「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

詩集と句集を買う

2025年02月05日 | 日記と読書
 最近買った本を書いてなかったと思い、実際は雁屋哲関係の本をかなり買ったのだが、それはおいておいて、究極Q太郎の詩集『散歩依存症』(現代書館)、高橋鏡太郎句集『無縁者』(共和国)、あと古本で『江古田文学』(江古田文学会)の1988年の特集第二弾「詩人・山本陽子」などが、直近で手に入ったものである。まだぱらっとしか見ていないので、読んだ後に感想を書きたい。特に僕としては、良くネットでも話題になる「詩がわかる、わからない」問題に囚われているところがあり、大半が「わからない」わけだが、その中でも山本陽子の詩は、衝撃を受けた一つといえる。山本の詩は、まだうまく言うことはできないが、セクシュアリティの問題を考える上で、重要だと思う。それは享楽やエクリチュールの次元の問題を考えなければならない詩だと思うからである。

 昨今、告発されている「批評」や論壇が男性中心主義だということは、僕も否定のしようがないものと考えているが、いわゆる文芸批評的なテクストや手法それ自体が「男」であり、そうではない何か多様性を代表するような「批評」があるというのは間違いだし、多様性を代表=代行するという考え自体が、実は男性中心主義の根源のようなものだということは、考えなければならない。「批評」が「男」を「代表=代行」しているのだから、それを多様性の「代表=代行」にしなければならないと考えたとしても、「代表=代行」という representation の構造自体が、デリダのいうような男根ロゴス主義なのであって、「批評」をなんとなく多様性の方に引っ張ったとしても、代表=代行制度に無自覚に依拠するのならば意味がない。それよりも男性批評家が「男」としての「批評」を所有していたとすれば、他なる性がその「男」の「批評」を脱構築的に解放するしかない。「代表=代行」制度というのは、西洋近代社会においては、不可避に通過しなければならないものだし、その「代表=代行」への批判であったとしても、だからこそ、この「男」のロジック(通路)は不可避なものである。これを意識的に避けられると考えたり、これから離れた全く別のロジックがあると考えるのは、結局は「代表=代行」の通路にいながら、それを「否認」するだけでしかなく、ますます「男」という物神を強固にしないとも限らない。デリダがエクリチュールと脱構築の問題で扱ったのは、少なくとも形而上学批判は形而上学の内部でしかできないのだから、単純化していってしまえば、その内部に外部を求める問題と対峙しなければならない、ということだろう。確かこれをデリダは、『グラマトロジー』の中で、「内部は外部である」という形で表現していたはずだ。

 それ故、「批評」や論壇、文芸誌を男性が支配していたという下部構造の問題は、もちろん経済的な平等も含めて女性や他なる性に開放していくのは当然として、しかし、女性や他なる性が「批評」をすることは、決して以前のような男性批評家がやっていた「批評」から離れたものになるということには、必ずしもないはずである。先ほども言ったように、男性批評家もその「批評」の中で、その高度なものは、必ず「代表=代行」への批判があり、男性中心主義への批判があった。しかし、この「男」という「批評」を避けるために、内容的に多様性を「代表=代行」する「批評」にシフトしたとしても、それを女性や他なる性が担おうとも、「代表=代行」の無意識の追認という意味では、結局「男」になるしかないということである。単純に学問的学歴的に特に女性は差別されている結果、「批評」を欲望する裾野も狭められ、いわゆる「文芸批評」に携わる機会が少なく、かつ文壇論壇が男性中心の経済で運営されているために、女性がかつての「男」という「批評」に携わっていないだけではないか。文芸批評という手法やテクストがマッチョだからダメだという話にはならない。かつての「批評」の上質な部分が担っていた、「代表=代行」の批判と、男性中心主義への批判は、現在のフェミニズムにとっても重要な問題提起になっているはずだ。「男」が支配していたから「文芸批評」に女性や他なる性が少なく、そのため批評は硬直していたというのは、全く正しいのであるが、しかし、その「男」を回避するために、多様性や、これまでやってきたマッチョでゴリゴリな「ザ・文芸批評」を回避した結果、多様性を「代表=代行」したり、当事者やマイノリティを「男」よりも「代表=代行」するという建前でテクストが書かれるとするならば、それは「代表=代行」という「男」への、そしてかつての「批評」への無自覚な回帰と服従になってしまうだろう。「批評」の「売れる・売れない」問題もその変種といえる。どちらが読者という消費者の欲望を「代表=代行」するかという経済ゲームは、本当にマッチョである。だからむしろ、「男」という「批評」の構造に他なる性として乗り込んで簒奪する方が良いのではないだろうか。単純に攻撃的でなく、人をけなすのでもなく、多様な考えを尊重する、即ち多様なものを「代表=代行」すれば「男」から離れられるという思考自体がすでに、男根ロゴス主義であり、もっといえば何も考えていないということにすらなるだろう。それこそが、「代表=代行」という「暴力」に繋がっているということに無自覚だからだ。

 このような「代表=代行」の「暴力」に対して、山本の詩は不安や動揺を与えてくれる。『江古田文学』に絓秀実も書いているし、また『絓秀実コレクション』にも所収されている山本陽子への批評にもあるが、山本の詩はかなり不可解で、この「代表=代行」制度自体がなかなか捉まえられない詩になっている。詩は「代表=代行」の(不)可能性の条件そのものであり、それこそがエクリチュールというものでもある。また、確か山本の遺稿集の山本の同人仲間が書いていたと思うが、山本は「女性ではなかった」ということを書いていたと思う。僕はそれはすごくしっくりきた。山本の書くものを読むと、確かに〈男女〉という二項対立で考えられる「女性」とは違う。もっと言うと別に女性を「代表=代行」していない。そういうものとして捉えられることを頑なに拒否しているように見える。この「頑なさ」が山本の不気味さだと思うし、何かこちらの欲望に触れてくるものだと思う。そしてこの〈男女〉という二項対立で考え得る女性への頑なな「否」、あるいはそこからの逃走こそが、ドゥルーズ=ガタリのいった、「女になること」や「女性への生成変化」ということになるだろう。そしてこれは同時に〈男女〉という枠組みそれ自体からの逃走でもある。しかしそれは安易な自由な性への解放や、アナーキーな性別それ自体の揚棄ではない、例えそれへの夢はあるかもしれないが、この「頑なさ」こそがセクシュアリティの核として、この抵抗こそが、「性的差異」と呼ばれるそのものだからだ。山本の詩にはそのような「頑なさ」の「性的差異」が読み取ることができ、僕のジェンダー・セクシュアリティを動揺させ、欲望に対する不安を掻き立ててくる。その意味で、山本の詩は「批評」であるといえるのである。山本の「頑なさ」や「女性には見えない」その詩としての活動と存在は、多様性を「代表=代行」しているような「批評」では捉まえることはできないだろう。そのような多様性というマッチョなものの対極にあるのが、山本の詩だからだ。

 何かを「代表=代行」したくて仕方がないことの問題は、テレビでもどうしようもなく話題になっている、「女子アナ」という問題とも重なると思うが、これはまた後日に書こう。

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