下記の記事はダイアモンドオンラインからの借用(コピー)です。
緊急事態宣言さらに延長
日本社会は「医療化」
新型コロナウイルスの感染者数が連日のように過去最多を更新する中、政府は17日、東京都など6都府県の緊急事態宣言の延長と新たに7府県の対象追加を決めた。
その一方で、新型コロナを、感染法上の「第二類(結核やSARS等)相当」、部分的には「第一類(ペストやエボラ出血熱等)」並みの厳格な扱いをしていたこれまでの運用を改めて、季節インフルエンザ並みの「第五類相当」に変更することを厚生労働省が検討し始めたことも報道されている。
このことは1年以上前からさまざまな識者が提案していたことだが、これまで政府では積極的に議論されてこなかった。どうして今になって検討を始めたのか。
緊急事態宣言があてどもなく繰り返される要因として日本社会の「医療化」という問題に突き当たる。
インフルエンザと同じ「五類相当」に
変更しようという議論の意味
政府が感染症法上の扱いの変更を検討していることには、短期的な意味と、中長期的な意味がある。
短期的な意味というのは、陽性判明者がこれまでにないペースで増え、もはや「二類相当」の扱いを続けることが、医療や保険行政の面で人員的にも予算的にも限界に来ているということだ。
これは、今月初旬にその解釈をめぐって物議を醸した、重症者や危険性が高いと判定された人以外は、原則自宅療養にするという政府方針の延長線上にある考え方だ。
ワクチン接種が進み、特に医療従事者の接種がほぼ完了しているのと、ウイルスがすでに日本中にかなり蔓延し、無症状者の隔離にあまり意味がなくなったと推測されることから、限界状態にある医療資源を集中しようというわけだ。
この考え方には一定の合理性があると思われるが、こうした当面の事態を回避するような対応には、「無策の果てに国民を見捨てるのか」といった批判が強まるのは必至だ。
オリンピック・パラリンピックのために準備した施設を中軽症の患者の収容施設として使えばいいといった声も上がっている。
中長期的な意味というのは、コロナの感染や被害が一定の範囲に収まったら「収束」とみなし、特別な扱いをせず、季節性インフルエンザと同等の扱いにしようということだ。
もともと、何をもって「収束」とするかをはっきりさせておけば、休業や営業自粛要請、ワクチン接種で国民の協力も得やすくなると考えられる。
しかし政府はこれまで具体的な数値でゴールを示そうとしてこなかった。数値を出してしまうと、「経済を回すために○○人以下だと見殺しにするのか」という批判が起こる可能性があるので、それを怖れたのだろう。
もともと国家の政策は
功利主義的性格を帯びる
現代の政治家は、少数の人を見殺しにすると言われるのを強く怖れる。
「最大多数の最大幸福」という考え方で知られる功利主義は、多数の人の幸福のために少数派を犠牲にすることを含意しているようにも受け取られる。だから、政治家や官僚、知識人の多くは世間から功利主義者と思われることを嫌う。
「○○人の□□という大きな利益のために△△人に犠牲になってもらう方が合理的だ」と取れるような発言をしたら、徹底的にバッシングを受け、キャリアが台無しになってしまうと思うからだろう。
しかし、ダムや堤防、廃棄物処理場などの建設にしろ、道路の拡張工事にしろ、都市の区画整備にしろ、公共事業は何らかの形で多数の住民のために少数の住民に犠牲を強いる行為だ。生活・経済環境の変化で職を失ったり、中には追いつめられ命を失ったりする人もいるかもしれない。
医療資源の再分配政策として、都道府県ごとの病院や医師の配置を替えたり、ある病気についての診療・研究を縮小し、別の病気の対策にその分を再投資したりすることも、そうである。
ある人たちの命が助かる確率が上がる一方、別の人たちのそれは下がる。国家の政策は、科学研究の成果を踏まえて費用対効果を上げようとすればするほど、功利主義的性格を強く帯びることになる。
新型コロナに対する
国民の“特別”のデフォルト
だがコロナ禍以前から、緊急搬送先が見つからず亡くなる人や、近くに専門的な病院がないためがんなどの発見が遅れて亡くなる人はいた。旧型コロナウイルスやインフルエンザで亡くなる人の中にも、早く治療を受けていれば助かったはずの人もいたかもしれない。
しかしそうした問題について、マスコミはそれほど取り上げず、SNSなどでも話題にならなかった。
どうやってインフルエンザや風疹の陽性判定をすべきか、誰が重症化しやすいか、どこで療養すべきかを、本気で気にする人はあまりいなかった。
いわば医療体制が不完全なために亡くなる人がいることは、多くの国民にとって「デフォルト(定番、普通のこと)」になっているといってもいいのではないか。
仮に当該の病気の治療のための予算を大幅に増やしても、別のところにしわ寄せが行くので、あまり深掘りしたくないのかもしれない。
新型コロナの場合は、初期の段階で、「『外』からやってきた未知の病原体であり、国民の生命にとって脅威であり、徹底的に封じ込めねばならない」というのがむしろデフォルトになってしまい、従来の疾病とは次元が異なる、国民の強い関心の対象になった。
だから、他の感染症への従来の対応と具体的に比されることもなく、(たとえ無症状の人が多く含まれていても)陽性判明者の数が増えることにパニック的な反応が起きるのだろう。
「五類相当」の対応にしたら、どうなるのか検討することさえ拒絶反応を起こす人が多い。
感染症で発症するとどうなるのか、何人くらいに感染させる可能性があるのか、致死率はどれくらいか、入院できるのか、といったことに国民が関心を持つのは悪いことではない。
しかし、あらゆる病気に、今の新型コロナと同じ程度の関心を持ち、心配し続けたら日常生活は送れないし、どれだけ医師や看護師、保健所職員がいても足りず、未来永劫“医療崩壊状態”が続くことにならざるを得ない。
こうした新型コロナへの“特別な反応”は、行動経済学で言うところの、フレーミング効果が働いている、つまり同じものでも情報のどこに焦点や関心が当てられるかで認識が違うということなのかもしれない。
日本人の医療的な管理政策を
受け入れやすいメンタリティー
だが私は、より深い問題として、日本人の多くが、自分のたちの日常生活に医療・生命科学が入り込み、「健康」について専門家の言うことを過剰に意識し、(マイナンバーカードや機密情報保護法等には徹底的に反対する人でも)医療的な管理政策を受け入れやすいメンタリティーになっている、ことがあるのではと思う。
社会学者のイヴァン・イリイチは『医療の限界』(邦訳タイトル『脱病院化社会』、1975年)で、「健康」に関係するあらゆる問題が、医療専門家によってコントロールされるようになった結果(医療化)、さまざまな新たな“病気”が生み出され、人々は常に何らかの健康不安を抱え、医療的な措置を必要とする状態に置かれていることを、「医原病 iatrogenesis」と呼んで問題視している。
例えば、受動喫煙を防止するための禁煙やメタボ判定のための職場での定期健康診断の義務化はデフォルトになった。健康診断を受けないと、大学への入学や就職ができないというのも、医療化の帰結である。
コロナでも、政府がワクチン接種は義務でないと強調しているにもかかわらず、多くの大学が、学生や教職員が新型コロナワクチンを接種している。表向きは対面授業を行うためとしているが、これも医療化の帰結であろう。
これによって、新たな「医原病」が生み出されるかもしれない。
自宅療養のコロナ感染者が
亡くなることへの批判の正体は?
医原病には、(1)臨床的医原病、(2)社会的医原病、(3)文化的医原病の3つの種類がある。
臨床的医原病とは、治療する必要がない、あるいはその療法では効果がないと分かっているにもかかわらず、医師の判断で過剰な投薬や不要な手術を行い、かえって深刻な病気を引き起こしてしまうような事態だ。
子宮頸がんワクチンの予防接種の深刻な副反応によって障害を負ってしまうことなどはその最たる例だが、新型コロナワクチンについても、すでに同様のことが議論になっている。
社会的医原病というのは、血圧測定や心電図の測定などを含む各種の定期健診、人間ドック、寝たきりになりがちの老人に対するシームレスなサービス、カウンセリングなど、生活全般が「医療化」され、全ての人が潜在的な患者として扱われるようになっていることだ。
医師が健康のさまざまな側面をチェックする機会が増え、その際のアドバイスに逆らうことが、心理的、制度的に難しくなり、例えば、病院以外で亡くなるのは、医療制度上、異常なこととして扱われる。
コロナで自宅療養中の感染者が自宅で亡くなるのが異常事態として注目を集めるのは、医療崩壊の深刻さを示すだけではなく、そうしたメンタリティーが一般人にとっても常識になっているからかもしれない。
そして文化的医原病というのは、人が病やけがで苦しみに耐えながら生きることや、一緒に住んでいる家族の中に死に近づいている人がいることには、いかなる積極的な意義も見いださず、痛みや死を日常生活から隔離しようとする価値観が浸透し、心理的な対応を含めて医者の手を借りざるを得なくなっているということだ。
その結果、慢性的な「痛み」があれば、たとえ命に関わるほどのものではなく、我慢すれば何とか仕事や日常の用事をこなせても、「治療」を受けるし、不安があれば検診を受ける。
死に近づいている人がいれば、入院して緩和ケアを受けさせ、苦しみや不安を感じている状態を他人に見せず、本人にもなるべく意識させないようにするということになる。
いわば、「死」それ自体が非日常化し、伝統的な社会において人々が死を迎えるために行っていた儀礼や身振りは失われていく。
病や死に対する伝統的な向き合い方が失われてしまったことを嘆いても仕方ない。イリイチもそこには必ずしもこだわっていない。
問題なのは、自分は今現在「健康」なのか、この程度の痛みや不安であれば、耐えていけるので、(医者の助言に逆らったとしても)自分でどうにかしよう、それで取り返しのつかないことになったとしても自分の責任だ、などと考える自己決定能力が育っていない、むしろ欠如しつつあることだ。
弱まる社会の自己決定能力
政治指導者は責任を自覚すべき
現代的な医療では、患者が自己決定するための条件としてインフォームド・コンセント(IC)が重要だと言われ続け、重要な疾患に対する手術など具体的治療の決定に際しては、今では細かくICを行うことが通常になっている。
しかし最も肝心の「私は『健康』かどうか」、「健康維持のためにどの程度の予防をすべきか」といった自己決定がないがしろにされ、専門家に任せるべき、という風潮が社会全体で強まっている。
そのためいつのまにか「日常の医療化」が進み、日本社会に「医原病」的症状が蔓延しているように思う。
欧米では、ワクチン接種が進んでいるとはいえ、日本とはケタ違いにコロナ感染者がいる状況で、マスクなしの日常に戻っている国もいる。「緊急事態宣言慣れ」が言われる中でも、緊急事態宣言があてどもなく延長され、そのたびに首相が“専門家任せ”の他人事のような発言を繰り返すのを聞くにつけても、そう思わざるを得ない。
私は別に、新型コロナはたいしたことはないので、すぐに「五類相当」にすべきと言いたいのではない。一般の病院でも治療できるよう徐々に措置を緩めていけばいいと思う。
ただ、どれくらいのリスクや社会の痛みであれば許容すべきか決めるのは、感染症の専門家でも公衆衛生の専門家でもない。彼らは、決定する権限を持った人たちが正確なデータに基づいて判断できるよう情報提供するだけだ。
政権を担う政治家たちは、たとえ非人間的な功利主義者とののしられても、自分たちが収束の基準を決めねばならないことを自覚すべきだ。
仲正昌樹:金沢大学法学類教授
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