何とか校長室の前に着いた。松原先生は、ノックをしようと右手を上げたが、そのまま手を止めてしまう。
……あの校長、お気に入りには薄気味悪い猫なで声を出すくせに、気に入らないとなると、ねちねちぐちぐちと嫌味の連続だものなぁ。良くあれだけの言葉が出るものだと、感心してしまうよ。きっと国語でも教えていたんだろうな。松原先生は思う。松原先生は明らかに末松校長に気に入られていない。松原先生も末松校長が嫌いだった。だったら、それでおあいこにすれば良いのだが、権力のある側はそうはさせない。明らかな優位を示し、完膚なきまでに相手を叩き潰すまで、その手を緩めない。
特に末松校長はその傾向が強い。そして、松原先生はそういう相手に徹底的に逆らう傾向が強かった。
……まあ、ねちねちぐちぐちが始まったら、いつものように、頭の中で円周率を暗唱していればいいさ。松原先生は止めていた手を動かす。
「松原です」あからさまに面倒くさいと言った感じの口調で、松原先生は言う。「入りますよ」
松原先生は末松校長の返事を待たずにドアノブを回す。ドアは開かない。内側からロックしているようだ。松原先生は小馬鹿にしたように鼻で笑う。権力に固執するヤツは大概が小心者だと、過去に読んだ何かの本に書かれていたのを松原先生は思い出したのだ。
「な~んだ、居ないんだ」松原先生はわざとらしく、末松校長に聞こえるような声で言う。「戻ろう、戻ろう」
ドアのロックが外れる音がし、室内側に少し開いた。隙間から、脂ぎった薄気味悪い顔の半分が覗く。末松校長だ。
「松原先生」甲高い声だ。怒っていることを示している。「君は相手の返事を待たずに行動するのかね?」
「呼びつけておいて、ドアが開かないんじゃ、居ないと思うのが一般常識です」松原先生は平然と答える。「それとも、居るのに開かないようにして相手を困らせるのが、校長の常識ですか?」
末松校長はじろりと陰湿な眼差しで松原先生を睨む。松原先生はそれを平然と見返している。しかし、頭の中では早くも円周率の暗証が始まっている。なので、末松校長を見返していると言うよりは、見ているだけの方が正解だ。
「……入りたまえ」
末松校長は言うとドアを大きく開けた。松原先生は無言で入る。円周率が頭を駈け回っている。
末松校長は脂ぎった顔に見合ったぶくぶくで小柄な体型だ。多分上質のスーツを着ているのだろうが、とても安物に見えてしまう。
末松校長の使う高価そうな机には某メーカーの最高級のパソコンが置かれ、それでもまだ余裕のある机上に、金色のペン立てがあった。座り心地の良さそうな革張りの椅子には、ふかふかのチェアパッドが置かれている。しかし、末松校長が座り続けているせいか、かなりぺちゃんこになっていた。
その背面には窓がある。しかも磨りガラスになっていて、外から覗けないようになっている。窓の上の壁には棚が作られていて、楯だのトロフィだのが並んでいる。左右の壁にも硝子戸の付いた飾り棚あり、その中にも楯だのトロフィだのが並ぶ。開いている壁には額に入れた賞状が幾つも並んでいる。
部屋の中央には、接客用の横長のテーブルがあり、それを挟むように三人がけほどのソファが向かい合っている。そのテーブルの上には、ガラス製の重たそうな灰皿が置かれ、象が後ろ足で立ち上がった姿の卓上ライターがある。先端を上に向けた象の鼻の先から炎が出る仕掛けだ。
さらに、室内には、何だか甘ったるく粉っぽいにおいが立ち込めている。末松校長の体臭を誤魔化すための「お部屋の香水」なのだろう。松原先生は無意識に眉をひそめた。
末松校長は自分の椅子に座った。椅子自体がぎぎぎと悲鳴を上げる。松原先生に座るようにとは言わない。
「で、さっきの件なのだがね……」末松校長は背凭れを軋らせ、立っている松原先生をしたから睨み上げる。「学外者を学校に入れるからには、許可を得ているのだろうね?」
松原先生は答えない。いや、末松校長の言う事が聞こえていないのだ。頭の中では円周率の数字が螺旋を描いている。
「おい、君! 松原先生!」
末松校長は言うと、机を拳で叩いた。驚いた松原先生は、四百十二桁目の「6」で、我に返らされた。
「はい、そう思います」何でも肯定しておけば満足する校長だからと、松原先生は答えた。「では、そう言う事で」
「待ちなさい!」末松校長は踵を返した松原先生に言う。「君は、話を全く聞いていなかったようだな」
面倒くさそうな表情で松原先生は振り返る。末松校長は、整髪油をたっぷりと付けた、薄くなった髪を撫でつける。
「良いかね、松原先生」末松校長は松原先生を睨みつけたままで言う。「わたしは、学外者を学校に入れるのに、誰の許可を得たのかと聞いたのだよ……」
「誰の許可?」
「そうだ。少なくとも、わたしは把握していないな」末松校長は意地の悪そうな笑みを浮かべる。「さあ、誰が許可したのかね?」
「ボクですけど?」松原先生は答える。「深夜活動ですからね、ボクがきっちりと付き添いました」
「なんだって? 松原先生自身が許可しただって?」末松校長はおどけてみせる。「それはそれは、大したご出世だ」
「そうですか? では、そう言う事で」
松原先生はそう言うと、再び踵を返しドアへ向かう。
「待ちなさい!」末松校長は語気を荒げる。「松原先生、君にそんな権限はないぞ!」
「そうなんですか」末松校長に背を向けたままで松原先生は言う。「じゃあ、誰が権限を持っているんですか?」
「それはだねぇ…… おい、話している人を見るようにって、習わなかったのかね?」末松校長は向こうを向いたままの松原先生に言う。「全く、こんなのが教師とはな!」
「たしかに……」松原先生は振り返り、末松校長を見る。「こんなのが校長だなんてね」
つづく
……あの校長、お気に入りには薄気味悪い猫なで声を出すくせに、気に入らないとなると、ねちねちぐちぐちと嫌味の連続だものなぁ。良くあれだけの言葉が出るものだと、感心してしまうよ。きっと国語でも教えていたんだろうな。松原先生は思う。松原先生は明らかに末松校長に気に入られていない。松原先生も末松校長が嫌いだった。だったら、それでおあいこにすれば良いのだが、権力のある側はそうはさせない。明らかな優位を示し、完膚なきまでに相手を叩き潰すまで、その手を緩めない。
特に末松校長はその傾向が強い。そして、松原先生はそういう相手に徹底的に逆らう傾向が強かった。
……まあ、ねちねちぐちぐちが始まったら、いつものように、頭の中で円周率を暗唱していればいいさ。松原先生は止めていた手を動かす。
「松原です」あからさまに面倒くさいと言った感じの口調で、松原先生は言う。「入りますよ」
松原先生は末松校長の返事を待たずにドアノブを回す。ドアは開かない。内側からロックしているようだ。松原先生は小馬鹿にしたように鼻で笑う。権力に固執するヤツは大概が小心者だと、過去に読んだ何かの本に書かれていたのを松原先生は思い出したのだ。
「な~んだ、居ないんだ」松原先生はわざとらしく、末松校長に聞こえるような声で言う。「戻ろう、戻ろう」
ドアのロックが外れる音がし、室内側に少し開いた。隙間から、脂ぎった薄気味悪い顔の半分が覗く。末松校長だ。
「松原先生」甲高い声だ。怒っていることを示している。「君は相手の返事を待たずに行動するのかね?」
「呼びつけておいて、ドアが開かないんじゃ、居ないと思うのが一般常識です」松原先生は平然と答える。「それとも、居るのに開かないようにして相手を困らせるのが、校長の常識ですか?」
末松校長はじろりと陰湿な眼差しで松原先生を睨む。松原先生はそれを平然と見返している。しかし、頭の中では早くも円周率の暗証が始まっている。なので、末松校長を見返していると言うよりは、見ているだけの方が正解だ。
「……入りたまえ」
末松校長は言うとドアを大きく開けた。松原先生は無言で入る。円周率が頭を駈け回っている。
末松校長は脂ぎった顔に見合ったぶくぶくで小柄な体型だ。多分上質のスーツを着ているのだろうが、とても安物に見えてしまう。
末松校長の使う高価そうな机には某メーカーの最高級のパソコンが置かれ、それでもまだ余裕のある机上に、金色のペン立てがあった。座り心地の良さそうな革張りの椅子には、ふかふかのチェアパッドが置かれている。しかし、末松校長が座り続けているせいか、かなりぺちゃんこになっていた。
その背面には窓がある。しかも磨りガラスになっていて、外から覗けないようになっている。窓の上の壁には棚が作られていて、楯だのトロフィだのが並んでいる。左右の壁にも硝子戸の付いた飾り棚あり、その中にも楯だのトロフィだのが並ぶ。開いている壁には額に入れた賞状が幾つも並んでいる。
部屋の中央には、接客用の横長のテーブルがあり、それを挟むように三人がけほどのソファが向かい合っている。そのテーブルの上には、ガラス製の重たそうな灰皿が置かれ、象が後ろ足で立ち上がった姿の卓上ライターがある。先端を上に向けた象の鼻の先から炎が出る仕掛けだ。
さらに、室内には、何だか甘ったるく粉っぽいにおいが立ち込めている。末松校長の体臭を誤魔化すための「お部屋の香水」なのだろう。松原先生は無意識に眉をひそめた。
末松校長は自分の椅子に座った。椅子自体がぎぎぎと悲鳴を上げる。松原先生に座るようにとは言わない。
「で、さっきの件なのだがね……」末松校長は背凭れを軋らせ、立っている松原先生をしたから睨み上げる。「学外者を学校に入れるからには、許可を得ているのだろうね?」
松原先生は答えない。いや、末松校長の言う事が聞こえていないのだ。頭の中では円周率の数字が螺旋を描いている。
「おい、君! 松原先生!」
末松校長は言うと、机を拳で叩いた。驚いた松原先生は、四百十二桁目の「6」で、我に返らされた。
「はい、そう思います」何でも肯定しておけば満足する校長だからと、松原先生は答えた。「では、そう言う事で」
「待ちなさい!」末松校長は踵を返した松原先生に言う。「君は、話を全く聞いていなかったようだな」
面倒くさそうな表情で松原先生は振り返る。末松校長は、整髪油をたっぷりと付けた、薄くなった髪を撫でつける。
「良いかね、松原先生」末松校長は松原先生を睨みつけたままで言う。「わたしは、学外者を学校に入れるのに、誰の許可を得たのかと聞いたのだよ……」
「誰の許可?」
「そうだ。少なくとも、わたしは把握していないな」末松校長は意地の悪そうな笑みを浮かべる。「さあ、誰が許可したのかね?」
「ボクですけど?」松原先生は答える。「深夜活動ですからね、ボクがきっちりと付き添いました」
「なんだって? 松原先生自身が許可しただって?」末松校長はおどけてみせる。「それはそれは、大したご出世だ」
「そうですか? では、そう言う事で」
松原先生はそう言うと、再び踵を返しドアへ向かう。
「待ちなさい!」末松校長は語気を荒げる。「松原先生、君にそんな権限はないぞ!」
「そうなんですか」末松校長に背を向けたままで松原先生は言う。「じゃあ、誰が権限を持っているんですか?」
「それはだねぇ…… おい、話している人を見るようにって、習わなかったのかね?」末松校長は向こうを向いたままの松原先生に言う。「全く、こんなのが教師とはな!」
「たしかに……」松原先生は振り返り、末松校長を見る。「こんなのが校長だなんてね」
つづく
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