17年前の阪神大震災の日、
自分も被災地のど真ん中に居た。
箱の中に掘り込まれて、箱を上下に振られて身動き不能・・・
そんな感じだった。
揺れが収まると暗い部屋の中はグチャグチャ、
棚から落ちた洋酒が割れて家中アルコール臭く、
台所は棚から落ちたお皿が割れて足の踏み場は無く、
玄関の大きな水槽も割れて一階は水浸しで凄い状況だった。
日が昇って外に出ると、隣の家の1階は2階に押しつぶされて無くなっていた。
(隣人は無事)
近所のお家も傾いてたり、つぶれていた家も多く、
柱で身動き取れなくなった近所の爺さんをお父さんが助けに行ったり、
それを見て初めて大変な事になってると感じた。
30M先にあるお家のガス管から火が出て燃えていたが、
防火水槽の水をかけて隣近所への延焼を防いでいた。
ガスが燃えてるのでそれを消すほどの水圧は無く、
近所への延焼を防ぐ為だけに水をかけ続けていた。
500M先にある東海道新幹線の橋げたが道路に落ち、
道路や線路を塞いでいた。
友達が自転車でウチの家に来た。
『かなちゃんの家が土砂崩れで全部流された!!!!』
マウンテンバイクで地割れでボコボコになった道路を走って現場に行くと、
家も道路も全部無くなって只の砂山で全然知らない場所になっていた。
煙がくすぶっている中、ブルドーザーで救出作業が進められ、
その上空ではヘリコプターがグルグル飛んでいた。
カナちゃん親戚のおばさんを見つけると、
叔母さんは少し焦げて砂が付いたカナちゃんの成人式写真を抱えていた。
カナちゃんのお姉ちゃんは無事救出されたのに、
両親とカナちゃんは未だ見つからないと泣いていた。
カナちゃんの写真を見ながら、
早く皆が助かるように一緒に祈ったが、中々見つからなかった。
少し離れた市内に住む親戚家族安否確認に行くと、
家はぺちゃんこだったので、近所の避難所へ探しに行った。
避難所に行くと皆怪我も無く無事だったが、
着の身着のままだった。
ウチへ来るように言ったが折り合いが悪かったからか・・・
断られ、そのまま家に戻ってきた。
電気が無いのでテレビも見れず、ラジオで長田の町が燃えていると言うが、
【町が燃える?】意味がよく分からなかった。
大阪に住むテニス先輩がバイクで皆の安否確認で廻ってくれ、
牛乳やパンを持って家に来てくれた。
尼崎までは大きな被害をあまり感じなかったが、
武庫川を渡ると風景が一気に変わったと教えてくれた。
夕方になってカナちゃんが見つかったと教えてもらい、
又中央体育館まで自転車を飛ばした。
多くの人が非難している中、カナちゃん達は安置されいた。
友達に囲まれたカナちゃんを見ると、
悲しいけど現実だと思えず、涙が出なかった。
其の周りで他の家族達がお棺の取り合いをしていたりを見て
いたたまれない気持ちになった事は今でもよく覚えている。
夜になっても余震は続き、次大きな地震が来たらウチも壊れるんじゃないだろうか・・・
怯えて過ごす長い長い1日だった。
電気は翌日の夜復活し、その時初めて長田の町が燃えてる映像を見た。
映画か何かを見ているような気分だったけれど、
ウチの近所の火事もガスの元栓が止められる夕方まで10時間位燃え続けた。
老人ホーム防火水槽があって夕方まで延焼を防ぎ続けられたのだが、
若し其れが無かったら・・・水が途中で無くなったら・・・・
ウチの家も、ウチの近所も長田と同じように焼け野原になっていたかもしれなかった。
生き残ったのも、家が壊れなかったのも、家が燃えなかったのも・・・全て偶々で、
善人だけが生き残った、そんなワケでは無かった。
数日後、震災翌日の新聞1面に自分の写真が大きく載った事を知った。
新聞を見た知人や友人が心配して後で連絡くれたから。
震災の翌週、新幹線橋げた落下で動かなかった地元電車が復活して、
徐々に普通の生活にもどる中で電車に乗った。
車両一面に震災特集の同じ週刊誌の広告が吊り下げられ、
大きな見出しは『遺族の哀しみ』だった。
その見出しに使われた大きな写真は自分が泣きそうになってる写真で、
車両一面に自分の写真が何枚も何枚も釣り下がっていた。
勝手に写真撮るなよ・・・・勝手に記事にするなよ・・・・
遺族じゃなくても悲しいんだから。
それを見たら先日まで一緒に笑ってたカナちゃん居なくなったのを急に思い出し、
電車の中で独り泣いた。
書店にはいつもなら芸能人が載っている週刊誌表紙に自分の写真を見つけたり、
電車に乗るたび自分の写真と遭遇する、震災翌週はそんな酷い1週間だった。
勿論、それらの週刊誌を開いて見た事は一度も無い。
暫くガスと水が無い生活で色々不便な事もあったけれど、
水道は一週間程、ガスは(確か)2週間後位で復活して、
水道を捻って出る水の素晴らしさ、お風呂に入れる有り難味を初めて感じた。
それから17年、町は震災の跡形無くきれいに整備され、
土砂崩れがあった場所は震災記念の場所になり、
我は目じりの気になるアラフォーになったが、
カナちゃんの無事を一緒に祈った叔母さんは昨年亡くなったそうだ。
でも、記憶に居るカナちゃんの笑顔は21歳から止まったまま。
若し21歳の今カナちゃんに会えたら、彼女は何を言うだろう?
もっと生きたかった・・・色々やりたかった・・・
生きてる肉まんは自分のやりたい事を私の分も色々やってよ~分かった?!?!
優しい彼女の事なので、そんな事を言うんじゃないかって勝手に思っている。
人生は自分が思っているよりずっと短く、
若しかすると今日が最後の日になるかもしれない。
誕生日が迎えられ、目尻の皺が気になる年頃になれた。
ご飯が美味しく食べれる、仕事が出来て、家がある。
友達が隣で笑ってくれる、隣で相方が話を聞いてくれて家族がいる。
そんな小さな当たり前に感謝しながら【今日】を活(い)きよう!
人生一度っきり、後悔無いように活きよう!
毎日を一生懸命に生きる事、人生を楽しむ事が生き残った自分の使命で、
17年たった今でも其れが亡くなった人たちの供養になると思っている。
昨年関東大震災でも多くの人達が亡くなった。
亡くなった人達のご冥福を祈ると同時に、
被災された人達や遺族の人達に震災前と同じような当たり前の普通の毎日が
1日でも早く来る事を心から祈っています。
当たり前の大切さを思いださせてくれる、
我にとっては大切な日が今年も来た。
そんな日を迎えるのも今年でもう17回目。