「あ~あ、やってらんねぇや……」
三年生の友川信吾はつぶやく。
今はまだ三時間目だが、信吾は、屋上に置かれた風雨にさらされて色あせたベンチに寝転がって、空を見ていた。高い空を、時たまかあかあと烏が、足の先から頭の先へと横切る。
信吾は授業を抜け出していた。三時間目と四時間目が嫌いな授業だったからだ。進学だ就職だと動き始める頃合いが近付いてきているが、信吾はまだどうするのかを決めかねていた。と言うよりも、決める気にすらなっていなかった。
「本当に、つまんねぇよなぁ……」
不良っぽい口調でつぶやきはするものの、信吾は不良と言う訳でもない。じゃあ、まじめな生徒かと言われれば、それほどでもない。何となく今に至ると言った感じだった。
何かやりたいと言うくすぶった思いはある。しかし、その「何か」は具体的ではない。くすぶっているからと言って、燃やせるものはみつからない。そもそも、見つける気になっていない。進学か就職か、ぎりぎりになってから、その時の気分で決めてしまえばいい。そんなタイプだった。
烏に続いて、小さな雲が横切った。信吾は雲を目で追う。
「オレも雲になりてぇなぁ……」
雲は緩やかな風に流されながら、少しずつその姿を薄れさせて行く。信吾は、それを顎を反らせて追いかける。雲は消えてしまった。
「雲も消え、オレも消える、か……」
悟ったような事を口にし、信吾は起き上った。
雲も人間も、どうせ最後は消えてしまう存在だ。だったら、こうしてだらけていても、机にかじりついて勉強していても、結果は同じだ。だったら、今やりたい事をやればいい。明日の事、いや、すぐ次の瞬間の事さえ、人には分からないのだから。
信吾は怠けの正当な言い訳を思いついたと言うように独り笑むと、再びベンチのごろりと転がった。
眼を閉じる。温かく心地良い南風が、信吾を足元から撫でて行く。
「よし、今日はこのままここに居続けよう」
信吾はそう決心をした。決心すると睡魔が襲ってきた。大きな欠伸が出る。
と、風が変わったような気がした。
温かく心地良かった風が、冷たくてイヤな臭いを運んできたように思えたのだ。でも一瞬だけだった。すぐに元の風に戻った。
気になった信吾は目を開け、目だけを回して周囲を見る。特に変わった感じはしなかった。信吾は起き上がった。
「うわっ!」
信吾は驚きの声を上げると同時に立ち上がった。
風の吹いて来る方を見ると、そこに同じ年くらいの女が立っていたからだ。
屋上に来た時には、誰もいなかった。では、信吾よりも後に来たのだろうか。屋上の出入りの扉は、開け閉めの時に蝶番の部分が擦れるような大きな金属音を立てて軋る。誰かが来たなら分かるはずだ。信吾は寝落ちをしていたわけではないから、誰かが来れば分かったはずだ。
それだけでは無い。その娘は制服を着ていなかった。ぼろぼろになったくすんだ赤色の着物を着ていたのだ。襟元の左側が開き、鎖骨と膨らみの手前の胸元が、白い肌に包まれて見えている。裾が太腿の途中辺りから千切れていて、すらりとした白い脚が晒されている。雨に打たれて形が乱れたかのような黒髪が、顔の右半分に垂れている。覗いている左側の顔立ちは、整っていて美しく、大人びていながらも、どこか可愛らしい。
明らかに妖しく、非現実的な状況なのだが、この年代特有の「可愛いは正義」の思想に漏れず、信吾も驚いたものの、娘の姿に相好を崩し、近づいて行く。娘も近づいて来る信吾を嫌がるでもなく、じっと見つめている。娘が逃げたり怖じ気づいたりしない様子に、信吾は益々相好を崩す。
「……やあ、ボクは友川信吾って言うんだ」ついつい口調が優等生っぽくなる信吾だった。「ええと、君とは、初めましてで良かったのかな?」
娘は答えず、じっと信吾を見つめている。空回りしていると自覚した信吾は、自嘲気味な笑顔を浮かべる。
「あのさ…… そう黙っていられたら、ボクも困っちゃうよ」信吾は言いながら、頭を掻く。「せめて、名前を教えてくれないかなぁ?」
娘は右半分に垂れた髪を右手で掻き上げた。それから、ちょっと首を右にかしげる。その仕草の可愛さに、信吾はほうっとため息をつく。
「わたしは、さゆり……」
娘は可愛らしい声で言う。
「さゆりちゃんか……」信吾はうなずく。「綺麗な名前だね」
さゆりはじっと信吾を見つめている。その真っ直ぐ視線を、信吾は照れくさそうに避ける。脈ありかも…… 信吾の胸中はそう信吾にささやき、穏やかではいられなくなった。
「ところでさ、どうしてここに?」
信吾は言うとベンチに座った。四人掛けほどの広さのあるベンチで、座れるスペースはまだ十分に残っているが、信吾は少し横にずれて見せた。明らかに隣に座ってほしいとのアピールだった。さゆりはためらう事なく、信吾の隣に座った。横並びに座ったまま、信吾はちらちらとさゆりの横顔を見る。見知っているアイドルなんか足元にも及ばない。信吾は思っていた。
不意にさゆりは信吾に顔を向けた。顔が近い。信吾の心臓がどきんと高鳴った。
「あなた…… 綾部さとみって、知っている?」
「え?」信吾は思いを巡らせる。「……ごめん、知らない……」
さゆりはすっと立ち上がった。信吾も慌てて立ち上がる。
「おい、どうしたんだよ?」信吾が努めて優しい声で言う。「知っていなくちゃ、いけなかったのかい?」
「知らないあなたに用はない」さゆりの声は冷たい。「失せてちょうだい」
「おいおい、何だよう? そりゃあ無いだろう?」信吾は引き攣った笑みを浮かべながらさゆりに言う。「せっかくこうして知り合えたんだからさ……」
「失せろ!」
さゆりが一喝する。途端に、先ほど感じた冷たくてイヤな臭いのする風が、勢いも強く信吾に真正面から吹き付けた。
「ひえっ!」
信吾は悲鳴を上げ、目を閉じ、風を防ごうと両手を顔の前にし、さらに頭も少し下げた。
不意に風が止んだ。臭いも消えた。信吾は恐る恐る目を開け、手を下ろし、頭を上げる。
誰もいなかった。変わらず暖かな風が吹いている。
「え? え? え? ……」
信吾は周囲を見回す。やはり、誰もいない。暖かな風が吹いているが、信吾の背筋に冷たいものが走った。
信吾は屋上の出入り扉を軋らせて、逃げるように出て行った。
つづく
三年生の友川信吾はつぶやく。
今はまだ三時間目だが、信吾は、屋上に置かれた風雨にさらされて色あせたベンチに寝転がって、空を見ていた。高い空を、時たまかあかあと烏が、足の先から頭の先へと横切る。
信吾は授業を抜け出していた。三時間目と四時間目が嫌いな授業だったからだ。進学だ就職だと動き始める頃合いが近付いてきているが、信吾はまだどうするのかを決めかねていた。と言うよりも、決める気にすらなっていなかった。
「本当に、つまんねぇよなぁ……」
不良っぽい口調でつぶやきはするものの、信吾は不良と言う訳でもない。じゃあ、まじめな生徒かと言われれば、それほどでもない。何となく今に至ると言った感じだった。
何かやりたいと言うくすぶった思いはある。しかし、その「何か」は具体的ではない。くすぶっているからと言って、燃やせるものはみつからない。そもそも、見つける気になっていない。進学か就職か、ぎりぎりになってから、その時の気分で決めてしまえばいい。そんなタイプだった。
烏に続いて、小さな雲が横切った。信吾は雲を目で追う。
「オレも雲になりてぇなぁ……」
雲は緩やかな風に流されながら、少しずつその姿を薄れさせて行く。信吾は、それを顎を反らせて追いかける。雲は消えてしまった。
「雲も消え、オレも消える、か……」
悟ったような事を口にし、信吾は起き上った。
雲も人間も、どうせ最後は消えてしまう存在だ。だったら、こうしてだらけていても、机にかじりついて勉強していても、結果は同じだ。だったら、今やりたい事をやればいい。明日の事、いや、すぐ次の瞬間の事さえ、人には分からないのだから。
信吾は怠けの正当な言い訳を思いついたと言うように独り笑むと、再びベンチのごろりと転がった。
眼を閉じる。温かく心地良い南風が、信吾を足元から撫でて行く。
「よし、今日はこのままここに居続けよう」
信吾はそう決心をした。決心すると睡魔が襲ってきた。大きな欠伸が出る。
と、風が変わったような気がした。
温かく心地良かった風が、冷たくてイヤな臭いを運んできたように思えたのだ。でも一瞬だけだった。すぐに元の風に戻った。
気になった信吾は目を開け、目だけを回して周囲を見る。特に変わった感じはしなかった。信吾は起き上がった。
「うわっ!」
信吾は驚きの声を上げると同時に立ち上がった。
風の吹いて来る方を見ると、そこに同じ年くらいの女が立っていたからだ。
屋上に来た時には、誰もいなかった。では、信吾よりも後に来たのだろうか。屋上の出入りの扉は、開け閉めの時に蝶番の部分が擦れるような大きな金属音を立てて軋る。誰かが来たなら分かるはずだ。信吾は寝落ちをしていたわけではないから、誰かが来れば分かったはずだ。
それだけでは無い。その娘は制服を着ていなかった。ぼろぼろになったくすんだ赤色の着物を着ていたのだ。襟元の左側が開き、鎖骨と膨らみの手前の胸元が、白い肌に包まれて見えている。裾が太腿の途中辺りから千切れていて、すらりとした白い脚が晒されている。雨に打たれて形が乱れたかのような黒髪が、顔の右半分に垂れている。覗いている左側の顔立ちは、整っていて美しく、大人びていながらも、どこか可愛らしい。
明らかに妖しく、非現実的な状況なのだが、この年代特有の「可愛いは正義」の思想に漏れず、信吾も驚いたものの、娘の姿に相好を崩し、近づいて行く。娘も近づいて来る信吾を嫌がるでもなく、じっと見つめている。娘が逃げたり怖じ気づいたりしない様子に、信吾は益々相好を崩す。
「……やあ、ボクは友川信吾って言うんだ」ついつい口調が優等生っぽくなる信吾だった。「ええと、君とは、初めましてで良かったのかな?」
娘は答えず、じっと信吾を見つめている。空回りしていると自覚した信吾は、自嘲気味な笑顔を浮かべる。
「あのさ…… そう黙っていられたら、ボクも困っちゃうよ」信吾は言いながら、頭を掻く。「せめて、名前を教えてくれないかなぁ?」
娘は右半分に垂れた髪を右手で掻き上げた。それから、ちょっと首を右にかしげる。その仕草の可愛さに、信吾はほうっとため息をつく。
「わたしは、さゆり……」
娘は可愛らしい声で言う。
「さゆりちゃんか……」信吾はうなずく。「綺麗な名前だね」
さゆりはじっと信吾を見つめている。その真っ直ぐ視線を、信吾は照れくさそうに避ける。脈ありかも…… 信吾の胸中はそう信吾にささやき、穏やかではいられなくなった。
「ところでさ、どうしてここに?」
信吾は言うとベンチに座った。四人掛けほどの広さのあるベンチで、座れるスペースはまだ十分に残っているが、信吾は少し横にずれて見せた。明らかに隣に座ってほしいとのアピールだった。さゆりはためらう事なく、信吾の隣に座った。横並びに座ったまま、信吾はちらちらとさゆりの横顔を見る。見知っているアイドルなんか足元にも及ばない。信吾は思っていた。
不意にさゆりは信吾に顔を向けた。顔が近い。信吾の心臓がどきんと高鳴った。
「あなた…… 綾部さとみって、知っている?」
「え?」信吾は思いを巡らせる。「……ごめん、知らない……」
さゆりはすっと立ち上がった。信吾も慌てて立ち上がる。
「おい、どうしたんだよ?」信吾が努めて優しい声で言う。「知っていなくちゃ、いけなかったのかい?」
「知らないあなたに用はない」さゆりの声は冷たい。「失せてちょうだい」
「おいおい、何だよう? そりゃあ無いだろう?」信吾は引き攣った笑みを浮かべながらさゆりに言う。「せっかくこうして知り合えたんだからさ……」
「失せろ!」
さゆりが一喝する。途端に、先ほど感じた冷たくてイヤな臭いのする風が、勢いも強く信吾に真正面から吹き付けた。
「ひえっ!」
信吾は悲鳴を上げ、目を閉じ、風を防ごうと両手を顔の前にし、さらに頭も少し下げた。
不意に風が止んだ。臭いも消えた。信吾は恐る恐る目を開け、手を下ろし、頭を上げる。
誰もいなかった。変わらず暖かな風が吹いている。
「え? え? え? ……」
信吾は周囲を見回す。やはり、誰もいない。暖かな風が吹いているが、信吾の背筋に冷たいものが走った。
信吾は屋上の出入り扉を軋らせて、逃げるように出て行った。
つづく
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