皆さんと一緒に考えましょう

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

看取りに接する医師と看護師が伝える、 親を看取る前に知っておいてほしいこと

2021-07-27 15:30:00 | 日記

下記の記事はダイアモンドオンラインからの借用(コピー)です

人は自分の死を自覚した時、あるいは死ぬ時に何を思うのか。そして家族は、それにどう対処するのが最善なのか。
16年にわたり医療現場で1000人以上の患者とその家族に関わってきた看護師によって綴られた『後悔しない死の迎え方』は、看護師として患者のさまざまな命の終わりを見つめる中で学んだ、家族など身近な人の死や自分自身の死を意識した時に、それから死の瞬間までを後悔せずに生きるために知っておいてほしいことを伝える一冊です。
「死」は誰にでも訪れるものなのに、日ごろ語られることはあまりありません。そのせいか、いざ死と向き合わざるを得ない時となって、どうすればいいかわからず、うろたえてしまう人が多いのでしょう。
今回は、『後悔しない死の迎え方』の著者で看護師の後閑愛実(ごかんめぐみ)さんと、『「残された時間」を告げるとき』の著者で医師の西智弘(にしともひろ)先生という二人の医療者による対談を収録しました。
看護師、医師という2つの視点から、患者さん、あるいは家族が死とどう向き合っていってほしいかを語ってもらいます。(撮影:永井公作)(こちらは2019年1月9日付け記事を再掲載したものです)
最終目的は「穏やかな最期に着地させること」

後閑愛実さん(以下、後閑):私には、どんな最期であったとしても、どんな理不尽な死であったとしても、穏やかな最期に着地させたいという思いがあるんですね。そのために「幸せな死」と捉えてもらえるように、ご家族に次の3つのことをしてもらっています。「ぬくもりを感じること」「思い出を語ること」「ありがとうで見送ること」です。思い出を語って「最期までがんばりましたよね。ありがとうございました」と本人に語りかけるようにすると、家族も自然と「ありがとう」と言えて、穏やかな最期と捉えることができるんです。
西智弘先生(以下、西):僕が最近やっているのは、死亡確認するときに瞳孔の確認はしないってことですね。
後閑:どうしてですか?
西:瞳孔の確認をすると、人相が変わるからです。家族が見ている中で、目をぎゅっと開けて光を当てるのがどうも痛々しい……。基本的なスタンスとしてご遺体を尊重しているんです。日本人の中には、ご遺体といえども、生きている時と同じように接するという感覚があると思っていて、たとえば亡くなった後に身体を拭く時も、水ではなくお湯で拭いたり、場合によってはお風呂に入れてあげたりもするじゃないですか。日本人の感覚としては、まだそこにいるんですよ。心臓が止まる、呼吸が止まるは明らかにわかるわけで、目をぎゅっと開く代わりに、心臓の音をゆっくりと聞くようにしています。ぱっぱっ、と聞いて、「はいご臨終です」ではなく、聴診器を胸に30秒くらい当ていると、しーん、となるんです。その静寂を感じてもらったところで、「何時何分、ご臨終を確認させてもらいました」としています。厳粛で静寂な雰囲気を医師が作り、それを崩していくように看護師に感情的な部分を担当してもらえるといいと思っています。

後閑:その患者さんとは初めましての当直医に「カルテを見させてもらいましたが、この方はこういう人でしたね」とかいう感情的な部分を口にされると、「この先生、何がわかってるんだろう」と思うことがあります。西先生が言ってくださったように、医師は厳粛な感じで場を鎮めて、それを看護師が崩していくスタンスのほうが私もいいと思います。
西:医師が看護師の役割を奪っちゃダメで、そこはまかせるようにしています。緩和ケアの領域において、医者が前面に出ていって、俺が俺が、とやると、不自然なことが多い。緩和ケアや看取りの現場では、家族や本人の力というところをよりうまく支えて
最善を期待しながら、最悪に備える
後閑:西先生は『「残された時間」を告げるとき』という余命宣告の本を出されていますよね。余命や予後(病気や治療などの医学的な経過についての見通し)を医師が伝える時にはどんな気持ちで、また、伝えられたことに対して家族は医師にどうアプローチすればいいかなどということがあれば教えてください。
西:患者さんから余命を聞かれた時は、「それをなぜ知りたいのか」ということを僕は必ず聞くようにしています。「なぜ今、余命を知りたいのか」という理由をちゃんと自分の中で落とし込んでから聞いてほしいと思います。不安な気持ちが高まるあまりに、ついポロッと聞いてしまったのだとしたら、僕たちも不安を高めるようなことはお話しできません。ですから、場合によってはわかりませんとしか言えないし、あえて言わない、ということもあります。たとえば、「あと何ヵ月でわが子が小学校に入るので、入学式に出られるかを知りたい」「いついつに旅行を計画しているから」「とりあえず準備するための目安として知っておきたい」といった聞きたい理由がわかると僕たちも言いやすいです。
後閑:なるほど。家族や本人が、知りたい理由が定まってから医師に聞いたほうがいいということですね。
西:何となくでもいいですけどね。そうすると、余命の話だけでなく、何が心配で何を大切に思って生きていらして、これからの時間をどう使っていきたいと思っているのかに発展していけるんです。余命の話を聞きたいと思うその動機がすごく大事で、医師はそれを聞きたい。けれど実際には、余命の話をする僕たち医師のほうが話すことに慣れていないので、聞いたことで本人や家族がかえって傷つくというリスクもあります。まずは信頼できる看護師に、医師にこういうことを聞いてみたいと思うが、どう思いますか? と相談してみるといいと思います。そうしたら、こう話すといいんじゃないですかとか、あの先生はこういう話は苦手だから、みたいなことを教えてくれると思うんですよね。そうしたら傷つくリスクは下がります。
後閑:いきなり医師に意見を求めるんじゃなくて、いったん看護師に相談してから医師に聞くんですね。
西:そうしたら看護師から医師に、「あの患者さんがこういうことを気にされているようですけど、今度の診察の時に聞いてもらってもいいですか」と言ってくれたら準備もできるし、こちらもやっぱり患者さんから急に聞かれると、びっくりするんですよね。だから、事前に看護師と話しておくというのはすごくいいことじゃないかな。
後閑:医師からお母さんの余命宣告をされた家族がいたんです。その家族は、面談の時には娘さんが前に出てきて、お父さんはあまり話さないんです。それで娘さんに、「今、何が不安ですか」と聞いたら、「私はお母さんを苦しめたくないから、自然に枯れるように亡くなっていくのを見守っていきたいけど、お父さんがどう思っているのかわからない。それを言うこともできないし、聞くこともできない」と言うんです。でも、面談では娘さんしかしゃべらないので医師も娘さんとしか会話しないし、お父さんは「娘の言う通りに」としか言わない。それを医師に話したら、次の面談から医師がお父さんに聞くようになったんです。だから、間に入った看護師がそういう調整をするって大事だなって、今、お聞きしながら思い出しました。
西:家族がなぜそれを聞きたいのか、どういう気持ちなのか、が先走っちゃって、それは本人が聞きたいことなのか、あなたが聞きたいことなのか、本人がそうしてほしいと思っているのか、あなたが本人にそうしてほしいと思っていることなのか、って聞くと、そういえばってなりますね。家族は余命を聞きたがってるけど、本人はそうは思っていないこともあります。そういう調整をまず看護師がしてから医師に言ったほうが、コミュニケーションのエラーが少なくなるんじゃないかと思うんですよ。
後閑:西先生の本にある「最善を期待しながら、最悪に備える」って、確かにそうだなって思います。もちろん、もっと生きていてほしいとか、こういう希望があるということもあるんでしょうけど、やっぱり最期になってドタバタするご家族が結構いらっしゃるので、準備しておくのは大事だなと思いました。
西:そもそも緩和ケアというもの自体が、最悪を想定しながら準備していく医療なんですよ。災害に備えて水や食料を備蓄しておくのと同じ。そのうえで、がんが少しでもよくなる、少し寿命が延びるということを期待しながらやっていきましょう、って話をします。準備と期待は分けて考えましょう、とお話ししています。
後閑:具合が悪くなって痛くなってから緩和ケアに行く人や、「緩和ケアを紹介されちゃった、もう終わりかよ」と思う人もいるので、世間の思い込みには私たち医療者とギャップがあるように思うんですよね。
西:知っておいてほしいこととしては、本当にギリギリになって痛い苦しい、となってから緩和ケアに来られると、医師は痛い苦しいをとりあえず何とかしないといけなくなる。その人がどう生きてきたとか、あなたは何を大事に生きていきたいですか、ということを聞いてる場合じゃなくなる。もっと症状が出る前から関わっていれば、いざ症状が出てきた時に冷静に話ができるようになります。「お父さんはなるべく家で過ごしたい、って以前おっしゃってましたから最期まで家で過ごせるように考えましょうか」と言うと、家族も「そうですね」となったりします。「やっぱり気持ちが変わって入院のほうがいいです」と言われれば、じゃあそうしましょう、となるものですが、初対面の患者さんに、ただ痛い苦しいと言われたら、それを取り除くだけになってしまいますから、お互いあまりいいことがない。緩和ケアは早めに使ってもらうことが大事で、緩和ケアに来たらおしまい、ということじゃないんです、とは伝えたいです。人生をよりよく生きるために必要な備えだという認識でいてほしいと思います。
「あの時ああしておけば」は呪いの言葉
後閑:以前、西先生がネットニュースに書かれていた「あの時ああしておけばは呪いの言葉」という記事がすごく共感できました。
西:亡くなられた後とか、病気が引き返せないようなところまで来た時に、まわりが「あの時ああしておけばよかったね」と過去を否定することに目を向けるよりも、未来を見据えてこれからどうするか、本人の思いを忘れないといった、未来に向けた視点をもって関わる、悲しみを否定しない、といったことが残された人たちのよりよい人生につながると思うんです。
後閑:あの時は結果がわからない中で、あの時に最善と思われることをしてきたはずなんですよね。今現在、思ったような結果になってないというならば、それは医療のせいや誰かのせいではなく、病気や老化のほうが一枚も二枚も上手だっただけで、その時はその時に精一杯のことをしたんだって思ってほしいですね。先生は、「なぜあの時ああしておけばと思うのには原因が2つあって、それはマウンティングと無力感だ」と書いていましたよね。確かにそうだと思いました。今は結果がわかっているから、あの時ああしておけばって言えるわけで、自分だったらこうしたのに、自分のほうがいい治療を知っている、というマウンティングをしているっていうのと、本当に助けたかったという無力感から「あの時ああしておけば」と言ってしまう、と。
西:自分の親が病気になったら、僕は医者だから、「どうしたらいいと思う?」と意見を求められますけど、主治医の先生はなんて言ってるの? って聞きますね。親は北海道なんで、僕はこういう治療をしてほしいと言っても届かないし、邪魔なだけです。まず主治医の先生のことを信頼して、仮にちょっとそれは僕の考えとは違うと思ったとしても、その先生のことを親が信頼してるなら、「先生がそう言っているなら僕もそれがいいと思う」って後押しします。「僕も主治医の先生を信頼します。だからよろしくお願いします」としたいと思っています。じゃないと、あまりいいことがない。
後閑:外野がガヤガヤ言うんじゃなくて、当人同士に信頼関係があるのなら、もっとああしておけばよかったんじゃないのと言うより、後押ししてくれたほうが本人のためにも家族のためにもいいですよね。家族に対して、「いい悲しみ方」のアドバイスがあれば教えてもらえますか。
西:まず、悲しいって感情は悪い感情ではない。悲しいと思った時は、悲しい感情に浸ってもいい。たとえば夜に悲しいと思っても、一晩たてば日常に戻れる。また2日くらいして悲しいとなっても、また日常にという揺り戻しを何回か繰り返していくことで、悲しいと思う時間が短くなっていく。何かのきっかけでふと悲しみが襲ってくることもあるけれど、ああ来たな、その感情は悪いものじゃない、と向き合う。揺り戻しがなくいつまでたっても亡くなった人を思って悲しみ続けてしまうというのなら、専門家に聞いてもらいながら気持ちを昇華していくことです。悲しい時は、悲しんでください。僕が思うのは、子どもが母親が亡くなった時にまったく泣かないほうが不安。「わーん、お母さーん」って泣いてる人のほうが見た目派手だからみんな気にかけたりするんだけど、そのほうがどちらかというと安心で、いい悲しみ方ができているなと思います。優等生っぽい態度の泣かない子どものほうが心配。「悲しんでいいんだよ」ってアプローチしていくことが大事だと思います。
後閑:確かに、悲しいって悪い感情だけじゃない。悲しみの涙の奥には、別れをそれほど悲しめる関係性が築けた「幸せ」が隠されているから。ですから、今の話はすごく共感できました。ありがとうございました。最後に、『「残された時間」を告げるとき』はどんな思いで書かれたんですか。
西:それは医療者向けに書かせていただいた本なんです。巷で行われている余命の告知の方法があまりにも乱暴で、患者さん家族がすごく傷ついている状況があるので、どのように余命を伝えていくことが大事なのかをいろいろな文献や過去の日本人の文化や人類的な視点を取り入れながら書いてみたものです。漫画も入れていますので、漫画の部分だけ読んでも学べることがあるかと思いますから、医療者でない人にもぜひお読みいただければと思います。
後閑:医師向けだと思っていたんですが、読んでみたら看護師や臨床心理士の話も載っていて、看護師には教育者、サポーター、アドボケーター(代弁者)としての役割があると書かれていたりして、これは医師だけでなく看取りに関わるすべての人に読んでほしい本だと思いました。
【まとめ】親を看取る前に知っておいてほしいこと
1.穏やかな最期に着地させるための幸せな死の捉え方
(1)ぬくもりを感じる (2)思い出を語る (3)ありがとうで見送る
2.最善を期待しながら最悪に備える
人生をよりよく生きる選択ができるのが、早期介入の緩和ケアだと知っておく
3.「あの時、ああしておけば」は呪いの言葉
過去を嘆くのではなく、未来志向で「いい悲しみ方」をする

西智弘(にし・ともひろ)
腫瘍内科医、緩和ケア医、日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医
川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科/緩和ケア内科
2005年北海道大学卒。室蘭日鋼記念病院で家庭医療を中心に初期研修後、川崎市立井田病院で総合内科/緩和ケアを研修。その後2009年から栃木県立がんセンターにて腫瘍内科を研修。2012年から現職。現在、腫瘍内科の業務を中心に、緩和ケアチーム、在宅医療にも関わる。著書に『社会的処方:孤立という病を地域のつながりで治す方法』(学芸出版社)、『だから、もう眠らせてほしい 安楽死と緩和ケアを巡る、私たちの物語』(晶文社)などがある。
後閑愛実(ごかん・めぐみ)
正看護師。BLS(一次救命処置)及びACLS(二次救命処置)インストラクター
看取りコミュニケーター
看護師だった母親の影響を受け、幼少時より看護師を目指す。2002年、群馬パース看護短期大学卒業、2003年より看護師として病院勤務を開始する。以来、1000人以上の患者と関わり、さまざまな看取りを経験する中で、どうしたら人は幸せな最期を迎えられるようになるのかを日々考えるようになる。看取ってきた患者から学んだことを生かして、「最期まで笑顔で生ききる生き方をサポートしたい」と2013年より看取りコミュニケーション講師として研修や講演活動を始める。また、穏やかな死のために突然死を防ぎたいという思いからBLSインストラクターの資格を取得後、啓発活動も始め、医療従事者を対象としたACLS講習の講師も務める。現在は病院に非常勤の看護師として勤務しながら、研修、講演、執筆などを行っている。



コメントを投稿