「大点滅」
「で、不具合って、何??」
「ヘビ」のその質問は、一瞬この大盛り上がりの宴会に、休憩を入れる効果があった。
「それは、どっか悪いってことやなあ?おれで言うと、頭が悪いって事や!!」と、「そら」が即答。 しかし、「ネコ」が反論。 「 おれは、”どっか悪い” とかと違うと思うで。う~ん、上手く言われへんけど・・・」すると「ヘビ」が、「人間で言うたら、 ”障害” って事かな? ”不具合” って?」 「カイ」が「確かに、人間で言う ”障害” は、身体とか知能に、何か欠陥があって、それが生活するのに ”障り(さわり)” になるから、”障害” って言うんやろ? ”不具合” も同じかな?でも、おれは、6号を見てて、 ”障害”って事は ”個性” とか ”才能” と同じ意味の様に思えるな。だって、身体や知能に、普通にやっていくだけでも ごっつい大変なリスクを背負ってて、尚且つ ”健常者” よりも立派な仕事を残している人だって、たくさんいてるし、反対に、やりたければ何でもできる知能や身体を持ってるのに、どないかならんかなあ?って人、・・・・う~ん、くらべたらあかんやろけど、人としてどうか?って見たら考えてまう人、いっぱい おるで」
「Hiたかお」が「 人間の使う”不具合” って、商品とかの ”欠陥品” って事でしょ? ボクたちの仲間の ”不具合” は、ちょっと違うかもしれません。 確かにボクたちは ”与一” で生まれる際に、製造過程の最終段階で欠陥がないかどうかのチェックが入れられて、もし何かあれば修正をかけるんですけど、修正できないままで生まれる事もある。 それが ゆきりんとぽちなんです。 ボクたちの間では、ボクたちとこの二人を 健常者・障害者って、たて分けては考えないんです。 ”別々ではない”って感じかな? 生きもの全員が一個の生きもので、役割が違うだけ。それぞれの役割がちゃんとある。その中で、誰かがえらい、ってのもあれへんし、誰かがあかんってのもあれへん」 「1号」が「カイさんとたかおさんと同じ事かも知らんけど、おれは ”障害”って、ただ単に ”違い” なんやって思うで。例えば、おれとヘビは違うやろ?ヘビとネコもたかおさんも6号も、みんな違う。そういう事やと思う。でも、もしそうやったら、たかおさん達 生きものが ”不具合があったら返還される”って、ちょっとおかしいよな?人間は ”障害” があっても ”返還” とかって無いし」 ここでまた「ゆきりん」が思い出した様に「あたし、 ”返還” なんて、大嫌い!!絶対にイヤ!!」 「ぽち」もしきりとうなづいている。「Hiたかお」が、めずらしく言いにくそうに「そ・・・そうやな・・ボクもそれは・・・イヤやなあ・・・」 すると子供たちが
「おとうさん、が~んばれ!! おかあさんが~んばれ!!おとうさんが~んばれ!! おかあさんが~んばれ!!」
、とまた、合唱をはじめた。「そら」が「あはは!!やっぱり ”があ~んばれ” って事やな!!それなら、”しょうがい”もがあ~ばれ!!”ふぐわい”もがあ~んばれ!!そうでないのも、みんながあ~んばれ!!ってことや!!!こんなもん、かんたんやで!!!」と、いったん静まった宴会を、鍋をカンカン叩きながら歌いだした。「ゆきりん」と「ぽち」もつられて「が~んばれ!」と歌っている。話しをもっと掘り下げて話したそうだった「カイ」と「ヘビ」も、「 ”こんなもん、かんたん” ってか!!!はっはっはっは!!おまえらしい結論やな!!」と この宴会は終始この調子で話は二転三転する。
「たかおさんの ”点滅”と ”ピー”って音、最近ないな?」と「ネコ」。 「ああ!あれは、たかおくんが、おしゃべりすぎるのよ!!」と「ゆきりん。」 「はっはっはっは!最近無いやろ? なんでかって言うたら、ボクが言いたい放題しゃべって、やりたい放題する方が、そらの、いや6号の都合がいいんですよ!その方が6号がおもしろい!だからそうなってる!これは何でこうなってるんか、ボクたちも調査中やねんけど、よく解っていない。もともとゆきりんが言う様に、ボクのしゃべりすぎストッパーやった。今、全然あれへん!それにみんなからボクは ”めっちゃ普通に見えてる” やろ?ところが外にでたら、他の人からは見えへん。 ”見えへん”のはわかるんですよ。そういう「設定」になってるから。ところが、1号さんとカイさんと、ヘビとネコとサソリからは ”見える”!!これが、さっぱりわかれへん!考えられるのは、その方が6号がおもしろいから!つまり、6号の「心模様」によって「見えたり、見えへんかったり、点滅したり、ピーピー鳴ったり」ってなってる。 訳がわからんねん!しかも、当の本人は何んの意識も無いし!」と、あまり言及しない方がいい事までしゃべりだす「Hiたかお」。「おれはそんな事しらんで!!何んもしてへん、おれは ”むじつ” や!!」と「そら」。「あっはっは!!心配せんでもおまえは ”無実” やねんて!おまえの気持ちと関係なく、おまえの気持ちに影響されるらしいから。ためしに、今、 ”お前の力” で、たかおさんとゆきりんとぽちさんを、 ”見えへん” ようにやってみ!!」 と「カイ」。 「よっしゃ!やってみよか!!」「と「6号」はこぶしをにぎりしめて「んんんんんんんっ・・・・・」と力んでみたが、何の変化もなし。「・・・・・・・あかん、 ”へー” 出てまいそうや!!」 全員が爆笑したところで1号が、「さて!そろそろ ええ時間やな!!お開きにしよか!」と、この宴会は閉幕となった。
飲みすぎた「ヘビ」と「ネコ」は、リビングでごろ寝、1号は寝室へ。「Hiたかお・ゆきりん・ぽち」と、あと片付けを始めた「カイ」が「あっ!!たばこ切れた!!ちょっと買ってくるわ!」と言うと、片付けをする気全くなしで子供たちと遊んでいた「そら」が、「あ!!おれも行く!」と言い出した。「 じゃあ、ボクもお供するわ、ゆきりんもぽちもお供しようか!」 長時間の「そら」の ”お供”で少し眠たげな「Hiたかお」が答え「カイ」は「OK!みんなで行こう!でも、もう遅いからパッパと!な、6号!」と、コンビニに入るといつもなかなか出ない「そら」に釘をさした。 「カイさん りょ~かい!!それでは、”ぜんたいてきに” 行くってことやな!!」
大切な出会いは
はじめから
すれ違っている方が良い
二人のこれからが
波乱であるならば
そのうち二人は
お互いが理解できなくても
一つになれば良い
うまれた時から一つであったと
心を強くすれば良い
気持ちをあわせる事ができる
ほんの短い期間は
よろこびにあふれよう
感謝に 輝こう
梅雨時前の夜のコンビニ。「カイ」は、「そら・Hiたかお・ゆきりん・ぽち・子供達」が、「カイ」のたばこはどうでもよくて、宴会の勢いのままに がやがやしたいだけなのを、よくわかっていた。 「Hiたかお」は「そら」に抱かれて、すでに眠ってしまっている。 「おい!!6号!帰るで!たばこ買ったし、たかおさん寝てしもてるし!」と「そら」を見ると、思った通り ”じゃがりこ”と”おっとっと”を大量に買い物かごに入れている。始末が悪いのは、子供たちにもどんどんスナック菓子を運ばせている事だ。 レジで支払いを済ました「カイ」は、「お~い6号!何も買えへんで~!!」と呼びかけたその時、突然に「そら」の動きが止まった。 そして、これもまた突然に、此処しばらく無かった「Hiたかお」の ”点滅” が始まったのだ。 しかも、今までに無いほどの激しい ”点滅”。 寝込みを襲われたように「Hiたかお」が「うっ!!うわあああああ!!やめろぉぉぉぉ!!」と、思わず暴れて「そら」の腕から飛び降りてしまった。「なな・・なんやこれは!!おい!!そら!!点滅しすぎや!!どどど、どないかならんか!うわあああ!ぁぁぁ!!なんやぁ!これは?!!」驚いた「カイ・ぽち・ゆきりん・子供達」は一斉に「Hiたかお」、次いで、「そら」に注目した。 集めていたスナック菓子が足元に散乱したまま、一点を見つめて 身じろぎもしない。 皆は、「そら」の視線を辿った。 コンビニの入り口の外側、灰皿の置かれた位置に作業着姿の、疲れた感じの青年。あの作業着は、近くにある「優しさ倉庫」の制服で、肩にさしたボールペンが落ちかけている。 携帯電話にしきりと何か打ち込む様子。 「たかおさん!!だ、大丈夫??ええっ?どうしたら止まるんですか?!わわ、どないしょう?!」 「ゆきりん」が「そらくん、あの人??だれ??」と聞いたが、
「・・・・・・・・・しらない・・・・ひと・・・・」
とこたえたのみ。 この時点で「Hiたかお」の激しい点滅は、少しづつ収まっていった。
外に突っ立っていたのは、「斎元」という青年だった。
毎度拙ブログの方ではコメントありがとうございます
「障害者」に対する解釈、大いに共感いたしました
僕も障害は「個性」だと思っています。
そして「役割」が違うんだ、という井川さんの言葉はまさにドンピシャ
どんな方にも、与えられた役割がある。
障害を持っていようが、病気であろうが、住む家が無かろうが、職業・属性に関係なく生きている限り『役割』があるんですよね
良いお言葉をいただきました。
ありがとうございます
また読みにきます
執筆頑張ってくださいねえ~
初のコメント!びっくりしました
本当にありがとうございます!!
しばらく前から、おっちーさんの詩作の「ことば」の感覚や、「ONE EYES」の物語の構成の仕方など、勝手にお邪魔して 勝手に学ばせて戴いております
ー職業・属性に関係なく、生きている限り
「役割がある」ー
”役割”って、本当にありますね!その人でしかできない「何か」が、絶対にある。そのひとは、それをする為に生まれてきた、と言っても良いほどの何かが。「使命」と言ってもいいかな。人って「使命」を持って生まれてくるって思います。
「そらの物語」は、がちゃがちゃといろんなキャラがでてきて、いろんな展開をしますが、結論はそういう事なんですよね。
そしてそれは、僕が生活する中で感動をもって実感している事でもあります。
いつも ”ぐだぐだ” とひたすら長い僕のコメントに、誠実なお返事を戴き、感謝しております。
初のコメント
そうなってしまった要因(言い訳)は幾つも思い当たるのですが、それはさておき本論へと
(強引に)移らせていただきます。 「ゆきりんとぽちと子供たち」、「大点滅」の二つのお話
では、生き物たちの「不具合」、そして「変換」について書かれていましたね。それについて
いつものように「Tomoyuki風」に(笑)考えてみました。
二つのお話の中で語られた生き物に関する記述の内で、私の心に止まったポイントが2つ
ありました。
1、不具合を持って生まれ生き物は「変換」される。
2、生き物たちはそれぞれに役割を持っている。 と云う事でした。
この2点を考え併せた私は、自分でも意外に思えるほどに飛躍したある考えが思い浮かび
ました。それは
「不具合を持って生まれた生き物は、変換される事もその役割のひとつである。」
ということです。
かなり乱暴な思考のようにも思えますが、生き物たちの「返還」に対する私の疑問を私なりに
説明するには、このように考えるのが最も説得力があるというのが私の考えです。
私には生き物たちの「返還」について 2つの疑問がありました。 それは
1、「なぜ返還されなければならないのか?」 そして、
2、「返還されねばならない存在ならば、なぜ生まれた直後に返還されてしまわないのか?」
この2点です。
まずは「なぜ返還されなければならないのか。」について考えてみました。
前作の”「生き物」たちの物語り”では、生き物たちが「返還」されなければならない理由を
このように説明されていました。
> 生まれてからも不具合は残ったままで
> このまま成長すると 人々に危害を加えるような生き物に
> 発展する恐れがあった それは恐ろしい事である
> そのため 私達の大切なちいさな仲間「ゆきりん」と「ぽち」は
> 「かたちの無いもの」に「返還」されなければならない
人々に危害を加えてしまうかもしれないから? 「返還」される理由とは本当にそれだけなので
しょうか? 「”不具合があったら返還される”って、ちょっとおかしいよな?」と1号が言うように、
危害を加えてしまうかもしれないということだけで、「返還は嫌だ」と思っている生き物がその
意思に反して返還されてしまうというのはあまりに悲しすぎますよね。
私は考えました。「返還」にはもっと他に重要な意味があるに違いないと。危害を加えるような
生き物に発展する恐れがあるというのは理由の一つにすぎないと。
では次に2つめの疑問です「なぜ不具合をもって生まれたその直後に返還されてしまわないの
でしょうか?」
これは私の勝手な想いなのですが、生き物の「返還」は他の誰かの手によって行われるもの
ではなく、「返還される生き物自身の意思」によって行われるのです。
おそらく、生き物は「返還」されることによって何かとてつもない幸福を人々にもたらす事が出来る
のだと思います。生き物たちの返還によってしか実現できないような何かがきっとあるのだと
思います。
( ”「生き物」たちの物語” を私はそのように読み取りました。 )
もちろん不具合をもった生き物たちが生まれた直後にその目的を知っているということは無いので
しょう、しかし不具合を持ちながらも生きていく過程において、やがてその目的が見えてくるので
はないでしょうか。 そして返還を嫌がっていた生き物たちも、その大いなる使命に気付いたとき、
彼らは、自分の犠牲を省みることなしに自ら望んで返還されて行くのであろうと想像いたします。
それはおそらく不具合を持った生き物にしかできないような役割なのでしょう。 皆、それぞれに
存在する意味がありますからね。
もう そんなに経ちますか
時折頂くコメントがインパクトがあるもんだから、つい2~3日前にやり取りしていた様な(笑)・・・で、今回もまた、どっしり ”濃い”コメント(!!!)ありがとうございます!!
「返還論」!!!いくら考えても右に左に上に下に、あっちこっちに広がってしまう「返還・不具合」について、を見事 ”Tomoyukiさん流” にまとめあげた様な「返還論」でありました
かなり、ビックリです(笑)!!!
またしても、TomoyukiさんのBlogに僕がコメントを入れている気分(笑)で、お返事を書いています
ーなぜ返還されなければならないのか?ー
この「理由」として、「生き物たちの物語」の一節を引いて(これ自体、ビックリですわ
そして、おそらくTomoyukiさんはその「重要な意味」についても、ある程度、ハッキリした回答も持っておられるのでしょう?う~ん、ある意味、おそろしい人ですね~
ココさんがよく、Tomoyukiさんの「洞察力」について語っておられましたが、実は作者自体がそこまで考えてなかった(大笑)というレベルに達しているのでは
ーなぜ不具合を持って生まれた その直後に返還されてしまわないのか??ー
この2つめの疑問についてのTomoyukiさんの「勝手な想い」については、拝読していて、感動すらありました!!まさに、「鳥肌もの」です!!
このお返事の冒頭でも言いました、根本的なテーマに触れる部分です。 「不具合を持った生き物にしかできない役割」!!!
ちょっと、話しの角度を変えてみたいと思います。 「仏教」の考え方です。お釈迦さん、ですよね、「仏教」って。で、釈迦はその生涯を通じて多くの弟子達に様々な「教え」を説いてゆくのですが、その「教え」が持つインパクトと、「教え」を受けた弟子達の人生に与えた影響の大きさが、インドから中国を経て日本にまで及ぶほどの力に満ちていたんです。現在でも、その影響があっちこっちの神社・仏閣として残っていますし(僕はあまり好きではありませんが・・)、釈迦の「言葉」については、現代にも通用する、強烈な影響力を持っているのは、いろんな学者が言ってる通り。
で、僕が、注目しているのが、最晩年に説いた「説話」で、「法華経(ほけきょう)」というのがあるんです。
「私はこれから涅槃(ねはん)する、=「死ぬ」、最後に、今まで教えた内容の全てを捨ててでも、心に刻んでもらいたい話しをする!」で始まる。 実は、「仏教」って、いろんな戒律とかあって、悟り=仏になる事、を目指すんですが、「女人」と「悪人」と「人間以外の生きもの(仏典では竜女とか、草木とか出てきます)」は、「仏」になれない。
なのに、最後になって、「みんな、仏になれるんだ」って説きだす。 じゃあ、「仏」って何んやねん??っとなる。「きんきらきんの、頭にブツブツがあって、ごっつい立派で・・・」というのが「仏」なのではない。「死んでから成る」のでもない。実は、「生命の持つ、無限の”可能性” なんだ」って事だって説く訳です。
つまり、どんな人でも、「無限の可能性」があり、どんな状況であっても、それは「乗り越えられる」のであり、どんな生きものでもTomoyukiさんの言う「生まれてきた”使命”がある」、という事なんだって出て来るんです。
で、「蓮」の花が、どろどろに中で育つのに、美しい花を咲かせる事に例えて、どんな「生きもの」でも無限の可能性があり、大きな使命を持っている・・・
「生きものたち」の「不具合」や「返還」をめぐって、それを語りだすと、100人が100通りの回答があると思います。 「これだけが回答だ!!」ってのはない、ってのが回答かもしれない(笑)。
おもしろいです!!
Tomoyukiさん、またまた、ががががあ~っと考えさせられるコメント、本当にありがとうございます~
tomoyukiさんの文章をほんの一段落読んだだけで、思い出したのが亡き遠藤周作でした。
私が大学生の頃は御健在で、学長とかなり親しく、よく近辺のお話をされていたんです。
一般には知られていない作者の素顔や娘さんのことなど聞く機会がありました。
遠藤周作といえば、日本を代表する作家ですので、大学受験の入試問題によく採用されるわけです。その中の一つを娘さんが父である遠藤周作に持って行って、「お父さん、この問題、分からないから解いてみて!」
と、お願いしたことがあるそうです。
「何? このとき、主人公はどう感じたか。次の中から選び記号を書きなさい。A … B…
(と選択を読んでいき)
「分からないよ。それにしても分かりにくい文章だなぁ…」
文章の途中から部分的にカットしている為、本当に分からなかったのか? そのあたりは疑問ですが、真顔で答える父、遠藤周作に娘さんは、
「お父さん、これは貴方が書いた小説ですよ」
と笑って答えたそうです。
「自分はここまで考えて書いていない。主人公が、こんなことを感じていたなど、初めて知った」
…とか。
そのくらい、解釈の仕方は読者それぞれで、作者の意図とは関係なく世間で読まれ、解釈され、作品も一旦、世に出れば、独り歩きをしてしまう…ということのたとえだったようですけれど。
こうして、自身の作品に共鳴し、深く読んで下さる方がいると作者冥利に尽きるでしょう?
井川さん、幸せですね! 羨ましい限りです。(笑)
そしてまた、すずさんのその、間柄!!!
すごい「間柄(!!)」・・・ですね
すずさんに言われてみてあらためて思います。 そう、「作者冥利に尽きる」!!!!Tomoyukiさんについては、本当にいろんな部分でお世話になっているのに、その御礼を忘れてしまうほど一歩も二歩も踏み込んだコメントで夢中にさせて下さるので・・・・
息子のみなみは「ちんかんてん(新幹線)」も買ってもらいました(笑)!!何重にも、僕は幸せ者です
「物語」がどこで「終わる」のか、って考えた時、「読み手」の様々な解釈があって、作者の「物語」はもう完結しているのに、新しく「物語」がどんどん出来ていく、広がっていく、そして「作品」はそこからまた始まっていく・・・それは、「生き物たち」の言い方で言うと「心躍る」様な、「書き手」と「読み手」の「共同制作」による「終わらない物語」なんだと思います。これは本当に楽しい
以前、某絵画展で「油絵」の作品を出展していたんです。「生き物たちの油絵」。
その絵画展って、親子連れが多くて、子供たちの「わあわあ」言う声があっちこっちで聞こえるにぎやかな絵画展でした。
そこで、数名の子供達が僕の作品の前で「この ”おばけ” はこわいか、こわくないか、悪い ”おばけ” なのか、そうでないのか?」をゲラゲラ笑いながら話していました。
作品は「出展」している時点でもう「完結」しているんだけど、今、この子供達のなかで、「新しい作品」が制作されていってる!!「完結」しない!!これは、本当に、感動です。
「作る人」もそれを「楽しむ人」も、”みんな楽しかったら、それは最高(笑)
ただ、それは、「読み手」、「鑑賞」する人があったればこそ、の話し。 もう、感謝 感謝ですよ!!本当に!!!!
すずさん、またまた、あれやこれやと感慨深いコメント、本当にありがとうございます~