重い足取りだ。一歩歩く毎に全身の力が急速に抜けて行く。
これは絶対に行きたくないと言う、無意識の意識だ。
そう思った『富美江会』顧問の松原先生は、廊下を歩きながら、ため息をつき、足を止める。これで何度目だろうか。目的地までは大した距離ではないが、兎に角、行きたくなかったのだ。
松原先生は、次の授業が無かったので、数学準備室で一年生のしのぶ用に難しい問題を作成していた。と、内線電話が鳴った。他の先生方は授業で出払っている。やれやれと思い、受話器に手を掛けようとするが、架けて来た相手の名前を見て、手が止まる。
「……校長……」
松原先生はつぶやき、物凄くイヤな顔をした。
校長は、末松泰三と言って、年配の男性だったが、自分の思い通りにならないと嫌味を言い続ける。教育委員会のお偉いさんとのつながりが強いらしく、逆らう先生を僻地の学校へと転任させる力を持っていた。また、えこひいきが凄く、自分のお気に入りの先生は厚遇する(特に若い女の先生に対しては露骨だった)。なので、先生の中にも校長に取り入ろうと擦り寄る者が多い。
松原先生は、取り入ろうとする仲間には入っていなかった。むしろ、思い通りにならない先生の部類に属していると言えた。
鳴り続ける電話を、松原先生はうんざりした表情で取る。
「はい、数学準備室です……」
無意識の松原先生の声は沈む。
「誰?」
やや甲高く横柄で不愉快な声が流れてくる。松原先生は受話器を耳から離し、睨みつける。とは言え、何時までも放っては置けない。
「……松原ですが」
「ほう……」末松校長は小馬鹿にしたような返事をする。「どうして君がそこにいるんだ?」
「今、空きコマでして……」
「だったら、校内巡回とか、少しでも子供たちの安全を優先させたらどうなんだね?」
「そうですね。じゃあ、そうします」松原先生は言うと受話器を置いた。「……な~に考えているんだか……」
つぶやいた松原先生は立ち上がりもせず、背凭れを軋ませる程に椅子の上で大きく伸びをすると、再びしのぶの問題作りに取り掛かった。すると、また内線電話が鳴った。また、末松校長だ。
「はい?」松原先生はぶっきらぼうに応じる。「これから準備室を出る所ですが、何か?」
松原先生は言いながら、問題作りのための参考書をめくっている。
「松原先生」末松校長が改まった声で言う。「君はサークルの顧問だったな?」
「はあ…… それが何か?」
「何のサークルだったかね?」
「ご存じないんですか? 管理者なのに?」
「君、言動には気を付けたまえ……」末松校長が脅す様に言う。「わたしの問いに答えれば良いのだよ」
「『百合恵会』ですが」
「何をするサークルだね?」
「それもご存じないんですか? やれやれ……」
嫌いな相手には素直に反応してしまう松原先生だった。
「知らないわけが無かろう!」末松校長の声が高くなる。興奮すると高くなるようだ。「心霊サークルだそうだな?」
「ご存じなら、訊かなくっても良いじゃないですか」校長とは逆に、松原先生は冷静に対応する。「何がしたいんですか?」
「君、そのサークル、学外者も顧問にしているそうだな。特別顧問とか……」
「そうですよ。運動部なんかでもやっているじゃないですか」
「あれは、実績のあった方々に、名前だけお借りしているだけだ。実態があるわけではない」
「なるほど、いわゆる、箔付けですか。公立高校の部活に必要だとは思いませんけどねぇ。……あっ、校長の提案でしたっけ、すみません」
松原先生は、電話の向こうの末松校長の顔を想像してにやりと笑う。
「……君、好い加減にしたまえよ……」末松校長は言うと、少し間を開けた。呼吸を整えているのだろう。「その特別顧問に関して話がある」
「どう言った話です?」
「聞いたところによると、夜のお店の人だそうじゃないか」
「そうですよ。百合恵さんと言います。サークルの名前に使わせてもらっています。それが何か?」
「そんな、不健全な仕事をしている女性を顧問にして良いと思っているのかね?」
「校長、仕事に貴賤の線引きをするんですか?」
「そうではない!」末松校長が声を荒げる。きいきい声になっている。「ただ、生徒に悪影響が出ないかと心配なのだ」
「それはありませんね。顧問のボクが断言します」
「まあ、それは良い……」末松校長は含みのある言い方をする。「ところで、君はその女性をたびたび学校に入れているそうじゃないか? しかも深夜に。生徒たちも一緒だと聞いたのだが?」
「それを誰から?」
松原先生は思い切りイヤな顔をする。そして、末松校長に取り入っている数名の教師の顔が浮かぶ。
「その件に関して、直接に話がある。校長室まで来なさい」
電話が切れた。
「やれやれ……」
松原先生は受話器を戻すと立ち上がった。
「行きたくないなぁ……」
つづく
これは絶対に行きたくないと言う、無意識の意識だ。
そう思った『富美江会』顧問の松原先生は、廊下を歩きながら、ため息をつき、足を止める。これで何度目だろうか。目的地までは大した距離ではないが、兎に角、行きたくなかったのだ。
松原先生は、次の授業が無かったので、数学準備室で一年生のしのぶ用に難しい問題を作成していた。と、内線電話が鳴った。他の先生方は授業で出払っている。やれやれと思い、受話器に手を掛けようとするが、架けて来た相手の名前を見て、手が止まる。
「……校長……」
松原先生はつぶやき、物凄くイヤな顔をした。
校長は、末松泰三と言って、年配の男性だったが、自分の思い通りにならないと嫌味を言い続ける。教育委員会のお偉いさんとのつながりが強いらしく、逆らう先生を僻地の学校へと転任させる力を持っていた。また、えこひいきが凄く、自分のお気に入りの先生は厚遇する(特に若い女の先生に対しては露骨だった)。なので、先生の中にも校長に取り入ろうと擦り寄る者が多い。
松原先生は、取り入ろうとする仲間には入っていなかった。むしろ、思い通りにならない先生の部類に属していると言えた。
鳴り続ける電話を、松原先生はうんざりした表情で取る。
「はい、数学準備室です……」
無意識の松原先生の声は沈む。
「誰?」
やや甲高く横柄で不愉快な声が流れてくる。松原先生は受話器を耳から離し、睨みつける。とは言え、何時までも放っては置けない。
「……松原ですが」
「ほう……」末松校長は小馬鹿にしたような返事をする。「どうして君がそこにいるんだ?」
「今、空きコマでして……」
「だったら、校内巡回とか、少しでも子供たちの安全を優先させたらどうなんだね?」
「そうですね。じゃあ、そうします」松原先生は言うと受話器を置いた。「……な~に考えているんだか……」
つぶやいた松原先生は立ち上がりもせず、背凭れを軋ませる程に椅子の上で大きく伸びをすると、再びしのぶの問題作りに取り掛かった。すると、また内線電話が鳴った。また、末松校長だ。
「はい?」松原先生はぶっきらぼうに応じる。「これから準備室を出る所ですが、何か?」
松原先生は言いながら、問題作りのための参考書をめくっている。
「松原先生」末松校長が改まった声で言う。「君はサークルの顧問だったな?」
「はあ…… それが何か?」
「何のサークルだったかね?」
「ご存じないんですか? 管理者なのに?」
「君、言動には気を付けたまえ……」末松校長が脅す様に言う。「わたしの問いに答えれば良いのだよ」
「『百合恵会』ですが」
「何をするサークルだね?」
「それもご存じないんですか? やれやれ……」
嫌いな相手には素直に反応してしまう松原先生だった。
「知らないわけが無かろう!」末松校長の声が高くなる。興奮すると高くなるようだ。「心霊サークルだそうだな?」
「ご存じなら、訊かなくっても良いじゃないですか」校長とは逆に、松原先生は冷静に対応する。「何がしたいんですか?」
「君、そのサークル、学外者も顧問にしているそうだな。特別顧問とか……」
「そうですよ。運動部なんかでもやっているじゃないですか」
「あれは、実績のあった方々に、名前だけお借りしているだけだ。実態があるわけではない」
「なるほど、いわゆる、箔付けですか。公立高校の部活に必要だとは思いませんけどねぇ。……あっ、校長の提案でしたっけ、すみません」
松原先生は、電話の向こうの末松校長の顔を想像してにやりと笑う。
「……君、好い加減にしたまえよ……」末松校長は言うと、少し間を開けた。呼吸を整えているのだろう。「その特別顧問に関して話がある」
「どう言った話です?」
「聞いたところによると、夜のお店の人だそうじゃないか」
「そうですよ。百合恵さんと言います。サークルの名前に使わせてもらっています。それが何か?」
「そんな、不健全な仕事をしている女性を顧問にして良いと思っているのかね?」
「校長、仕事に貴賤の線引きをするんですか?」
「そうではない!」末松校長が声を荒げる。きいきい声になっている。「ただ、生徒に悪影響が出ないかと心配なのだ」
「それはありませんね。顧問のボクが断言します」
「まあ、それは良い……」末松校長は含みのある言い方をする。「ところで、君はその女性をたびたび学校に入れているそうじゃないか? しかも深夜に。生徒たちも一緒だと聞いたのだが?」
「それを誰から?」
松原先生は思い切りイヤな顔をする。そして、末松校長に取り入っている数名の教師の顔が浮かぶ。
「その件に関して、直接に話がある。校長室まで来なさい」
電話が切れた。
「やれやれ……」
松原先生は受話器を戻すと立ち上がった。
「行きたくないなぁ……」
つづく
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