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(担当S)
(4)世界初の有人宇宙船による月軌道の周回飛行(旧ソ連)
1950年代後半から始まった米ソの宇宙開発競争で、最初の頃は旧ソ連がアメリカに対して大差をつけて勝利を収めていました。
アメリカが僅か14キログラムの人工衛星「エクスプローラー1号」の打ち上げに手こずっていた同じ頃、旧ソ連は重量が500キログラム以上もある人工衛星の宇宙への打ち上げに成功しており、アメリカの劣勢は誰の目から見ても明らかでした。
この旧ソ連の成功の陰には、天才科学者と呼ばれたセルゲイ・コロリョフが大きく関わっていました。
コロリョフは単に優れた科学者と言うだけでは無く、相手が自分よりも下の立場の人間であっても、何か良いアイデアを提案したら、真摯にそのアイデアに耳を傾ける事が出来る器の大きさを持っており、そして手柄を独り占めするような事もせず、多くの技術者や宇宙飛行士から慕われた大変、人望の厚い人物でした。
そのコロリョフが陣頭指揮に立っていた頃の旧ソ連は、正に破竹の勢いで、宇宙開発でアメリカに対しては連戦連勝でした。
しかしコロリョフは若い頃に冤罪でシベリアに流刑された事があり、その時に受けた虐待によって心臓を痛めていた為に、健康面には大きな問題を抱えていました。
そんな体なのにも関わらず、殆ど休む事もなく激務をこなしていた事から、体調が悪化。1966年にガンの手術中に心肺が停止し、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
世界初の人工衛星や有人宇宙飛行を指揮して成功に導いていたセルゲイ・コロリョフが亡くなると、途端に旧ソ連の宇宙開発は精彩を欠く様になり、アメリカの猛追を許す事となります。
そんな状況下でも宇宙開発競争でアメリカに勝つ事は、当時のソ連にとっては政治的な至上命題であり、アメリカが月を目指すのならばソ連が先に人類を月に送ってやる、と言った感じで、ますます宇宙開発競争はエスカレートしていきました。
そんな米ソの宇宙での対立が激化していく最中、1968年11月10日に旧ソ連は一隻の有人宇宙船を、月に向けて打ち上げます。
後に「ゾンド6号(※姿形については上のイラストを参照)」と呼ばれる事になるその宇宙船は、地球から38万キロメート離れた月の周回軌道をぐるっと回った後、無事に地球へと帰還します。
本来ならば人類初の月軌道周回になるはずだったのですが、この時に「ゾンド6号」に乗っていたのは宇宙飛行士ではなく亀などの小動物でした。
実はコロリョフの後を継いで、旧ソ連の宇宙開発の最高責任者になったヴァシリー・ミーシンは、かなりの臆病者だと陰口を囁かれるような人物であり、前年に起きたソユーズ1号の事故により宇宙飛行士のウラジミール・マカロフが殉職していた事から、危険度の高い有人宇宙計画に対しては安易に宇宙飛行士を乗せたりはせず、何度か無人で宇宙船を飛ばして安全である確証が取れてから、初めて宇宙飛行士を乗せる方針を取っていました。
当時を知るアレクセイ・レオーノフ元宇宙飛行士(※世界初の宇宙遊泳を行った人物)は、日本のテレビ局の取材に対して「ミーシンでは月に人類を送るのは無理だと感じた」と述懐しています。
「ゾンド6号」が月から帰還した翌月の12月24日に、アメリカは旧ソ連に先駆けて「アポロ8号」による人類初の月軌道周回を成功させますが、これを境にして旧ソ連の宇宙開発は、徐々にアメリカから遅れを取る様になっていきます。
(5)実現できなかった初期のスペース・シャトル構想(アメリカ)
アメリカが1981年から2011年まで、宇宙にヒトやモノを運ぶのに利用していたスペース・シャトルは、世界的にも有名な宇宙船の一つでした。
そんな抜群な知名度を誇っていたのにも関わらず、アメリカがスペース・シャトルの廃止を決断したのは、幾つか理由があります。
まず最大の理由は安全性で、2度の重大事故により計14名の犠牲者を出していますが、これは一つの宇宙開発計画で出した犠牲者数としては、現在(※2017年1月)でも最悪の数字です。
次に経済性で、当初は日本円で30億円程度と見積もられていた一回の打ち上げ費用が、最終的には800億円まで膨らみ、旧式の使い捨てロケットを使って人工衛星や有人宇宙船を打ち上げた方が結果としてコスト的に安く付くと言う、逆転現象が起きてました。
当初、スペース・シャトルは同じ宇宙船を何度も再利用できる事から、画期的に宇宙飛行のコストを下げる事が出来ると言う謳い文句で登場しましたが、蓋を開けてみれば想定外に整備費用が嵩んだ為に却ってコストが高く付き、いつまで経っても低コストの宇宙飛行を実現できずにいました。
これらの理由から、最後まで運用されていた3機のスペース・シャトルも老朽化が進んだ事から退役が決定され、2011年7月8日に行われたスペース・シャトル「アトランティス号」のフライトを最後に、宇宙開発の桧舞台から姿を消しました。
宇宙開発を専門に扱うジャーナリストの中には「スペース・シャトルはミス・コンセプトで中途半端な宇宙船だったので、後継の宇宙船が作られる事も無く退役に追い込まれた」と、手厳しい批判をする人もいます。
そんな、イマイチ冴えない結果で終わってしまったスペース・シャトルでしたが、最初に考えられていたスペース・シャトルのコンセプト・モデルである"DC-3"は、もし実現ができていれば「真の宇宙往復機(※スペース・シャトルの日本語訳)」と呼ぶのに相応しいものでした。
その"DC-3"は上のイラストに描かれている様な、大きな飛行機の上に小さな飛行機が乗っかっている姿をしていたのですが、この姿のままで成層圏よりも高い高度まで上昇して、そこから小さな飛行機だけが宇宙空間に飛び出すと言う構想でした。
大きな方の飛行機は小さな飛行機を切り離すと、普通の飛行機と同じ様に飛行場に着陸します。
また小さな方の飛行機も、宇宙空間での任務が終了すると、これも普通の飛行機と同様に飛行場に戻ってきます。
飛行場から飛び立って、そして再び飛行場に戻ってくると言う、普通の飛行機の様な運用が想定されていた"DC-3"でしたが、それを実現するには大きな方の飛行機に音速の3倍以上の速度で飛ぶ性能が求められた事から、当初から技術的な困難が予想されました。
"DC-3"のコンセプトの提唱元である米ノースアメリカン社は、技術的なハードルを下げる為に基本的な形はそのままにして、(普通のロケットの様に)垂直に打ち上げられるコンセプトへと軌道修正を図りますが、それでも莫大な開発費がかかる事が予想された事から、結局"DC-3"のコンセプトは却下されてしまいます。
その後、実現されたスペース・シャトルは、"DC-3"のコンセプトの一部を借用しながらも、開発費を抑える為に妥協に次ぐ妥協を重ね、劣化版"DC-3"の様な感じのモノとなって世に出る事となります。
しかし、そうして出来上がったスペース・シャトルが、安全性や経済性に深刻な欠陥を抱えていたのは、史実が伝える通りです。
2度にわたるスペース・シャトルの重大事故は、打ち上げ直後、あるいは打ち上げ時の機体の破損によって引き起こされていますが、"DC-3"のコンセプトでは、このような打ち上げ時(あるいは離陸時)に発生した問題による事故は、起こりようがありませんでした。
もし、"DC-3"がそのままのコンセプトで作られていたら、計14名の命を奪ったスペース・シャトルの重大事故は発生していなかったかもしれず、また、宇宙飛行の低コスト化も実現できていた可能性もあり、今よりも宇宙はずっと身近なモノになっていたかもしれません。
これらの話は、もちろんif(イフ)に基づいた仮定ですから、適切な決断を行っていたとしても、史実が覆らなかった可能性は十分にあります。
「こんな話もあったのか」程度に、あくまで仮定に基づいた話として、聞き流してもらえると幸いです。
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