「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

理性の「公的使用」と「批評」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
 最近ネットで「批評」の復権とか、「批評」をどうにかしようとか、そういう議論がなされているのを見かける。その場合、「批評」とは何か?ということになるのだが、それが統一されているものでもないので、それぞれの自分なりの批評史における「批評」をたどり直すことになり、その史観の違いでしばしば論争にもなっているようだ。例えば僕にとって「批評」とは何か?というと、いくつか思い浮かぶテクストや人物はいるが、そういう具体的なものというよりも、抽象的な基準が一応ある。それはカントのいうところの「理性の公的使用」というものだ。カントには「理性の公的使用」という概念があるが、この概念は普通に考えると少しわかりにくい概念で、『啓蒙とは何か』の中で読んでも見てもすぐにはぴんと来ない。そのため僕なりの実例で説明したい。

 例えば先日(2025年1月18日)、youtubeのチャンネルで、「映画「ゲバルトの杜」及び原作本「彼は早稲田で死んだ」を徹底批判する討議」(討議参加者:絓秀実・河原省吾・吉永剛志・長濱一眞・花咲政之輔)を視聴した。そのチャンネルでは、映画『ゲバルトの杜』の問題点と、このブログでも書いた雑誌『情況』をめぐるトランスジェンダーへの差別問題にも言及され、討議された。その中で明確だったのは、そこに資本主義批判があるということだった。議論の内容はその資本主義批判を軸にして、「しつこく」、「粘り強く」おこなわれているように見えた。昨今あるような、すごく画像がきれいで、視聴者が見やすいように文字表示があったり、気の利いたサムネイルが作ってあるような放送ではなかったが、最後に絓秀実が「これからも様々な形で批判は続けていきます」という言葉通り、僕は仕事で行けなかったが、池袋のジュンク堂でも『全共闘晩期』出版イベント「ニューレフト/社会運動の持続と転形」(2025年1月25日)が開催されている。「これからも様々な形で続けていく」という、討議での絓の言葉に、僕は批評性を感じたわけだが、しかしこの「様々な形で続けていく」ということはかなり難しいことなのだ。

 きれいで見やすく、そして気の利いた演出のある動画で視聴者数を稼ぐ、あるいは有名な出版社や著名な作家や批評家とのネットワークを構築して、そこで発信することで読者を増やす。そのようなことが「批評」を復権させることだとしたら、「徹底批判」の配信は、それとは趣の違うものである。youtubeがこれほど一般化していない2010年以前に早稲田大学の大教室で、新学生会館建設反対運動のシンポジウムが開かれ、そこには絓も含めた反対派の人々が登壇していた。そこに観衆として僕は参加していたのだが、タテカンやトラメガ、ビラ配りによる反対派の意見表明に対して、観衆からそのような古臭くて読みづらい意見表明ではなく、youtubeなどを駆使した情宣をするべきだ、という意見が出され、登壇者たちはタテカンとトラメガ、そしてビラ配りにこだわりたい、という反論をしていた。僕も、そのような誘惑にかられたとしても、立ち止まって、「古いメディア」にこだわるべきだろうと思った。それから十年以上たって「徹底批判」の配信を見ながら、僕はその時の大教室での反対派の反論を思い出していた。

 組合の労働運動などでも、ネットを駆使したりSNSを使っての情宣が効果的だということはある。しかしそれは、労働運動においてビラ撒きや直接的なデモ行進をしない言い訳にされることがほとんどである。そんな古い泥くさいやり方は共感を得ないから、新しい皆が理解できるような、そして多くの人を取り込めるような動画を作りましょう。ようはCMと同じなのだ。しかしおそらく、これによって運動は批評性を失っている。もちろん運動には賛同者や人的ネットワークは当然必要である。しかし、それでは体制側が嫌がったり抵抗感を感じる運動が、マーケティングや広報に吸収されて行ってしまう。そこに吸収されないためには、きれいな動画を作るのではなく、少し時代に遅れるか、ノイズがあるというか物質的抵抗感があるメディアを維持し続けるほうがよい。その感覚を維持するには資本主義批判を常に軸に置く必要がある。

 効果が大きい、人が集まりやすい、みんなの共感を得られやすい、などなどというのは、一番資本主義が洗練した形でおこなっているのであって、それに追随するのならば、体制への批判性は自然となくなっていくだろう。資本主義の改良のための意見を言うことはできるだろうが、体制自体に打撃を与えるような言論は、そこからは生まれようがない。恐らく、批評性を維持するためには、この資本主義の洗練とは逆のことをしなければならない。それは滑稽に映ったり、時代遅れに見えたり、まったく効果のない無駄な行動に見えるかもしれない。例えば、一日配って数人にも読まれないビラまきのような行動は、忌避される。しかしその無駄なことを「様々な形で続けていく」ことこそ、カントのいう「理性の公的使用」のはずである。効果があって、世のため人のために有益になされる「批評」があり、それが数多くの読者の啓蒙に役立つから批評的行動をするのだとしたら、そのような「批評」は「理性の私的使用」に過ぎないのだ。

 僕は「理性の公的使用」を単純な意味で貫くのは難しいと考えている。資本主義の体制内で飯を食うかぎりは、そこに程度の問題という「私的」な問題が生じるからである。しかし、資本主義批判という軸を立てることで、「私的」なものに回収されない「公的」な運動や行動の持続は確保できる、と僕は考える。その「公的」な批評性というのは、人に求められたり、よく読まれたり、啓蒙したりされたりするテクストを単に作り出したり、売ったりするということとは違う。これは敗北主義や低徊趣味、ロマン主義的な逆張りで言っているのではなく、おそらく資本主義と逆のことをしなければ批評性は生まれない、ということをいっているのだ。すべてを「私的」なものに回収してしまうパワーのことを資本それ自体だとするならば、そこに回収されない「公的」なものは、資本主義の逆にしかないからだ。その意味でマルクスがこれまでの「批評」の根幹にあったことは理解できる。仮に今「批評」が振るわないのだとしたら、単純にマルクスや資本主義批判を「様々な形で続けていく」ことを「批評」が放棄し始めているからだろう。

 労働運動などでも、ビラ配りをしましょう、直接抗議に行きましょう、というとそれは古臭いとか、それは軋轢を生むと言って、もっとスマートな方法を提案しようとする。ほとんどその時はネットである。だがその様な資本主義的洗練は「私的」なものの洗練であり、いずれは大きな「私」に回収されていく運命の意識だろう。それに抗して「公的」であることを「様々な形で続けていく」ためには、弁証法的な意味で、資本主義と逆のことをしなければならない。それは『資本論』的分析を経た形で、である。現状の体制では効果がないこと、洗練されていないこと、野暮ったいこと、時流から外れていること、それを「様々な形で続けていく」ことは勇気がいる。常に「私的」な利害関係へと資本主義は誘うからである。そういえば、長崎浩をめぐるシンポジウムの会場の外には、「徹底批判」の配信の登壇者であった花咲政之輔が、ジュンク堂の出版イベントのビラ配りに来ていた。

初詣と『美味しんぼ』

2025年01月01日 | 日記と読書
 新年あけましておめでとうございます。

 久しぶりに年明けすぐに、村の氏神へ初詣。また、僕の村は小さな村にもかかわらず、徒歩圏内に四つの寺があり、すべてで除夜の鐘が鳴るので、都合500以上の鐘が撞かれる。小学生の甥は、撞きに行っていたようだ。


 新年早々実家に、古本屋から『美味しんぼ』が102巻届いた。現在110巻が刊行されていて休載中なので、ほぼすべての既刊分が届いたことになる。僕は『美味しんぼ』を中学生の時から欠かさず読んでおり、高校の生物の時間のレポートは、『美味しんぼ』で環境問題を論じたことがある。確か「長良川河口堰問題」についての内容であった。ただ、70巻を超えたあたりから、単行本自体は買わなくなっていった。実家の倉庫にはその70巻余りが現在も眠っているはずだが、探し出すのが一苦労なので、この際もう一度単行本を一挙に買った。全102巻で15000円だったので、かなり良心的な値段である。正月休みは、『美味しんぼ』を熟読しようと思う。


 年明けの正月エピソードの『美味しんぼ』の最後には、「今年もよろしく 美味しんぼ――」というフレーズがよく書かれていて、印象に残っている。

2024年大晦日

2024年12月31日 | 日記と食べ物
餅つきをし、蕎麦を茹でる大晦日。皆様には大変お世話になりました。新年もよろしくお願い致します。

 

蒸したもち米を臼に入れる。

 
杵で「こづき」をして、もち米を搗ける状態にまで練る。
 
餅の出来上がり。
 
年越しそば。たらの芽の天ぷらそばにする。

「「『情況』に関する声明」についての討議」の名古屋会場に行って来た

2024年12月27日 | 本と雑誌
 名古屋弁証法研究会の主催した「「『情況』に関する声明」についての討議」——トランスジェンダー・言論の自由・差別」が名古屋国際センターで開催されたので、先週末の土曜日12月21日に名古屋の会場まで行って聞いてきた。登壇者として、「討論者」である「「声明」支持派」(以下「支持派」)は、市田良彦、絓秀実、自称・室伏良平であり、「「声明」非支持派」(以下「非支持派」)には海上宏美、大野左紀子、塩野谷恭輔であった。「当事者枠」として阿部智恵、司会には栗田英彦がついていた。『情況』は2024年夏号において、「特集 トランスジェンダー」を企画し、そのような誌面が編集されたのだが、そこに掲載された各論文の掲載方針(編集方針)が、トランスジェンダーに対する偏見と差別を助長する可能性があり(もちろん編集方針の問題であり、各論が単純な意味での差別を助長しているわけではない)、それに対する抗議声明がネット上で発せられたのだ。「声明」は勿論、9月末現在で38名でなされており、個人的なものに帰せられるわけではないが、市田が発起したという事情から、「非支持派」からは中心的人物と目されて、討議の対象の人物となっている。そして、同誌の「キャンセルカルチャー」の特集で論文を発表していた絓も、「声明」に署名しており、「支持派」として登壇したことになる。僕自身は「キャンセルカルチャー」も「トランスジェンダー」の両特集を読んでおり、どう考えるべきか思案している所でもあったので、直接討議をする場に行って聞いてみたい(考えてみたい)という気持ちになって、名古屋に行った。

 さて、討議の内容だが、長時間なされ、しかも「トランスジェンダー」のジェンダー・セクシュアリティの問題を中心に論じるというよりは、「声明」の是非で対立し、また表現の自由やキャンセルカルチャーをめぐって対立した場面が多かったので、僕自身の印象を中心に、意見を書いてみたいと思う。このブログでは討議としてほとんどなされなかった、ジェンダー・セクシュアリティの問題について触れたいので、まずは「声明」の議論を最初に記しておきたい。「声明」に関しては、昨今のネットでの「署名」の問題も含め、もう少し議論を詰めてから、「声明」を出した方がよいと思った。恐らく、市田、絓の両氏が、戦後民主主義批判や資本主義批判から、即自的な差別糾弾を批判し、ラディカルな差別問題、差別批判に関わってきたのは、二人のテクストを読めばわかる。その意味で出された「声明」であると思うが、しかし、様々な立場の人が「声明」では署名しており、「声明」の趣旨に一貫性があるのかどうかが判断できないところがある。この点を「非支持派」からも批判されており、会場の討論を聞いても、「声明」はその点は批判されてしまうだろう、と思った。昨今のネットでの署名を見ても思う所であり、ネットでの難しさである。「声明」におけるそのような〈不備〉を僕も感じながらも、ただ、司会と会場からの声も含め、どちらかというと「非支持派」側に雰囲気が傾いており、「支持派」が〈糾弾〉されている印象を受けた。この〈糾弾〉に対して、会場からは「第二の華青闘告発」という言葉も聞かれたが、果たしてそうだろうかと疑問が沸く。というのも、そういうためには、この討議でトランスジェンダーについてきちんと議論すべきで、それがなされていない以上、勿論「声明」の〈不備〉はあるにしても、フェアな議論になりにくかったのではないだろうか。〈マイノリティ〉の問題はほとんど議論されていないといってよい。

 実際の「論文」の話に移り、2024年の「夏」と「秋」の各特集をすべて読んだ感想でいうと、登壇者の中の論文としては、「夏号」の阿部智恵の論文「身体改変的性別越境主義について——「性別」破壊論・序章」が〈議論〉をしていて良いと思った。この「討議」では終わる前に、配布された資料にもある「「(新)左翼」とは何か」という問いがなされたのだが、僕自身は「左翼」とは「(マルクスの)唯物論」を基礎に置いて理論的・実践的な課題に取り組む者だと思っている。恐らく会場ももはやそのようなことを論じる雰囲気でもなかったのか、会場では「マルクス」も「唯物論」という言葉も出ず、『情況』の編集長も既存の左翼との決別を意味するような言葉を発しており、「左翼」が不可能な時代なのか、と思わされたが、しかし何はともあれ、「左翼」は「(マルクスの)唯物論」に基づいた理論的・実践的な行動をとる者だというのは、僕の中では譲れない。この「唯物論」を基礎に置くならば、阿部論文がもっとも唯物論的な論文である。阿部論文は、トランスジェンダーの身体的物質的側面とそれに関わる経済的な条件の諸問題を論じており、「「性別」破壊」とはカオスやアナーキーというよりは、物質的条件の暴力性と向き合い、その暴力性とどう付き合っていくかの問題であると読めた。勿論その暴力をポジティヴな「破壊」の動力としたいというのもわかった。その意味で、阿部論文は僕にとって「唯物論的」に読める論文、即ち「左翼」に通じる論文であったのだ。この「討議」はネット配信で購入できるようなので、そこに入っているかどうかわからないが、討議と討議の合間の休み時間の雑談の中で、絓が隣に座っていた阿部に「サイボーグフェミニズム」を知っているかどうかを聞いていた。その時の反応では、阿部はハラウェイを知らないようにも見えたし、また絓がその時どういう意図で聞いたかは僕には判断できないが、僕自身も阿部の論文はハラウェイと比較して読むとどうなるのか、聞いてみたかったのだ。これがネットではなく会場で聞く意味だろうか。

 このブログで以前書いたし、他の場所でも別に書いているので繰り返さないが、僕は「トランス」という様態こそが、性的差異の物質的条件だと考えているし、性差の二元論的体制を可能にする物質的条件も、本来「トランス」という様態それ自体の事だと思っている。これはデリダのエクリチュールや差延の応用で、デリダ自身もそう考えていたはずだが、性差自体は「トランス」という様態(阿部のいう「越境」)がない限りそれは到来しない。そういう意味で、トランスジェンダーの物質的条件を論じ、その物質的条件の問題化は、「女性」という〈性的マイノリティ〉の権利を唯物論的に考える上でも必須のはずである。同誌の「キャンセルカルチャー」の特集で、絓が「ラディカルフェミニズム」を唯物論という一点でなら支持できる部分もあると書いていたはずだ。それは「女性」の物質的条件をラディカルに〈男性中心主義〉から「分離」する唯物論があるからであるが、僕はその「分離」は、「トランス」と相同的な理論的、実践的意味を生むものだと思っている。それは現象学的還元にも似たラディカルさだろう。僕もその意味では「ラディカルフェミニズム」の物質性はマルクスや「唯物論」に関わるという意味で支持できる。そして「ラディカルファミニズム」はその意味で、トランスジェンダーの排斥や否定、差別にはならないはずだとも思っている。それは理論的必然である。そこはトランスジェンダーと「ラディカルフェミニズム」は、「トランス」や「分離」をめぐる、性的差異の物質的条件を問い直すという立場では共通しているからだ。僕はその意味で、「ラディカルフェミニズム」のある部分の立場の人が、トランス差別に加担することがまったく理解できないのである。

 そして僕は、「支持派」が批判しておきながら、その論文を明確に明示しなかったと会場でも批判されていた、佐藤悟志の論文「トランスヘイトの自由こそ基本的人権」と阿部論文を比較したい。何故かというと佐藤論文は阿部論文同様に「唯物論的」なのかという問題があるからだ。会場でも議論になったが、佐藤論文がそのタイトルに反して?、内容は既成の民主主義やリベラルが思考停止の内に放棄している、「人権」の基底を露わにさせている論文だという意見がある。会場に来ていた外山恒一も、佐藤論文をよく読めばそのような〈基底〉を明らかにする論文であることがわかる、という趣旨の発言をしていた。『情況』を読むような人はそのような「リテラシー」を「左翼」として持っているはずではないのか、というのが外山の主張だったと理解した。僕自身も例えば、外山の〈選挙活動〉は、民主主義の〈基底〉それは文字通り、没落したクズのような〈基底〉を露わにする行為であり、民主主義の物質的条件を問いに付すものであると理解する。そういう意味では「ファシスト」になった外山にも「唯物論」と「左翼」に通じるものがあるということになる。外山は佐藤論文の中にもこの〈基底〉を見出すイロニーをなぜ読まないのか、といっていると思うのだが、絓もイロニーであることはわかるが、あれを『情況』に乗せることの問題は何か、ということを疑問にしていたのだ。

 佐藤論文には「人間性そのもの」や「原初的な人間感情」、あるいは「生得女性」という言葉が現れる。前者二つは「ヘイト」という「感情」の起源と関連付けられており、後者は「生物学的女性」に結び付けられ、「女性」に支配と被害を与えているのは「生物学的男性」ということになっている。佐藤の立場では、「変態女装男」(佐藤論文は「トランス女性」をこう呼ぶ)は「生物学的男性」(原初的)なのだから、その「女性」への侵入を阻止したいというわけである。「ヘイト」は「ラブ」や「ライク」と同じ、「原初的な人間感情」と佐藤論文はいうのだが、それは「生物学的」なものと同じ意味で「原初的」なのだろうか。「生物学的女性」が「女湯」に必ず入ることは、どのような意味において「原初的」なのだろうか。「生物学的男性」が「男湯」に入ることで、「生物学的女性」を「女湯」において守ることは、どのような意味で「原初的」な行動なのだろうか。それは「ヘイト」や「ラブ」、「ライク」と同じ意味で「原初的」なのだろうか。佐藤論文では佐藤自身はかつて「性的リベラリスト」であったと書いているのだが、これは歴史的な意味において、佐藤が「ラディカルフェミニズム」であった、ということとして僕は理解した。だが今回の「夏号」の佐藤論文は「ラディカルフェミニスト」から後退した形で「原初的」なものを擁護しているように見える。恐らく「ラディカルフェミニズム」は女性という性的差異の物質的条件を、男性支配という資本主義的搾取から防衛するというものであるはずで、それは「生得女性」を「原初的」な存在として擁護する戦いではなかったはずだからだ。例えば、〈男性中心主義〉は「原初的」なのだから、「女性」が様々な意味で搾取されるのは当然で、「女湯」に「生物学的男性」が性的搾取目的で入ってもそういう〈男の性欲〉は「原初的」だから擁護されるべきだ、というのも理屈は通ってしまう。しかしそれでは搾取の関係は変わらないし、佐藤論文の趣旨からも逸脱する。それは「ラディカルフェミニズム」のいう〈男性中心主義〉自体が「原初的」でなく、経済的下部構造の重層的決定によって作られたものだからだろう。佐藤論文のいう「原初的」なものの防衛は、〈原初的ではない〉物質的条件によって構築されたものなのだから、このような循環した問題になってしまう。現在の社会で成立している「男湯」と「女湯」の区別が「原初的」というのは奇妙だし、例外など他の時代にいくらでも見つかってしまう。

 何もこれは社会構築主義によって佐藤論文が批判できる、ということを即自的な意味で主張したいわけではない。そうではなく、佐藤論文は阿部論文より「唯物論的」なのかという問題をここでは見たいのだ。僕は、やはり阿部論文の「越境」の方が、物質的条件の搾取の問題に迫っており、「原初的」なものの防衛は、むしろ〈観念論〉に後退しているのではないか、と思っている。イロニーという〈観念論〉ともいえる。イロニーはマルクス主義の理論の内で「転倒」や「切断」を生み出す。それは例えマルクス主義に対立的で批判的な立場としてのイロニーだったとしても、「唯物論」とのかかわりのないイロニーは、「原初的」という観念論の中に溶解してしまうのではないか、ということである。その点、「トランス」という様態は、性的差異の物質的条件、加えて性の移行の問題として、そして性差の性起の問題として問題化が可能な核だと思う。もし「原初的」というならば、〈最初に差延(トランス)があった〉という意味で、「トランス」こそが、物質的には「ヘイト」や「ラブ」や「ライク」にも先立つ様態なのではないか。もし「原初的」なものを防衛するならば、「トランス」という唯物論的様態を真っ先に擁護すべきである。

 会場では、阿部論文と佐藤論文の、それこそ議論、討論、論争があるべきだと思ったのだが、それはほとんどなかった。中途で、二人の間に応酬があったが、それは、〈論文掲載問題〉にすり替わってしまい、唯物論的対立というよりは、論文を掲載するのは賛成、内容もイロニーとして「9割」は受け入れられるという阿部の発言があったと思うが、僕はこの唯物論的な問題をめぐって、そこで手を打っていいのだろうか、と疑問が沸いた。むしろ、阿部論文の方が〈基底〉を露わにしていると、その「1割」の物質的対立を〈全〉として維持しなければならないと思う。そうじゃないと「越境」を「破壊」という物質的爆発にまで持っていくという趣旨が、「原初的」という〈観念論〉に溶解されてしまう。会場で阿部は「妊娠する」ことを目標と話していたが、その物質的矛盾の表明の方が、佐藤が阿部に向かって会場で発言した「原初的な人間感情」による「変態女装男」という言葉より、よほど唯物論的な厳しさがあった。

 また、印象的だったのは、佐藤論文を〈イロニー〉や〈好意的〉に読み取ろうとする、例えば会場での外山の試みに、佐藤自身は不満を表しており、そのような〈好意的〉な解釈自体に不満と拒否を持っているようだった。つまり、〈リベラル〉に読まれてしまう拒否であり、それは佐藤論文の一貫性なんだろうと思った。勿論、これは〈イロニー〉です、と執筆者本人は言えないわけだが、この拒否は「ヘイト」は、「ラブ」や「ライク」と同じように「原初的な人間感情」としておきたかったからだと思う。そういう意味では、佐藤論文は「トランスジェンダー」に対する「ヘイト」(原初的な人間感情)の擁護それ自体の論文であり、執筆者的には〈イロニー〉的な解釈など邪魔なのかもしれない。

 だとするならば、「原初的な人間感情」の純粋な擁護を『情況』はなぜ載せたのか、ということは編集方針において問われることとなる。会場でも発言があったように、「非支持派」が既成の〈左翼性〉を放棄したとしても、僕は「唯物論性」や物質的条件としての弁証法的唯物論、それに対立して反対する論文であったとしても、「唯物論性」を貫いている必要性が、『情況』という雑誌の歴史性を考えれば、なくてはならないのではないか、と思った。これは会場で絓も「キャンセルカルチャー」や「ノーディベート」という思考停止には批判的だと言っていたが、僕も絓同様に、それらには批判的である。言論の自由の物質性とは、あらかじめ許されたり許されなかったりする表現が存在しているわけではない、というのが出発地点であろう。しかし左翼雑誌として、そのような「原初的な人間感情」の擁護は、「唯物論的」なのだろうか、という批判的視点はいる。それは編集側が、「原初的な人間感情」などというものは「唯物論」ではない、と厳しく執筆者と批判的議論を喚起する意味において、である。これは「ノーディベート」ではない。この僕の考え方は、別に会場で批判されていた左翼的で硬直した思考ではないはずだ、と思う。やはり「左翼」及び左翼雑誌は「唯物論的」であるべきだと思うからである。そして左翼的には「トランス」という下部構造は擁護すべきだろう。それこそ搾取を打ち破る物質的構造としての様態だからだ。そういう批判的な編集の姿勢が必要だったのではないか。その点において、市田と絓の『情況』の編集方針への違和感は、十二分に理解できる。せっかく「当事者枠」に阿部がいたわけで、そこできちんと議論ができればよかったのだが、表現の自由という〈観念論〉に流される傾向があり、阿部に発言の機会があまりなかった。表現の自由を考える場合も、「トランス」の物質的条件から議論をした方が良かったのではないか。そもそも佐藤論文を載せる載せないは、編集権がある編集部が決めることで、それは口を封じたり封じなかったりすることではない、という会場での絓の主張で、その議論は終わるはずである。ただ、会場では「声明」こそが編集に介入し得るような「キャンセルカルチャー」を惹起するような署名をしたのではないか、という批判がなされていたが、この反論に応えうる準備は「支持派」に明確にあるべきだろう、とは思った。

 「討議」の最後に、「左翼とは何か」というのは考えさせられた。僕自身は左翼とは言えないし、物質的対立の中で実践しているかといわれると、自信がないわけで、それ故に考えさせられた。そこで唯一いえることは「左翼」とは、「マルクス」と「唯物論」に少なくとも依拠すること、ということだった。デリダの「差延」も、唯物弁証法の向こうを張って出てきたものだろう。デリダの「歓待」も交換様式に対抗したもので、柄谷行人の「交換様式D」もそれにあたる。この対立があればこそ、「差延」に「唯物論性」が宿るはずである。しかし、マルクスなしのアナキズムや、マラブー的アナキズムは、「トランス」という物質性とは違った、安易なカオスや無秩序、両論併記、なんでもありを引き寄せて頽落させているのではないか。僕が読む、あるいはネットで観る尊敬すべきアナキストは、マルクスを常に意識している。それは否定的媒介としてでも、である。マラブーも著書『泥棒』の中で、「アナルコキャピタリズム」のアナキズムは避けるべきだと言っているが、マルクス主義を念頭に置かないアナキズムは、すぐにこの何でもありアナキズム、なんでも相互扶助、なんでも併載し、なんでも壊せるということになってしまうのではないか。マラブーはデリダ的「歓待」のアナキズムより明らかに理論的に弛緩し物質性を失っているように見える。これは僕の理解だが、例えば千坂恭二などはきちんと、常にマルクスからの距離を見定めながら、アナキズムの組織性、物質性、破壊的力(物質性)を論じていると思うが、それをマルクス抜きで受け止めている今の人はどうなのか、ということである。マルクスとアナキズムとの分かちがたい「境界」とその二つを「トランス」(差延・越境・滞留)することなしに、「左翼」であることはできるのか、が「討議」後に僕の考えたことである。



 蛇足ながら、名古屋は宿泊費が週末は上がっており、そもそも宿が取りづらい。「観光」による影響だろうが、会場に来ていた知人も、宿の宿泊料の高さを嘆いていた。一日2万以上の宿泊費はさすがに払えず、僕は三重県が実家なので、実家に宿泊して東京に帰ることにした。東京よりも寒く、夜は雪が降っていた。ほぼ『鬼平犯科帳』を見て過ごしていた。

『全共闘晩期』を読んだ

2024年12月14日 | 本と雑誌
 航思社の編集者の方より、絓秀実・花咲政之輔編『全共闘晩期:川口大三郎事件からSEALDs以後』をご恵投頂いた。以前、このブログでも代島治彦監督映画『ゲバルトの杜』を「徹底批判」したシンポジウムに行ったことは書いたが、そのシンポジウムの登壇者の議論とそれに関わる論考が、シンポジウムの登壇者以外の執筆者の論考も加えた形で収録されている。シンポジウムの内容や映画への批判の要点は既にブログ記事で書いているので省略するとして、「川口大三郎事件」が問題化した、「早稲田大学」と「革マル派」による主に学生への生政治的支配の問題を、大学の自治だけではなく、世界の支配構造の問題として論じたもので、新型コロナウィルス感染症以来、ますます生政治的な支配が強まっている中で、読まれるべき書物である。そして、シンポジウムでは僕にも発言の機会があったので、これもかつてブログに書いた一緒にビラまきをしていた友人との早稲田祭をめぐるエピソードを話し、その部分が掲載されたのは大変ありがたかった。かつての出来事を、このような大きな問題を扱った書物の中に記憶として納められたことは、大変感謝する。

 論考の中で気になったものがあったので、それについて書こうと思ったが、ちょうど早稲田祭の問題に花咲政之輔氏の論考「昂揚会・原理・早稲田リンクス——奥島「改革」後の早大管理監視体制」が触れているので取り挙げてみる。この論考は、僕の在学当時の認識を補完するもので、興味深く読んだ。花咲氏によると「早稲田祭準備委員会」には「学内有力芸術系サークル」が参加していたとされ、友人はその中の一つのサークルの幹事長だったはずだ。当時、準備委員会の議論に参加するようにその友人から誘われたことがあるが、サークルをやめどこにも所属していないということもあり、僕は参加しなかったのを記憶している(問題の本質を正確に把握していなかったともいえる)。友人には僕のような学生への残念さと、呆れや諦めの気持ちがあったかもしれない。それでも友人は、定期的に、そこではどういう話し合いがおこなわれていて、どういう議論になっているかを、教えてくれ、二人で議論をしたのであるが。
 また、サークルの「早稲田リンクス」と早稲田祭の関係についても花咲氏は書いている。96年に設立というので、「早稲田リンクス」は確か僕の入学と時を同じくして出来上がったサークルだと思う。僕のゼミの先輩が「早稲田リンクス」の初期メンバーでもあった。その「早稲田リンクス」が大学の権力を代行=代表し、「革マル」の生政治的権力と、意識的にも無意識的にも融合して、民主的な早稲田祭復活のプロセスが失われていったという花咲氏の見立ては、今の「早稲田リンクス」の大学での地位を考えても納得できるものである。確か早稲田祭が中止になってからだと記憶するが、「早稲田リンクス」の最初期のホームページには、今は懐かしき「BBS」が設置され、誰でも書き込みができ、意見交換が可能だったのだが、ある時、「BBS」での議論が不可能になるような、ページの構造を破壊するようなハッキング事象が増え始めたことがあった。最後の方は、恫喝するような書き込みもあり、あの一連の混乱は、もしかすると早稲田祭の問題とかかわりがあったのかもしれない、と花咲氏の論考を読んでから思った。その後、その「BBS」は閉鎖されている。
 それと花咲氏はシンポジウムや論考の中で、映画出演者の取材拒否による映画製作の不成立や映画の上映中止をラディカルに主張している。現在の非政治的でノイズのない社会から見れば、この花咲氏の主張は乱暴に聞こえるのかもしれないが、新自由主義や生政治的な支配、そして社会の非政治化を推し進めてしまうような映画を殲滅することこそ、むしろ民主主義を守る数少ない方法だということだろう。資本主義における治安維持と監視コントロールによって、見かけ上は非暴力的平静と民主的非暴力の状況が保たれているかのように見えるが、実際はそれ自体が支配の完成形であり最大の暴力でもある。そのような見かけ上の民主主義的冷静さこそが、最大の構造的な暴力的秩序であり、そこには「一撃」を入れるしかないということである。この「一撃」は、恐らく「生政治」の「生」の部分に打撃を与える方法といえる。そして、資本主義的生政治の秩序は、その「一撃」を暴力という概念でひとくくりにして排除しようとするのである。これは「内ゲバ」という形で、「川口大三郎事件」を、新左翼内の抗争という形で治安維持する方法と同じではないだろうか。

 もう一つは長濱一眞氏の論考「なんとなくカクマル――「暴力批判論」のために」が興味を引いた。特に漱石の『こころ』の読解と重ねながら、内田樹の革マル派への欲望を読解するその過程が面白かった。これは絓秀実の『「帝国」の文学』でも分析される、「大逆」をめぐる漱石のそれへの応接の問題とも重なり合うものとして読んだ。絓は「なんとなく反天皇」的に読まれてしまう漱石の問題を、小森陽一や高橋源一郎などを批判しながら、実は漱石自体が「大逆」を回避していた問題(ようは天皇制を漱石は批判していない)を論じたわけだが、「なんとなくカクマル」で、「なんとなくリベラル」な内田は、まさにこの国民作家としての漱石的立場に君臨して、天皇的に振る舞い、生政治的な管理側の言説を振りまいているということなのだろう。内田はそのような革マル的暴力言説に依拠しながら、しかしだからこそ「なんとなくリベラル」として一般には受け取られてしまっているということなのだ。内田の言説自体が、管理コントロールの意思というか暴力によって維持されているのである。その意味で内田は未だに革マルであり、生政治的大学支配の言説を捨ててはいないということになる。今のなんとなくリベラルな資本主義の秩序が、結局は内田的な「なんとなくカクマル」の構造的支配によって維持されているというのがよくわかった。長濱氏の論を読んで、やはり「川口大三郎事件」については、それは革マルの生政治的支配の問題も含め、「文学」の問題として分析する必要性を感じることとなった。これは、照山もみじ氏の「中島梓」の問題も同じだと思う。

 映画『ゲバルトの杜』を理論的に批判できる書籍が出たことは良かったと思う。

兵庫県知事選をチラ見しつつ

2024年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 普段から選挙に関心を持たず、休日は疲れてほとんど寝てしまっており、「チラ見」程度にも実は経緯を見ていなかったので、看板に偽りありかもしれないが、それも「選挙」にはふさわしいということで書いてみる。斎藤元彦元兵庫県知事が、今回の県知事選(2024年11月17日・投票日)で再当選したようだ。「パワーハラスメント疑惑」をめぐって、議会から不信任案が提出・可決されて失職した斎藤元知事が「出直し」ということになり、「民意」もそれを支持したということになるのだろう。Twitterなどを見ると、やはり「異常事態」として捉えている人も多く、「パワーハラスメント疑惑」とそれに関わった県の職員が「自殺」しているとなると、斎藤元知事の再当選が「異常事態」として見えるのも、当然かもしれない。しかし一方では、「マスゴミ」の世論誘導によって斎藤元知事は陥れられていたのであって、「選挙」で「民意」がそれら「マスゴミ」を破り、斎藤氏は無事知事へと帰還したという、「我らの民主主義」の「勝利」を誇る意見も多数あり、確かに「選挙」に勝利したのだから、「民意」の「勝利」には違いないともいえる。

 「こういう選挙」というのはSNSやネット以前にもおそらくあった(ある)はずである。そして「とんでもない」と思われる候補者が次々と誕生していた(している)ことは、昨今の選挙結果を見ても容易に予想できる。今回の選挙戦はマスメディアやネットで注目されていたので特に目立ったが、選挙の「日常風景」といっていいと思う。いろんな場所に行けば、何故この人が?、と思うようなその地域では疑問符の付く所業の人物が、「長」になっていることはあるわけだから、不思議ではない。

 ただ言えるのは、「民意」に失望している人も、逆にその勝利を喜んでいる人もコインの裏表の関係だということだろう。双方は結局のところ、民主主義における代表制に無自覚に依拠しているからだ。「民意」を代表=代行することへの過剰な期待と依拠が、むしろこの「選挙」という代表制の失調を表しているように見える。これは「ポリコレ」や「コンプラ」に見られるような、「マイノリティ」や「道徳」を代表=代行するという昨今の傾向と、軌を一にしているのである。民主主義(来るべき民主主義?)もマイノリティ運動も、本来は「民主主義」という代表=代行制度によって毀損されてしまうような問題を考えるため思索され、実践されるもののはずだ。だがさしあたり実践的には、マイノリティ運動も民主主義と「選挙」という「最悪の政治形態」という例外の中で活動をせざるを得ないわけで、その本来性と実践のレベルの差異や亀裂をどう埋めるかが、問題化されるべきことだろう。そういう意味では、マイノリティ運動は代表=代行制度としての民主主義や「選挙」には、ある部分で敵対的になるわけであり、実際的にもこれまで敵対してきたわけである。それ故、様々な思想家がいろいろな形で表わしていた、そういう意味での「来るべき民主主義」は本来、民主主義と敵対しているということになる。SNSやネットの民主主義も、ある部分ではこの「来るべき民主主義」の一つに数えられ、まだ可能性が皆無なわけではないが、しかし、イーロン・マスクやサブスクその他の例を見てわかるように、ネットは急速的に封建化し、「サブスク」を「年貢」として人々から搾取して、封建領主として巨大化するインフルエンサーや資本家が支配する世界となっており、その意味での民主主義的敵対は無い。むしろマスクやインフルエンサーは、自らのご都合主義によって作った封建制度を「新しい民主主義」と僭称することで、現行の民主主義を壊そうとしている、ともいえる。「最悪の政治形態」という民主主義の例外性を、彼らに逆手に取られているということだろう。しかも企業的な「ポリコレ」や「コンプラ」は全く代表=代行制に敵対的ではなく、単純に企業活動のノイズを取り払うために使われている。それに依拠しているだけのマイノリティ運動と思われる行動も、実際はトヨタや電通のいうような社会の多様性を称揚するだけになってしまう危険がある。むしろ、「ポリコレ」や「コンプラ」が単に現状の資本主義と民主主義を防衛するためだけに、即ち「民意」を代表=代行するためだけに使用されるとすると、人々に対する管理コントロールの統治の側面だけが強化される結果となるだろう。実際、企業ガバナンスという形で、企業の統治形態は、一般の人々の生活にまで浸透してしまっている。マスクがこんなに人々に関わってくるのもそのためだ。そして、「新しい民主主義」への人々の欲望は、トヨタや電通、マスクへの「年貢」へと交換されて上納される。

 人はそれ故にこの資本主義に基礎づけられた民主主義の潜在的な管理から逃れるように行動はしているのだと思う。それは斎藤元知事を支持している「民意」が「マスゴミ」に勝利した、と喜ぶ姿からもそれがわかる。「民意」が「マスゴミ」に勝利するという、「来るべき民主主義」、「新しい民主主義」の勝利がやってくるという一瞬の昂奮は、嘘のものではない。だがそれは、「民意」や資本主義的な統治を許容する民主主義下では必ず裏切られることになる。その勝利をした「民意」は必ず「年貢」に変換されてその付けを払わされることになるからだ。

 その意味で斎藤元知事を支持した「民意」も、その対抗を支持した「民意」も同じく資本主義的な統治と、それに関わる民主主義的な代表=代行制度を支持している点で同じということになる。なにも壊せてはいないし、何とも敵対していない。「マスゴミ」と罵倒しながらも無意識では手を結んでいる。「マスゴミ」と呼べるのも結局はマスメディアの影響下で可能なことである。それによって「民意」は民主主義と代表=代行制に依拠した企業や資本家の「ポリコレ」や「コンプラ」へとさらに依拠することとなり、人々の「来るべき民主主義」への欲望は、電通やマスクへの「年貢」となり、サブスクとなって吸収されていく。そしてトヨタや電通、そしてマスクは、封建領主として、ますます「彼らだけ」が、反民主主義者として、君主として振る舞い、人々を支配するだろう。恐らく、すぐに「マスゴミ」を破った「民意」も「年貢」に変換される姿を見ることになる。それは、もちろん対抗側の「民意」も同じである。

 代表=代行制への批判こそが「民主主義」になり得るという逆説を考えないといけないのだろう。昨今「選挙」が権威づけられすぎである。これはテレビ番組『笑点』がやたら権威づけられていることと関連して述べたいが、今回はそれは置いておくとしても、皆が「選挙」を称揚しすぎであるし、代表=代行制度を無批判に受け入れすぎである。これは、代表=代行制の失調に対する人々の反動化だと思うが、この反動化自体が、封建領主や「年貢」への無批判の服従に繋がっているのだと思う。資本家やインフルエンサー、マスクらが、「来るべき民主主義」を僭称しながら、「ポリコレ」や「コンプラ」、代表=代行制度(「選挙」)を変換器として、人々のそれへの欲望を「年貢」やサブスクに変換し、それを吸収しながら人々を生政治的に支配している側面こそ、批判するべきだろう。資本家やマスクといった封建領主の反民主主義的振る舞いを、人々は「来るべき民主主義」への欲望として迎えるのだが、それは端的に騙されているのであって、その欲望は「年貢」として吸収されている。この「屈辱」をこそ考えるべきではないだろうか。今回選挙に投票したすべての人が侮辱されているわけである。

 この「屈辱」を意識するためには、昨今の「選挙」の権威化への批判と、多様性を僭称する封建領主的な「ポリコレ」や「コンプラ」の資本主義的で生政治的で、「年貢」への変換器となっている側面を直視し、批判することしかないと思う。この県知事選挙に内在する「屈辱」を否認して一喜一憂するのではなく、資本主義や代表=代行制への無批判的な依拠こそが問題だということを考えるべきだろう。代表=代行制度では考えられない問題を考える方法を発明することが「来るべき民主主義」であるならば、この「屈辱」を直視するためにも、資本主義と現行の民主主義を批判する側に何らかの方法で立つしかない。多くがこの封建領主に支配されるという「屈辱」を否認している。それでは「民意」は結局、「年貢」になるしかないのだ。現状最早グローバル資本主義は、民主主義ではないと考えるべきだと思う。

アメリカ大統領選をチラ見しつつ

2024年11月06日 | 日記
 この頃忙しく、ブログの記事に書けるような読書ができず、また、書く時間はあったのだと思うが、書いている時間を考えると気もそぞろになるほどには他にやることもあり、ブログの更新が一か月以上の空白となった。ただ、今日はアメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプがカマラ・ハリスを破り、「当確」を出したというのもあって、少し書いてみようと思った。

 日本の衆議院選もよくわからない形で終わり、自民党が敗れたのか野党が勝ったのかもさっぱりわからない。ニュースや新聞を見ても、破れたはずの自民党が政権運営を続けており、また、野党までも自民党の補完勢力のように、それは意図せざるものも含めて、なってしまっている。要は「何も変わらない」ということなのだろう。ただこの何も変わらない、というのは、まさしく何も変えたくないという意志の表れとして解釈した方が良いのかもしれない。「トランプかハリスか」という問いも、この衆院選と全く同じで偽物の問として、何も変えたくないという人びとの願望のスクリーンになっている。ツイッターでグレタ・トゥーンベリが、乱暴に要約・解釈すれば、トランプであろうがハリスであろうが、それは相対的な差異に過ぎず、どちらも打ち倒すべき敵(資本主義としての「システム」)である、と文書を提示していたが、それが真実だろう。トランプが大統領になった場合、あるいは日本でも排外主義者や差別主義者が為政者になった場合、喫緊の問題として直接的に「当事者」の命が危険にさらされることとなる。これは批判されるべきであり、これからのトランプにはその問題が大いに存在する。しかしながら、選挙でトランプを選ぶということは、あるいは日本でも選挙では大敗したはずの自民党が政権を担当し続けるということは(しかも野党もこぞって自民党を補完し)、人々が現状を変えたくない、あるいは自らの立場をこれ以上悪くしたくないという、意思の現れなのだろう。そういう意味も含めて、結局ハリスだったとしても、トランプと「変わらない」ともいえる。

 今日、若い人たちとデヴィッド・グレーバーの本を読みながら、グレーバーがいうように、剰余価値を生み出すという意味での「生産性」が乏しいと見做される「ケア労働」がないがしろにされる現実と、マイノリティがないがしろにされる現実を重ねつつ、剰余価値の生産が大きいとされる金融資本主義下でのエリートの労働と「ケア労働」を比較して議論をした。「エッセンシャルワーカー」とも呼ばれ、インフラをメンテナンスし、介護や医療や清掃、農業、畜産、漁業、食料品販売、輸送、教育といった、社会を維持するに欠かせない「ケア労働」が剰余価値を生まないものとして軽視される一方、剰余価値を莫大に生産するとされる金融資本主義で封建的資本主義的なエリートの労働、経営者、サブスクでの地代資本主義、それらに携わる人々が、「ケア労働」の数百倍の収入を得て「尊敬」されている。社会をケアしメンテナンスする、あるいは教育のように再生産を促す労働は、剰余価値を多く生まないと軽視されるのである。だからこそ、人々は早々にインフラや教育を民営化し、大学の学費値上げのように、教育への公的支出を切り詰め、例えば能登半島地震のように、剰余価値を生まないとされる地域は打ち捨てられ、「棄民」されるのだといえるだろう。それに対してグレーバーは、そのような地代資本主義やサブスク的封建資本主義、金融資本主義では不可視になってしまう「ケア労働」に重点を置くだけで、世の中の無駄な労働の多くは削減され、現状での富の不平等も軽減されるはずだという。もっと言えば、「価値」への眼差しが根本から変わるのではないかともグレーバーは予想しているのである。そして、その議論では、そのような「ケア労働」やそこに関わる「当事者」への「配慮」の問題が、「ポリコレ」や「コンプラ」として反動的に反発を買っている問題に繋がっているということにも話が及んだ。よく言われる「ポリコレ」や「コンプラ」のおかげで表現の自由の範囲が窮屈になり、「マイノリティ」への「配慮」が、逆に民主主義に不平等を招き寄せているという主張である。しかし、本当に人々の生活を窮屈にしているのは、そのような「ケア労働」や「マイノリティ」や「当事者」に対する「配慮」によって引き起こされているのだろうか、と。

 おそらくは、「ポリコレ」や「コンプラ」が窮屈さを生んでるのではなく、むしろ「サブスク」が人を封臣としてヴァーチャルなデジタルの「土地」に縛り付け、そこから年貢(会費・使用料)をとり続けているからこそ、その「支配」が人々に窮屈さもたらしているはずなのだ。しかしながら、人はそのような「サブスク」の「支配」に対して、価値を生み剰余価値を生むエリートの労働として賞賛するよう仕向けられている。そのため人はその対極にある「ケア労働」を益々価値のないもの、あるいはそれが世の中の自由主義経済・封建資本主義を阻害するものとして敵視するようになり、マイノリティへの「配慮」を垣間見ると、そこに不自由と窮屈を見てしまうのだ。そういう意味で、ほとんどの人は経営者や資本家という封建領主の領地を防衛するため、体よく使われているともいえるだろう。自分を苦しめて土地に縛り付ける封建領主を、むしろ解放者として賞賛し続けるようなシステムになっているのである。だからこそ人々は何もいわず水やライフラインが民営化されるのを眺め、質を低下させながら料金が上げられても文句を言わないのだろう。何故ならインフラは生産性が低いからである。だが、その結果、自分たちは益々生活基盤を奪われて「窮屈」になっているにもかかわらず。

 こう考えるとハリスのように、マイノリティや性的少数者に対する「配慮」を掲げる候補者が敵視されるのも「当然」となる。しかし問題は、だから「ケア労働」や「配慮」に関する問題を人びとに啓蒙すれば、その封臣たちは本当の敵に気付き、トランプやイーロン・マスクといった封建領主的経営者や資本家という真の敵を倒すのかというと、そうはならない。何故なら、ケアやマイノリティへの「配慮」を説き、啓蒙するハリスもまた、資本主義という搾取構造は変えたいとは思っていないからだ。結局は変えたくないのである。そうなれば、その窮屈さから解放してくれると思っていたハリスのような「善良な」民主主義者たちが、結局は搾取を容認する資本主義を全く変えるつもりがないとわかれば、少数派を気にする候補者よりは、ありもしない嘘の「大衆」という存在に自信を取り戻させると、嘘でも言ってくれる、嘘つきである改革者という名の経営者たちを、人は嘘でも信じたいとなるのは、わからなくはない。要は、「善良な」ハリスもまた嘘つきだからである。

 これはアメリカ大統領選だけではなく、先ほどの日本の衆院選でもいえる。結局自民も野党も同じ嘘つきなのだ。自民党の搾取構造を批判し選挙で政権にダメージを与えても、野党がそれを補完して、選挙などなかったような日常を作り上げようとする。選挙が終わったとたんに、野党は、変えるつもりはなかったんだ、そんな極端なことは言うつもりはなかったんだ、という形で言い訳を始め、何も変えないように動いていく。そして自分たちはより良い資本主義を作っていくんだと、自民党と五十歩百歩のことを言い始めるのだ。だったら選挙など無意味だろう。この嘘つきの慢性化は、本当の意味で「ポストトゥルース」的であるといえる。益々代表制は信頼を失っていき、封建制、絶対君主制に近づくのではないかと思う。そういう意味でトランプだけではなく、ハリスもまた陰謀論的かつ、修正主義者の側にいるといえるだろう。「啓蒙」と「陰謀」は、本質的には区別はできない。これは重要なことだ。

 経営者という君主による「解放」を夢見るという意味では、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んだ方がいいのかもしれないが、やはり思うのは、資本主義自体を批判し、代表制自体の問題化を考える政治的なイデオロギーが必要だということだ。それは相対的にマシなハリスが選ばれればいいということではない。その相対的にマシなものを選ぶという免罪符が、トランプを活気づけ、マイノリティを追い込む資本主義を持続可能にしているからである。

マラブーの『泥棒』を読んで「アナキズム」について考える

2024年09月17日 | 本と雑誌
 カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(伊藤潤一郎、吉松覚、横田裕美子訳、青土社)を読書会で読んだ。マラブーは哲学における「支配されざるもの」にアナキズムの原理を見ようとしている。西洋哲学には、特にギリシャ哲学以降、アルケーという支配の原理でありながら、同時に支配されざるものでもある、何ものかが存在する。このアルケーをめぐる「ダブルバインド」の中にアナキズムの原理を見ようとする。だが、西洋形而上学はこのアルケーを結局は、支配と被支配という非対称のエコノミーの中に回収してしまい、支配者のエコノミーにアナキズムを服従させることで台無しにしてしまう。アナキズムというのは、非-アルケー的なものであるのだが、この支配と被支配という非対称のエコノミーによって、支配と被支配の位階ができてしまい、形而上学というアーキテクトとして固定されてしまうのである。形而上学的位階制ではなく、アルケーの支配の原理でありながら同時に支配されざるものでもあるというアナキズムの原理であるダブルバインドをどのようにして維持するのか。この問題を哲学史としてマラブーは分析していく。

 マラブーはアリストテレスに始まり、デリダやレヴィナス、フーコー、ハイデガー、バタイユ、フロイト、ランシエール、アガンベン……などを取り挙げて、おおざっぱに言えばこれらの哲学者も、アナキズムの原理でもあるような非-アルケーの「ダブルバインド」を考察し、形而上学的支配と被支配の非対称的エコノミーを脱構築しようとしたわけだが、しかしながらやはり彼ら哲学者もまたアナキズム的な〈アルケーなきアルケー〉を隠蔽した、ということを証明しようとする。この手つきはものすごくデリダの脱構築的な読解に似ていて、要はこのアナキズムの原理になりうる、西洋形而上学が隠蔽する〈アルケーなきアルケー〉とは、デリダがいうところの「エクリチュール」の位相ということになるのだろう。形而上学という「声」の位階を現前の基底に置く西洋の体制は、「エクリチュール」としての「死」を抑圧することで成立したのだと。西洋形而上学はこの「エクリチュール」を〈泥棒〉し、そしてその盗み自体を抑圧して隠すことでその正当性を主張するのだ(あるいは《エクリチュール=盗み》を隠蔽するともいえる)。マラブーはデリダのように〈エクリチュール=アナキズム〉を抑圧してきた哲学の問題を考えているといえるだろう。

 ただ、これは読書会でも話題になったのだが、マラブーのアナキズムの擁護と、その擁護の方法には、〈現代的〉というべきか、ある種のポリティカルコレクトネスが宿っているように見える。例えばレヴィナスは哲学の中にある「支配されざるもの」を「奴隷」の形象で語ろうとする。それは「ユダヤ人」でもあるのだが、西洋形而上学やキリスト教的体制の中では異物となってしまう「奴隷」や「ユダヤ人」という形象というか存在というか痕跡というか、は「支配されざるもの」としての特異点になる。レヴィナスはここにアナキズム性を見るわけだが、マラブーはこれを批判する。レヴィナスの「奴隷」が、レヴィナスにとって「奴隷」は比喩ではないのだが、マラブーによればレヴィナスの「奴隷」は、黒人の奴隷などの、ポストコロニアリズムにおける「奴隷」の問題を全く考慮に入れていない、というのだ。それは確かにそうだし、それは批判されてしかるべきだと思うが、しかし、ポストコロニアリズム的な「奴隷」を仮にレヴィナスが語っていたとして、それでアナキズム的なものを、レヴィナスがより正確に把握することができたのかは、確かではないと思う。むしろこの批判によって、「奴隷」のモチーフは死んでしまい、レヴィナスがアルケーの支配体制に亀裂を入れようとした問題が、文化主義的にうやむやになるのではないのだろうか。

 僕はこれを読んだ時に、例えばデリダには『歓待』という本があるが、このデリダのいう「歓待」が示すアナキズム性の方が、マラブーのPC的アナキズムより、よほどラディカルではないかと思った。確かデリダの『歓待』の中には、砂漠でキャンプを張っているある家族が、偶然に出会った客を「歓待」したとき、「庇貸して母屋とられる」的な歓待をし、さらに自分の「娘」を客に差し出して、それは性的暴力や性的収奪を含む「歓待」がなされたことが、書いてあったと思う。これが「歓待」の不可能性の問題になるのだが、「歓待」とはこのような破滅と隣り合わせであり、人はこのような「歓待」は事実上不可能でありながらも、しかしだからこそ「歓待」が問題になる地点に留まらざるを得ないという、それこそダブルバインドの問題が「歓待」として描かれていた。よく日本国憲法の「戦争放棄」の問題の時、敵国が攻めてきても戦わないのか、という話になるが、ここでも本当は「歓待」の問題が存在するはずである。「歓待」をすれば身を滅ぼし、「歓待」自体がなくなる。しかし身を滅ぼさない接待は「歓待」ではないのだから、それでも「歓待」は消滅する。このダブルバインドの中で、〈歓待=破滅〉を考察するデリダの方が、PC的なアナキズムに留まるマラブーよりも、よほど暴力的でラディカルといえるのではないだろうか。デリダの「歓待」のほうが、よほどアナキズム的だといえる。これはやはり68年的「享楽」(ラカン)がマラブーには欠けているからではないか、などと考えてしまった。マラブーは〈アルケーなきアルケー〉的な真のアナキズムと、アナルコキャピタリズムとしての、経営者的アナキズムを分けていたが、PC的アナキズムはむしろ、アナルコキャピタリズムに近づきはしないか?

 また、このアルケーをめぐるダブルバインドは、日本の場合だと「天皇」に収斂されてしまう。日本の中で「支配されざるもの」とは支配者としての「天皇」以外の何物でもないだろう。「天皇」とは支配者でありながら、西洋形而上学的位階で表わされるような支配者ではなく、臣民と非対称ではない関係を結ぶ、とされている(もちろん実際そんなことはあり得ないが)。支配者でありながら同時に支配されざるものでもあるという、この「天皇」のダブルバインド的性質を一番よく表現したのは、三島由紀夫の『文化防衛論』である。三島のいう「文化概念としての天皇」は「秩序」と「無秩序」の両方を司るダブルバインドの存在として示されており、マラブーのいうアナキズムの原理とそっくりだといえる。そういう意味では、日本でアナキズムを考える場合は常に「天皇」の問題になってしまう、ということを読書会では確認した。西洋哲学は確かにアナキズムの原理を抑圧し続けているといえるのだろうが、日本の場合もアナキズムの問題は「天皇」に収斂しているといえよう。そういう意味で「大逆事件」や大杉栄や北一輝などの問題は、複雑に「天皇」と絡み合っていく。

 マラブーにはラディカルさが足りない。それは今のいう意味でアナキズム的なものの「享楽」が、ラカン的な意味で考察されていないのではないかと思う。ソレルの『暴力論』でいうところの「神話的暴力」としてのアナキズム性のようなものが捨象されているのではないかと思う。いうなれば本書はPC的アナキズム論になってはいないのだろうか。その意味では「おもしろくない」わけである。ただ、勉強にはなった。哲学史の中で、デリダ的脱構築の手つきで、西洋形而上学が抑圧してきた〈アルケーなきアルケー=アナキズム〉を追っていくという整理の仕方はわかりやすかったし、他の分野や事情にも適用できそうだ、というヒントになるものはあった。また「解説」によれば、この本はまだ導入であって、マラブーのアナキズム論の本体は、次の書物で既に出ているということで、それは翻訳されるのが楽しみである。

「御座候」を食べながら

2024年08月14日 | 日記
 お盆休みは「御座候」を食べながら、「大岡越前」と「鬼平犯科帳」、「税務調査官・窓際太郎の事件簿」を一日中見るという、理想的な日々を送りたい、送るべきである、送っているであろう。特に「窓際太郎の事件簿」を見ながら、最近小林稔侍を見かけないがどうしているのだろう、ということを考えながら過ごしていたい、過ごすべきである、過ごしているであろう。とにかく今「御座候」を一個食べたのだから、来るべき理想達成のプロセスに突き進んでいるはずである。


 Twitterを見ると、トランスジェンダーについての雑誌の「特集」をめぐって「論争」が繰り広げられていた。目次が示されているだけで、内容を読んでいないので、何も言うべきことはないが、前回書いたように、「目覚めていながら酔狂であること」はできるはずで、その目覚めてあることと酔狂の次元を清濁併せ呑む形で維持する「強度」が論文の中にあるかどうかが大事なのだろう。そして、勿論そこには矛盾を読み取ることができるかどうかの、読解の「強度」の問題も存在する。ただ、こういう議論の時、僕はジャック・デリダの歴史修正主義(者)への態度を思い出す。いわゆる「ガス室はなかった」、という類の歴史修正主義(者)に対して「歓待」はどうあるべきかを、デリダはインタビューで聞かれていたはずで、要約するとデリダは、そのような歴史修正主義(者)に反対しつつも、議論は開かれたままで、議論自体は継続されるべきであり、廃絶してはいけないという形で、限定的な「歓待」のプロセスを語っていたはずである。

 もちろんこれは、デリダ自らが出演している映画の最後の場面で、害悪を限りなく永続させてしまう「反復」は、「差異と反復」という「エクリチュール」を「祝福」するデリダも、「呪詛はしないが祝福もしない」という言葉によって「否定的」に語っていることと共に考えなければならないと思っている。デリダも「歓待」の「矛盾」をここで抱え込んでいるのだ。しかしここで重要なのは、デリダがそのような害悪を永続化しかねない「反復」さえも、「呪詛はしないが祝福もしない」という表現で、「反復」それ自体を拒絶するのではなく「留保」していることである。この「矛盾」こそが考えられるべき問題といえる。

 こういう「炎上」に類する時は、「加害」や「被害」、「当事者」や「非当事者」の「分断」などが安易に、簡単に語られてしまうことがあり、またそれがもっともらしく見える場合もある。要は差延的に考えなければならないにもかかわらず、急がせ「切迫性」が演出されてしまうのだ。だが、どのような立場であろうが、「実践」は常に、何らかの形で弁証法的に、敵対者のポテンシャルを自らのポテンシャルとして耐え抜く瞬間はあるはずで、それが「実践」の原動力になる場合がある。そしてそれがなるのかならないのかは、読みかつ議論しなければ判断できないはずだろう。そのようなプロセスを捨象して勧善懲悪的にしか物事を判断しない人がいるとしたら、それこそ、民主的なプロセスを破壊することになるのではないか。

ジジェクを読みつつ、再び今年も地元の「盆踊り」を考える

2024年08月11日 | 日記
 スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書 )を読書会で読んだ。ジジェクの「リベラル批判」が「逆張り」」的にとられて批判はされるものの、本書では重要な生政治と「ネオリベラル」への批判がなされている。そういう意味で、「woke」が批判されるのも、それなりの根拠がある。もちろん「目覚め」なければならない目覚めていない人はいて、それは常識の範囲で目覚めるべきであり、その常識とはきちんと基本的人権の尊重を守り抜くという意味で、さしあたりはいうしかないと思う。その人権の尊重を徹底するという意味でのラディカルさによって、目覚めていない人を目覚めさせる必要はある。
 
 しかしながら、最も目覚めている資本という「woke」と重なっていることに無自覚な「リベラル」は「ネオリベラル」になりうるわけであり、このような「リベラル」は以前から言われているが、批判されるべきだろう。「目覚めた」ことにより良心の疚しさを抱き、誰も達成できないような「マイノリティ」の「代表=表象」のルールを敷いて、結局はそのルールについてこられない目覚めていない人々を断罪する。本来、「マイノリティ」は「代表=表象」のルールには包摂できない「矛盾」として存在しているはずなのに、SNSでは多くの人が、生きづらさや、自らの存在の違和感を表明し、それを「代表=表象」しようとして競い合い、それについてこられない人々を、目覚めていない人として断罪していく。しかしそれは、コンプライアンスによる企業統治の厳しさと、何が違うというのだろうか。グローバル企業は、十分すぎるほど「woke」して、その「資本=woke」のルールの中で、公正に消費者を統治し、スポンサーとして人々の倫理的存在様態にまで管理コントロールの生政治的な力を及ぼしているというのに。
 
 このジジェクの「woke」批判は、絓秀実による華青闘告発の議論と通じるものがある。絓もまた、華青闘告発が「マイノリティ」という矛盾そのものが「代表=表象」には包摂できない「享楽」の次元を開くと同時に、それが「マイノリティ」を「代表=表象」しようという欲望にも開かれることとなるといっているからだ。その意味で、華青闘告発は「マイノリティ」の「享楽」を問題化すると同時に、「woke」の源流ともなる。そういう意味で、絓の華青闘告発の議論は、ジジェクの「woke」批判と重なる。ジジェクも絓も「享楽」を捨象して、結局は「マイノリティ」を「代表=表象」の枠組みに閉じ込めようとする、その倫理主義を批判するのである。「代表=表象」批判というのはあれほど、「ポストモダン」で言われたはずなのに、「ポストモダン」批判と共に、素朴な「代表=表象」の欲望がまたぞろぞろと出てきているようだ。しかも、誰かの生きづらさや、存在論的違和感を、何かの「お気持ち」として、掬い取ることのできるものとして、ケアできるものとして、「代表」しようと競い合う。そしてその「代表」を貫徹するには、ものすごく難易度の高い倫理的ハードルを越えなくてはならなくなる。おそらくこの「woke」できる倫理観のモデルというか、貫徹できるのは「皇室」かグローバル企業としての「資本」になるのだろう。
 
 さて、今年も地元の村の盆踊り大会に行ってきた。去年、僕の同級生を中心にした有志達が、盆踊りを30年ぶりに「復活」させ、実はその年限りでやめるはずだったようだが、同級生たちが、今年も骨を折って開催をしたようだ。完全なボランティアで、やはり昨今の事情もあり、地元の地区の協力は得られず、皆仕事で忙しい中、地区の行事をわざわざ「復活」するというのは、反対が多いようである。それでも、かき氷、ポップコーン、金魚すくいや風船釣り、などの露店も用意され、去年よりも規模は大きくなっている。「復活」の立役者である同級生の「会長」と、僕の家族が「副会長」となっており、いろいろ「復活」の事情を聴くと、やはり開催はものすごく物理的な意味でも労力が必要で、またスポンサーを集めるのも一苦労のようである。ここまでやっているのだから、ぜひ地区や地元の行政も有志たちの行動を粋に感じて支援ほしい、と話していた。
 
 30年前に様々な「リスク」と労力の関係で盆踊りが無くなり、子供たちが集まる場所が無くなっていった。さらに、世代の違う大人たちも交流が無くなっていき、そのような共同体としての危機を有志達は感じている。その不安を汲み取る受け皿がない。むしろ行政や人々はそんな「リスク」は増やさないでほしいという。また、この村の共同体は、もちろん家父長制的な側面がある。これは去年も書いたことだが、体育会的、先輩後輩的、権威主義的、地縁・血縁的側面の「酔狂」が発動しなければ、損得勘定抜きで人を集める場を作る人は集まってこない。村の中で「酔狂」だと思われている人が、祭りで人を集め場を作るということは、よくおこることだ。損得や「リスク」ではなく、その「酔狂」の次元で共同体を維持する欲望が発動する。「woke」から見れば目覚めておらず、解体すべき封建制の「酔狂」。「リスク」としてしか現れない存在が、共同体の危機をどうにかしたいと考える。太鼓をたたいていた町議会議員は「保守系」なのではあるまいか。
 
 共同体を解体し、「リスク」の管理をして、封建的力関係を脱構築した後に何が残ったのか。その盆踊りに参加しながら、僕の「地元ナショナリズム」がふつふつと高まってきていた。「リスク」や損得勘定を超えた「酔狂」の次元を捨象して、「リスク」と損得勘定を「代表=表象」している「リベラル」を、この村の人々は信用するはずがないのではないか。その「酔狂」の受け皿に、結局太鼓をたたきながら、なっているかのようにふるまっている「保守」の議員に、それで勝てるのか。最強の「酔狂」である「天皇」と「資本」に対抗できるのか。できるわけがないだろう。それがジジェクの「woke」への批判なのではなかったか。
 
 目覚めながら「酔狂」でいることはできるはずだ。しかしそれは矛盾を抱え込むという困難がある。だが「代表=表象」への批判というのは、その矛盾を生きるという問題であり、実践理性批判の問題であったはずなのである。