史書から読み解く日本史

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漢の躍進

2019-02-25 | 有史以前の倭国
高祖は白登山の戦いから五年後の高祖十二年(前一九五年)に世を去り、弱冠十六歳(諸説あり)の皇太子が二代皇帝として即位しました。これが恵帝です。
しかし生来柔弱だった恵帝は、実母である呂太后の暴虐や呂一族の専横に気を病んで政務を放棄し、日々酒色に耽って在位八年で崩じました。
その後はしばらく呂氏が朝権を握っていましたが、呂后の死と共に呂一族は粛清され、高祖の子で代王に封ぜられていた劉桓が、宗族や重臣の合議によって長安へ迎えられて即位しました。これが名君の誉れ高い文帝です。
実際には恵帝の後に呂氏によって小帝が二人立てられているので、代位から言えば文帝は五代目になりますが、実質的な第三代皇帝と言えます。

後世この文帝と、その子の景帝の治世は「文景の治」と称され、善政によって戦乱後の国内を安定させて、後の武帝や宣帝へと続く漢帝国隆盛の基礎を築いた時代とされます。
その統治の内容を要約すると、まず皇帝自らが質素倹約を旨として公費の無駄な出費を抑えたこと、田祖や賦役を軽減すると共に土木や戦役を極力控えることで民力を養ったこと、農業を始めとする産業全般の振興によって生産力を飛躍的に向上させたこと等が挙げられます。
無論そうした人為的な政策以外にも、戦国以来専ら戦争に向けられていた労力が生産活動に回されたこと、同じく戦国期以来の著しい技術革新が民生用に転換されたこと、国内が安定したことで民衆の生産意欲が高揚したこと等もあり、景帝の時代になると国民の生活水準が高祖の頃とは比べ物にならないほど向上し、それに伴って人口も急激に増加しています。

景帝が西暦紀元前一四一年に崩ずると、皇太子の劉徹が十六歳で即位しました。これが武帝です。
前二帝の統治ではち切れんばかりに国力を充実させた漢帝国を引き継いだ武帝は、十代での即位から十余年を経て朝廷内を完全に掌握すると、従来の平和主義と内政重視の方針を一転し、その強大な国力を背景に漢が世界の秩序を制定することで、恒久的な平和と繁栄を実現するための政策を推し進めて行きます。
また国策を方向転換するに至った背景には、余りに巨大になってしまった漢の活力が国内だけでは消費し切れなくなっており、その余力を海外へ向けざるを得なかったという事情もあります。
そして真先にその矛先を向けられた相手が匈奴だったのは、両者の因縁から言っても当然の成行きだったでしょう。

ただ漢がそこまで国力を充実させることができた要因の一つに、匈奴との間に結ばれた屈辱的な条約があったのも事実で、例えば漢は毎年匈奴の単于へ大量の物品を贈り続けていましたが、それで戦争を回避できるならば甚だ安上りなものでした。
と言うのは単于を物質的に満足させることによって漢への侵攻を抑えることができたからで、もしこの贈物がなければ単于自ら兵を率いて再び漢領を略奪するかも知れなかったからです。
また匈奴が兄で漢が弟という関係も単于の自尊心を満足させており、もしこれが後の宋と契丹のように漢が兄で匈奴が弟となっていたら、恐らく匈奴はその後も何かと難癖を付けては漢から金品をせしめようとしていたでしょう。

もともと漢と匈奴では、人口は無論のこと、経済力や軍事力など、どれを取っても漢の方が遥かに強大です。
にも関らず得てして文明国が遊牧民に苦戦するのは、常に全財産(家畜)と共に移動しながら生活している遊牧民の方が、こと戦争に関しては土地を守って定住している農耕民よりも有利であることや、成人男性の大半が兵士となる遊牧民に対して、農耕民の方は兵役に回せる男子の割合が限られてくること等が、主な理由として挙げられます。
言わば遊牧民は全兵力(つまり人口の約半分)を一つの戦場へ集結することができるのに対して、文明国の方は只でさえ人口に占める常備兵の数が少ない上に、国内の兵力を一方面に総動員するなどというのは到底無理な話ですから、要は農耕民が遊牧民とまともに戦争をしようとする場合、敵の何倍もの地力が必要となる訳です。

しかし遊牧民は基本的に何も生産しないので、実のところどれほど巨大化してもその総力そのものは予め量り知ることができます。
例えば匈奴が短期間でどれほど財産を増やし、どれほど領土を広げたなどと言っても、所詮それは他人の物を奪ったに過ぎず、匈奴自身が家畜の繁殖率を向上させたのでもなければ、不毛の土地を放牧地に変えたのでもありません。
言わば限られたパイを遊牧民間で取り合っているだけのことであり、漢人のように一定の国土の中で政治や経済によって国力を増大させたものではありませんでした。
加えて余りに広大となった領土は、逆に匈奴の最大の武器であった機動力と指揮命令系統を鈍化させており、武帝が親政を始めた頃には、既に両者の実力は完全に逆転していたのでした。

武帝の代に行われた匈奴征伐については後述しますが、元より終始順調に事が運んだとは言えませんし、全ての作戦が成功した訳ではなかったものの、結果としては漢の大勝に終っています。
そしてこの時の漢の軍事行動にあって特筆すべきは、匈奴に占拠されていた長城の内側を奪回し、辺境を侵していた部族を討伐したのに止まらず、敵の領内深くにまで進撃して、徹底的に匈奴を追討したことでしょう。
無論それまでにも戦国諸侯や秦によって幾度となく匈奴征伐は行われてきましたが、それ等はいずれも国境付近から匈奴を追い払うと、その後は長城を築いて国境を守るといったもので、文明国の方から積極的に北狄の土地へ攻め入るという発想はなかったと言えます。

そうした文明国側の受身の姿勢もまた、遊牧民との紛争で劣勢に立たされることが多くなる要因の一つとなっていました。
古来文明圏の人々は、遊牧民の襲来を一種の天災と捉えているような観さえあって、その対応や日頃の防備などは、文字通り天災に対するそれと似ていました。
ただ農耕民にとってこれは無理のない話で、家族と全財産を連れて移動している遊牧民ならばともかく、常に補給を必要とする文明国の軍隊が、どこまで続いているかも分からぬような平原で行軍を続けることなど物理的に不可能であり、下手に深入りして路頭に迷えば戦わずして全滅となります。
ならば始めから遊牧民の土地へ遠征しようなどという発想は捨て、境界を越えて侵攻してきた敵をその都度迎撃し、平時は長城で国境を守っていた方が遥かに現実的だと考えるのが自然でしょう。

但しそれも匈奴が北界の覇者として登場するまでの話で、漢帝国をも滅亡させるだけの力を持った敵の前には、そもそも専守防衛など何の意味もないのですから、やはり漢の方から長城を越えて敵領へ進攻し、匈奴の本拠地そのものを撃破するのが最も現実的な防衛策だった訳です。
まして匈奴を始め遊牧民の方は、まさか漢人が平原の奥深くまで進撃して来るとは思わないので、この匈奴征伐は後の西域遠征と並んで、漢帝国に対する周辺諸民族の姿勢を一変させる契機となっています。
少なくとも従来のように、たとい漢がどれほど強大であっても、どうせ攻めては来ないだろうなどという甘い認識は通用しなくなったのであり、以後それが何よりの抑止力となったのです。

しかし衛青と霍去病という二人の名将を擁し、十余年にも渡って行われた匈奴征伐では、最終的に匈奴を滅亡させることはできませんでした。
これは致し方のないことで、漢軍がどれほど匈奴を破って追撃しても、遊牧民である彼等は更に奥深い草原の彼方へと逃げてしまうからです。
漢にしてみれば匈奴の土地など奪ったところで使い道はなく、いつまでも大軍を駐屯させておく訳にもいかないので、叩いて追い払った後は引き揚げるしかないのですが、そうするとまた何処からともなく匈奴が戻って来るのでした。
そしてこれは仮に匈奴を滅ぼしたにしても同じことで、匈奴がいなくなればその故地に他の遊牧民が移住して来るだけの話なのであり、現に烏丸や鮮卑はそうして漢人の前に現れています。

また匈奴征伐に端を発する漢帝国の対外強硬政策というと、君主である武帝の個人的な思想や資質にばかり焦点を置いてしまいますが、無論これ等は武帝の独断で行われたという単純なものではありません。
例えば匈奴征伐そのものは高祖の死後も幾度となく発議されており、時には実行寸前まで話が進みながらも、結局はその都度否決されてきたという経緯があります。
否決に至った理由は様々ですが、一言で言えば常に反対意見の方が多かったということであり、やはり世論としては戦争よりも平和を願う声が強かったのです。
自然その国是は他の異民族や外国に対しても適用されるので、景帝の頃までの漢では、そうした周辺勢力との外交は概ね宥和政策を基本としており、仮に揉め事が起きても武力の行使は極力避けるようにしていました。

こうした漢の平和主義の根底には主に二つの力が作用しており、まず一つは、高祖亡き後の漢では政治の中枢が、次第に建国の功臣から文官へと移行していたことです。
そして文帝から景帝の頃になると、ちょうど戦乱の中に少年期を過ごした者達が社会全体の中核を担っていたこともあって、世相としても殊更に戦争を忌み嫌う傾向がありました。
馬上富貴を得たような重臣は文帝の代で殆ど姿を消しており、代って政府の要職に就いていた文官にしてみれば、教養と学識のある者が官僚となって天子を補佐するのが理想の制度であり、文民統治こそが治世の政治なのでした。
これが戦争ともなれば、文官よりも武官の発言が優先されるばかりでなく、国政が軍事を中心に運営されるようになるので、国内の平和を謳歌している者達にとっては、なるべく避けたいのが本音だったのです。

もう一つは、恵帝以後の漢が黄老の思想に基づく統治を実践していたことで、その所信を一言で表せば「無為自然」ということになります。
即ち漢のような大国を治めるには、大鍋で小魚を煮るようにするのが良く、政治が手を下して人為的に天下を動かすよりは、あるがままに任せておけば自然に治まるという考えです。
もともと漢の場合は、秦が統一の事業をほぼ終らせてくれており、国家の基本法や諸制度の制定も特に苦労しなかったので、恵帝の代には早くも無為の政治が可能な状況ではありました。
そして黄老の思想を最も支持していたのが文官と後宮であり、いつの時代もこの両者は、変化や改革といった安定しない状況が何より嫌いなのでした。

しかし武帝の頃になると、そうした平和主義者達は既に第一線から退いていて、漢帝国の繁栄を当然のように享受して育った世代が、文官武官を問わずに国家の中心的な役割を果たしていました。
言わば彼等は戦争を知らない世代であり、確かに国内に限って言えば、景帝の代には呉楚七国の乱が勃発していますが、これは王族の処遇を巡って起きた御家騒動とも言うべきもので、所詮は同じ文化を共有する者同士による兄弟喧嘩に過ぎません。
彼等のような新世代の官僚にとって、旧世代の平和主義などというのは凡そ馬鹿げた発想であり、現実の世界平和には何の役にも立たないばかりか、むしろ過度の宥和政策が却って紛争を招いていました。

そしてそれは無為自然についても同様で、確かに恵帝以降そのやり方が奏功したのは事実ですが、基本的には時勢と思想がたまたま適合したというに過ぎず、元より常時通用する政治理念でも何でもありませんし、未来永劫信奉すべき真理という訳でもありません。
実際に景帝の治世も後半になると、形骸化した諸制度と現実の社会との乖離が目立つようになっていて、実態に即した新法や大幅な改革が必要であることは誰の目にも明らかであり、当然それは政治がやらなければならないことでした。
しかし敢て何をしなくとも表向きは豊かで平穏無事だったので、無為に慣れた者達は現状に手を加えることを恐れて、特に何もしないまま時が過ぎていたのです。

前漢二百年を通して武帝の代というのは、漢という国家が一大転換期を迎えた時期だったと言えますが、その変革の原動力となっていたのは、文景両帝の代に蓄えた国力も然る事ながら、世代交替による国民の意識の変化と、行詰りを見せ始めていた社会を打破しようとする改革の気運であり、もし武帝の登場がもう三十年も早ければ、帝がいくら望んだところで殆ど何もできなかったでしょう。
言わば白登山の敗戦から七十年の時を経て、ようやく世論が逆転したのであり、その機を逃さずに国家を新たな進路へ導くには、偏に時の指導者がそれを決断できるか否かに掛かっていたのでした。

また建国から数十年も経つと、漢帝国以外に祖国を持たない者が国民の多数を占めるようになっており、所謂「漢民族」が形成され始めていました。
これが高祖の時代だと、そこに居たのは秦人や楚人といった互いに言葉も通じない人々であり、彼等は各々が別個に祖国を持っていました。
それは漢建国の功臣であっても変りはなく、果して漢朝初期の王侯や重臣達が漢帝に忠誠であったかどうかは疑問で、少なくとも自分達が漢という国家を構成する一個の国民だという意識は無かったと思われます。
しかし高祖から景帝までの六代(実質は四代)の間に、そうした戦国期の祖国などは遠い過去のものとなり、太古から続く黄河文明と長江文明を継承する人々にとって、漢帝国こそが唯一無二の祖国となっていました。

要は高祖の臣下が各国の寄集めだったのに対して、武帝の臣下は誰もが初めから皇帝の臣民であり、天子に仕えて国家のために尽力することを当然としていました。
同じく無為の時代の官僚と、武帝に仕えた官僚の異なる点を挙げれば、武帝の治世を支えた文武官は、(無論全員がそうだった訳ではありませんが)漢への帰属意識と強い愛国心を持っており、祖国の名誉と威信を貶めてまで、平和や繁栄に甘んじる気はなかったことです。
言わば武帝による漢の大躍進というのは、そうした新しい世代の人材が、やはり新しい時代の君主を得て、一気に古い殻を突き破ったとも言えるでしょう。
やがてそれは漢民族という枠をも超えて、辺境の異民族やその土地さえも吞み込みながら、漢帝国を東亜で唯一の国家へと押し上げて行きます。

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