下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です。
その日、3人の子をもつ美帆さん(41歳・仮名)は、不安な一夜を過ごしました。夫から「コロナ禍が拡大したので在宅勤務が決まった」と告げられたのです。以前から気に入らないことがあると事あるごとに暴力を振るってきた夫。共働きでともに在宅時間が短いこともあり、何とかやり過ごしてきたけれど、四六時中、顔を突き合わせることになったらどうなるのか。その予感は的中。朝から苛立っていた夫から激しい暴力を受けたのです。
「もう、ここでは生きていけない」
「鏡を見ると、はっきりと顔が腫れていました。腫れた顔を自分で確かめるうちに精神的なショックが広がって、今日はもう会社に行くことはできないと、休むことを決めました」
夫はいつも通り出社。美帆さんは、夫が部屋から出ていくのを見届けて、発作的にこう思ったと言います。
「もう、ここでは生きていけない」
荷物をまとめ、未就学児を含む3人の子どもと家を出た美帆さん。足は自然と自治体の女性支援窓口に向かっていました。
夫の家庭内暴力が始まったのは、5年ほど前にさかのぼります。
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「首を絞められ、殴られ、蹴られる。これがいつものパターンでした。私は暴力をふるわれながら、『あともうちょっと耐えれば終わるんだ、それまで我慢すればいいんだ』とやり過ごすことが習慣になっていました。だんだん感覚が麻痺していったんです」
そうすることでしか、自分を、そして子どもたちを守ることができないと考えていたからでしょう。
暴力に怯える「ステイホーム」
しかし、コロナ禍によって美帆さんを取り巻く状況は大きく変化します。感染拡大を防ぐために「ステイホーム」が合言葉となり、家にいることが多くなった子どもたちに加え、美帆さんも夫もまた在宅勤務体制となり、家族が顔を突き合わせる時間がこれまでにないほど長くなったのです。
「夫は出張が多く、帰りも遅い仕事でした。ですから何とかなっていた部分もありました。『ワンオペ育児で大変でしょう』と言われるけれど、ワンオペのほうがどれほど良かったかしれません」
世の中にはステイホームによって、幸福度が上がったという家族がある一方、美帆さんと子どもたちのように、安心、安全が確保されず、暴力に怯えながら暮らす家族もあるのです。
世界の各都市でDV被害の増加
私は『ルポ コロナ禍で追いつめられる女性たち』(光文社新書)で、シングルマザーを襲う困難、女性非正規中心のエッセンシャルワーカーの受難、男性と女性の待遇格差を如実に現した「テレワーク格差」の実態などを取材しました。中でも強い衝撃を受けたのが美帆さんはじめ、「ステイホームできない女性たち」からうかがった話の数々でした。
DV被害の増加など女性に対する困難が集中しているのは、日本に限ったことではありません。ロックダウンした世界の各都市で電話相談窓口やシェルターへ助けを求める女性が増加しています。
これを受けて2020年4月、国連のグテーレス事務総長は「シャドーパンデミック」という言葉で、コロナ禍における女性の困難に警鐘を鳴らし、女性と女児を守るよう、各国政府へ対応を求めました。「シャドーパンデミック」。つまり、女性に対する可視化されにくい暴力が拡大している、という意味です。
窓口に寄せられた相談件数は氷山の一角
日本政府も配偶者暴力相談支援センターに加え、24時間対応の相談電話の設置、SNS、メール相談を受け付ける「DV相談+(プラス)」事業を開始し、女性や子どもの保護のために、相談窓口を閉じないことなどの支援強化を打ち出しました。
これらの窓口に寄せられた相談件数は、2020年4月以降、前年の1.5倍ほどに増加しています。しかし、ステイホームが続く中、暴力を振るう人の目の前で相談ダイヤルに連絡することは不可能です。多くの相談窓口では、感染が一段落した時点での相談が最も多くなると言います。「相談したくてもできない人」「逃げたくても逃げられない人」は実際にはもっと多く、この数字は氷山の一角であることが考えられるでしょう。
美帆さんの場合、子どもの定期健診で相談したことをきっかけに自治体の子ども家庭支援センターなどにつながり、暴力をふるう夫から離れることを勧められていました。しかし、「夫から逃げよう」と思う反面、3人の子どもを抱える身としては、それは簡単なことではありません。美帆さん自身「いつもビクビクしながら暮らしていたけれど、大きな決断はできないままだった」と言います。
生活費を渡さない経済的DVが増加
夫は、出産を機に仕事を辞めた美帆さんに対して、「早く働いて金を入れろ。タダ飯を食うな」と頻繁に暴言を吐いていました。コロナ禍では、パートのシフト減などで稼ぎが減った妻に不満を爆発させたり、生活費を渡さないといった経済的DVが増えていると取材を通じて実感しています。
美帆さんは末っ子の出産後、仕事に復帰し、私の取材の半年前には正社員に採用され、夫から逃げるための足場を少しずつ固めていました。しかし、いやだからこそ、夫から逃げる選択にためらう部分もあったと話します。
通常、DVから逃れた女性たちは婦人相談所の一時保護所などに入ります。しかし、そこでは身の安全を確保するという理由から、携帯電話やインターネットは使用できず、外部とのコンタクトが取れなくなってしまいます。その間は通勤や通学ができなくなりますし、夫との接触を避けるため遠方への引っ越しを余儀なくされる人もいます。住み慣れた土地を離れ、それまで築いてきた生活基盤を失ってしまう場合も少なくないのです。
「どうして被害者である側の私たちが、仕事も生活環境も友人関係も奪われなければいけないの、という思いもありました。でもステイホームが続けば、夫に殺されるのではないかと思ったのも事実です」
家を出てから半年後には離婚が成立
美帆さんは以前からつながりのあった自治体の支援窓口を訪ね、民間支援団体が所有するシェルターを経て、アパートに入居。仕事を辞めず、テレワークの体制で3人の子どもと一緒に、安全に暮らすことができるようになりました。
子どもたちがよく笑うようになった、と美帆さん。
「元夫は勉強を教えると言っては、子どもができないのに腹を立て当たり散らしました。気分屋で感情を抑えられない人だったんです。子どもはお父さんの機嫌を損ねたくないので、いつも萎縮して家で過ごしていました。だからこそ今、特に上の子の甘えっぷりが増していますね。これまでの反動なのでしょうか」
調停を経て、家を出てから半年後には離婚も成立。しかし年収は児童扶養手当等を含んでも300万円に満たず、3人の子どもたちとの生活はギリギリの状態といいます。
もっとも、美帆さんの場合は比較的早く離婚が成立したケースでしょう。暴力から逃れ、家を出て別居をはじめた人の中には、離婚の話し合いが長期にわたり進まないケースもままあります。この場合、ひとり親世帯とはみなされないために、児童扶養手当等を受け取れません。こうした「プレ・シングルマザー」が抱える問題が存在することも、見逃してはならないでしょう。
さまざまな事情で家に居られない人たちの存在が顕在化
最初の緊急事態宣言下では、ネットカフェやファストフード店、24時間営業のファミレスまでもが閉まりました。これらの空間は、経済的な問題を抱える人、家庭内に居場所がない人などにとって、都会の貴重な“セーフティネット”として機能しているのだということをあらためて感じました。同時に、さまざまな事情で家に居られない人たちの存在が顕在化したということもできるでしょう。
「ステイホーム」とは考えてみれば、“良い家族幻想”のもとに唱えられているところがありはしないでしょうか。家族の絆を深める「#おうち時間」、幸せな家族の姿をSNSに投稿すること自体を否定するつもりはありません。ただ、安全に「ステイホーム」できない事情を持った人たちがいることを忘れてはならないと思うのです。
コロナ禍での「女性不況」
また、単身者の中には人と話す機会が激減し、孤立を深めている人もいます。特に中高年単身者の貧困率は非常に高く、孤立しがちですが、その困難に目が向けられることはほとんどありません。精神的なつらさを抱えている人や声が届きにくい人たちにもっと想像を及ぼすべきではないでしょうか。
またコロナ禍での雇い止めの影響は女性に集中しており、「女性不況」とも言われています。しかし、女性に集中している暴力や経済的困難は今にはじまったことではなく、コロナ禍以前から存在していました。それがコロナ禍という人類未曾有の危機によって深刻さを増し、あからさまになったに過ぎないのです。
社会の至るところに存在する「シャドーパンデミック」を見逃さず、拡大を防ぐこと。コロナ禍で顕在化した女性が置かれてきた構造的困難に目を向け、根本的解決を目指すこと――アフターコロナの時代に向けての重要な課題は、ここにあるのではないでしょうか。
飯島 裕子
いいじま ゆうこ
ノンフィクションライター
東京都生まれ。大学卒業後、専門紙記者として5年間勤務。雑誌編集を経てフリーランスに。人物インタビュー、ルポルタージュを中心に『ビッグイシュー』等で取材、執筆を行っているほか、大学講師を務めている
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