ちりんとドアの上部に付いている鈴が音を立てた。
ここは惑井坂駅にある冥界喫茶店「マインド」だ。
死んだ者が満たされぬ思いを抱いたままでいる時、その霊は、冥界の電車に乗り、惑井坂駅で降りて、この喫茶店を訪れる。そして、これからの歩みを選択するコーヒーを飲む。
「いらっしゃい……」
カウンターの中に白いワイシャツに黒の蝶ネクタイをしたマスターらしき白髪の混じった年配の男の人が一人立っていて、鈴の鳴ったドアへ顔を向ける。
五人掛けのカウンターと二人用のテーブル席が二つしかない狭い店内だ。他に客は居なかった。音楽も流れていない。オレンジ色の照明が陰気さをさらに増している。
ドアを開けて入って来たのは品の良さそうな若い男女のカップルだった。男は右手で女の左手を強く握っている。女も強く握り返しているようだ。
「カウンターにどうぞ……」
二人は黙ってカウンター席に着いた。マスターは黙ってコーヒーカップを拭いている。沈黙が流れる。
「あの……」男が言う。沈黙に耐え切れなくなったのかもしれない。「僕たち、実は、心中をしたんです……」
「ほう……」マスターは手を止め、男を見る。「それで、ご注文は?」
「わたしたちの家は、互いに憎み合っていたんです……」女が言う。「でも、わたしたちは愛し合っていたんです」
「どこかの話にそう言うのがありましたね」マスターは言うと、コーヒーカップを拭きはじめた。「ご注文は?」
「……僕とミナヨは大学で知り合いました。最初から互いに惹かれ合いました」
「ケンジさんと一緒にいると、とても幸せに感じていました」
ケンジとミナヨは互いに見つめ合った。
「……でも、家同士が古くから対立していたんです」ケンジが言う。「幼い頃から話には聞いていたんですが、こんな時代に何を言っているんだと聞き流していました」
「わたしもです」ミナヨはうなずく。「名家だ旧家だと親戚中が偉そうに言っていましたが、わたしは呆れていました」
「お二人は、互いがそう言う家の出身だとは知らずに、お付き合いをしていたのですか?」マスターが手を止め、二人を交互に見る。「それとも分かっていたのですか?」
「付き合い始めてから知ったんです」ケンジが言うとミナヨはうなずく。「ですが、僕たちは全く気にしませんでした」
「……でも、その事が知られた途端、それこそ大騒ぎになりました」ミナヨが言うとケンジがうなずく。「ケンジさんのお宅でも騒ぎになったようです」
「僕は一人っ子で、ミナヨは一人娘でした……」ケンジはうんざりとした顔をする。「こんな二人が一緒になる事は許されないと散々言われました」
「わたしは外出できないように監禁までされました。そして、会った事も無い某名家の男の人とか言う人と結婚させられそうになったんです」
「僕も同じような目に遭いました。どこかのお嬢様だとか言う女性と結婚するように言われたんです」
「わたしたちは何とか示し合わせて逃げました……」
「僕たちが出来る復讐は、この馬鹿馬鹿しい家を無くす事でした。僕たちが居なくなれば、家はおしまいでしょう」
「そこで……」
「なるほど……」マスターがつぶやく。「それで心中をしたのですね。古風な家の最期に相応しい幕切れですね」
皮肉にも取れるマスターの言葉に二人は少し戸惑った。
「それで、ご注文は?」
「今ではこうして二人でいられる事は嬉しいんです」ケンジが言う。「ただ……」
「……これだけ強く手を握り合っているのに、互いの温もりが感じられないんです」
「温もりだけじゃない、頬に触れても抱きしめても、感触すら感じられないんです……」
「仕方ありませんよ」マスターは冷静な口調で言う。「霊体になっているんですからね」
「だったら、せめて生まれ変わってから一緒になりたいんです!」
ケンジが強く言う。ミナヨも大きくうなずく。
「たしかに、同じ時に亡くなった者は、同じような時に同じような場所に生まれ変わる可能性は高いです」マスターが言う。「でも、再び巡り合えるかどうかは、何とも言えません」
「そんなぁ……」ミナヨが泣き出した。「わたし、ケンジさんと一緒にいたい……」
「何とかなりませんか?」ケンジが必死な表情でマスターを見る。「僕たちは真剣なんです!」
マスターは黙って背後にある棚から幾種類かコーヒー豆を選び出した。
しばらくすると、コーヒーを淹れたカップが二人の前のそれぞれ並んだ。
「これは、わたしが適当にブレンドしたものです。同じものは二度とできません」マスターが言う。「この二つと無い味と香りを覚えていれば、巡り合える可能性も高くなるかも知れません」
「本当ですか!」ケンジは言うと、ミナヨに笑顔を向ける。「飲んでみようよ!」
「そうね!」ミナヨの表情が明るくなる。「味も香りもしっかりと覚えておかなくちゃ!」
二人は味と香りを記憶するように、ゆっくりと飲み始めた。その間、マスターはカップを拭いている。
「ごちそうさまでした……」ケンジがカップを戻す。「絶妙な酸味と苦み、甘さ控えめでいて鼻の奥がくすぐられるような香り…… しっかりと覚えました!」
「ええ、ええ!」ミナヨも笑顔でうなずく。「わたしもしっかりと覚えました!」
二人は満足そうな笑みを湛えたまま、すうっと消えて行った。
「……今度は、普通の家に生まれると良いですね……」
マスターは二人のカップを片付けながらつぶやいた。
ここは惑井坂駅にある冥界喫茶店「マインド」だ。
死んだ者が満たされぬ思いを抱いたままでいる時、その霊は、冥界の電車に乗り、惑井坂駅で降りて、この喫茶店を訪れる。そして、これからの歩みを選択するコーヒーを飲む。
「いらっしゃい……」
カウンターの中に白いワイシャツに黒の蝶ネクタイをしたマスターらしき白髪の混じった年配の男の人が一人立っていて、鈴の鳴ったドアへ顔を向ける。
五人掛けのカウンターと二人用のテーブル席が二つしかない狭い店内だ。他に客は居なかった。音楽も流れていない。オレンジ色の照明が陰気さをさらに増している。
ドアを開けて入って来たのは品の良さそうな若い男女のカップルだった。男は右手で女の左手を強く握っている。女も強く握り返しているようだ。
「カウンターにどうぞ……」
二人は黙ってカウンター席に着いた。マスターは黙ってコーヒーカップを拭いている。沈黙が流れる。
「あの……」男が言う。沈黙に耐え切れなくなったのかもしれない。「僕たち、実は、心中をしたんです……」
「ほう……」マスターは手を止め、男を見る。「それで、ご注文は?」
「わたしたちの家は、互いに憎み合っていたんです……」女が言う。「でも、わたしたちは愛し合っていたんです」
「どこかの話にそう言うのがありましたね」マスターは言うと、コーヒーカップを拭きはじめた。「ご注文は?」
「……僕とミナヨは大学で知り合いました。最初から互いに惹かれ合いました」
「ケンジさんと一緒にいると、とても幸せに感じていました」
ケンジとミナヨは互いに見つめ合った。
「……でも、家同士が古くから対立していたんです」ケンジが言う。「幼い頃から話には聞いていたんですが、こんな時代に何を言っているんだと聞き流していました」
「わたしもです」ミナヨはうなずく。「名家だ旧家だと親戚中が偉そうに言っていましたが、わたしは呆れていました」
「お二人は、互いがそう言う家の出身だとは知らずに、お付き合いをしていたのですか?」マスターが手を止め、二人を交互に見る。「それとも分かっていたのですか?」
「付き合い始めてから知ったんです」ケンジが言うとミナヨはうなずく。「ですが、僕たちは全く気にしませんでした」
「……でも、その事が知られた途端、それこそ大騒ぎになりました」ミナヨが言うとケンジがうなずく。「ケンジさんのお宅でも騒ぎになったようです」
「僕は一人っ子で、ミナヨは一人娘でした……」ケンジはうんざりとした顔をする。「こんな二人が一緒になる事は許されないと散々言われました」
「わたしは外出できないように監禁までされました。そして、会った事も無い某名家の男の人とか言う人と結婚させられそうになったんです」
「僕も同じような目に遭いました。どこかのお嬢様だとか言う女性と結婚するように言われたんです」
「わたしたちは何とか示し合わせて逃げました……」
「僕たちが出来る復讐は、この馬鹿馬鹿しい家を無くす事でした。僕たちが居なくなれば、家はおしまいでしょう」
「そこで……」
「なるほど……」マスターがつぶやく。「それで心中をしたのですね。古風な家の最期に相応しい幕切れですね」
皮肉にも取れるマスターの言葉に二人は少し戸惑った。
「それで、ご注文は?」
「今ではこうして二人でいられる事は嬉しいんです」ケンジが言う。「ただ……」
「……これだけ強く手を握り合っているのに、互いの温もりが感じられないんです」
「温もりだけじゃない、頬に触れても抱きしめても、感触すら感じられないんです……」
「仕方ありませんよ」マスターは冷静な口調で言う。「霊体になっているんですからね」
「だったら、せめて生まれ変わってから一緒になりたいんです!」
ケンジが強く言う。ミナヨも大きくうなずく。
「たしかに、同じ時に亡くなった者は、同じような時に同じような場所に生まれ変わる可能性は高いです」マスターが言う。「でも、再び巡り合えるかどうかは、何とも言えません」
「そんなぁ……」ミナヨが泣き出した。「わたし、ケンジさんと一緒にいたい……」
「何とかなりませんか?」ケンジが必死な表情でマスターを見る。「僕たちは真剣なんです!」
マスターは黙って背後にある棚から幾種類かコーヒー豆を選び出した。
しばらくすると、コーヒーを淹れたカップが二人の前のそれぞれ並んだ。
「これは、わたしが適当にブレンドしたものです。同じものは二度とできません」マスターが言う。「この二つと無い味と香りを覚えていれば、巡り合える可能性も高くなるかも知れません」
「本当ですか!」ケンジは言うと、ミナヨに笑顔を向ける。「飲んでみようよ!」
「そうね!」ミナヨの表情が明るくなる。「味も香りもしっかりと覚えておかなくちゃ!」
二人は味と香りを記憶するように、ゆっくりと飲み始めた。その間、マスターはカップを拭いている。
「ごちそうさまでした……」ケンジがカップを戻す。「絶妙な酸味と苦み、甘さ控えめでいて鼻の奥がくすぐられるような香り…… しっかりと覚えました!」
「ええ、ええ!」ミナヨも笑顔でうなずく。「わたしもしっかりと覚えました!」
二人は満足そうな笑みを湛えたまま、すうっと消えて行った。
「……今度は、普通の家に生まれると良いですね……」
マスターは二人のカップを片付けながらつぶやいた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます