史書から読み解く日本史

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衛青と匈奴征伐

2019-02-27 | 有史以前の倭国
衛青と霍去病によって行われた匈奴遠征と、その間の対外関連の出来事を年代順に略記すると、次のようになります。

紀元前一四一年三月   皇太子劉徹(武帝)即位。
建元元年(前一四〇年) 武帝元年。後世遡って元号を建元と定める。元号の始め。
建元二年(前一三九年) 張騫を西域へ派遣。
建元三年(前一三八年) 閩越の侵攻を受けた東甌救援のため南方へ派兵。
元光二年(前一三三年) 馬邑の戦い。匈奴に対して三十万の兵を興すも失敗。
元光六年(前一二九年) 第一次匈奴遠征(衛青) 衛青を車騎将軍に任ず。
元朔元年(前一二八年) 第二次匈奴遠征(衛青)
 東夷の薉、君主以下二十八万人が漢へ投降。蒼海郡を設置。
元朔二年(前一二七年) 第三次匈奴遠征(衛青)
元朔三年(前一二六年) 張騫が西域より帰還。
元朔五年(前一二四年) 第四次匈奴遠征(衛青)
元朔六年(前一二三年) 第五次・六次匈奴遠征(衛青、霍去病)
元狩二年(前一二一年) 第七次匈奴遠征(霍去病) 霍去病を驃騎将軍に任ず。
元狩四年(前一一九年) 第八次匈奴遠征(衛青、霍去病)
元狩六年(前一一七年) 霍去病死去。

こうして見てみると、まさしく徹底的に匈奴を討伐したことが分かります。
そして約十年という短い期間にこれだけの頻度で遠征を行えたのは、始めから両者の雌雄を決するような総力戦を採用しなかったこともありますが、対匈奴戦に於いては軍の主力が歩兵から騎兵に切り替えられたことも大きいと言えます。
例えば白登山の戦いで高祖の率いた軍兵は三十万であり、同じく馬邑の戦いで漢が動員した兵数もまた三十万であったのに対して、元光六年の匈奴遠征の際に衛青や李広等の四将軍が率いた騎兵は各々約一万に過ぎませんでした。
つまり軍の編成を歩兵に比べて機動力に勝る騎兵に特化したことで、毎年のように長路行軍することを可能にした訳です。
逆に三十万の大軍ではこうは行きませんでした。

一方の匈奴にしてみれば、戦闘が終って漢軍が引き揚げてくれたのも束の間、態勢を整える暇もなく再び漢が攻めて来るので、次第に人馬や武器の補充が追い付かなくなって行きます。
もともと遊牧民は生産能力が乏しく、基本的に今持っている物が全てなので、他人の物を奪うでもない限り、失った財産の再生には相当な時間を要します。
それに対して漢軍の方は、退路さえ絶たれなければ後方から無尽蔵に物資が補給される上に、遠征部隊が敵地で戦闘している間にも、本国では大量に武器が生産され、訓練によって兵士が育成されていました。
長期戦になれば兵士以外の人口が多い文明国の方が有利であり、日を追う毎に国力の差が出てくるので、最終的には度重なる漢の攻撃に根を上げた匈奴が、国境付近の土地を放棄して漠北へ退散することで決着しました。

張騫が西域へ派遣されたのは建元二年(前一三九年)のことで、これは第一次匈奴遠征のちょうど十年前に当たります。
そして帰還したのは実に十三年後の元朔三年(前一二六年)のことなので、まさに漢が匈奴に対して攻勢を強めていたその時機に、ようやく張騫が西域から戻った訳です。
因みに建元二年というのは武帝の即位の翌々年であり、いくら皇帝とは言え匈奴を挟撃するための使者を立てるなどという決断が十代の若者に許される筈もなく、この一事を見ても武帝の代の外交方針の転換というのが、帝個人ではなく(満場一致ではなかったにせよ)朝廷の政策として実行されていたことが分かります。

軍隊経験のない衛青が、なぜ匈奴に対して無敵とも言える強さを発揮できたのかという点については、それを彼の出自に起因するものと見るのが通説となります。
出身地は河東郡(現山西省)の平陽で、家が貧しかったため幼くして奉公に出され(養子に貰われたとも、下僕として売られたとも伝えます)、遊牧民との境域となる北方の地で、主人に従って羊飼いの仕事をしていました。
そこで同じく放牧をしていた匈奴とも交わるようになり、彼等の集落へ交易に赴いたり、彼等と共に草原を疾駆した経験から、遊牧民の土地での生活や、遊牧民特有の思考や行動等に精通していたことが、後の匈奴遠征で活かされた訳です。
放牧で鍛えた身体は逞しく、騎射の名手だったといいます。

やがて平陽公主に侍女として仕えていた姉の衛子夫が、武帝に見初められて後宮に入り、次第に寵愛を得るようになったため、衛青も長安に呼び寄せられて宮仕えをすることになりました。
始めは平陽公主の館の守衛として雇われた後、寵妃の弟に手柄を立てさせようという配慮から、匈奴遠征に際して一軍の将に任じたところ、これが思わぬ果報となったのです。
無論戦場の経験を殆ど持たない衛青に一万もの騎兵の指揮が執れる筈もなく、その配下には漢軍の中でも特に優秀な将校を付けてあったにせよ、その後も第一線を退くまで、北狄に対して前後に例のない戦績を築き上げたことを鑑みれば、やはり衛青本人に(対匈奴戦に限ったこととは言え)異才とも言える将としての資質があったのでしょう。

そうした将器は別にしても、やはり衛青が他将に大きく勝っていたのは、匈奴の生活や文化についての知識と、それ等を育んだ北の大地での経験が、誰にも増して豊富だったことです。
そうした長年の実体験で培った能力というのは、経歴の浅い者であれば対応できないような場面でこそ真価を発揮するので、十年余にも渡る匈奴征伐にあって、彼が殆ど失敗を犯すことなく任を全うできたのは、やはりこれが主因と言えるでしょう。
衛青以前に北狄と戦ってきた武将というのは、秦の蒙恬であれ漢の李広であれ、或いは周代の名立たる諸侯や将帥であれ、遊牧民の実生活や民情については殆ど何も知らなかったと言えます。
と言うより文明圏の支配階級とって、狄人の実態など知る術もないものであり、また敢て知る必要もないことでした。

無論太古より両者の間には常に人物の往来がありましたから、文明国の方も遊牧民の文化や風習について多少の見聞は得ていたにせよ、所詮それ等は判で押したような表面上の知識であり、相手の立場にならなければ知り得ないような生きた情報ではありませんでした。
何より文明国の方には、遊牧民に対する蔑視や偏見が多分にあったので、北狄について何かを学ぼうとか、彼等と文化を共有しようなどという気は更々無かったのです。
しかし実際に遊牧民の土地で戦い、且つ勝利を得ようとするならば、否応なしに敵を知らなければならず、その上で作戦を立てる以外に勝機はありません。
そして本来は放牧を生業としている者でなければ体得できないような、平原で生きるための知恵や常識を、実生活の中で自然と身に付けていたのが衛青だったのです。

但し匈奴を駆逐したと言っても、長城以北が無人の地になった訳ではなく、敗走したのはあくまで単于を中心とした匈奴の主力だけで、かなりの数の小勢力が匈奴を見限って漢に降伏しており、彼等は引続き国境周辺での放牧を許されていました。
実のところ長年の休戦状態によって内部が弛緩していたのは匈奴にしても同じことで、既に単于を頂点とした強固な騎馬連合体などは遠い昔の話となり、傘下の部族の中には命令への服従や主流派による束縛を嫌う者達も多く、そうした勢力が匈奴を離れて漢の庇護下に入り、漢人と上手く折り合いながら自由に活動したいと望んでも不思議ではありませんでした。
そして武帝が匈奴との開戦を決断したのは、当然そうした匈奴側の内情を正確に把握し、自国の勝利を確信した上でのことだったのです。

恐らく衛青が実際にその本領を発揮したのは騎兵による戦闘ではなく、むしろその前の調略の分野であって、匈奴の文化や性向を熟知していた衛青にしてみれば、漢の国力を背景に弱小部族を投降させるくらいはお手の物だったものと思われます。
そもそも勝敗は兵家の常なので、どんな名将であろうと百戦百勝などということは有り得ませんし、連戦連勝の猛者に限って最初の一敗が命取りになります。
むしろ毛利元就のように生涯無敗と言われた大将を見ると、勝敗を決するのは主に戦場の外であり、必ず勝てる状況でなければ戦闘を命じていません。
従って他将に比べて実戦経験に劣る衛青が、十年以上に渡って不敗を保てたのは、やはり征討を任務としつつも無駄な戦闘をしなかったからであり、それが彼の戦功を大ならしめたと言えるでしょう。

また他将に秀でていた衛青の能力として、遊牧民そのものに対する知識は無論のこと、遊牧民の土地に精通していたこともまた彼の行軍を助けています。
それまでの対北狄戦と違って、武帝の代に行われた匈奴征伐は、未だ嘗て漢人が足を踏み入れたことのない領域まで進軍したので、北の大地で行動する術を知っていたことは何よりの武器でした。
例えば見渡す限りの平原や砂漠で道に迷ってしまったらどうすべきか、飲める水はどこへ行けば手に入るのか、突然の荒天にはどう対処すべきかなど、漢人の知識や経験だけでは対応できないような問題が次々に襲ってくるのです。
配下の将校も漠北経験者であったでしょうし、隊内には信頼できる郷導も伴っているとは言え、やはり最終的に判断を下すのは司令官であり、苦境に陥った時に責任者が迷いもなく正しい指示を出せる組織は強く、それが衛青率いる部隊の快進撃を齎したのでした。

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