休みなしでぶち抜きの仕事の後は出張があり、その出張も何とか終わらせてきた。なかなかハードな二週間であった。暑さと疲労とストレスで、このままで大丈夫かと思ったが、ひとまずは大丈夫であった。
さて、小野寺拓也+田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)を読了した。二人の著者のTwitterには読者(?)と思われるアカウントからの様々なリプライが届いているようで、勿論肯定的なものから否定的なもの、否定的なものであっても本当に読んでいるのかと疑われるリプライなど、その反響はかなり大きいものであることが見て取れた。ナチス(本書では原則「ナチ」)が「良いこと」もした、というような「(俗)説」は、ドイツの歴史に詳しくない僕にも、これまで触れる機会は多かった。一番有名なものでいうとやはり「経済政策」のものであろうか。アウトバーンの建設などの公共事業の中で失業者の数が劇的に減った、などはずっと言われ続けてきたことである。このような「(俗)説」が眉唾ものなのかどうか、実証的な水準で僕も書物を読んだわけではなく、経験的なレベルで、そのようなことはありうるかもしれないが、だがそれを以て「良いこと」とは言えないだろう、くらいの認識しかしていなかった。数年前、10代~20代にかけての若者とナチスについて話した時も、その若者たちは、ヒトラーも「良いこと」をしたんでしょう?という疑問を含みつつも肯定的に話すことがあり、その時は本書の出版前であり、かつ僕もきちんと資料を読んだことがないので、「良いこと」が一体何の目的のためになされたのかを考えることなしに、それを称賛することはできない、ましてや絶滅収容所の問題抜きにして「良いこと」だけにクローズアップするのは、大変な間違いを生む、という趣旨のことを若者たちに強く訴えかけたが、その若者たちがどれほど納得しているのかは、とんとわからずじまいであった(である)。僕自身勉強不足なのもあって、それより先に核心的なことは言えなかったのだ。
このような「良いこと」論は、植民地支配の文脈でも使われることがある。例えば、日本が朝鮮半島や台湾を植民地支配した時に、その植民地を近代化する過程で、「良いこと」もしたのではないか、という議論が巻き起こることがある。日本が植民地に対して、鉄道を敷いたとか、義務教育を普及させたとか、工業化を進めたとか、そのようなことが語られ、それは「良いこと」とされる。これもまた、植民地の「支配」を抜きにした「良いこと」であるが、こういう「良いこと」を信じて侵略と植民地支配の過ちを「免罪」させようとする人が、今も一定数いることは確かである。本書はこのような「良いこと」の起源は何処にあるのか、ということを歴史学者としてきちんと資料や研究をもとに整理しようとしたもので、その読み易さからしても、僕のような初学者にとっても、大変良い試みだと思う。実際、知り合いで歴史を専門とする人と話す機会があって、ナチスがドイツを経済的に立ち直らせたという「(俗)説」は相当怪しいものであるというのを聞いてはいたので、それを裏付けるためにも読んでみたのである。読みやすい本でもあるので、ぜひ興味のある人は読んでほしい。そのため、詳しい内容というよりも、ここでは僕が読んでみてポイントだと思った内容だけを書いていきたいと思う。
まずはナチスが斬新なアイデアで遂行したとされる経済政策や失業対策が、実はヴァイマール時代から引き継がれたものであり、それ自体はナチスの独創的な社会問題の解決策ではなかったという点だ。ヴァイマール共和国が行っていた経済政策や失業対策を、ナチスはドイツ国民の「党」に対する支持のために改変し、それを「党」の都合のいいように「宣伝」したことが、現代にまで影響しているということである。その中でも目を引いたのが、ナチスは労働組合を解散させ企業を通して労働者を管理していたという事実だ。ナチスは労働組合に代わって、企業を通じて労働者の福利厚生をおこない、労働者を強制的に従属させていったという。労働者自体は確かに職を得、あるいは給与によって生活を改善させた事実はあるものの、職業選択の自由などの労働者の権利は制限され、その目的は戦争遂行のための労働者の「党」への従属と労働強化であったことが示されている。また、経済政策もグラデーションはあるものの、ヴァイマール共和国の経済政策や失業者対策を超えるような目覚ましいものではなく、結局はそれらを引き継ぎ、分野によっては、弱めてしまったところもあったという。
また、ナチスによる家族に対する保護政策も、戦争遂行のための少子化対策であり、兵力、経済力、工業力のための政策であり、人権に基づいておこなわれていたわけではないことが示される。これは現代の日本の問題にも通じるものであるが、結局「党」の戦争のために、「党」の経済のためにおこなわれた政策は、「党」の都合で改悪されたり、戦争遂行のためには不必要だとされた分野は予算が削減されたりするので、出生率自体は上がらず寧ろ下がっていったことが資料によって証明されている。子供の数を増やすということの正当性は何が保証するのか、というのは大変重要な問題であり、これを一概に語ることはできないが、少なくとも「党」のための戦争遂行や経済力の発展を目指した政策は、国民を豊かにすることはできず、出生率は増えなかったそうである。昨今日本でも経済的な問題から、「日本」のための少子化対策や結婚対策がなされているが、ナチスが結局は人間を従属させ、「党」の勢力拡大のために家族や労働者を利用したような形で、名ばかりの「支援」をおこない失敗したように、日本の場合も効果がないのは予測できる。「良いこと」論にいえることであるが、少子化対策は、結局「日本」のための経済対策でしかなく、その少子化対策に「良いこと」であっても、「日本」の経済発展に資することはないと勝手に判断されれば、「良いこと」ではなくなり、「良いこと」は打ち切られ、困っている人や家族の貧困などは顧みられなくなるのだ。それは必然的にナチスと同じ結果しか導かないだろう。人権や法の下での平等など、人民の生活を助けるのではなく、「党」や「日本」のための「良いこと」は結局、人間を組織に従属させるにすぎず、役に立たなくなれば捨てられ、最悪は見殺しにされるというのが、歴史の真実だということである。ナチスが障害者や失業者、マルクス主義者や敵対者、ユダヤ人などを優性思想を利用して虐殺していったのも、同じことだといえる。
その他、ナチスの健康政策や自然保護政策も、ヴァイマール共和国からの引継ぎの指摘や、上述の経済対策や労働者対策、家族の保護政策と同じで、結局は「党」の戦争遂行と経済基盤の拡大に私的に利用されているだけであり、一貫した政策が必ずしもあったわけではないようである。「党」に従属したり、奉仕しないような政策はナチスにとって「良いもの」ではなく、ご都合主義的に役に立たないと判断されると、打ち切られて行ってしまい、そのため、健康政策や自然保護政策もナチス以前より悪化することもある。まあそれは当然と言えば当然である。結果的に国土を荒廃させ、「絶滅」による大量虐殺は、ナチスの「良いこと」が内在させる「党」への従属と奉仕というご都合主義によって成り立っているからだ。そこから外れるものはすべて見殺しにされるのである。こう見るとナチスの「良いこと」の中で、今でもその目的を捨象しても(もちろん目的の捨象こそ問題である)「良いこと」にできるものだけが、現代においても「良いこと」のように考えられていることがわかる。しかしながら、「良いこと」の中枢には、「党」があるわけであり、この目的を捨象した「良いこと」などあり得ない。そしてこれはやはり歴史から学ぶべきことだと考えられる。
今回本書を読んでみて重要だと思ったことは、この「良いこと」を批判するためには、資本主義批判というパースペクティヴが必要だということだ。何故なら、ナチスのいう「良いこと」が今現在の「良いこと」と重なり合うとすれば、ナチスと現代の資本主義経済とは共通点があると考えられるからである。本書にはそのような視点があると思う。哲学者のスラヴォイ・ジジェクはその著書の中でヒトラーとスターリンという二人の権力者を比較して、ヒトラーを単なる資本主義の拡張を目指した人物として、唯物弁証法のスターリンよりも「下」に位置づけていた。上下はともかくとしても、本書を読むことで、ナチスやヒトラーは結局資本主義を「党」のための資本主義にしたのであり、それはアメリカを中心としたグローバル資本主義に敗北した資本主義だということが確認できた。ただ、そのナチスの「良いこと」の資本主義は、今の凋落する「日本」の資本主義を立て直そうとしている「日本」のための「良いこと」とも非常に似ている。基本的人権や平等ではなく、「日本」の経済にとっての「良いこと」の政策は、日本の人民の従属と奉仕を要求する。特に自民党や維新が掲げる「良いこと」はナチスの「良いこと」と重なり合うといえるだろう。
興味深かった例は、ナチスが労働者のために「歓喜力行団」という労働者を慰撫して「党」への不満をそらす組織を作っていたということである。労働者に旅行をさせ、カジノに行かせてご褒美を与える。そのようなこともすべて「党」への従属と奉仕のためなのだ。今の「日本」のための「良いこと」の資本主義は、このご褒美をちらつかせながら、コストカットと企業を通じた形での労働者の支配と効率化を推し進め、この「良いこと」についてこられない人々を「負け組」として排除しようとする。「日本」のための「良いこと」に加担できる人だけが、「国民」となるのだ。かつて麻生太郎がナチスを見習うということを言ったが、麻生に言われるまでもなく、ナチスの「良いこと」は現代日本資本主義の「良いこと」と重なっているといえるのだろう。その意味では麻生は本音も何も、「日本」の「良いこと」が資本主義を媒介として人民を従属させ奉仕させようとしていることを、シニカルに肯定して見せているだけなのだ。「ナチスは良いこともした」と言いたい人々とは、この「日本」のための「良いこと」に優遇されている人か、優遇されたいと思っている人なのだろう。あるいは、その従属と奉仕の中で排除されながら、その「良いこと」を夢見させられている人ともいえる。麻生的シニシズム(プロパガンダ)の中で、自分の立ち位置を見失うよう仕向けられているのだろう。
そういう意味では、本書は資本主義批判として読まれる書物だと思うし、また「良いこと」を批判するには資本主義を批判するしかないということを示しているのだと考えられる。この「良いこと」は資本主義の無限の拡張の「夢」を実現するためのものであり、それを「党」や「日本」は独占し、その「良いこと」によって人を従属させ、支配する。そこから零れ落ちる人々は「絶滅」させられるほかない。ならばナチスの資本主義と、この凋落からの脱出をもくろむ「日本」の資本主義の「良いこと」との差異は何か。おそらくそれはほとんど差異がないのだと思う。
最初に書いたように知り合いの歴史家と歴史修正主義に抗するためにどうすればよいのか、ということを話すとき、しつこく歴史家が資料を基にして反論し続けないといけないという話になった。そうでないと人は、ツイッターやYoutubeで自分が見たい、自分が従属したい団体のための「良いこと」ばかりに従属するようになり、歴史というある種の普遍的な精神を忘れることになる。勿論、この普遍的「精神」が歴史の悲劇を生む場合があることは警戒しつつである。やはりしつこく言い続ける、それは啓蒙を越えた「しつこさ」(享楽)でなされる必要があるのだろう。本書はそのような意気込みを感じた。
ただし、本の内容からは逸れて別の関心に拠って一言いうとすると、ナチスの「良いこと」の「欲望」の問題は分析されねばならないと思った。それは啓蒙では消えない「欲望」としてである。ハイデガーの問題もここに入ると思う。この「欲望」を分析する場合、ナチスの「潜勢力」のようなものを取り出す必要は出てくると思う。それは一見本書の意図と逆行するようで、ナチスを「肯定」する瞬間が出てくるかもしれない、と考えられる。しかしこの分析を僕は、所謂「逆張り」だとは考えていない。恐らく本書と同時に考えなければならない、ナチスを脱構築するための「二重」の作業(分析)過程のはずである。
さて、小野寺拓也+田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(岩波ブックレット)を読了した。二人の著者のTwitterには読者(?)と思われるアカウントからの様々なリプライが届いているようで、勿論肯定的なものから否定的なもの、否定的なものであっても本当に読んでいるのかと疑われるリプライなど、その反響はかなり大きいものであることが見て取れた。ナチス(本書では原則「ナチ」)が「良いこと」もした、というような「(俗)説」は、ドイツの歴史に詳しくない僕にも、これまで触れる機会は多かった。一番有名なものでいうとやはり「経済政策」のものであろうか。アウトバーンの建設などの公共事業の中で失業者の数が劇的に減った、などはずっと言われ続けてきたことである。このような「(俗)説」が眉唾ものなのかどうか、実証的な水準で僕も書物を読んだわけではなく、経験的なレベルで、そのようなことはありうるかもしれないが、だがそれを以て「良いこと」とは言えないだろう、くらいの認識しかしていなかった。数年前、10代~20代にかけての若者とナチスについて話した時も、その若者たちは、ヒトラーも「良いこと」をしたんでしょう?という疑問を含みつつも肯定的に話すことがあり、その時は本書の出版前であり、かつ僕もきちんと資料を読んだことがないので、「良いこと」が一体何の目的のためになされたのかを考えることなしに、それを称賛することはできない、ましてや絶滅収容所の問題抜きにして「良いこと」だけにクローズアップするのは、大変な間違いを生む、という趣旨のことを若者たちに強く訴えかけたが、その若者たちがどれほど納得しているのかは、とんとわからずじまいであった(である)。僕自身勉強不足なのもあって、それより先に核心的なことは言えなかったのだ。
このような「良いこと」論は、植民地支配の文脈でも使われることがある。例えば、日本が朝鮮半島や台湾を植民地支配した時に、その植民地を近代化する過程で、「良いこと」もしたのではないか、という議論が巻き起こることがある。日本が植民地に対して、鉄道を敷いたとか、義務教育を普及させたとか、工業化を進めたとか、そのようなことが語られ、それは「良いこと」とされる。これもまた、植民地の「支配」を抜きにした「良いこと」であるが、こういう「良いこと」を信じて侵略と植民地支配の過ちを「免罪」させようとする人が、今も一定数いることは確かである。本書はこのような「良いこと」の起源は何処にあるのか、ということを歴史学者としてきちんと資料や研究をもとに整理しようとしたもので、その読み易さからしても、僕のような初学者にとっても、大変良い試みだと思う。実際、知り合いで歴史を専門とする人と話す機会があって、ナチスがドイツを経済的に立ち直らせたという「(俗)説」は相当怪しいものであるというのを聞いてはいたので、それを裏付けるためにも読んでみたのである。読みやすい本でもあるので、ぜひ興味のある人は読んでほしい。そのため、詳しい内容というよりも、ここでは僕が読んでみてポイントだと思った内容だけを書いていきたいと思う。
まずはナチスが斬新なアイデアで遂行したとされる経済政策や失業対策が、実はヴァイマール時代から引き継がれたものであり、それ自体はナチスの独創的な社会問題の解決策ではなかったという点だ。ヴァイマール共和国が行っていた経済政策や失業対策を、ナチスはドイツ国民の「党」に対する支持のために改変し、それを「党」の都合のいいように「宣伝」したことが、現代にまで影響しているということである。その中でも目を引いたのが、ナチスは労働組合を解散させ企業を通して労働者を管理していたという事実だ。ナチスは労働組合に代わって、企業を通じて労働者の福利厚生をおこない、労働者を強制的に従属させていったという。労働者自体は確かに職を得、あるいは給与によって生活を改善させた事実はあるものの、職業選択の自由などの労働者の権利は制限され、その目的は戦争遂行のための労働者の「党」への従属と労働強化であったことが示されている。また、経済政策もグラデーションはあるものの、ヴァイマール共和国の経済政策や失業者対策を超えるような目覚ましいものではなく、結局はそれらを引き継ぎ、分野によっては、弱めてしまったところもあったという。
また、ナチスによる家族に対する保護政策も、戦争遂行のための少子化対策であり、兵力、経済力、工業力のための政策であり、人権に基づいておこなわれていたわけではないことが示される。これは現代の日本の問題にも通じるものであるが、結局「党」の戦争のために、「党」の経済のためにおこなわれた政策は、「党」の都合で改悪されたり、戦争遂行のためには不必要だとされた分野は予算が削減されたりするので、出生率自体は上がらず寧ろ下がっていったことが資料によって証明されている。子供の数を増やすということの正当性は何が保証するのか、というのは大変重要な問題であり、これを一概に語ることはできないが、少なくとも「党」のための戦争遂行や経済力の発展を目指した政策は、国民を豊かにすることはできず、出生率は増えなかったそうである。昨今日本でも経済的な問題から、「日本」のための少子化対策や結婚対策がなされているが、ナチスが結局は人間を従属させ、「党」の勢力拡大のために家族や労働者を利用したような形で、名ばかりの「支援」をおこない失敗したように、日本の場合も効果がないのは予測できる。「良いこと」論にいえることであるが、少子化対策は、結局「日本」のための経済対策でしかなく、その少子化対策に「良いこと」であっても、「日本」の経済発展に資することはないと勝手に判断されれば、「良いこと」ではなくなり、「良いこと」は打ち切られ、困っている人や家族の貧困などは顧みられなくなるのだ。それは必然的にナチスと同じ結果しか導かないだろう。人権や法の下での平等など、人民の生活を助けるのではなく、「党」や「日本」のための「良いこと」は結局、人間を組織に従属させるにすぎず、役に立たなくなれば捨てられ、最悪は見殺しにされるというのが、歴史の真実だということである。ナチスが障害者や失業者、マルクス主義者や敵対者、ユダヤ人などを優性思想を利用して虐殺していったのも、同じことだといえる。
その他、ナチスの健康政策や自然保護政策も、ヴァイマール共和国からの引継ぎの指摘や、上述の経済対策や労働者対策、家族の保護政策と同じで、結局は「党」の戦争遂行と経済基盤の拡大に私的に利用されているだけであり、一貫した政策が必ずしもあったわけではないようである。「党」に従属したり、奉仕しないような政策はナチスにとって「良いもの」ではなく、ご都合主義的に役に立たないと判断されると、打ち切られて行ってしまい、そのため、健康政策や自然保護政策もナチス以前より悪化することもある。まあそれは当然と言えば当然である。結果的に国土を荒廃させ、「絶滅」による大量虐殺は、ナチスの「良いこと」が内在させる「党」への従属と奉仕というご都合主義によって成り立っているからだ。そこから外れるものはすべて見殺しにされるのである。こう見るとナチスの「良いこと」の中で、今でもその目的を捨象しても(もちろん目的の捨象こそ問題である)「良いこと」にできるものだけが、現代においても「良いこと」のように考えられていることがわかる。しかしながら、「良いこと」の中枢には、「党」があるわけであり、この目的を捨象した「良いこと」などあり得ない。そしてこれはやはり歴史から学ぶべきことだと考えられる。
今回本書を読んでみて重要だと思ったことは、この「良いこと」を批判するためには、資本主義批判というパースペクティヴが必要だということだ。何故なら、ナチスのいう「良いこと」が今現在の「良いこと」と重なり合うとすれば、ナチスと現代の資本主義経済とは共通点があると考えられるからである。本書にはそのような視点があると思う。哲学者のスラヴォイ・ジジェクはその著書の中でヒトラーとスターリンという二人の権力者を比較して、ヒトラーを単なる資本主義の拡張を目指した人物として、唯物弁証法のスターリンよりも「下」に位置づけていた。上下はともかくとしても、本書を読むことで、ナチスやヒトラーは結局資本主義を「党」のための資本主義にしたのであり、それはアメリカを中心としたグローバル資本主義に敗北した資本主義だということが確認できた。ただ、そのナチスの「良いこと」の資本主義は、今の凋落する「日本」の資本主義を立て直そうとしている「日本」のための「良いこと」とも非常に似ている。基本的人権や平等ではなく、「日本」の経済にとっての「良いこと」の政策は、日本の人民の従属と奉仕を要求する。特に自民党や維新が掲げる「良いこと」はナチスの「良いこと」と重なり合うといえるだろう。
興味深かった例は、ナチスが労働者のために「歓喜力行団」という労働者を慰撫して「党」への不満をそらす組織を作っていたということである。労働者に旅行をさせ、カジノに行かせてご褒美を与える。そのようなこともすべて「党」への従属と奉仕のためなのだ。今の「日本」のための「良いこと」の資本主義は、このご褒美をちらつかせながら、コストカットと企業を通じた形での労働者の支配と効率化を推し進め、この「良いこと」についてこられない人々を「負け組」として排除しようとする。「日本」のための「良いこと」に加担できる人だけが、「国民」となるのだ。かつて麻生太郎がナチスを見習うということを言ったが、麻生に言われるまでもなく、ナチスの「良いこと」は現代日本資本主義の「良いこと」と重なっているといえるのだろう。その意味では麻生は本音も何も、「日本」の「良いこと」が資本主義を媒介として人民を従属させ奉仕させようとしていることを、シニカルに肯定して見せているだけなのだ。「ナチスは良いこともした」と言いたい人々とは、この「日本」のための「良いこと」に優遇されている人か、優遇されたいと思っている人なのだろう。あるいは、その従属と奉仕の中で排除されながら、その「良いこと」を夢見させられている人ともいえる。麻生的シニシズム(プロパガンダ)の中で、自分の立ち位置を見失うよう仕向けられているのだろう。
そういう意味では、本書は資本主義批判として読まれる書物だと思うし、また「良いこと」を批判するには資本主義を批判するしかないということを示しているのだと考えられる。この「良いこと」は資本主義の無限の拡張の「夢」を実現するためのものであり、それを「党」や「日本」は独占し、その「良いこと」によって人を従属させ、支配する。そこから零れ落ちる人々は「絶滅」させられるほかない。ならばナチスの資本主義と、この凋落からの脱出をもくろむ「日本」の資本主義の「良いこと」との差異は何か。おそらくそれはほとんど差異がないのだと思う。
最初に書いたように知り合いの歴史家と歴史修正主義に抗するためにどうすればよいのか、ということを話すとき、しつこく歴史家が資料を基にして反論し続けないといけないという話になった。そうでないと人は、ツイッターやYoutubeで自分が見たい、自分が従属したい団体のための「良いこと」ばかりに従属するようになり、歴史というある種の普遍的な精神を忘れることになる。勿論、この普遍的「精神」が歴史の悲劇を生む場合があることは警戒しつつである。やはりしつこく言い続ける、それは啓蒙を越えた「しつこさ」(享楽)でなされる必要があるのだろう。本書はそのような意気込みを感じた。
ただし、本の内容からは逸れて別の関心に拠って一言いうとすると、ナチスの「良いこと」の「欲望」の問題は分析されねばならないと思った。それは啓蒙では消えない「欲望」としてである。ハイデガーの問題もここに入ると思う。この「欲望」を分析する場合、ナチスの「潜勢力」のようなものを取り出す必要は出てくると思う。それは一見本書の意図と逆行するようで、ナチスを「肯定」する瞬間が出てくるかもしれない、と考えられる。しかしこの分析を僕は、所謂「逆張り」だとは考えていない。恐らく本書と同時に考えなければならない、ナチスを脱構築するための「二重」の作業(分析)過程のはずである。
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