが、その場から叫んでも聞えるわけがないから声を上げなかった。
どしたのもヘチマもあるかいな
驚いたのはA誌の記者さんだろう。いきなり、ドターンと地響が聞えたと思ったら、あとはシーンとしている。この状況を伝えたいにも電話はどこにあるのやら、 探すにも身体が動かない。手も足も動かないからジタバタも出来ないのである。仕方ない。2階から娘か婿か孫かが降りて来るまでこのまま、ぶっ倒れてるよりしょうがないと思い、倒れていることにした。
しかし待てよ。時間はもう9時を過ぎている筈だ。その時間になってから、2階から誰かが降りて来るということはまずない。とすると私は明日の朝までこのままと床の上に倒れているということになる。毛布も枕もなく。
そのうち、少し身体が動くようになったようなので、ジリジリと這ってダイニングを出、更に廊下を這って階段の下に辿りつき、娘の名を呼んだ。
といってもその声はとても二階に届くほどの声ではない。二階からはテレビを見て笑っているらしい孫の「ヤァーハハハハ」というアホウさながらの笑い声が聞えてくる。二度、私は娘の名を呼んだ。階段の上にヌウと顔を出したのはいつも無愛想な猫のクロベエである。
「なにやってんだ? ばあさん」
というように、しげしげと見下ろしている。
不愛想な猫のクロベエがやってくるも(写真提供:写真AC)
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やっと娘が気づいて、猫は引っ込み娘が現れた。「どしたの?」という。どしたもヘチマもあるかいな。見ればわかるだろう。絞り足りない雑巾みたいにへたばっている姿を見れば。なにがどしたの? だ。と思ったが、それを口に出す力はもうなかった。漸くいえたのは、「いきなり倒れたんだよ......」 の一言だった。
娘と孫がどたどたと階段を降りて来て、二人がかりで両脇を抱え、さし当って一番近い小部屋に私を寝かせた。
え? 猫はどうしてたかって? 知りません! そんなこと。
ささやかな個人開業医が好きなワケ
そのまま、何日か、うつらうつら眠ってばかりいた。頭の打ちどころが悪かったのかもしれないが、とにかく眠い。
『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(佐藤愛子著/小学館)
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あいにくそれは金曜日の夜のことで、翌日からは土・日とお医者さんは休みである。救急車? そんなこと、頭に浮かびもしなかった。「病院」というところへ行くのは、死ぬ時だけ、と決めている私である。
なぜそんな決心をしたかについては、新刊に記述した駄文を讀んで下さった方にはおわかりになることと思う。讀んでない方は、「どうせまた、佐藤のことだからつまらないことでヘソを曲げたのだろう」と思って下さればいいです。
病院という大きな組織の中では、我々患者は「人間」ではなく「患者」という「物」としてあつかわれる。病院へ行くということは、「物」になり切る覚悟というものが必要なのだ。
「物」あつかいされてまで病気を癒したいと思わない私は、町のささやかな個人開業医院が好きである。そこでは医師も人間、思者も人間、看護師も人間である。何ともいえない安心感のようなものがある。
普段使わない「ですます調」で示した決意
だから私は我が家から十分足らずで行けるS医院のS老先生にこの身を預けてもう五十年近くになる。先生も老い、私も老い、お互いに気心がわかり合っているのが、病を抱える身には何よりも有難い。
だがこの時(昏倒した時)は金曜日の夜であって、当然、診療室は閉め切られているだろう。救急車を頼むなんて大仰なことは頭に浮かばなかった。むしろイヤだった。
救急車には乗りたくない!(写真提供:写真AC)

救急車とくればその先は「病院」と決っている。とりあえず娘は、かねてより信頼している整体のN先生に電話をかけた。かくかくしかじか、と説明すれば先生はいわれた。
両方の手の甲を撫でてみて下さい。同じように普通に感じますか? どちらかに 痺れを感じませんか? 早速やってみて異常は感じないというと、頭の血管のどこかが切れていると厄介ですから、明日は頭のレントゲンだけ撮って、その後、私の方へ来るように、ということだった。
ナニ? レントゲン? ということは病院へ行くことになる。思わず顔をしかめたのは打撲の痛みのためではない。病院へ行くとあの病院得意の「検査」というやつが始まることになると思ったからである。
翌朝、とりあえず娘がS医院へ電話をした。すると老先生は土曜日なので休診で、その上、「私どもでは頭のレントゲンの設備はないので、他の病院へ行って下さい」と看護師がいったという。
それを聞いて私は、正直「しめた!」という思い。それじゃ眞直(まっすぐ)に整体のN先生のところへ行きます! と、普段は使ったことのない「ですます調」になって断乎(だんこ)たる決意を示せば、娘も観念してしぶしぶ同意したのであった。
なかなか死なない人だねえ
そんなこんなで整体操法を受けた後、私は心安らかに眠りつづけ、骨に異常はなく三日目には打撲の痛みはなくなっていて、やっぱり私の判断は正しかった。病院なんかへ行っていたら、今頃は検査入院とやらで、怒りながらまずい病院飯を食べてるところだ、と満足というより自慢の気分だったのだ。
だが昏倒した日は何でもなかった顔が、一夜明けると左目を中心に紫色に腫れ上り、コテンコテンにやられたボクサーのようになっていた。
全く我が顔ながら「見事」といいたいようなシロモノだった。その凄さは見ても見ても見飽きないという趣で、うたた寝から覚めると枕もとの手鏡をかざしては点検するのが無聊(ぶりょう)の日々の 唯一の楽しみになったのだった。
「それにしても、なかなか死なない人だねえ」
という声が向うの部屋から聞えて来て、それは娘と孫の会話らしい。
ホント、私もつくづくそう思う。
※本稿は『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』(小学館)の一部を再編集したものです。 



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