ある日瞬間空を見たが、雲が「素敵な人の形体」で浮いていた。ちょうどペンと紙があったので、その雲の形体を描(か)いた。ところが描いているうちに「描いている部分の形体」が徐々に消えた。
雲がまるで岩のように固く固まっていたので、ある程度はそのまま続くだろうと思ったのに、やはり雲なので、瞬間消え去った。
うまく描こうとしたが、瞬間消え去ったので、あっけにとられた。しかし雲は待ってくれないし、残っていた形体までもすっと消えた。何とか描くことは描いた。
雲の形体は消えたが、それでも<残ったもの>があった。それが「自然啓示」だった。
<自然万物啓示>は「形象と形がどれほどはっきりしているか」より、「万物を通して悟らせてくださった内容」がもっと重要だ。
<万物>は「一つの比喩」だ。<比喩>を通して「実体」を悟ることがもっと重要だ。
<万物の形体>がちらっと見えても、それを通して「啓示」してくださる。<万物の形体>よりは<啓示する内容>が重要だ。
例えばそばにいる女の人を見て「うさぎのようだ」と言ったとしよう。その女の人の何がそれほどうさぎのような形をしているだろうか。その女の人に「うさぎの形体」はない。
しかしその女の人が「追われるうさぎ、こわがりのうさぎ」に感じられたら、「うさぎのようだ」と言う。
<形体>より、感じて話す<内容>が重要だ。
だから啓示には「特にもらう人にだけ該当する啓示」がある。それは「自分に該当する啓示」と思えばいい。
自分が「そのような境遇」にいるから、神様はその人にだけ「ある万物」を見て強く感じるようにし、啓示を与えてくださる。
<形体>がちらっと見えても、<伝えてあげる啓示の内容>が大きい。
例えば<トラの形体の雲>がちらっと浮びあがっても、詳しく見たら、その形象ではない。しかし本人が「そのような境遇」にいるから、本人だけが強く感じて「トラのように大胆であれというのだな」と悟る。
だから<啓示>について学び、体験しなければならない。
<自分の意志>で啓示を受けないためには、深く祈りなさい。
ある万物を見せて啓示してあげなければならないけれども、環境上その万物がなければ、その万物が思い浮かぶようにして、「それと同じくそうだ」と悟らせてくださる。