「まだあるのかい? 上流階級ってのは、小説よりも奇なりって感じだね」
「下らない感想はいらないわ」冴子がむっとした声を出す。「・・・綾子さんが家を出た事で、一番のショックを受けたのは小夜子さんだったわ」
「だろうね。ずっと一緒にいてくれると思っていただろうし、母親代わりでもあったんだからね」
「それに、綾子さんがいなくなると、あちこちで綾子さんの悪口が言われるようになったのね。当然、小夜子さんにも聞こえてくる。信じていた綾子さんの像ががたがたに崩れたようね。それで、心に深い傷を負ったの・・・」
「気の毒だね・・・」
小夜子は邸から出なくなった。自分の部屋に閉じこもるようになった。笑わなくなった。人と会う事を拒んだ。それは周一に対しても同様だった。食事も摂ろうとしなかった。
「子供なのに食べないなんて、危険じゃないか!」正部川は腹を立てていた。「部屋から引きずり出してでも、口をこじ開けてでも、食べさせるべきだよ!」
「あら、怒っているんだ・・・」冴子は怒っている正部川を珍しい物を見るような目付きで見ていた。「・・・でも、全然迫力が無いわねえ。そんなんじゃ、馬鹿にされちゃうだけよ」
「大きなお世話だよ!」不意に正部川の表情がまたぽかんとしたものに戻った。「・・・でも、続きって、その事じゃないだろう?」
「・・・え?」
冴子は思わず正部川の顔を見た。・・・このボンクラ男、何て知ったかぶりをしてるんだろう! 冴子の目に怒りの色が浮かぶ。
「どう言う事よ?」冴子がむっとした声を出す。「知ったかぶるのは、やめてほしいわね!」
「いや、そうじゃないよ。だって、冴子は小夜子さんと話しをしたりしている様だから、心の傷は一時のものだったって分かる。・・・で」正部川は言い難そうに続けた。「・・・僕が言っているのは、さっきの洋服屋さんでの出来事で、気付いた事なんだけどさ・・・」
「・・・」
冴子はじっと正部川を見つめた。正部川も負けじと見つめ返している。冴子の瞳が滲んでくる。唇がわなわなと震えている。
車が急に停まった。三人の大男が、一斉に正部川を睨みつけた。
「あっ、いや、そのあの・・・」正部川はおろおろし、頭をぽりぽりと掻きはじめた。「冴子、ごめん。・・・いいよ、話してくれなくても。大体の想像はついているから・・・」
さらに大男達に睨みつけられる。正部川はそのまま下を向いてしまった。
「・・・大丈夫よ」冴子は言って、深呼吸をした。それから、笑顔を三人の男たちに向けた。「車、出してちょうだい」
動き出した車に中は、しばらく沈黙が続いた。堪りかねた運転手がオーディオを操作し音楽を流した。オーケストラの曲が控え目な音量で流れ始めた。
「あのう・・・」しばらくして正部川が運転手に声をかけた。「この曲は、どうかと思うんですけど・・・」
「文句があるのか?」助手席の男が振り返り、唸る。
「いえ、はい・・・ と言うか・・・」正部川は頭をぼりぼりと掻き出した。「この曲、チャイコフスキーの『悲壮』でしょ? それも第四楽章ですし・・・ ちょっと、相応しくないように思えて・・・」
「あら、あなたこの曲知ってるの?」冴子が言った。いつもの口調に戻っていた。緊張していた車内の空気が一瞬で和んだ。「どうせ、良い子の名曲全集ででも聞いたんでしょ?」
「ひどい事言うなあ・・・」正部川は冴子を見る。怒った顔をしているようだが、やはり迫力に欠ける。「僕はこう見えても、クラシックが好きなんだ。あらかたの曲は聞いているし、良い演奏と悪い演奏は区別できるんだ」
「じゃあ、これはどうなのよ」冴子は顎で流れる音楽を指し示した。「評論家先生のお説を聞きたいわ」
「・・・」正部川はむっとした顔をしながらも、流れる音楽に耳を傾け、目を閉じた。「・・・でさ、周一さん、もう一度結婚したんだろう? 多分、六十代辺りかな?」
「えっ?」冴子は正部川を見た。正部川は音楽に聴き入っているように目を閉じたままだ。「何の話よ?」
「だって、もう一人、冴子が大好きだった人物がいるんだろう?」目を閉じたまま続けた。「きっと良い奴で、冴子と歳も近い奴で、でも周一さんの孫ではなくて・・・」
続く
著者自註
「探偵小説」の再開でございます。もし、お時間がお有りでしたなら、最初からの読み直しをして頂けると、幸いに存じます。
web拍手を送る
「下らない感想はいらないわ」冴子がむっとした声を出す。「・・・綾子さんが家を出た事で、一番のショックを受けたのは小夜子さんだったわ」
「だろうね。ずっと一緒にいてくれると思っていただろうし、母親代わりでもあったんだからね」
「それに、綾子さんがいなくなると、あちこちで綾子さんの悪口が言われるようになったのね。当然、小夜子さんにも聞こえてくる。信じていた綾子さんの像ががたがたに崩れたようね。それで、心に深い傷を負ったの・・・」
「気の毒だね・・・」
小夜子は邸から出なくなった。自分の部屋に閉じこもるようになった。笑わなくなった。人と会う事を拒んだ。それは周一に対しても同様だった。食事も摂ろうとしなかった。
「子供なのに食べないなんて、危険じゃないか!」正部川は腹を立てていた。「部屋から引きずり出してでも、口をこじ開けてでも、食べさせるべきだよ!」
「あら、怒っているんだ・・・」冴子は怒っている正部川を珍しい物を見るような目付きで見ていた。「・・・でも、全然迫力が無いわねえ。そんなんじゃ、馬鹿にされちゃうだけよ」
「大きなお世話だよ!」不意に正部川の表情がまたぽかんとしたものに戻った。「・・・でも、続きって、その事じゃないだろう?」
「・・・え?」
冴子は思わず正部川の顔を見た。・・・このボンクラ男、何て知ったかぶりをしてるんだろう! 冴子の目に怒りの色が浮かぶ。
「どう言う事よ?」冴子がむっとした声を出す。「知ったかぶるのは、やめてほしいわね!」
「いや、そうじゃないよ。だって、冴子は小夜子さんと話しをしたりしている様だから、心の傷は一時のものだったって分かる。・・・で」正部川は言い難そうに続けた。「・・・僕が言っているのは、さっきの洋服屋さんでの出来事で、気付いた事なんだけどさ・・・」
「・・・」
冴子はじっと正部川を見つめた。正部川も負けじと見つめ返している。冴子の瞳が滲んでくる。唇がわなわなと震えている。
車が急に停まった。三人の大男が、一斉に正部川を睨みつけた。
「あっ、いや、そのあの・・・」正部川はおろおろし、頭をぽりぽりと掻きはじめた。「冴子、ごめん。・・・いいよ、話してくれなくても。大体の想像はついているから・・・」
さらに大男達に睨みつけられる。正部川はそのまま下を向いてしまった。
「・・・大丈夫よ」冴子は言って、深呼吸をした。それから、笑顔を三人の男たちに向けた。「車、出してちょうだい」
動き出した車に中は、しばらく沈黙が続いた。堪りかねた運転手がオーディオを操作し音楽を流した。オーケストラの曲が控え目な音量で流れ始めた。
「あのう・・・」しばらくして正部川が運転手に声をかけた。「この曲は、どうかと思うんですけど・・・」
「文句があるのか?」助手席の男が振り返り、唸る。
「いえ、はい・・・ と言うか・・・」正部川は頭をぼりぼりと掻き出した。「この曲、チャイコフスキーの『悲壮』でしょ? それも第四楽章ですし・・・ ちょっと、相応しくないように思えて・・・」
「あら、あなたこの曲知ってるの?」冴子が言った。いつもの口調に戻っていた。緊張していた車内の空気が一瞬で和んだ。「どうせ、良い子の名曲全集ででも聞いたんでしょ?」
「ひどい事言うなあ・・・」正部川は冴子を見る。怒った顔をしているようだが、やはり迫力に欠ける。「僕はこう見えても、クラシックが好きなんだ。あらかたの曲は聞いているし、良い演奏と悪い演奏は区別できるんだ」
「じゃあ、これはどうなのよ」冴子は顎で流れる音楽を指し示した。「評論家先生のお説を聞きたいわ」
「・・・」正部川はむっとした顔をしながらも、流れる音楽に耳を傾け、目を閉じた。「・・・でさ、周一さん、もう一度結婚したんだろう? 多分、六十代辺りかな?」
「えっ?」冴子は正部川を見た。正部川は音楽に聴き入っているように目を閉じたままだ。「何の話よ?」
「だって、もう一人、冴子が大好きだった人物がいるんだろう?」目を閉じたまま続けた。「きっと良い奴で、冴子と歳も近い奴で、でも周一さんの孫ではなくて・・・」
続く
著者自註
「探偵小説」の再開でございます。もし、お時間がお有りでしたなら、最初からの読み直しをして頂けると、幸いに存じます。
web拍手を送る
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます