下記の記事は現代ビジネスon-lineからの借用(コピー)です
コロナ禍に関する天皇、皇后両陛下からの「ビデオメッセージ」が発せられてからおよそ1ヶ月予が経ちました。
メッセージは、元日の午前5時半という異例の時間に宮内庁ホームページで公表されました。そのせいか、現在の上皇さまが在位時代に行った東日本大震災でのメッセージや、退位への思いを伝えるビデオメッセージのように、テレビが一斉に同じ映像を流すという現象は起きず、あまり目立たなかったように感じます。宮内庁はもっとメディアが扱いやすい時間帯に公表のタイミングを設定できなかったのかと、少し残念に思います。
天皇陛下の言葉の内容と、18年ぶりとも言われる雅子さまの肉声からは、両陛下の国民への眼差しや、陛下の雅子さまに対する深い愛情など、多くを読み取ることができ、お二人に近い人々からは称賛の声が聞かれます。宮内庁のホームページに今もしっかりと動画が掲載されていますので、改めて御覧になることをお勧めします。
宮内庁のウェブサイトを引用
心配の余り、動く唇
動画は全部で6分45秒の長さがありますが、最も目を引きつけられるのはやはり、最後の30秒で語られた雅子さまの言葉と声です。
〈この1年、多くの方が本当に大変な思いをされてきたことと思います。今年が、皆さまにとって少しでも穏やかな年となるよう心からお祈りいたします。また、この冬は、早くから各地で厳しい寒さや大雪に見舞われています。どうぞ皆さまくれぐれもお身体を大切にお過ごしいただきますように〉
天皇や皇太子は毎年、自身の誕生日に際して記者会見を行うのが通例ですが、皇太子妃、あるいは皇后には、そのような慣習はありません。従って雅子さまは長い間、記者を前にして直接何かを話すということがありませんでした。さかのぼってみると、適応障害の長期療養に入る前の2002年、オーストラリアなどを訪問する前に記者会見をしたのが最後になっています。
今回のビデオメッセージは、直接記者たちを前にしたわけではありません。しかし、カメラのレンズ越しとは言え、すべての国民を見据えて肉声を発したのは、じつに18年ぶりと言っていいでしょう。
2002年の皇太子(当時)一家〔PHOTO〕Gettyimages
ビデオ全体を通じて、まず私がはっとさせられたのは、雅子さまが話している間の、天皇陛下の唇の動きです。陛下と雅子さまは並んで座っていて、お二人ともずっとカメラを見続けていますが、雅子さまの話が始まって間もなく、その言葉に合わせるように、音を発さぬまま陛下の唇が動き出すのです。
映像の様子から察するに、お二人はカメラの横にあるプロンプターに映し出される原稿を見ながら話しているとみられ、陛下の唇は、雅子さまが無事に言葉を述べられることを願って「心配のあまり」動いてしまったとしか思えません。
雅子さまの表情は終始穏やかでしたが、何しろ30年以上前の「お妃選び」の頃から病気療養の最中まで、ずっとカメラのレンズに追いかけられ続けた経緯がありますし、まっすぐカメラに向かって語りかけるのはおそらく初めての経験だったはずです。その緊張感には私たちの想像を超えるものがあり、妻を思いやる陛下の口元はそのために思わず動いてしまったのではないでしょうか。
皇后としてのビデオメッセージでは、これまで、1998年に現在の上皇后さまがインドでの国際児童図書評議会(IBBY)世界大会でビデオを通じて講演したのが唯一の例でした。今回は皇后単独ではないものの、適応障害の症状が深刻だった時期を乗り越え、強い負荷がかかる撮影の緊張も克服してここまでの実績をつくったことは、かけがえのない大きな自信になったことと思います。
雅子さまを知る知人の一人はメッセージを見た感想を「今の雅子さまには、得も言われぬ存在感がある。長い間辛い思いをしていたのに、そのことを一切口外せずにじっと耐えてきたからこその存在感だと思う。そこにいるだけで誰もが癒される」と話しています。
「信じる」という言葉
今回のメッセージは、新年という機会をとらまえてはいるものの、事実上「コロナ禍の国民に向けて」のメッセージであり、そのほとんどを、コロナ禍に関する言及が占めています。単純な比較は無意味であることを承知しながらも、あえて上皇さまが2011年3月、東日本大震災の5日後に出したメッセージと比べてみたいと思います。
天皇陛下のメッセージで注目すべきは「信じる」という言葉だと思います。陛下はこのように語っています。
「今、この難局にあって、人々が将来への確固たる希望を胸に、安心して暮らせる日が必ずや遠くない将来に来ることを信じ、皆が互いに思いやりを持って助け合い、支え合いながら、進んでいくことを心から願っています」
上皇さまの震災メッセージには「信じる」という単語はひとつもありませんでした。国民に対する呼びかけの核心部分は「この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています」との表現です。主語は一貫して天皇自身であり、天皇は国民に相対して、その安寧を「祈り、願う」ものであるとの認識が、はっきりとうかがえます。
対する今回の陛下のメッセージにも「願う」は2回登場しますが、それ以上に「私たち」との表現が頻出し、国民と天皇、国民と皇室が一体であることを強く打ち出している印象を受けます。その上で、ともにこの困難を乗り越えられることを信じている、と伝えているように感じるのです。
昨年末に発表された雅子さまの誕生日に際しての「ご感想」でも、私は同じような感慨を受けました。「今後、私たち皆が心を合わせ、お互いへの思いやりを忘れずに、困難に見舞われている人々に手を差し伸べつつ、力を合わせてこの試練を乗り越えていくことができますよう、心から願っております」との言葉です。
ここでの「試練を乗り越える」の主語は、「国民」ではなく、「私たち」です。そこには「国民がこうあってほしい」という願いだけでなく、「私たちはきっと乗り越えられる」という、自分たちとともにある人々への強い信頼感が感じられます。それはきっと、天皇、皇后両陛下が日頃から深く共有している思いなのでしょう。
女王と国王
事態の好転や、人々の行いを「信じる」という天皇陛下の表現は、これまでの皇室になかった欧州王室的なふるまいであるような気もします。コロナ禍が始まってまだ間もなかった昨年4月、英国のエリザベス女王は演説で「we will」という表現を連続させ、このように語りました。
「私たちはきっとこの病気を克服する。より良い日々が戻ってくる。友達にもまた会える。また家族と一緒にいられるようになる。みなさん、またお会いしましょう」
今回の両陛下の言葉と、どこか通じるところがあると感じるのは私だけでしょうか。
コロナのような事態において、天皇のメッセージは、国民に何かの我慢を強いたり、何かを諭したりすることになりかねず、政府の施策の是非に話が及んで政治性を帯びる危険性がある、として反対する声も数多くありました。しかし、実際にメッセージは実現に至りました。この言葉に政治性や何かの問題があるでしょうか。どこにもないと私は思います。
話は飛びますが、ブータンの国王は国民への演説でこう語りました。「パンデミックはすぐには終結しません。しかしながら国民が皆で団結し協力すればこの逆境を乗り越えることができると確信しています」
「信じる」は人々に希望と勇気を与える言葉です。思慮深く表現を練りさえすれば、天皇や皇后が語ることのできる言葉はもっともっとある。そんなふうに感じさせてくれた新年のメッセージでした。
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