店の中は元々はもっと広いはずなのだろうが、部屋の真ん中ほどに建てつけの悪いドア付きの壁を付設したために、かなり狭かった。そして椅子やテーブルなどの調度品は何も置かれていなかった。唯一あるのは二メートル以上はある姿見だけだった。木目の浮き出ている壁は、元はあめ色に輝いていただろうが、すっかりくすんで黒ずんでいた。床に敷き詰められたカーペットも元の色が判別しにくいほどに踏みしめられている。
冴子はそんな中で当たり前と言うように平気な顔で立っていた。正部川は冴子に釣られて同じ様に、ただしぼうっとしたまま立っていた。大沢が「失礼致します」と言い置いて、その建てつけの悪い壁のドアから向こうへと消えた。
「冴子、本当に腕の良い洋服屋なのか?」
正部川は大沢がいなくなってから小声で聞いた。普通に話すと筒抜けになりそうな気がする。冴子は正部川に軽蔑の眼差しを向けた。
「大沢さんは、店の見てくれじゃなくて、仕立てに全てを回しているのよ。だから、あのドアの向こうには最上級の生地や糸や裁断用の鋏やなんかが置いてあるの。それに、大沢さん、相手を見ただけで将来どんな体型になるのか分かるんですって」
「へーぇ。じゃ、冴子は将来どうなるんだ」
へらへらしながら正部川が聞いた。冴子はむっとした顔になった。
「女性にそんな事聞くなんて、心も見てくれと同様に最低ね。こんなに最低なあなたが、よく大沢さんの事が言えたものだわ。呆れてものが言えないわ」
「最低って・・・ それはいくらなんでも言いすぎじゃないか!」
「じゃ、その姿がどんなものか、そこの姿身で見て御覧なさいよ! ついでに、最低な心が表われた不細工な顔も見ておくと良いわ!」
正部川が何か言い返そうとしたとき、ドアの向こうから大沢の「うぉっほん」と言う咳払いが聞こえた。大きな声で怒鳴りあっていた事に気付いた二人はあわてて口を閉ざした。それを確認したかのようにドアが開き、大沢がにこやかな笑顔で出て来た。右腕に何枚か生地を下げている。
「紫籐様、最近大変良い生地が手に入りまして、今度のお洋服に是非と思っておりました。それがこんなに早く叶うとは、仕立て屋冥利でございます」
大沢は冴子が服を新調するために来たものだと思っているらしい。冴子は困った顔をしながら、
「大沢さん、先ほどどんな内容の電話を差し上げました?」
「はぁ・・・ たしか、冴子様が洋服の事でこちらへいらっしゃると言うものでございましたが・・・」大沢も困ったような顔をしていた。「それで、私はてっきり冴子様のお洋服とばかり思っておりましたが・・・」
「申し訳ありません、私のでは無いんですの。連れのこの人のなんです」
「はあ、左様でしたか」大沢は表情を変えず、冴子が指差したこの人――正部川に、頭の先から足の先まで何度も視線を走らせていた。「この方は将来もそう体型がお変わりになる事はないでしょうから、長く着られます様にスタンダードな型のスーツをお仕立ていたしましょう。お色は左様ですねぇ・・・」
「あの、大沢さん」冴子がまた困った顔で言った。「そのスーツって、いつ仕上がります?」
「大急ぎに急ぎましても、三週間は見て頂きませんと・・・ それでも粗製乱造とのご批判を受けるかと・・・」
「そうよね。粗製乱造は犯罪行為っておっしゃってらしたものねぇ・・・」
「いつお入り用なんですか?」
「実は・・・」訝しんでいる大沢を見つめながら、冴子は言いにくそうに答えた。「今日なんです。今日は桜沢周一様のお誕生パーティがあって、私はこの間作って頂いたこの服があるんですけれども、連れのこの人が服を持っていないんです」
「今日! 桜沢周一様の!」
大沢は目を大きく見開き、驚いたように大きな声を出した。
「やっぱり無理よねぇ」
冴子は正部川を恨めしげに見た。このボンクラめ! 見てくれ最低男め! 冴子は心の中で正部川を罵り続けた。
「たしかに仕立てるのは無理ですが、このままお帰り頂くのは私の沽券にかかわります! ましてや周一様のお誕生パーティとなれば尚更でございます!」
大沢が強い口調で言った。しばし考え込んでいた大沢は不意に、
「以前、ある方にお仕立てし、そのままになっている燕尾服がございます」
冴子の顔がパッと明るくなった。
「それで良いわ。あなた、ちょっと着て御覧なさいよ」
冴子は正部川に命令口調で言った。正部川は憮然とした顔で冴子を見返す。
「ですが」大沢は心配そうな顔をする。「お似合いになりますかどうか・・・」
「いいのよ、この人は着られれば」
冴子が冷たい声で言った。正部川はぶつぶつ言いながら大沢と共に、建てつけの悪い壁のドアから向こうへと消えた。
続く


冴子はそんな中で当たり前と言うように平気な顔で立っていた。正部川は冴子に釣られて同じ様に、ただしぼうっとしたまま立っていた。大沢が「失礼致します」と言い置いて、その建てつけの悪い壁のドアから向こうへと消えた。
「冴子、本当に腕の良い洋服屋なのか?」
正部川は大沢がいなくなってから小声で聞いた。普通に話すと筒抜けになりそうな気がする。冴子は正部川に軽蔑の眼差しを向けた。
「大沢さんは、店の見てくれじゃなくて、仕立てに全てを回しているのよ。だから、あのドアの向こうには最上級の生地や糸や裁断用の鋏やなんかが置いてあるの。それに、大沢さん、相手を見ただけで将来どんな体型になるのか分かるんですって」
「へーぇ。じゃ、冴子は将来どうなるんだ」
へらへらしながら正部川が聞いた。冴子はむっとした顔になった。
「女性にそんな事聞くなんて、心も見てくれと同様に最低ね。こんなに最低なあなたが、よく大沢さんの事が言えたものだわ。呆れてものが言えないわ」
「最低って・・・ それはいくらなんでも言いすぎじゃないか!」
「じゃ、その姿がどんなものか、そこの姿身で見て御覧なさいよ! ついでに、最低な心が表われた不細工な顔も見ておくと良いわ!」
正部川が何か言い返そうとしたとき、ドアの向こうから大沢の「うぉっほん」と言う咳払いが聞こえた。大きな声で怒鳴りあっていた事に気付いた二人はあわてて口を閉ざした。それを確認したかのようにドアが開き、大沢がにこやかな笑顔で出て来た。右腕に何枚か生地を下げている。
「紫籐様、最近大変良い生地が手に入りまして、今度のお洋服に是非と思っておりました。それがこんなに早く叶うとは、仕立て屋冥利でございます」
大沢は冴子が服を新調するために来たものだと思っているらしい。冴子は困った顔をしながら、
「大沢さん、先ほどどんな内容の電話を差し上げました?」
「はぁ・・・ たしか、冴子様が洋服の事でこちらへいらっしゃると言うものでございましたが・・・」大沢も困ったような顔をしていた。「それで、私はてっきり冴子様のお洋服とばかり思っておりましたが・・・」
「申し訳ありません、私のでは無いんですの。連れのこの人のなんです」
「はあ、左様でしたか」大沢は表情を変えず、冴子が指差したこの人――正部川に、頭の先から足の先まで何度も視線を走らせていた。「この方は将来もそう体型がお変わりになる事はないでしょうから、長く着られます様にスタンダードな型のスーツをお仕立ていたしましょう。お色は左様ですねぇ・・・」
「あの、大沢さん」冴子がまた困った顔で言った。「そのスーツって、いつ仕上がります?」
「大急ぎに急ぎましても、三週間は見て頂きませんと・・・ それでも粗製乱造とのご批判を受けるかと・・・」
「そうよね。粗製乱造は犯罪行為っておっしゃってらしたものねぇ・・・」
「いつお入り用なんですか?」
「実は・・・」訝しんでいる大沢を見つめながら、冴子は言いにくそうに答えた。「今日なんです。今日は桜沢周一様のお誕生パーティがあって、私はこの間作って頂いたこの服があるんですけれども、連れのこの人が服を持っていないんです」
「今日! 桜沢周一様の!」
大沢は目を大きく見開き、驚いたように大きな声を出した。
「やっぱり無理よねぇ」
冴子は正部川を恨めしげに見た。このボンクラめ! 見てくれ最低男め! 冴子は心の中で正部川を罵り続けた。
「たしかに仕立てるのは無理ですが、このままお帰り頂くのは私の沽券にかかわります! ましてや周一様のお誕生パーティとなれば尚更でございます!」
大沢が強い口調で言った。しばし考え込んでいた大沢は不意に、
「以前、ある方にお仕立てし、そのままになっている燕尾服がございます」
冴子の顔がパッと明るくなった。
「それで良いわ。あなた、ちょっと着て御覧なさいよ」
冴子は正部川に命令口調で言った。正部川は憮然とした顔で冴子を見返す。
「ですが」大沢は心配そうな顔をする。「お似合いになりますかどうか・・・」
「いいのよ、この人は着られれば」
冴子が冷たい声で言った。正部川はぶつぶつ言いながら大沢と共に、建てつけの悪い壁のドアから向こうへと消えた。
続く


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