君主の直感について言えば、国家の長い歴史の中でも、特に重大な決定を下す際には、常に主要な因子の一つとなっています。
例えば公表こそされていませんが、今も日本の国務大臣は、元首である天皇に対して、内奏という国務報告を行っています。
かつて昭和天皇への内奏に臨んだ諸大臣は、問答に表れる先帝の聡明さに驚愕し、国会答弁などとは比較にならないほど緊張したといいます。
もともと君主というのは世俗に塗れていないので、世の中に対する余計な雑念が殆どない上に、全ての言葉が下問という形を取るため、率直に思ったことや、物事の本質だけを単刀直入に尋ねてきます。
一方答申する大臣にしてみれば、そこには飾言の入り込む余地や、予め官僚の用意した答案もないため、嘘偽りなく事実を正直に上奏するしかありません。
無論現代の憲法下では、天皇に政治的な権限はなく、上意がそのまま国政に反映されることはありませんが、後になってその時々の政府の判断を振り返ったとき、内閣の決定より先帝の意見の方が正しかったなどという例が度々あったといいます。
例えば公表こそされていませんが、今も日本の国務大臣は、元首である天皇に対して、内奏という国務報告を行っています。
かつて昭和天皇への内奏に臨んだ諸大臣は、問答に表れる先帝の聡明さに驚愕し、国会答弁などとは比較にならないほど緊張したといいます。
もともと君主というのは世俗に塗れていないので、世の中に対する余計な雑念が殆どない上に、全ての言葉が下問という形を取るため、率直に思ったことや、物事の本質だけを単刀直入に尋ねてきます。
一方答申する大臣にしてみれば、そこには飾言の入り込む余地や、予め官僚の用意した答案もないため、嘘偽りなく事実を正直に上奏するしかありません。
無論現代の憲法下では、天皇に政治的な権限はなく、上意がそのまま国政に反映されることはありませんが、後になってその時々の政府の判断を振り返ったとき、内閣の決定より先帝の意見の方が正しかったなどという例が度々あったといいます。
純粋であるが故の直観力は君主に限ったことではなく、未だ世間を知らない若者にも同じことが言えて、若くして成功を収めた人々の大半は、世の中の常識や大人の行動様式といった制約を身に付ける前に、自分の信じた道を迷うことなく突き進んだことが奏功したものです。
そうして成功した若者達でさえ、世の中の現実というものを知ってしまった後になって、不可能などないと信じていた頃と同じ行動力を発揮できるかと言えば、恐らくそれは不可能に近いでしょう。
無論その一方で、若さ故に無謀な挑戦をして失敗したり、非現実的な青写真を描いて破滅した若者の方が遥かに多いのは言うまでもなく、愚かな君主が臣下の意見を聞き入れず、何ら根拠のない自分の直感だけを信じて我意を通し、結局国を傾けてしまったという例もまた枚挙に暇がないのですが。
若い武帝が自分の信念や直感に頼って抜擢し、それが成功した人材は数多いが、中でも出色と言えるのは、やはり武官ならば衛青でしょうし、文官であれば公孫弘を外す訳にはいかないでしょう。
公孫弘は漢帝国内の候国の一つである菑川国の出で、老年期に入るまでは地方の名もない学士に過ぎなかったのですが、武帝が即位して間もない頃に全国から賢良文学の士を招集した際、既に六十を過ぎた身でありながら、二度に渡り菑川国から推薦されて入朝しています。
特に二度目に上京した折には、武帝の諮問に返答する形の試験を受けたところ、所轄部署の採点では成績下位とされたものの、何故か武帝が彼の答案を第一等としたことで、耳順を越えての大出世となりました。
以後公孫弘は朝廷内で重職を歴任し、遂には丞相にまで登り詰めており、武帝が在野の埋もれた人材を発掘した好例とされます。
しかし当然ながら、こうした破格の昇進が必ずしも良い結果を招くとは限らず、むしろ武帝が誤った人材を登用したことで政務に混乱を来すことも珍しくなく、そうした人事の失敗は若い頃よりも晩年にその傾向が強いものでした。
実際には衛青等が活躍していた頃でさえ、帝の人事が失敗することは多々ありました。
しかし帝自身も若く柔軟だったのに加えて、国に勢いがあって全てが上手く行っている間は、仮にいくつかの役職で人選を外すことがあっても、天職を得た者達の活躍がそれを遥かに上回っていたので、多少の失敗は殆ど大勢に影響がありませんでした。
更に言えば国そのものに勢いがある時は、勢いそのものが国を良い方向へ運んでくれるので、それが余程の重任でもない限り、余り人材に固執する必要がないのも事実なのですが。
一方で武帝の治世も晩期になると、一時の勢いが止まったこともあり、人選の失敗による弊害が、適正な人事による効果を上回ることも多くなりました。
また「麒麟も老いては駄馬にも劣る」と言われるように、武帝も老いてくると、若い頃は冴えていた眼力が衰えるようになり、帝自身による抜擢が成功することも少なくなりました。
と言うより晩年の武帝にとって人選の判断基準は、君主としての信念や直感などではなく、劉徹という老人の好悪に過ぎないことが多く、もはや選ばれるのは何らかの理由で帝の目に留まったか、さもなくば帝に気に入られた者だけでした。
そんな朝廷で出世欲に駆られていたのは、何とかして主君の視野に入ろうと知恵を絞り、その機嫌を取り繕うことに長けたような小物ばかりで、国家にとって真に必要な人材は次第に武帝の視界から消えて行きました。
そうした状況下にあって、晩年の武帝から特に信任された官僚の一人に、趙の邯鄲出身の江充という酷吏がいます。
趙は皇族が封じられた国の一つで、時の趙王は武帝の異母兄の劉彭祖でした。
江充は実妹が趙の太子の劉丹に嫁しており、その縁故によって邯鄲ではそれなりに厚遇されていたようです。
しかしこの太子丹は頗る素行が悪く、父王に黙って遊興三昧の生活を送っていたのですが、やがて太子の乱れた日常は趙王の知るところとなり、親子の恩情により廃嫡こそ免れたものの、丹は父君から厳しく叱責を被る羽目になりました。
隠していた日頃の悪行が王に漏れたことで、密告者の詮索を始めた太子丹は、室の兄である江充の讒言を疑い、彼を捕えて殺そうとしました。
身の危険を察した江充自身は辛うじて難を逃れ、名を変えるなどして趙から逃亡したのですが、国に残った彼の父兄は太子の一派に殺されてしまったといいます。
これに対して江充は、父兄の恨みを晴らすべく、上洛して趙の太子の所業を朝廷に訴えるという大胆な行動に出ました。
呉楚七国の乱以降、朝廷は郡国制から集権制への移行を推進し、機会を見ては諸国の権限を削ろうとしていたので、地方の皇族の不祥事に関しては敏感になっており、江充の方もそれを承知した上での告訴です。
しかし妹の嫁ぎ先である主家の後嗣を糾弾するという行為は、相手が皇族なだけに一歩間違えれば吾身を滅ぼしかねない危険な賭けであり、最悪の場合は江充一人が悪人にされてしまうような事態も十分予測できたと思われますが、幸い彼の訴状を聞き入れた朝廷が趙の内情調査に乗り出したことで、過去の非行が尽く露見した劉丹は勅命により趙の太子を廃されています。
そしてこの一件を機に江充は、地方の小豪族から天子の側近へと転身して行きました。
江充が劉丹の所業について上書した際、事が皇族の不肖という繊細な問題だったため、宗主である皇帝自らが訴人を尋問することになり、武帝は宮中で江充を引見しました。
その面会の場に江充が、武帝の注意を引こうとして、故意に趣向を凝らした奇抜な官服で現れたという有名な逸話があります。
当然周りの廷臣は顔をしかめたでしょうし、壮年期の武帝であれば一喝していたかも知れませんが、何故か帝は珍妙な格好をした江充に興味を持ったようで、趙の一件以外にも色々と彼に諮問するなど、比較的好意を持って接しています。
そして実際に話をしてみると、決して江充は妹の臀光に頼っただけの男ではなく、頭脳明晰で法律にも精通していることが分かりました。
何より多くの群臣が見守る中で、天子に北面しても物怖じすることなく、はっきりと自分の意見を述べる江充の姿勢が帝の気に入るところとなり、彼はそのまま長安に留まることを許され、改めて朝廷で仕官できることになりました。
始め江充は皇族や高官にも遜らない気概を買われ、匈奴への使者に立てられました。
因みに公孫弘も一回目に推薦されて仕官した際には、まず匈奴への使者を命じられており、使者として遠路匈奴へ赴くことが、新任者に対するある種の試金石となっていたようです。
帰京すると江充は武帝直属の内務官に抜擢され、長安の盗賊追捕を指揮すると共に、奢侈を監察する立場になりました。
江充は武帝に上奏して、廷臣の中で奢侈に耽った者を北軍に入隊させ、匈奴戦線へ従軍させることを求めて帝から裁可を得ると、それに該当する者には宮中への出入を禁止したため、豪奢な生活を嗜んでいた連中は恐れおののき、北軍に銭を積むことで競って免除を願い出たといいます。
新参で陪臣の江充が破格の抜擢を受けた理由は、上記のような事例に如実に表れていて、それは取りも直さず当時の朝廷が抱えていた問題の深刻さを物語るものでした。
即ちそれは国内に流行る奢侈の風潮であり、目に余る風紀の乱れであり、首都長安にさえ盗賊が跋扈するような治安の悪化であり、金銭で贖罪しようとする感覚と、その背後にある汚職の蔓延であり、それ等を強権によって抑え付けようとする権力側の姿勢でした。
しかもそうした社会情勢に対して、丞相以下の官僚に効果的な対応を求めても、一面では彼等自身がその当事者でもあるため、主君が求めるような効果は得られなかったのです。
武帝が新任の江充を傍らに置いて重用したのも、そうした既存の勢力に対して何のしがらみもない彼のような人物に、従来の価値観には囚われない斬新な発想を期待してのものでした。
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