内政面での武帝の評価を落としている要因の一つが、急激な変革によって齎された社会の混乱に対して、政治による有効な解決策を明示できなかったことならば、もう一つは統治者として天下に及ぼした負の側面、即ち天子である武帝個人に向けられた批判となります。
ちょうど武帝の治世の頃に表面化し始めた、貧富の格差の拡大や末端の民衆生活の崩壊、治安の悪化や汚職の蔓延といった諸問題が、あくまで帝独りではなく朝廷全体の責任であるのに対して、帝自らが招いた人主としての悪評については、流石に臣下を罪に問うという筋の話ではありません。
元より五十年以上にも渡って帝位に君臨した絶対者に関して、殆ど低評価を下しようがないなどということは有り得ないのですが、功罪半ばして当然ということを考慮しても、度重なる暴政や恣行に代表される専制君主としての弊害が、国家に与えた影響は余りに大きいものでした。
ちょうど武帝の治世の頃に表面化し始めた、貧富の格差の拡大や末端の民衆生活の崩壊、治安の悪化や汚職の蔓延といった諸問題が、あくまで帝独りではなく朝廷全体の責任であるのに対して、帝自らが招いた人主としての悪評については、流石に臣下を罪に問うという筋の話ではありません。
元より五十年以上にも渡って帝位に君臨した絶対者に関して、殆ど低評価を下しようがないなどということは有り得ないのですが、功罪半ばして当然ということを考慮しても、度重なる暴政や恣行に代表される専制君主としての弊害が、国家に与えた影響は余りに大きいものでした。
武帝の在位は、大きく三つの時期に区分されます。
まず初めは十六歳での即位から、二十代半ばに朝廷の実験を掌握して親政を始めるまでの青年期で、言わばこれは大志を蔵した若き皇帝の雌伏の期間と言えます。
次が宿敵匈奴との決戦に始まり、周辺諸国を平定して空前の大帝国を築き上げた壮年期であり、当然ながら武帝の名立たる業績の大半はこの時期に達成されています。
最後は約二十年にも渡って続いた成長が一段落し、守成への転換を求められた老年期であり、逆に武帝の悪評の殆どは古稀に至るまでの晩年に集中しています。
そうした意味では、半生を掛けて改革の大業を成し遂げた多くの指導者同様、武帝もまた相反する二つの時期の双方に於いて、英主と称されることはできなかった訳です。
漢の武帝こと劉徹は、景帝の第十男(九男とも)として、その即位の翌年に誕生しており、初め同朝の皇太子として後嗣の地位にあったのは、異母兄の劉栄でした。
劉栄は生母を栗姫と言い、この栗姫は生来気性が激しい上に、日頃から景帝の実姉である館陶公主と折合いが悪く、その公主が熱心に劉徹を推したこともあり、立太子から三年後に劉栄は廃されて、改めて当時十歳にも満たない劉徹が太子に立てられたという経緯があります。
無論館陶公主にも思惑はあって、彼女は陳午という臣下に降嫁して一女を儲けていましたが、いずれその娘を皇后にしたいと望んでおり、そこで武帝の生母である王氏と組んで栗姫を排斥し、劉徹に娘を娶せることで自家の権勢を保とうとしたというのが真相です。
そうして即位した武帝だったが、十代半ばの少年君主に実権などあろう筈もなく、日常の政務は丞相以下の僚吏が滞りなく執り行っており、最上位で国権の決裁を下していたのは祖父文帝の皇后で、景帝と館陶公主の実母でもある董太皇太后でした。
実のところ数ある異母兄を差し置いて十男の劉徹が即位できたのは、館陶公主の力添えも然る事ながら、後宮の主である董皇太后(当時)の後ろ楯があったからで、若い武帝が即位すると彼女はその後見人として朝廷の実権を握り、漢の国政はとうに還暦を過ぎた董老婆の所信に沿って運営されていたのです。
従って武帝に何か決断したいことがあっても、それを実行するには太皇太后の裁可を仰がねばならず、祖母の反対によって皇帝の意向が覆されてしまうことも珍しくありませんでした。
少なくとも近世以前の社会にあっては、男子はほぼ例外なく十代で元服し、同じく十代で妻を娶るのが一般的でしたが、やはりいつの時代も二十歳を過ぎて何年か経たなければ(たといそれが主君であろうと)一人前とは見做されませんでした。
例えば織田信長は、父信秀の死を受けて十八歳で家督を継ぎましたが、名実共に織田家の当主と呼べるようになったのはかなり後のことで、襲名と同時に御館としての信任を得られた訳ではありません。
まして若い頃の彼は、その言動を理解できない周囲から「うつけ殿」と嘲られていたこともあって、家臣の中には信長を主君と認めない者も多く、彼が家督を継いでからの織田家は、いかに戦国とは言え信長に対する謀叛と暗殺未遂の連続であり、彼が二十三歳の時には弟信行との間で家中を二分する御家騒動も起きています。
実際に信長が臣下を完全に掌握するのは、桶狭間の戦いで今川軍を破り、敵将今川義元を討ち取ってからのことで、この劇的な勝利によって、織田家の諸将は誰もが信長を唯一の主君として仰ぐのみならず、彼の断行する改革に服従せざるを得なくなったのです。
そもそも義元が二万数千の大軍を率いて上洛の兵を興した際、織田傘下の武将の大半は今川との和議を主張しました。
尤も和議と言えば聞えはいいのですが、要は一戦も交えずに降参するということであり、大将である信長一人に責任を取らせて(腹を切らせて)、自分達は改めて駿府から所領を安堵してもらおうという魂胆です。
従って時に二十七歳の信長にとっては、生き延びるためには戦うしかありませんでしたし、真の当主となるためにも戦う以外に道はありませんでした。
そして信長は見事人生を賭けた大一番に勝ち、天下人への第一歩を踏み出した訳です。
武帝の即位から六年後に董太皇太后は薨じ、国家の大権が再び皇帝の手に戻ると共に、武帝にとっても目の上の瘤が取れたのですが、帝が望むような親政を始めるためには、まだ色々と解決すべき問題がありました。
そして権力を増した武帝がまず改革しようとしたのは、当時の朝廷や後宮に根付いていた黄老の思想で、中でも董太皇太后は早くから道教に傾倒し、後宮のみならず皇族や官僚にまで読書を薦めるほどだったといいます。
尤も宮中という狭い世界に生きている女性陣が、修身学や統治学として黄老の道を真剣に学んでいた訳ではなく、基本的には現状が続いて欲しいと願う彼女達の心理に、道教の持つ無為自然の性向が程よく合致したというに過ぎず、本来の教義からすれば些かいいとこ取りの感は拭えませんでした。
また後宮で黄老が広まったのは、その哲学的な思考が支持されたと言うよりも、むしろ道教の持つ卜占的な傾向が、その信者を増やしていたというのが実情でもありました。
当時は今で言う風水や星占の類も道士の管轄でしたから、要は女性達が信仰していたのもどちらかと言えばそっちの方だったのです。
当然ながら太后のような有力者の傍にはお抱えの道士が侍っており、やれ今までのやり方を徒に変えるべきではないとか、やれ不吉だからそれを動かすべきではないとか、現実的には何ら根拠のない無責任なことばかり進言していました。
もともと漢朝が黄老の思想を採用したのは、あくまで帝国全土を統治するための政治方針として選択したのですが、それが後宮にはまた違う形で浸透してしまったのであり、これは後世の日本に於いて、初めは普遍的な真理として輸入された筈の仏教が、後宮では加持祈祷の類ばかりが普及してしまったのと同じです。
そしてこれが宮中という限られた世界だけの話ならば、そこで誰が何を信じていようと大した問題ではありません。
しかしそうした個々の信仰等が内輪での趣向に止まらず、政治にまで影響を与えるとなればまた話が違ってくる訳で、特に後宮の女性などはその線引きを理解していない場合が多かったのです。
後年武帝が殊更に道教を忌み嫌い、その対立学派である儒教を重用するようになった背景には、当然こうした事情もありました。
尤も当の武帝が晩年になると、始皇と同じく不老不死を願う余り、儒教を忘れて神仙に傾倒してしまうのですから、何とも皮肉と言うほかはありません。
また政治への介入という点からすれば、得てして道士よりも儒者の方が甚だしいのですが。
黄老の思想と、それに基づく発想や言動は、後宮のみならず官僚や男系の皇族へも広く浸透していました。
但し官僚の多くが黄老を支持した理由は、それが彼等の希望する職務環境や、人民統治の理想に合致していたからで、実のところ後宮の女性達と同様、必ずしもその教義に心酔したからという訳ではありません。
例えば『老子』の中で国政の在り方について語られている箇所を読むと、政治が殊更に何かをしようとするから世の中が治まらないのであり、理想の行政とは為政者が何もしないことだと受け取れるような(無論実際に老子が説いているのは決してそういう意味ではないのですが)論調となっています。
従ってこれを少々体制側に都合よく解釈すると、なるべく余計なことはせずに、日々やるべきことだけを無難にこなすのが善政という理屈にもなりますから、役人にとってはまさに我が意を得たりと言えるような思想でした。
同じくこれを統治という視点に立って見てみると、『老子』の説く人民論を一読する限りでは、そもそも人間の精神は、未だ穢れのない赤子の状態が最も尊貴で、学問や社会的地位など、なまじ知識や経験を身に付けるほど堕落するという主張が目立ちます。
そこでやはりこれを体制側の主観で治政に応用すれば、民衆は余計ことなど考えずに、ただ無垢のままで生業を営んでいればよいという結論になります。
これとよく似た発想は旧約聖書や共産主義にも内包されていますが、現実には統治者も含めた全国民が赤子になってしまったら社会そのものが成り立たないので、どうしても「大人」という管理者が必要になるのは誰にでも分かります。
やがて民衆という無垢(にさせられた)な人々と、これを支配する知的(と称する)な人々が、階級という形で分離してしまえば、行き着く先は「動物農場」ですから、既に既得権益を得ている官僚にとっては、まさに理想の社会なのでした。
ましてこれが生まれながらに銀の食器を与えられているような身分の者ならば尚更です。
儒教の最高師範が孔子ならば、道教のそれは老子であり、その老子の理論というのが、崇高な精神と深い洞察に裏付けされた、普遍の哲理であることは論を待ちません。
しかし常人はその奥義にまで自己の意識を共鳴させることができませんし、そもそも一般人は初めから哲学などに興味がないので、あるがままの自然に任せておけばよいなどといった、万人に理解できる部分だけが独り歩きすることになります。そして一旦そうなってしまった時に、一知半解の多数派に向かって、黄老の真意は違うなどといくら声高に叫んでみたところで、結局は道理の方が引っ込まざるを得ない訳です。
従って朝廷に道教が蔓延していたなどと言っても、かつて共産主義国の官僚(当然共産党員でもある)の中で、マルクス・レーニン主義を本気で信奉している者など殆どいなかったように、果して黄老の思想が漢朝に影響を与えていたのか、漢朝の方が黄老を口実に据えていたのかは、実のところ甚だ曖昧だったと言えます。
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