下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です
綾瀬女子高生コンクリ殺人事件、名古屋アベックリンチ殺人事件、木曽川リンチ殺人事件……。1980年代後半から90年代前半には、歳を重ねた状態で不良「デビュー」した、ブレーキの踏み方を知らない人間による、卑劣で残虐な事件が目立った。しかし、その潮流は時代とともに変わり、2000年代以降は暴力の世界とは縁のなさそうな人たちによる事件が目立つようになってきたという。
ここでは、編集者の久田将義氏による著書『生身の暴力論』を引用。「人を殺したかった」という不可解な動機の殺人事件が2000年代以降頓に増えた理由を考える。
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「ネットの国」の殺人者たち
ここからは近年の「動機不明な事件」を見てみよう。これらは暴力の究極であるところの殺人であるものの、フェーズが全く異なる。「デビュー」とも関係がない人間が犯した事件だ。
2015年8月、北海道で19歳の少年が「人を殺してみたかった」という動機で同じアパートに住む女性を殺害。
2014年12月に愛知県名古屋市で19歳の女子大生が「人を殺したかった」という理由で女性を殺害している。
2014年7月には長崎県佐世保市で女子高生が同級生を殺害。動機は同じく「殺してみたかった」であった。
それから遡ること14年前の2000年5月1日、愛知県豊川市で「人を殺してみたかった」という理由で、17歳の少年が主婦を殺害した。
2日後、この犯人と同じく17歳の少年が2ch上で「ネオ麦茶」と名乗り犯行を予告して「西鉄バスジャック事件」を起こし、女性を殺害した。2chの隆盛は皮肉にもこの「ネオ麦茶事件」から始まった、という見方をしている人もおり、僕も一部同意するものである。
「人を殺してみたかった」というフレーズは、この時期からたちまちメディア、ネットを通して蔓延する。なぜ、そういった摩訶不思議な動機で人を殺してしまうのかが論議された。
これら動機不明な事件の通底には、1997年に起きた「神戸連続児童殺傷事件」、別名「酒鬼薔薇聖斗事件」が存在する。共通するのは、犠牲者が全員、加害者より力の弱い女性か児童であるということだ。
体力的に弱い者に自分勝手な怒りをぶつけていった。卑劣、卑怯である。卑劣、卑怯な人間にはなりたくない。誰もがそう思うのだが、実際に酒鬼薔薇聖斗のような前例があると、それがエクスキューズにも後押しにもなり犯行に走る。2015年6月に「酒鬼薔薇聖斗」は「元少年A」の名で手記『絶歌』を出版し、物議をかもしたが、同書がさらなるエクスキューズにならないことを祈るばかりだ。
現実社会で行き場のない彼らの安息の地
自分たちの中で小さな「コミュニティ」を勝手に作り、その場所こそが彼にとっての「国」になってしまう。彼らにとって安息の地だ。現実社会では受け入れられていなかった彼らは、もう一つの社会=国を作り出す事によって安心・充実を覚える。その手段がインターネットでありSNSである。
「国」の中ではどのような言葉を吐いても良いし、どのような事を実行しても良い。それが脳内で成立させた幻の国であっても。国民は皆、同じような考えを持つ者たちで構成されている。その国民とは、「人を殺してみたかった」とのたまう人間たちだ。
19歳の女子大生と17歳の「ネオ麦茶」には共通項があり、それは「インターネット」である。ネオ麦茶は2chに、19歳の女子大生はツイッターに書き込みをしている。SNSの発達に関しては僕は歓迎だが、主観として言わせてもらうと小中学生に関しては規制とまではいかないが、パソコン・スマホを取り上げろ、と言いたいくらいである。それが言い過ぎであるならば、ある程度、分別がついた歳で初めて与えて欲しい。あるいは、使用時間で区切るとかでも良い、がやはり、警察がネットの知識をより深め、迅速に対応する事が重要だ。現在の警察行政はネット事情に非常に疎いように感じられる。
配信依存の「ノエル」少年
2015年5月、ハンドル名「ノエル」と名乗る15歳の少年が威力業務妨害容疑で逮捕された。その前に首相官邸の屋上にドローンを落とした事件があったのを記憶されているだろうか。ドローンとは、簡単に説明すればラジコン式のヘリコプターである。そこに小型カメラを搭載し、空から陸上を映す事ができる。海外のジャーナリストなどが紛争地域の撮影などに利用していたケースもある。
「ノエル」少年はまず、長野県善光寺にドローンを飛ばした。それから東京の風物詩、浅草の三社祭で「ドローンを飛ばす」とネット放送で宣言し、浅草近くの公園でドローンを置いて生放送中に逮捕された。川崎市中学生殺人事件の主犯の家から生放送をしたり、以前からかなりの問題児だった。何人かの生放送配信者に聞くと、「いつかこうなるだろうと思っていた」といった答えが返ってきた。
「ノエル」は家庭でも配信依存に陥り、心配していた家族にパソコンを壊されていた。しかしどうしても「ノエル」はネット配信をしたい。けれど15歳の少年にパソコンを買い替える金もなく、「ノエル」が警察沙汰になる配信を面白がる数人の「大人たち」がカンパをしていた。
ネットスラングで、配信者が視聴者からお布施と呼ばれる金を受け取る行為を古事記と呼ぶ。振込口座をツイッター等に晒しておき、そこに視聴者が直に振り込む行為が蔓延している。そして、お金を振り込んだ代わりに過激な放送をしてくれという視聴者からのリクエストに応え、配信者は警察沙汰になるような放送をする。「ノエル」の行為は氷山の一角であり、動画サイトや生放送サイトが発達してきた2009年頃からあった。さすがに「ノエル事件」は見せしめになったであろうから、すぐには同様の事をする輩は出てこないとは思うが、数年後、ほとぼりが冷めたら分からない。ネットの「国民」の声援や援助が、ノエルのような少年を増長させたとも言える。
「国」の英雄は犯罪者
「ネットの国」では、ネットの情報のみが正しく、新聞・テレビ・メジャー週刊誌は「マスゴミ」と呼ばれ、軽蔑される。ただし、メジャーだから反発するのではない。マイナーなメディアを支持するのかと言えばそうではなく、マイナーメディアはより下に見られる。「外の世界」では、マイナーメディアの役割はメジャーメディアの監視もあるのだがそんなものは「国」では不必要だ。従ってこの「国」では「反骨」や「反権力」といった概念は存在しない。「デビュー論」も存在しない。デビューなどした人間を見つけたらただちに「DQN」と記号化される。
一人一人の「国民」の居住地が離れていても、SNSのおかげで距離の隔たりを感じる事はない。そして不良少年と違い、「地元愛」はさほどない。そこは「国」ではないから。「国」も「地元」もネットである。ここまで書くとお気づきになる方もいるだろう。不良少年の心情と真逆なのだ。
リアルを求める「国」の英雄
「ネットの国」の敵は現実社会だ。「国」から外の世界に向かって飛び出す様は、皮肉な事に彼らが嫌う不良少年が敵対暴走族に向かって喧嘩を売る様相と似ている。
「本当にやったんだ」
実際に行動に移した人間は1部では称賛される。英雄が誕生する瞬間だ。
「リアルでもやろうと思えばできるんだぞ」と。
安易にリアルを求める風潮は、実は安っぽいのにもかかわらず、その薄っぺらい世界に自ら飛び込んでしまっているのである。自分たちが記号化し軽蔑しているDQNと同じステージに上がっているのに気付いているのだろうか。「ネットの国」の中で完結していれば良かったのに。「ネットの国」の住民として存在する選択肢もあったはずなのに。タブーなどなかった「国」なのに。
しかしその「国」の英雄は、外の世界に出た瞬間、犯罪者として扱われる。「国民」が外の世界に出た途端、エイリアンのような扱いを受ける。それが「動機なき殺人」になり、不可思議な事件が起きたと報道されるのだ。
SNSが犯罪につながる危険性
今後、このような「英雄」が外の世界に飛び出して、不可解な事件を起こす可能性は常にあると、僕などは危惧も含めた想定をしている。
ニコニコ生放送、ツイキャス、FC2、アフリカTVなどにおいても、未成年がハマってしまい、毎日数10時間くらいの放送をしている場合がある。それでも現実世界と両立して生活を送れていれば良いが、SNS一色の生活になると例えば、視聴者にウケようとして、非常識極まりない配信をする少年少女が出てくる。例えば家に火を付けたり、軽犯罪を犯して書類送検されるケースも不定期に起こっている。
YouTubeに投稿して再生回数の多さで悦に入っていた、万引き動画やスーパーの菓子に爪楊枝を混入する動画を投稿した19歳の「爪楊枝男」(2015年1月逮捕)が出現。第二、第三の「爪楊枝男」が出てくる可能性は大いにある。彼らこそSNS依存症の典型であり、脳内で作り上げた「ネットの国」の住民だ。
SNSそのものに罪はない
外の世界である人間の僕の意見としては、親の育て方には責任があるが、SNSには罪はない。フグに毒があるように、美味しいものにはもしかしたらリスクが伴うかもしれないといった危惧を、大人がすべきである。
特に前述した、動画サイトの中で、家に火を付けたり、スーパーのスナックに異物を混入しているような「爪楊枝男」は「bk(バカ→baka→bkというネットスラング)」であり、それを煽っている人間も「bk」の一言で済ましたい。ここで「バカ」と素直に言わないのは、彼らが「ネットの国」に住んでいるからで、その土壌での言語に変換するのが流儀であろう。
ただし、自分が「bk」だと自覚している人間もいる。僕の知り合いにもそういう青年がいた。一日中、ネットにハマっていた自分を「kz(クズ→kuzu→kzというネットスラング)」だと自称していたが、その後、就職に成功し無事サラリーマンになった。それでも趣味としてのネット配信は続けており、確かに以前ほど過激な内容ではないが、彼は今が幸せだと語っている。
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