史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

饒速日命

2020-09-13 | 古代日本史
天神の子としての饒速日命
次に饒速日命(にぎはやひのみこと)について軽く考察してみます。
物部氏の遠祖とされる饒速日命は、神武帝の東征以前から奈良盆地を支配していた豪族であることが史書に明記されています。
前述の通り正史の『日本書紀』によると、神武帝が東征に臨んで言うには、聞けば東の方に美しい国があり、そこへ天磐舟に乗って天降った者がいるという。思うにその地は大業を広め天下を統べるに足るだろう。恐らく六合の中心である。天降ったのは饒速日という者だろう。どうして行って都しないことがあろうかと。
要はユダヤ人とイスラエルの関係と同じく、その後も長く大和朝廷の置かれた奈良盆地は、本来皇室の祖先とは縁の薄い他人の土地であり、神武帝はそれを武力で奪い取ることによって建国した訳です。

その饒速日の出自についても『日本書紀』では、神武帝と同じく天神の子であることを認めていて、その点では饒速日もまた正統な統治者であり、彼が討伐を受けるほどの暗主暴君だったという記録もありません。
その饒速日と神武帝の関係については、熊野から再び奈良盆地に攻め入った神武帝に対して、饒速日の義兄に当たる長髄彦の発した言葉が、最も明確に物語っていると言えます。
長髄彦が神武帝に詰問して言うには、自分は(天神の子である)饒速日命を主君に奉じている。そもそも天神の子が二人もいるというのか。どうして更に天神の子などと称して人の国を奪おうとするのか。自分が思うにそれは偽称であろうと。
それに対して神武帝は、天神の子は多くいると答えており、言わば源氏や平氏に連なる諸豪族同じように、饒速日命と神武帝はどちらも皇祖高皇産霊神を始祖とする別系統の天神だとしています。

例えば『新撰姓氏録』に於ける饒速日命の扱いは、中臣氏の祖とされる天児屋根命や、大伴氏の祖とされる天押日命と同じく「天神」であり、瓊瓊杵尊から三代の間に分かれた氏族を表す「天孫」ではありません。
因みに同じ神別でも大国主命や椎根津彦は「国祇」であり、神武帝以降に皇族から枝分れした氏族は特に皇別と言います。
また『先代旧事本紀』の天神本紀では、饒速日命を天火明命(天忍穂耳命の子で瓊瓊杵尊の兄)の同一神とし、天照大神から十種の神宝を授かり、高皇産霊尊から防衛として三十余名の随伴を与えられて、神武帝に先立ち河内国に天降ったとします。
しかし官撰の『新撰姓氏録』では天火明命を天孫、饒速日命を天神として両者を明確に分けており、饒速日とその子孫を瓊瓊杵尊の系統には入れていません。

饒速日命と東征
また饒速日命と可美真手命を祭神とする石切劔箭神社の社史によると、やはり饒速日命は天照大神の孫にして瓊瓊杵尊の兄に当たる神であり、天照大神から十種の神宝を授かり、大和の地に建国の命を受けて高天原を発ち、天磐舟に乗って生駒山に天降ったと伝えます。
或いは後の神武帝と同じく、船団を組んで高天原を出立した饒速日命は、宇佐を経て瀬戸内海に入り、河内に上陸して生駒山に登ったとも言います。
やがて饒速日が豊かな国を築いた頃になって、その後を追うように磐余彦が日向に兵を挙げ、大和を奪うべく東征を行ったという流れになるので、結果として饒速日は瓊瓊杵の子孫の露払いをした形になっている訳です。
また大和朝廷の望む筋書きがそうなるのは無理もありません。
しかし饒速日が磐余彦に先立って九州から船出した、つまり饒速日もまた西で天降った後に東へ向かったという物語は、天神の子の降臨の地を高千穂に限定することによって、大和朝廷の正統性を取り繕うための創作でしょう。

では饒速日の天降った地が九州ではなく畿内だったとしたら、つまり饒速日と九州の間には殆ど関連性がなく、彼が初めから大和や河内の周辺に出自を持つ豪族だったとしたらどうなるでしょうか。
そして天孫系(瓊瓊杵尊の子孫)と饒速日は共に天神の子とされている訳ですから、当然これは国史の中で高天原と呼ばれている地はどこなのか、つまり畿内と九州のどちらが天神と言われる人々の発祥の地なのかという問題とも絡んできます。
要するに饒速日命が畿内土着の貴族であり、且つ大和の地を継承していたとすると、その時点で九州が高天原である可能性はほぼ消えますから、彼こそが天照大神の孫であり、高天原の嫡流という帰結も有り得る訳です。
逆に饒速日命もまた九州出身だったとすると、当然天神の故郷即ち高天原は九州ということになり、天照大神から東国開拓の命を受けた彼が東征して大和に建国し、やがて本家の一派がその後を追ったという形になります。

無論今となっては史実など知る由もないのですが、現時点で可能な限りの合理的な仮説を探ってみると、恐らく考えられるのは次の二つです。
まず一つは、仮に高天原が九州だった場合、饒速日命は東国開拓のために船団を整え、諸神を従えて畿内への遠征を行った天神で、神武帝の東征記はこれが原型になったものと思われます。
ではその饒速日に取って代った大和朝廷はどこから来たのかというと、恐らく神武系の第八代国牽(孝元帝)や九代大日日(開化帝)が饒速日朝の重臣で、饒速日命の死後、大日日の子の御間城入彦五十瓊殖(崇神帝)が下剋上によって畿内を掌握したものと推測します。
なればこそ記紀の崇神紀は、帝がまず大物主神を祭り、次いで四方に将軍を派遣するところから始まる訳です。
そして崇神帝の孫の景行帝が九州へ遠征するに及んで、故地である高天原を国家に吸収したのでしょう。

もう一つは、高天原が畿内だった場合、饒速日命こそが天照大神の後継者だった確率が高くなり、そうなると父親として考えられるのはやはり忍穂耳尊でしょう。
やがて饒速日命が民心を失ったか、或いはその死後に国内が混乱するに至って、邪馬台下の北(西)の一大率や律令制下の大宰府のように、鎮西の要として代々九州に勢を張っていた大日日と五十瓊殖の親子が反旗を翻し、筑前から築後・日向・豊と反時計回りに移動しながら兵を募り、遂には高天原を継ぐべく大船団を組んで東征したものと推測されます。
そしてこれが高天原の終幕であり、以後高天原は神話の中にだけ存在する国となり、日本は崇神帝の子孫が統治する国となった訳です。
今のところ考えられるのはこの二つでしょうか。

その後の高天原
記紀を始めとする日本の史書には、意図的に脱落していると思われる箇所がいくつかありますが、その一つに高天原の「その後」があります。
神話の中で神々の国として登場する高天原は、天照大神の岩戸隠れを経て素戔嗚尊が追放されると、そこで物語が一旦停止してしまい、次章で突然「葦原中国は我が子孫の統べる国である」と宣して地上の出雲から国を譲らせた後、その出雲から遠く離れた高千穂に瓊瓊杵尊を天降らせるという形で歴史の表舞台から退場します。
その後の高天原は天上にあって天孫を見守る場所であり、そこに居る神々も既に人としての神ではなく、永遠に歳を取ることのない神々です。
かつてこの日本のどこかにあった筈の高天原が、いつの間にか地上から姿を消してしまっている訳ですが、まるで申し合せたかのように全ての史書がその間の経緯を一切語っていないため、高天原の終焉即ち神代から人代への移行については今も解明されぬままとなっています。

もう一方の国史である『古事記』では、兄師木と弟師木が撃たれると、邇芸速日は神武帝に降参し、天津瑞(天神の御子であることを証明する品)を献じて仕えたと簡潔に記すのみとなっています。
伝承によっては皇軍が大和に進攻したのは饒速日の死後であり、神武帝に降ったのは可美真手命だったとするなど、饒速日側が献上したという瑞宝も含めて、細かいところでは多少の相違は見られるものの、大まかな流れは各書ほぼ同じと言ってよいでしょう。
言わば関中の眼前に布陣した劉邦に対して、秦王子嬰が皇帝の玉璽を献じて降服し、宮殿や財宝を尽く明け渡したようなものです。
そして饒速日が天神の御子の証となる品々を神武帝に献じたという事実は、饒速日命とその子息もまた本来ならば大和に王たる血筋を有していたことを物語るものであると言えます。


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