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森進一「貧しい暮らし、集団就職…将来の夢もなかった10代。個性的な声を武器に芸能界へ」

2021-10-24 15:30:00 | 日記

下記の記事は婦人公論.jpからの借用(コピー)です

独特のハスキーボイスと心揺さぶる歌唱力で人々を魅了する森進一さん。数々のヒット曲を持ち、昭和・平成・令和を股にかけて活躍してきた功績が高く評価され、デビュー56年目にあたる2021年、春の叙勲において旭日小綬章を受章した。その激動の半生を振り返ると――(構成=丸山あかね 撮影=本社写真部)
賞とか紅白出場とか、意識するほうではない
この春、はからずも受章の栄に浴し、身に余る光栄と感激しました。ひとえに応援してくださる皆様のおかげと心から感謝しています。
もともと僕自身は、あまり賞とか『NHK紅白歌合戦』に出場とか、そういったことを意識するほうではないんです。ステータスにこだわり始めたらキリがないし、欲に翻弄されると心が疲弊してしまうし……。余計なことを考えずに淡々と仕事をこなすほうがいい、と若い頃から考えていました。
もちろん一時はもっともっとと高みを目指していたこともあります。歌がヒットすれば嬉しいし、周囲の期待に応えたいと夢も見た。芸能界で生きていくことに限らず、人が充実した人生を生きるうえで、夢を持って「こうなりたい」とビジョンを描くこと、そして夢に向かってエネルギッシュに邁進することは大切な経験だと思います。
でも、やがて野心の季節は過ぎ去り、僕は「こうはなりたくない」と考えるようになりました。それを一言で言えば、「無様な姿は晒したくない」ということ。人からどう見えるかではなく、たとえば声が出ていないといったことがあれば自分が一番よくわかるから、意地を張らないようにする。そこで無理をすれば、自分がつらい。
それでいつの頃からか、上り坂から平坦な道へ移行するタイミングを見計らって、73歳のいまは、欲や損得にこだわることもありません。「年だから」と諦めたわけではなく、「何にでも終わりはある」「世代交代は世の常」と自分の心を納めたという感じでしょうか。
それにしても人生というのは不思議なものですね。自分の意思とは無関係に流れていく。いまでも僕は、ステージに立っている時にふと、「これは現実だろうか?」と感じます。「どんな運命の流れで、スポットライトを浴びながら大勢の人の前で歌を歌っているのだろうか?」と……。
夢も希望もなかった貧しい子ども時代
とても貧しい少年時代を送りました。両親が離婚したのは、僕が10歳の時。病弱だった母は僕と当時3歳の妹と1歳の弟を連れて、家族で暮らしていた山梨県の家を出た。静岡などを経由して、最終的に親戚のいる山口県へ引っ越します。
でも母が計画していたとおりにはいかなかったのでしょう。市の母子寮に身を寄せ、生活保護を受けざるをえない状況になりました。仕方のないことだとはいえ、子ども心に、貧乏って嫌だなと思うことをたくさん経験しました。
たとえば中学校では、生活保護を受けている生徒には制服や教科書が支給されていたのですが、先生が無神経に僕の机の上にポンと置くんですよね。給食については名簿があって、給食代を払った人はマル、まだ払っていない人はバツと記号が書かれるのですが、僕のところには、サンカクがついていました。そんな日々を過ごすなか、誰に対しても心を閉ざしていたので、僕には友達がいませんでした。
毎日朝4時に牛乳配達、夕方は新聞配達。当時、放し飼いになっている番犬が怖くてね。それでも仕方ないから配達に行く。家計を助けるためというより、学校で使うものを買うお金がほしかった。友達が持っている筆箱とか筆記具がほしくても、苦労している母に買ってくれとは言えなかったから。
中学3年の時、僕ら一家は母の故郷である鹿児島へ引っ越し、母は乾物屋を始めましたが、相変わらず暮らし向きは苦しかった。僕は中学を卒業すると、集団就職で大阪へ行きました。
歌手になるなんていう発想もない
最初に就職した寿司店は、住み込みで月給5000円。いまの貨幣価値に換算すると5万円くらいでしょうか。あまりにも低賃金だったし、先輩からはいじめられるし。自分は長男なのだから働いて家族に仕送りするのは当然だ、というある種の正義感を持って社会に出たのに、ズルくなければ生きていけないのかと思うような出来事の連続で……。世の中、正義なんてないんだと落ち込み、こんなところにはいられないと1ヵ月で店を辞めて鹿児島へ戻りました。
その後は職を転々と。調理師見習いをしたり、キャバレーでバンドボーイをしたり、鉄工所や運送業、飲食店で働いたり、17種類くらい仕事をしたかな。住み込みで働けるなら職種は何でもよかったんです。とにかく一日も早く一人前に稼げるようになって、そして、母と一緒に暮らしたかった。
当時の僕の生活は、職場で働いているか、住み込み先で寝ているか。これといった楽しみもなければ、将来の夢もない。ただ母には、「僕が大きくなったら、門から玄関まで距離のある大きな家に住まわせてあげる。お母さんは大きな座布団に座って何もしなくていいよ」と言っていました。
歌うことは好きでしたが、テレビを観たことがなかったので歌手になるなんていう発想もない。仮に憧れていたとしても、東京はいまの感覚で言えばニューヨークくらい遠かった。第一、どうやったら芸能界に入れるのか皆目見当もつかない、そんな時代の話です。
「母には、「僕が大きくなったら、門から玄関まで距離のある大きな家に住まわせてあげる。お母さんは大きな座布団に座って何もしなくていいよ」と言っていました」
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個性的な声で勝ち抜いてデビュー
――苦労の連続だったが、人生の転機は近づいていた。再び大阪に出て串カツ店で働いていた時、お客さんから「君は東京に行けばいいのに」と言われた森さんは、芸能界に関心を持つようになり、18歳で上京。居候先の叔母に勧められ、のど自慢大会に出場すると5週連続で勝ち抜き、優勝を果たす。
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アントニオ古賀さんの「その名はフジヤマ」とか、安達明さんの「女学生」などを歌いました。のど自慢大会の審査員だったチャーリー石黒さんにスカウトされて弟子入りしたのですが、なかなかプロになれなかった。
洋楽に長けておられたチャーリーさんによれば、僕は個性的な声の持ち主。でも一般的には、僕のハスキーボイスは「ありえないかすれ声」として、当初酷評されました。
紆余曲折を経て、1966年、ポップス系の歌手ではなく、後に「演歌」と呼ばれるようになるジャンルでデビューすることになりました。でも、いまでも自分のことを演歌歌手だとは思っていません。僕は「流行歌歌手」なんです。
そういえばデビュー後に、歌番組の現場に来ていたジャニー喜多川さんから、「僕のところに来ない?」と誘われたことがありました。すでに別のプロダクションに所属しているのに変なことを言う人だなと思ったのですが、その後親しくなって交流を深めました。知り合う人たちのキャラが濃くて、みんな情熱的で……。僕の歌手としての歩みは、歌謡界の盛り上がりともにあったのですよね。

飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムを駆け上った
――66年、18歳の時に歌った「女のためいき」が80万枚を超える大ヒットとなり、翌年には「命かれても」、68年「花と蝶」がミリオンセラーに。そして同年、『紅白歌合戦』に初出場。69年、「港町ブルース」で日本レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞……と、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでスターダムを駆け上った。
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成功するために相当な努力をしてきたのでは、と問われても、正直なところ努力したとは思っていません。とにかく目の前のことで毎日精いっぱい。さらにいうと、僕は「努力って、重要なものなのだろうか」と疑問に思うのです。だって「努力すれば報われる」とよく言われますが、成功が保証されているわけではないし。
じゃあ、成功するためには努力以外の何が必要かという問いにもうまく答えられません。僕の場合は、目には見えない人の縁があったこと、それから時代に応援されたということが、ありがたかったとは思います。
いまになって思うのは、自分には、歌によって人の心に寄り添ったり、元気づけたりするという使命みたいなものが与えられたのかなということ。ファンの方から「森さんの歌を聴くと、家族みんなで歌番組を観ていた頃にタイムスリップして、あたたかな気持ちになります」なんて言われると、歌い続けてきた甲斐があったなと感じます。

森進一「母の死でどん底に叩き落され、息子たちの成長を喜び…一筋縄でいかないのが人生」

母がいないなら歌う意味がないと
東京・世田谷に一軒家を借りて、鹿児島から家族を呼び寄せて暮らし始めたのは、22歳の時でした。気づけば夢を叶えていたのです。でも忙しすぎたせいか、当時のことはほとんど記憶にありません。
翌71年に発表した「おふくろさん」も大ヒットして、そこでようやく成功を収めたように見えますが、いいこと100パーセントの人生というのはないんです。言うに言われぬ嫌なことがたくさんありました。なかでも母の死がつらかった。歌手にさえならなければと、失意のどん底に叩き落とされました。
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――72年3月、森さんが婚約不履行で訴えられるという騒動が起きた。のちに一面識もないファンの虚言だったことが判明するのだが、大きな悲劇を招いてしまう。訪ねてきた女性に自分がお茶を振る舞ったせいだと責任を感じた母が、73年2月、自宅で自ら命を絶った。
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僕は巡業先の長崎で母の訃報を受け取りました。とても受け入れられるものではなかった。もう歌は歌えない、母のために歌い始めたのに、母がいないなら歌う意味がないと引退を考えました。
でもその後、僕はまた歌に救われたのです。新曲として提供されたのは、岡本おさみさんと吉田拓郎さんという、フォーク界を代表するコンビによって作られた「襟裳岬」(74年)という楽曲。「日々の暮らしはいやでもやってくるけど静かに笑ってしまおう」という歌詞に心を打たれ、この歌で新たに出発しようと思ったのです。
僕が心から賞がほしいと望んだのは、後にも先にもこの時だけ。ありがたいことに日本レコード大賞をはじめ、たくさんの音楽賞をいただくことができました。きっと母も喜んでくれたと思っています。
息子たちは僕の誇りです
――80年に女優・大原麗子さんと結婚。82年、「冬のリヴィエラ」(松本隆作詞、大瀧詠一作曲)を発売、ポップス系のファンも獲得。86年に再婚した歌手・森昌子さんとの間に3児をもうける。2度の離婚、闘病を経て、デビュー50周年を迎えた2015年、『紅白歌合戦』のトリで「おふくろさん」を披露(以降の出場辞退を発表)。その後も舞台やステージで活躍を続ける。
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僕は弟の死も経験しています。11年、ハワイ公演の帰国直前、闘病中だった弟が亡くなったと連絡が入りました。家族には僕の帰国を待ってもらい、羽田空港に着いた足で向かって通夜と告別式に出席。かつて僕が働いてお金を仕送りしていたので、弟が医学部に行った時は嬉しかった。その自慢の弟との別れもつらかったです。
母の死後、いろいろと悩んでいる時に、誰かにもらって家にあったショーペンハウアーの哲学書を読んでびっくりしました。「正義が大事」と考えてきた自分を肯定してくれる言葉の宝庫だったのです。ここから哲学書にハマり、思想家・安岡さんの本などを現在に至るまで繰り返し読んでいます。
生きていくうえで、正義が大事なのは真理だけれど、それ以前に人間力が必要とも思っています。いずれにしても一筋縄ではいかないのが人生――といった話を、息子たちに会った時に説いて聞かせるのですが、伝わっているのかどうか。「お父さんがまた理屈っぽいことを言い出した」と思われているのではないでしょうか。(笑)
もっとも、僕が貧しい生活環境で1から積み上げてきたとしたら、両親が歌手で、いろいろなものが手に入る時代に育った息子たちは、7くらいから始めているわけで、何かと要領がいいんですよ。長男(ロックバンドONEOKROCKのボーカル・Takaさん)は海外で活動し、世界的に活躍する人たちを近くで見ているだけに、こちらが教えられることのほうが増えてきました。次男は会社員になりましたが、三男(ロックバンドMY FIRST STORYのボーカル・Hiroさん)は森内寛樹としてソロ活動も始め、頑張っているようです。
実のところ、息子の芸能界入りについては、諸手を挙げて賛成というわけではありませんでした。僕はたまたまヒット曲に恵まれたけれど、そんなに甘い世界ではないから。百歩譲って「学生時代は学業優先なら」と音楽活動を許していたんです。それなのに勝手に高校を中退したりすれば、それは怒りますよね。長男とは親子喧嘩になったりもしましたよ。紆余曲折のあった親子関係も、ようやく結果オーライになったと思います。
先日お墓参りに行った折に、三男が「僕たち全員、自立したね」と言うのを聞いて、親としての幸せを実感しました。みんな健康で脇道にそれずに育ってくれて、好きなことを仕事にして輝いている。息子たちは僕の誇りです。

一人暮らしは忙しい
一人暮らしの70代になって、自分のことは自分でやるしかありません。2度目の離婚後に何でも自分でやろうと決めた。買い物にも行くし、食事も作るし、掃除や洗濯もします。だから僕、オフの日でも朝から忙しいんですよ(笑)。
今後の抱負としては、コンサートのためにも健康でいることですね。そして、いつかはわかりませんが仕事の引き際を見極めたいというのもあります。いまの心境は、「雨が降ってからでは遅い。傘が要らないうちに帰らなくては」というイメージ。そのためには、ちゃんと視野を広げて、世間の動きを読み、自分を客観的に見つめることが大切と思います。
デビューして56年目、おかげさまで昭和・平成・令和と歌い続けることができました。いまでも、歌とは不思議なものだと思います。昔の歌を聴くと「懐かしいな」と感じるのは当然としても、自分が好きだった曲を聴くと、瞬時に「あ、この曲好き」という当時の気持ちが瑞々しく湧き上がってきませんか。
引退するまでにはまだ時間がありそうなので、今後も一曲一曲を丁寧に、心を込めて歌っていきたい。聴いてくださる皆様に喜んでいただきつつ、有終の美を飾ることに努めたいと思っています。
森進一
歌手
1947年山梨県生まれ。66年にシングル「女のためいき」でデビュー。「港町ブルース」「おふくろさん」「襟裳岬」「冬のリヴィエラ」「北の螢」などヒット曲多数。日本レコード大賞など受賞多数。2020年、デビュー55周年記念シングル「昭和・平成・令和を生きる」をリリース  



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