
5月26日午後3時、福井県勝山市にある平泉寺白山神社に二度目の参拝が出来ました。
【パンフレットから】
平泉寺白山神社は、元正天皇の養老元年(717)、泰澄大師が白山に登ろうとしてこの地を訪れ一林泉を発見し、ここが神明のちであるこを知り神社を立てたとされる。
その後、戦国時代には48社36堂6千坊が峰々谷々に満ちていたが、天正2年(1574)一向一揆の兵火にかかり焼失した。
しかし、今もなお歴史の跡が残り美しい姿をとどめている。

二の鳥居の奥に見える拝殿は、当時45間以上(約83m)あったが、兵火により焼失したため、現在は7分の1の姿にとどまっている。礎石は今も残り、拝殿跡に広がる美しい青苔は、まるで絨毯を敷き詰めたようである。
拝殿の入り口には、一品天真親王の筆による「中宮平泉寺」とかかれた額がかかり、中には数多くの絵馬が奉納されている。

地名発祥御手洗池(みたらしいけ)泰澄泰氏がこの地を訪れた際、この池によって神明の地であることを知り、白山を開いたことから、平泉寺白山神社発祥の地といわれている。


泰澄大師お手植えの御神木、樹齢1300年の杉は、先端が二股に分かれている。

拝殿よりさらに右奥の石段を登ると、楠公供養塔がひっそりと建っていました。
【パンフレットから】
平泉寺白山神社は、元正天皇の養老元年(717)、泰澄大師が白山に登ろうとしてこの地を訪れ一林泉を発見し、ここが神明のちであるこを知り神社を立てたとされる。
その後、戦国時代には48社36堂6千坊が峰々谷々に満ちていたが、天正2年(1574)一向一揆の兵火にかかり焼失した。
しかし、今もなお歴史の跡が残り美しい姿をとどめている。

二の鳥居の奥に見える拝殿は、当時45間以上(約83m)あったが、兵火により焼失したため、現在は7分の1の姿にとどまっている。礎石は今も残り、拝殿跡に広がる美しい青苔は、まるで絨毯を敷き詰めたようである。
拝殿の入り口には、一品天真親王の筆による「中宮平泉寺」とかかれた額がかかり、中には数多くの絵馬が奉納されている。

地名発祥御手洗池(みたらしいけ)泰澄泰氏がこの地を訪れた際、この池によって神明の地であることを知り、白山を開いたことから、平泉寺白山神社発祥の地といわれている。


泰澄大師お手植えの御神木、樹齢1300年の杉は、先端が二股に分かれている。

拝殿よりさらに右奥の石段を登ると、楠公供養塔がひっそりと建っていました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます