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1221)私的岩手通史の旅 第110回(奥州合戦 第3幕)

2012年02月05日 | 私的岩手通史の旅
 昨日、奉公先のOBの宴に招かれました。OBとの一献となれば、奉公先の近況を聞かれたり心構えで説教されたり・・・というイメージがありますが、そういう話は全然無く、料理や農耕を楽しむ先輩達の日々を聞く時間となりました。私がその歳になった頃の姿は想像できませんが、すぐそこまで来ている気はします。

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第110回 奥州合戦-第3幕-(山形県鶴岡市  義経上陸碑)

 「私的岩手通史の旅」、今回も岩手県外の風景です。源頼朝が江ノ島で「秀衡調伏」の法会を行なう2年前の1180(治承4)年、頼朝は打倒平氏を掲げて立ち上がり、平泉にいた弟の義経は藤原秀衡の家来を供に兄の下に参じました。義経の活躍は目覚ましく、最終的には1185(元暦2)年3月24日、壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で平氏を破り滅亡に追い込んだことは、皆様ご存知のことと思います。その間の戦も含めると、頼朝にとって義経の功績は大きかったはずです。

 文字が多くなったので写真を1枚。九州の親戚宅へ行った際に寄った関門海峡です。このような展開でお披露目することになるとは思いもしませんでした。

(20年前の関門海峡壇ノ浦付近 -山口県下関市 1992/02/06-)

 ところが、平氏の捕虜を連れて頼朝の居る鎌倉に戻ってきた義経を頼朝は突き放し、ついには京へ戻った義経を家臣に襲撃させるに至りました。そのことを故宮脇俊三氏は「義経に不信を抱き、その存在を危険なものとみなしていた(平安鎌倉史紀行)」と記していますが、頼朝は「平氏が滅んだ後は義経が藤原秀衡と手を結んで自分(頼朝)を攻めてくる」とでも思ったのかもしれません。

 頼朝に追われる身となった義経は1187(文治3)年2月に京を離れ、弁慶ら僅かな手勢と供に藤原秀衡の居る平泉に向かいましたが、1175(安和元)年に平泉に至った時と異なり、北陸を経由した事が伝説等で明らかになっています。ある時は歩いて、そしてある時は船に乗ったのでしょう、山形県鶴岡市の鼠ヶ関(ねずがせき)には「義経上陸碑」が建っています。

(1986(昭和61)年に建てられた義経上陸碑 -山形県鶴岡市 2011/07/24-)

 義経一行は新潟県村上市(旧山北町)の馬下から船に乗り鼠ヶ関に上陸しました。京都から平泉までの距離に比べて船に乗った距離は比較的短いですが、この区間には奥州三大関所である鼠ヶ関があり、上陸碑は関所を過ぎた地に建っていました。いわば関所破りの目的で船に乗ったのでしょうか。

 関所を越えた義経一行は、鼠ヶ関から奥羽山脈を越えて平泉に向かいました。

 
(鎌倉・京都・馬下・鼠ヶ関・平泉の位置関係)



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2 コメント

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関門海峡 (おきもの)
2012-02-06 00:08:31
写真の関門橋は門司側から下関方面を写したものですかね。(めかりPA辺りでしょうか?)
下関の関門橋の近くには、壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇を祀る赤間神宮という神社があり、下関市民だった頃に初詣に行ったらパーカーのフードに後方から投げた人のお賽銭が入っていた事がありました。( ^∀^)
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Re:関門海峡 (店主)
2012-02-06 20:50:44
<おきものさん
コメントありがとうございます。
20年以上前なので記憶は定かでありませんが、恐らくそうだと思います。
今ほど歴史に関心が無かったので、赤間神社に寄らず人道トンネルのエレベーターに乗ってしまいました。
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