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「客観的」と「主観的」の区別がついていない人がいる、と言うお話

2017-07-02 21:47:44 | 人の心理

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(担当S)

 
 分かっている人にとっては難しい事でも何でもないんですが、最近「客観的」と「主観的」の区別がついていない人が結構いるのではないかと思う事が多々あります。
 私の身の回りにも「客観的に見て■■ってかっこいいじゃん」とか「××って客観的に見ても美味しいよね」とか、とにかく「客観的」と言う言葉を連発する「客観的お兄さん(笑)」みたいな人がいましたけど(※過去形)、「客観的」と「主観的」の区別がちゃんとついている人にとっては、腹を抱えて笑いたくなってしまうような話ではないでしょうか?
 そこで今回は、「客観的」と「主観的」の違いについてお話させて頂きます。

■客観的とは「誰から見ても同じに見える」と言う事
 ぶっちゃけこう言う意味なんですけど、意外と分かってない人が多いのではないかと思います。
 例えば「三角形」と言う図形は誰からみても「三角形」ですが、同じ図形を見て人によっては「俺には四角形に見えるな」と言う事はあり得ません(※もしそう言う人がいたら、眼科に行く事をオススメします)。
 もう一つ例をあげれば「500gのリンゴ」は誰が計っても常に500gですが(※但しハカリに誤差がない場合)、計る人によって同じリンゴが100gになったり1000gになると言う事はあり得ません。
 この様に「誰が見ても」「誰が計っても」常に同じに見えたり常に同じ結果を得られるモノや事柄は「客観的」であると言えます。
 
■主観的とは「人によって見え方が変わる」と言う事
 先ほどは「客観的」について説明しましたけれど、これと対極をなすのが「主観的」と言う言葉です。
 もっとも身近な例をあげれば、食べ物に対する味覚は「主観的」であると言えます。
 例えば私、担当Sは東京生まれなんですけど大阪育ちなので関東のおウドンとかは塩辛くて食べれません。しかし同じおウドンを関東の人が食べると「うめぇよ、うめぇよ」と言いながら平らげます(※これとは逆に関東の人が関西風の味付けのモノを食べると「味がしない」と、よく口にします)。
 この様に食べ物の「美味しい」とか「不味い」とかは人によって大きく基準が変わります。そこに絶対的な基準は存在しません。
 他にも、誰かにとって「カッコいい」と思っている服やクルマが、他の誰かにとって「カッコわるい」服やクルマだと思われている事もあり得ます。
 味覚や「醜」「美」の感覚は、人によってかなりの個人差があります。
 こう言う絶対的な基準が存在せず、個人差が激しいモノや事柄は「主観的」であると言えます。

■しかし世の中には「客観的」と「主観的」の違いが分からない人がいっぱいいる模様
 これらの解説を読んで『俺は「客観的」と「主観的」の違いくらいは分かってるよ』と豪語する人がいるかもしれませんが、そう言う人でも本当に違いが分かっているのか今一度チェックした方がいいでしょう。
 用心していないと誰でも(私も含めて)無意識に、「客観的」と「主観的」を取り違えて解釈してしまう事があり得るからです。
 冒頭でお話した「客観的お兄さん(笑)」ほど酷くなくても、知らず知らずの内にそう言う勘違いや間違いを犯している人は結構大勢いるのではないかと思います。
 私の目から見て「あんさん、勘違いしてまっせ」と最も言いたくなるのが、自分が「好きなもの」は「正しい事」、自分が「嫌いなもの」は「間違っている事」と安易な判断を下してしまっている人を見かけたときです。
 こう言う人は、例えば釣りが趣味なら、誰にとっても釣りは最高の趣味であり他の趣味は下らないと言ってみたり、自分がクルマに対して興味がなければ、クルマに大金をはたいている人はバカだとか言ったりします。この人にとって、自分の「好き」「嫌い」が、世の中全ての「正しい」「間違い」の判断を行う絶対的な基準になっています。
 いわゆる困った人の1種族(?)なんですけど、この手の困った人って、あなたの身近な所にも一人や二人はいませんか?(しかも、こう言う困った人ほど、かなり頑固だったりします)。
 しかし世の中には釣りが嫌いな人もいれば、クルマが大の趣味だという人もいます。そう言う人たちからすれば、釣りなんか「なんて時間の無駄なんだ!」と思っているでしょうし、クルマの魅力が分からないなんて話をきいたら「なんて可哀想な人だ!」と思うでしょう。
 個人の「好き」「嫌い」はその人にとっては絶対的な基準になりえても、世の中全体の絶対的な基準にはなりえません。
 何故なら個人の「好き」「嫌い」は非常に「主観的」な事柄であって、「客観的」な要素をことごとく欠いているからです。
 こう言う人に対しては、私は声を大にして『あなたの「好き」「嫌い」が世の中の常識ではないんですよ』と言ってやりたいです(って言うか、しょっちゅう言ってますが…汗)。
 私が今一番、こう言う事を言ってやりたい人たちは、実は新聞各社の記者の皆さんだったりします。
 ここ最近、新聞の政治に関する報道をあげつらった記事ばかりを私は書いていますけど、それは新聞各社の報道姿勢には全く「客観的」な要素がないと(少なくても私は)思っているからです。
 例えば『「共謀罪(※正式名称「テロ等準備罪」)」可決。数の暴力に屈する』と言う記事タイトルひとつとってみても、それを「数の暴力」かどうかを決めるのは新聞を読んでる読者の皆さんです。
 新聞記者さんが「数の暴力」だと思っているからといって、読者がみんな「数の暴力」だと感じるとは限りません。
 この記事タイトルの『「共謀罪(※正式名称「テロ等準備罪」)」可決』の部分については、誰が見ても法案が可決しているようにしか見えませんから(※当然の事ですけど…)、これは「客観的」であると言えますが、「数の暴力」に関しては読む人によって「やはり数の暴力だ!」と感じてみたり「いやいや、全然数の暴力とちゃうやろw」と感じてみたりと反応が様々なので、これは「主観的」な事柄だと言えます。
 別に新聞記者さんが個人的に『「共謀罪(※正式名称「テロ等準備罪」)」可決は数の暴力だ!』と感じるのは構わないんですよ。しかし新聞記事には「客観的」で公正・中立な報道内容を求められますから、そう言う個人の感情を記事のタイトルに盛り込むのはいかがなものかと思います。
 他にも政権批判の記事なんかは、記事の内容がどうとか言う以前に、その記事を書いている新聞記者さんの「主観的」見解ばっかりが羅列されていて、読むに耐えないモノが結構たくさんあります。
 個人的に一番下らないなぁ〜と思っているのは、政権批判と称して「庶民は一杯■■■円の牛丼で我慢しているのに、●●首相は▲▲万円のランチを食べている。実にケシカラン!」と言う批判をしている新聞記事です(汗)。
 まぁ読者の妬みや嫉みを刺激しようとしてこう言う記事を(ワザと)書いているんでしょうけど、芦屋(※関西の高級住宅街)の金満名家に生まれた人なら「日本の首相やのに、そんなやっすいモンなんか食べおって…外国に対して恥ずかしいから、もっとエエもん食べぇや!」と思うかもしれませんし、私の様に単に「くだらんなぁw」と思う人もいるでしょう。
 悪いですけど、こう言う記事には「客観的」な要素が欠片もありません。
 とは言え「俺たち庶民をバカにしやがって!●●首相はロクでもねぇよ!」って反応をしめす読者も多いとは思いますが、そう言う反応こそが「主観的」な反応である事を知ってても損はないでしょう。 
 
 
  
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