5話からなる短編集 各話とも話の導入は引きつけるものがありましたが、本のタイトルも奇譚(ありそうにない話)ということもあり、リアリティーからかけ離れてしまい面白くありませんでした。
(村上春樹の作品の多くは、奇譚で結ぶことが多いですが)
ただ、「偶然の旅人」の話の中で、心に残った台詞がありました。
「偶然の一致というのは、ひょっとして実はありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりでしょっちゅう起こっているんです。でもその大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまします。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何もみえません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるのです。」
ひとつの考え方ですが、共感できる言葉でした。
自分はあまり周りに関心がなく、身の回りの出来事をただ眺めているだけの人なので「偶然の一致」を見過ごしている気がします。
逆に細かく周りに関心を持っていたり感受性が強かったりしている人は、偶然の一致に遭遇する機会が多いのではと思います。
すばらしき日々
生きている証としての何かを刻みたいが何をすればよいのかわからない
外に出て付き合いをするが、作り笑顔で体をなす時をやりすごす
実のところ、何が楽しいのかよくわからない
外に出て愛犬を連れて、子供を連れて笑顔に満ち溢れた家族を見かける
心の底から楽しんでいるのだろうかと疑問に思う
仲睦まじい恋人同士や、仲良しグループや部活の集団らしき人たちが若さという眩い光をあたりかまわずまき散らす
疲れないのだろうかと思ってしまう
みな、ただ世の中の規定に合わせて笑顔を拵えて演じているだけなのではと思う
集合写真をとるときの規定で、無理やりつくり笑顔を拵えるように
一人でいる方が楽なのに、でも世の中の規定では一人でいる人はつまはじきにされている人
そう思われたくないから皆といて楽しそうな自分を演じているのではと思う
今日、幼い子供をつれてゴルフ練習場にきている若いお父さんを見かけた
お父さんにクラブの持ち方や振り方を教わり子供はとても楽しんでいるように見えた
子供は夢中になって子供用ゴルフクラブで球を打ち続けていた。
しかし、ふとお父さんがトイレに行き打席を離れたとき
さっきまで夢中になってた子供は、急に冷めたように虚空を見つめ立ち尽くしていた
とてもつまらな表情だった
幼いながらも楽しんている子供を無理して演じているのではと思った
では生きていて何が楽しいのか
別に無理に楽しくなくても、いいと思う
飢餓や戦争におびえることなく衣食住に事足りて
適度な仕事があって、何もしない日は本を読んで
適度に運動をして健康な体があれば、十分だと自分は思う
そこに楽しいという感覚はなくてもいいと思う
皆が笑っているときに、笑っていない自分がいてもいいと思う
相手に合わせて無理に違う自分を演じなくてもいいと思う
人からネガティブなことを言われても自分は自分でいいと思う
楽しいという感覚を無理に追い求めない方が、心の安寧を招くものだ
今自分はすばらしき日々を生きていると思う
気に入ったところ
『ものを集めるというのは、世界をほんの少しばかり切り取って、自分のものにすることである。あるいはこんな言い方もできるかもしれない。コレクションとは世界に秩序を見つけようとする試みであると。少年少女が拾い集める石ころは、世界の秩序を告げるシンボルなのである。石ころを集めるのは地球を知るひとつの試みである。』(P111)
どんな内容かまとめてみました。
簡単に言ってしまえば、このような筋書きですが
最後に國分先生は結論に至る過程を熟読してほしい、と言っています。
人間が退屈を感じるようになった理由については
「狩猟時代(移動)から農耕時代(定住)へ移行し、移動の際に変化に対応する為に活発に使われていた大脳が、定住することにより使われなくなりもてあまし退屈を感じるようになった。」
「有閑貴族の特権であった暇が、現代人にも享受されるようになってきたが多くの人は暇の使い方がよく分からなく退屈を感じている。」などの推論を述べています。
動物が退屈を感じない理由についても、常に定型行動をとっているため、人間と違って大脳が変化に対応する必要がなく、そのため退屈を知覚しないとの事が書いてあります。
◆自分について…現在の仕事が嫌いではないですが、同じことを繰り返していると退屈を感じて、他のことをやってみたいとか、違うところに行ってみたいとか、他の仕事もやってみたいとか感じる理由は これか とこの本を読んで気づきました。
そもそも脳が変化に対応して闊達に動いていないと退屈する仕組みなだったとは…。
それを意識できるだけでも、脱退屈にたどり着きやすいかなと思いました。
自分の場合は、お金を掛けずに脳に変化を与える方法としては、図書館から借りた本を読んで、感想を書いたり、イラストを描いたりですかね。
作品テーマは不条理な実存主義(=例えば、まわりが「お前は○○だ」といいつづければ、本人もだんだん「自分は○○かな」という認識になってしまうこと。)
『異邦人』の舞台設定は アフリカ北部地中海に面したアルジェリア アルジェ。
『異邦人』 細かい点は省き、ざっと短くまとめるとこのような話です。
随分昔にも読んだことがありますが、そのときはムルソーがアラビア人を撃った理由は、「フランス人作者カミュが、アウェー感のあるアルジェリアでの生活で、アラブ人対し少なからずストレスを感じており、それが鬱積して作中でのアラビア人殺しになった。」という解釈を勝手にしていました。
「 i(アイ)」西加奈子著を読んでみました。何気にブックオフで手に取った本です。西加奈子さんの作品を読むのも初めてです。
主人公のワイルド曽田アイは、シリア難民の子で生まれて間もない頃に、アメリカのダニエルと綾子夫妻に養子として引き取られる。
そこは裕福な家庭でアイは両親から溢れんばかりの愛情を注がれるが、自分の身の回りや、世界のあらゆるところで起こっている不幸な出来事があるたび、自分が被害者側でなく、幸福の側にいることの罪の意識に苛まれる。
その都度日付と出来事と死亡者数をノートに記録しそれら出来事を自分に刻み付けている。
現実逃避から勉強、特に数学の世界に没頭し虚飾のない数式が織りなす美しさ魅了されていき大学院でも研究に没頭するが、罪の意識の強い感受性による責め苦からは逃れることは出来ず、むしろより意識を内側へと向かわせる。
様々な過程をへて暖かい両親、高校で知り合った親友のミナや、夫の佐伯ユウに支えられ前向きに生きる力を得、自分自身で決断し、自分自身を肯定するようになり、最後は作中何度も繰り返される「この世界にアイは存在しません」という呪縛から解放される。
主人公アイの幸福の側にいることについての罪の意識への強い感受性は、普段何事もなく生活をしている人には理解し難いものかもしれないと思いました。
アイの罪の意識についての感受性については、15歳から高校生の頃の多感な少女時期、さらには同一性を重んじる日本の教育風土の中での疎外感などが絡みあって、彼女にとって一層強いものになり自身を苦しめたのだと思います。
少し前に読んだ村上春樹氏の「海辺のカフカ」で想像力があるところに罪の意識があると書かれており(言い換えれば〝被害者側の苦しみを想像できない人に罪の意識はない″。ユダヤ人を虐殺したアイヒマンの話の例で)、主人公アイの場合、被害者のイメージがが高波のように押し寄せ、自分の精神を蝕むくらいに罪の意識に苛まれてしまう。
アイは夫のユウから「幸福の側にいることに感謝をしなければならない(それにより亡くなった人達にどう思われようとかまわない)」との救いの言葉を掛けられる。
この言葉はありふれた言葉かもしれないですが、このストーリーを通じて投げかけられると強い救済の言葉として心に強く響きます。
また流産の辛い経験はアイを、自分も完全には幸福の側にいるのではないと考えるきっかけとなって、ユウの心の力添えもあり前に向かって結果的には進むきっかけとなったと思う。
アイの罪意識ついては「そりゃ考えすぎだよ。」って思いながら読んでいました。読む姿勢としては失格であることは重々承知ですが。
ただアイのような生い立ちは特殊すぎて、アイの苦しみを理解でき「そりゃ考えすぎだよ。」って言えるひとがアメリカや日本にはいなかった。
養子として引き取られて、単独アメリカに移住したようなものだから、同じ境遇の人同士のコミュニティーもなく、「そりゃ考えすぎだよ。」って言えるひとなどいるはずもないですね。
R6 6 9Sun 今日は日曜日
家の木の枝の切り落としを行ってから図書館へ行きました。「海辺のカフカ」下 村上春樹著を読んでいました。帰ってきて録画していた『世にも奇妙な物語』をみました。・追憶の洋館 ・友引村 ・人類の宝 ・週刊 元恋人を作る の4作でしたが、ストーリー設定の発想は面白いと思いましたが、感想として面白いと思ったのはなかったです。
6/30sun
今日はYouTubeで「11人いる」という昔のアニメを見てました。架空の星の宇宙空間の中でのエリート大学入学候補生達の入学テストの話ですが、完成度が高く50年前の原作作品とは思えなく、SF作品をみて後世の人が見たときによく感じる陳腐さがないのが驚きでした。その他、ネアンデルタール人に関する動画をみました。雨が降る前に草刈りをすませて、焼きそばを食べてから、午後図書館に行き、文藝春秋7月号を読みました。「新NISA」の特集で、貯蓄を考えるなら、NISAでeMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)株をコツコツ買うのが正解というようなことが書いてありました。太田光代さんが書いたタイタンの芸人さんのタクシー運転手とのトラブル記事も面白いと言っては失礼ですが、面白かったです。小説家を目指しているわけではないですが「
7/7 sun
図書館で漫画の『アルキメデスの大戦』を読みました。航空機設計技師の堀越次郎や小山悌(やすし)が登場していました。戦闘機の設計に、機能美を追及する堀越次郎と、操縦士の安全を追及する小山と、その融合を図る主人公櫂直との思惑が交錯していく筋書きが面白かったです。
また漫画『ギャラリーフェイク』も読みました。漫画『重版出来』を借りて帰りました。
今日は40度くらいの猛暑日。朝の涼しいうちに公園で散歩をして、それから図書館へ行きました。
7/14 SUN
今日は早朝に運動公園にいき陸上スタジアムの壁を使って壁打ちテニスをし、職場に寄って軽く仕事をして、家に帰り図書館から借りていた
「自動車エンジンの本(感想:エンジンって構造が美しい。EVに負けるな!)」
「セルビア・バルカン半島の話(感想:チトーすごすぎ)」
「健康で文化的な最低限度の生活 柏木ハルコ著(感想:生ホの話ですが続き読みたくなる)」
の残りを読んだ。それから録画していた
大河ドラマ「光る君へ(感想:宣孝、道長の子であるまひろの子を一緒に育てるとは(佐々木蔵之助)心広すぎ)
キングダムⅢ(感想:日本人が演じて日本語で話していて演技が上手くない人が多くてリアリティがなくて、中国ドラマ「項羽と劉邦」を見てしまうと大分見劣りしてしまう)
を見て昼飯の焼きそばを食べ、それから少し昼寝してから家の草刈と枝切りを行って、シャワーを浴びてから図書館へ行き今度は
「マスターキートン REマスター」
「健康で文化的な最低限度の生活2巻」
「ギャラリーフェイク 細野不二彦」を借りてきて読んでいます。
壁打ちテニスは朝の5時くらいから2時間くらい小雨の中やっていました。汗だくになりながらやりました。
7/28 SUN
今日も猛暑日 午前中は家にいて特に何もしていなかった。午後に図書館に行き「ガンダムをつくった男たち」という漫画を読んでいた。主人公の冨野監督が破天荒な人物として描かれていました。「健康で文化的な最低限度の生活 柏木ハルコ著(3)」を借りてきました。
家に帰りAmazonプライムの「fall(フォール)」という、女性二人が多分600mくらい(300mくらいまで登って「今、エッフェル塔の高さにいる」と言っていたので)の自立式では世界で4番目の直線型の廃塔の頂上の足場まで登ったが、劣化していた梯子が外れて頂上から降りられなくなった話。立ち入り禁止の区域で、頂上では携帯の電波が受信できないため、誰にも助けを呼べないという絶望の設定がおもしろかったです。
ネタバレになるのを防ぐため、最終的にどのように助かるかは書きませんが、
「もっていたドローンに携帯をぶらさげて、ゆっくり地上付近まで携帯を降下させてSOSを発信するのはどうかな?」と考えた人は多かったのでは?それをしてしまうと作中のドラマ性が崩壊してしまいますが。
ただ高所での撮影がメインなので、見ていて手と足の裏に冷や汗をかきながら観ていました。
今日も何事もなく一日がおわりました。
堀辰雄「風立ちぬ」を少し読んでいます。
『紙の月』著:角田光代のイメージイラストを描きました。宮沢りえを少し意識しています。
美しすぎる横領犯です。
朝7時ごろ 千葉ポートパークを散歩しました。ひんやりした潮風が心地よかったです
◆色々な方向から千葉ポートタワーを撮影しました。朝方だったので中には入れませんでした。4枚目の写真はランドタワーステージ上から撮った写真です。
◆浜辺でシーバス釣りをしている外国人カップルがいました。朝方55センチのシーバスを釣り上げたそうです。別のところではシジミ取りをしている人たちがいました。あまり多くはとれていないようでしたが、とても楽しそうに会話をしながら砂をほじっていました。
◆雲一つない天気で緑が映えていました。
◆勇壮なタンカーの姿 近くに停泊していました。
◆朝方だったので駐車場(無料)は空いておらず、広場入口のロータリーに車をとめさせてもらいました。
千葉ポートパークMAP
その後、千葉中央警察に申請の手続きにいきました。女性が対応してくれましたが、ものすごい親切丁寧な対応で驚きました。朝の忙しい中大量の申請を笑顔でこなしてくれて大変助かりました。
今朝のラジオ「生島ヒロシのおはよう一直線」で、「コンプラ守って国傾く」と言っていました。言い得て妙だなと思いました。コンプラもあまり度が過ぎるとということだと思いますが、守っていない周辺国の方が経済成長率がよいのも事実だと思います。
ブックオフで「海辺のカフカ」を買ってきました。これから読んでみます。
心にとまった内容を備忘録代わりにここに書いていこうと思います。
イラストは何もまだ読んでいないうちに、本を読んでいる女の子を描いてみました。ニコニコしながら読んでいますが、そのように読む本でなかったら、これはこれでミスマッチがあっておもしろいかもです。
◆「この世界における一人ひとりの人間存在は激しく孤独であるけれど、その記憶の元型※においては私たちは一つにつながっているのだ」(山梨県元教師の手紙の中から)
◆(夏目漱石の「坑夫」の主人公の話から)「坑夫」の主人公は作中で成長性がなく、恋愛事件のことばかりくよくよ考えていて、目の前に出てくるものをだらだらと眺め、それを受け入れているだけ。つまり、彼にとって、自分で判断したとか選択したとか、そういうことってほとんど何もないんです。すごく受け身なんです。でも、人間というのはじっさいには、そんなに簡単に自分の力でものごとを選択できたりしないものなんじゃないかな」(カフカが大島さんに言った事)
◆ある種の不完全さをもった作品は、不完全であるがゆえに人間の心を強く引きつける。少なくともある種の人間の心を強く引きつける、ということだ。たとえば君は漱石の「坑夫」に引きつけられる。『こころ』や『三四郎』のような完成された作品にはない吸引力がそこにはあるからだ。
質の良い稠密(ちゅうみつ)な不完全さは人の意識を刺激し、注意力を喚起してくれる。ぼくは(シューベルトの)二長ソナタに耳を傾け、そこに人の営みの限界を聴きとることになる。ある種の完全さは、不完全さの限りない集積によってしか具現できないのだと知ることになる。それは僕を励ましてくれる」(大島さんの言葉)
◆ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンがテルアビブの法廷の被告席にあって、「自分がどうしてこんな大がかりな裁判にかけられ、世界の注目を浴びるようになったのか。自分は一人の技術者として与えられた課題に対してもっとも適切な解答(どうすればローコストでユダヤ人の大量虐殺を行えるかについての)を提出しただけなのだ。どうして自分だけこのように責められなくちゃならないのか。」といって罪悪感を感じていないことについて、
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。逆に言えば想像力(虐殺される側のこと)のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例にも見られるように」(大島さんの意見)
「もちろんアイヒマンの計画がすべてすんなりと実現されたわけじゃない。現場(戦争によって引き起こされる障害)の事情で計算通りにものごとがすすまないこともある。そうすると、アイヒマンはそこにある戦争を憎みさえするー彼の計画を邪魔する「不確定要素」として
◆「ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・Sエリオットのいう〈うつろな人間たち〉だ。その欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁屑(わらくず)で埋めてふさいでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理やり押し付けようとする人間だ。」(甲村図書館にてフェニミズム女性2人組が帰ったあとの大島さんの言葉)
◆「人間が抱く激しい感情はだいたいにおいて、個人的なものであり、ネガティブなものなんだ。」(大島さんの言葉)
◆「世の中ってのは、自分の思い通りにならねえから面白いんだって」(ホシノさんの言葉)
◆「田村カフカくん、あるいはほとんどの人は自由なんて求めていないんだ。求めていると思い込んでいるだけだ。すべては幻想だ。もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ」
◆ソファに腰かけてあたりを見渡しているうちに、その部屋こそが長いあいだ探し求めていた場所であることに気づく。ぼくはまさにそういう、世界のくぼみのようなこっそりとした場所を探していたのだ。(甲村図書館にいったとき)
◆「腕立て伏せ シットアップ スクワット 逆立ち 何種類かのストレッチ 機械や設備のない狭い場所で、身体機能を維持するためにつくられたワークアウト・メニューだ。ぼくはジムのインストラクターからそれを教わった。「これは世界でいちばん孤独な運動なんだ」と彼は説明してくれた。「これをもっとも熱心にやるのは、独房に入れられた囚人だ」。(大島さんの兄の小屋にてカフカのセリフ)
◆「頭上には無数の星が光っている。空にちりばめられたというよりは、手当たり次第にばらまかれたというほうが近い。僕は彼らの存在に今まで気づきもしなかった。星についてまともに考えたことなんて一度もなかった。いや星だけじゃない、そのほかにどれくらいたくさん、僕の気づかないことや知らないことが世の中にあるのだろう? そう思うと、自分が救いようもなく無力に感じられる。どこまで行っても僕はそんな無力さから逃げ切ることはできないのだ。(大島さんの兄の小屋にてカフカのセリフ)
◆音楽にかわるものはいたるところにあった。鳥のさえずり、様々な虫の声、小川のせせらぎ、樹木の葉が風に揺れる音、何ものかが小屋の屋根を歩いている足音、雨降り。そしてときどき耳に届く、説明のつかない、言葉では表現することもできない音…。地球がこれほど多くの美しく新鮮な自然の音に満ちていることに、これまで僕は気が付かずにいた。(大島さんの兄の小屋にてカフカのセリフ)
◆「いかなる人間も同時にふたつのちがう場所に存在できない。それはアインシュタインが科学的に証明しているし、法的にも認められている概念だ」(甲村図書館にて カフカのアリバイについての大島さんの説明)
◆「でも当たり前の話だけれど、ものごとはじっさいに起こってみて、そこで初めてそれが起こったことになる。そして往々にして、ものごとは見かけどおりのものではない」(大島のセリフ)
「世の中のことはすべてメタファー(比喩)である」とのテーマにそって書かれている。
佐伯さんー母 さくらさん―姉 ナカタさん―父を殺す自分 佐伯さんの元彼(少年)-15歳のカフカ カラスと呼ばれる少年-自分自身の心の投影。
カフカの逃避行は、最初父ジョニーウォーカーの予言(カフカが父を殺し母と姉を犯すこと)から逃れる目的であったが、父の死をきっかけにそれから逃れられないことを悟り、それを一つひとつ享受して父の呪縛から逃れようとするが、その過程で超現象的な精神世界へ深く入り込むことになる。
ナカタさん、佐伯さんは それぞれ過去の事件によって既に内的に部分欠損しており(ナカタさんは知性がないが人や猫を引き付ける不思議な吸引力がある 佐伯さんは知性があるが心の空虚感があり人との付き合い表面的である)、二人は出会うことによってようやく予定調和としての死を遂げることができる。
(これは勝手な想像ですが、作中には書かれていませんが、ナカタさんが少年の頃不思議な体験をした頃に佐伯さんが誕生したのではと思いました。ナカタさんは元々知性あふれる少年でしたが、不思議な体験を経て知性が全て欠如してしまいました。その知性がこの頃生まれてくる佐伯さんへと強引に引き渡されたのではと思いました。二人の年齢差もちょうどよいので。)
精神世界に深入りするようになったカフカは、導かれるように樹海のような森の奥まで入り込み、そこにある異世界での不思議な経験や母としての佐伯さんとの本当の別れを経て、現実世界で生きていこうとする。(佐伯さんも最後にカフカと会って本懐を遂げる)そして母としての佐伯さんや姉としてのさくらさんを強く意識し、それまでの捨てられた思いでと(母をゆるすという形で)決別する。
そして中野区野方での元の生活に戻っていく。
「1Q84」「騎士団長殺し」同様、メタファーとしての描写が多いからでしょうか。わかりづらいところもありましたが面白く読みました。物語の話の展開の整合性や必然性については「ん~?」と思うところがありました。ナカタさん星野さんの偶然にしてはあまりにも出来過ぎている展開とかメタファー世界ならではのことだからと読めばよいのでしょうか。やはり村上作品を読むときは細かいことは気にしないのが一番と個人的には思います。
またいつか魅力的なキャラやストーリーのことを思い出したいと思います。
田村カフカとナカタさんのイラストをイメージで描いてみました。カフカ君は作中では筋トレが日課なのでもっと一回り体が大きいと思いますが、自分はなんとなくエヴァンゲリオンの碇シンジ君っぽい少年のイメージで読んでいます。
佐伯さんは上品で知的な感じで描いてみました。実際の設定では髪がもっと長いと思いますが。大島さんは美しい女性的な雰囲気がある人のように描いてみました。大島さんに女性的という表現は正しくないですが。
ブックオフで買ってきて『騎士団長殺し 還ろうメタファー編』を読んでいます。
イデア編を読み終えてから随分時間がたってから読んでいます。前半いろいろなことが謎だらけで終わっていましたがこのメタファー編で解明されていくのだろうと楽しみながら読んでいます。
免色さん、秋川まりえ 騎士団長 雨田具彦 スバル・フォレスターの男 等々 魅力的で謎めいたキャラの今後が楽しみです。
イラストは秋川まりえをイメージして描いてみました。
◆「男女の仲はある種のゲームと考えられる。お互いがルールをもっていて、お互いに相手のルールを尊重し合わないとうまくいかない。ゲームがうまくすすまないようになると試合を中断して、新たな共通ルールを定めなくてはならなくなる。あるいはそのまま試合を止めて競技場から立ち去らなくてはならない」
◆「記憶は時間を温めることができる。そして もしうまくいけばということだが、芸術はその記憶を形に変えて、そこにとどめることができる」
◆「『人に訪れる最大の驚きは老齢だ』…老齢は人にとって、あるいは死よりも意外な出来事なのかもしれない。それは人の予想を遥かに超えたものかもしれない。自分がもうこの世界にとって、生物学的に(そしてまた社会学的に)なくてもいい存在であると、ある日誰かにはっきり教えられること」
◆「壁はもともとは人を護るために作られたものなのです。…しかしそれはときとして、人を封じ込めるためにも使われます。…壁の高さにはずいぶん威圧感があります。そこにはある種の無力感が生まれます。私は同じような壁をしばらく前にパレスチナで目にしました。イスラエルがこしらえた八メートル以上あるコンクリートの壁です。(免色の言葉)
「我々は生きている限りその制約(時間と空間と蓋然性に縛られていること)から逃れ出ることはできない。言うなれば我々は一人残らず、上下四方を堅い壁に囲まれて生きているようなものだ。たぶん。」(主人公の言葉)
◆「この人生にはうまく説明のつかないことがいくつもありますし、また説明すべきではないこともいくつかあります。とくに説明してしまうと、そこにある一番大事なものが失われてしまうというようば場合には」(免色の言葉)
◆「完成した人生を持つ人なんてどこにもいないよ。すべての人はいつまでも未完成なものだ。」(主人公の言葉)
◆「私が生きているのはもちろん私の人生であるわけだけど、でもそこで起こることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手に決められて、勝手に進められているのかもしれないって。つまり、私はこうして自由意志みたいなものを持って生きているようだけれど、結局のところ私自身は何一つ選んでいないのかもしれない。」(ユズの言葉)
◆「外に広がる太平洋を眺めた。水平線がせり上がるように空に迫っていた。私はそのまっすぐな線を端から端まで目で辿った。それほど長く美しい直線は、どんな定規を使っても人間には引けない。そしてその線の下の空間には、無数の生命が躍動しているはずだ。この世界には無数の生命と、それと同じ数だけの死が満ちているのだ。」
◆「心臓の出血は続いていたが、勢いは弱まっていた。右手をとってみたが、ぐにゃりとして力がなかった。肌にはまだ少し温もりは残っていたものの、皮膚の感触には既によそよそしさのようなものが感じられた。生命が着々と非生命に向かっているときに漂わせるよそよそしさだ。」
読み終えてみて
すみません、あまり難しく考えることをしないで、窓を開けて風を部屋に招き入れベランダ近くで陽光を浴びながらさらっと読みました。村上春樹の作品は音楽を聴くように読むと気持ちがよいと自分は思っています。
イデアあるいはメタファーといった観念としての世界や人物を認識するようになった主人公そして秋川まりえの話。
次の展開が気になって気になって一気に読めてしまう作品でした。
登場人物やストーリーについて深く考察して読むというよりは、物語の世界観を主人公の言葉を通して楽しんで読むという読み方をしました。
だから気持ちよくさらっと読めました。
多分本来は一つ一つのイデアやメタファー(比喩)が意味するものは何かを考えながら読むのが、この本の読み方だったと思いますが。
村上作品の文章は一つひとつが平易で分かりやすく女性的でとても綺麗で、外国語訳したときはきっと綺麗なフレーズになるのではないか、それが海外の若者にうけている理由の一つではとも思いました。
免色渉 秋川まりえ 騎士団長 など魅力的なキャラクターのことを時々振り返り思い出したいと思います。
さきほど横浜市までクレーム対応でお詫びにいって帰りに圏央道を走って7時すぎごろ
うろこ状の雲が夕焼けで紫色に染まっていた。
松任谷由美のアルバム「DAWN PURPLE 」を連想して黄昏気分になりましたが、
後で調べたらDAWN PURPLE は朝焼けの紫のことで、何かの始まりを暗喩する言葉のよう。
ずっと夕暮れの紫のことだと思っていた。
あっ始まりの暗喩だからアルバム1曲目は、「Happy Birthday to You ヴィーナスの誕生」 なのか。30年以上たって今頃気が付いた。
家に帰ってこられたのは9時過ぎ
窓をあけて涼しい風を部屋に入れながらイラストを描きました。
イラストの女性は何の意味もないものです。
翌朝4時に目が覚めて、空をみたら朝焼けが少し紫がかっていました。
「紫だちたる雲の細くたなびきたる(枕草子)」
Happy Birthday to Youを聴きながらブログを書いています。
あらためてすてきな曲だなと思いました。
会社で残業して、7時半ごろ、さあ帰ろうとしたら、しっとりとひんやりとした風が吹いてきたと思ったらザーッとすごい雨が。
雨具を着て自転車にのって雨に叩かれながらかえってきました。雨で濡れた顔を拭きながらでずが、この時期の雨は生暖かく、雨に打たれて気持ちよくもありました。
雨というのはなんと喜ばしい感触をもったものなのだろう。なんと生命力に溢れたものなのだろう。
イラストは題して「傘を忘れちゃいました」です。ずぶぬれになって終わった今日一日を今日の美しくイラストを描くことによて、せめてもの慰めにしようと思いました。
イラストですが、タブレットのタッチペンが壊れてしまってマウスで描きました。いつもだいたいマウスで描いています。なんだかもうこっちの方に慣れてしまいました。
イラストを描いているうちに雨がやんだようです。外からは田んぼの蛙の声がなり響きます。都会育ちのうちの嫁さんは蛙の合唱が気持ちわるいそうですが、自分にとっては心地よい響きです。
「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」の齋藤茂吉の短歌での表現のように、蛙の声は、その音でもって静寂をより強調している。
これは日本人独特の感性であって、海外では理解されないと聞いたことがあります。
たとえば齋藤茂吉の短歌をGoogle翻訳すると「He is sleeping with his mother who is close to death. The quiet voices of frogs in the fields can be heard all the way to the heavens」のようになんとも無機質で味気のない表現になってしまいます。この表現から感動は得られにくいと思います。
ところでGoogle翻訳してみて、天はheavens(天国)と訳されていました。自分は、この短歌の「遠田」と「天」について、「遠田」で平面的な奥行を表し、「天」ははてしない高さを表現し、併せて縦横高さの広大な立体感を表現して、蛙の声が広大に響き渡っているという表現だと思っていました。一般的にもこの解釈じゃないかなと思っています。
ですがheavens(天国)と翻訳されてびっくりしました。「死に近き」という表現から天から天国を連想するのも不自然ではない。天は「はてしなく高い空」と「天国」を掛けているのでしょうか。
「天国」というとらえ方をすると、蛙の声は静けさを表現するというよりも「死に近き」を濃厚にする静寂の表現になると思います。
この短歌「天」の言葉のとらえ方次第で「かわづ(の声)」の役割もまるで変わり「静けさ」と「死」どちらを引き立たせるのかが変わります。
ロールシャッハテストのように読み手の心情でどちらが濃厚に感じられるのか変わるものかもしれません。自分も今はこの短歌から「静けさ」を感じとっているけど、人の死を間近にしたら「死」を感じ取るようになるかもしれません。