ジェシル、ボディガードになる 100

　ケレスは頭上で揺れるジェシルを再び床に叩きつけようと、その太い両腕を振り下ろした。ジェシルの長い黒髪が床に触れた。
　と、ジェシルはからだを回転させ、肘を曲げた状態で、床に両手の平を着いた。ケレスの腕が交差する。ケレスが驚いて怯んだところでジェシルは両膝を素早く曲げる。ケレスの手がジェシル足首から離れた。ジェシルは曲げた肘と膝を勢い良く伸ばしながら跳躍し、揃えた両の足裏で、ケレスの顔面を踏み付けるようにして蹴りつけた。
　ケレスはジェシルを顔面に張り付けたまま、からだを大きく仰け反らせた。ケレスはそのまま床に仰向けに倒れた。もの凄い音がした。ジェシルはケレスの顔面から飛び上がり、宙で一回転すると床に立った。
　倒れているケレスを見ると、ジェシルは後方へと大きく跳び下がった。ジェシルの蹴りが左程効いていなかったのか、ケレスがのそりと起き上ったからだ。ケレスは幾度か頭をった。それからケレスはジェシルを睨み付ける。ケレスの鼻の左側と口の端から血が流れている。会場はしんとなっている。ジェシルの戦闘力が、会場を黙らせた格好になっている。ただ、ノラ一人がきゃあきゃあと歓声を上げていた。
「……ジェシル、お前、強いな。こんなにやられたのは初めてだ……」ケレスは言うと、左の手の甲で鼻と口を拭った。「そんな観賞用のからだのくせに……」
「人を見かけで判断しちゃダメよ」ジェシルは言うと、背中を軽くさする。「……でも、ちょっと背中が痛かったわね」
「それは良かった。あれが効かないなんて言われちゃ、傭兵失格だからな」
「ところでさ」ジェシルが笑む。「どう？　降参する？」
「そうだなぁ……」ケレスは太い腕を組んで、ジェシルを見る。にやりと笑う。「降参……　するわけないだろうがぁ！」
　ケレスは吐き捨てるように言うと、ジェシルに突進した。ケレスは両腕を大きく左右に拡げる。ジェシルを捕まえて締め上げるつもりのようだ。ジェシルは動かず、左右から迫るケレスの腕を待つ。不意にジェシルは両肘を外に向けて張り出した。迫るケレスの大きな両手の平にジェシルの肘が当たった。弾かれたようにケレスの両腕が開く。
　ジェシルはケレスに向かって跳躍し、右の爪先をケレスの顎に向かって蹴り出した。ケレスは上体を仰け反らせ、ジェシルの蹴りを躱す。ジェシルはそのままケレスの頭上を越えて、ケレスの後方へと跳んだ。ケレスは素早くジェシルの立つ後方へと向き直る。が、すでにジェシルはケレスに向かって突進していた。防御のがら空きになっているケレスの前に立つと、握りしめた右拳をケレスの顎に目がけて突き上げた。
　しかし、ケレスはジェシルの拳を左手の甲で払った。ジェシルはそうなることを予期していた。右拳を払われて、からだが時計回りに回った。その勢いで左の拳をケレスの腹に叩き込んだ。鈍い音がした。ジェシルの手首までもがケレスの腹に埋まっている。
「やったあぁ！」
　ノラが歓喜の叫びを上げた。得意気な顔で隣に立つミルカを見上げる。ノラの表情が曇った。ミルカが険しい顔をして状況を見ていたからだ。
「……ミルカさん、どうかしましたか？」
「え？」ミルカはノラを見る。「ええ……　あれじゃ、ジェシルがまずいわねぇ……」
「でも、でも！」ノラが必死で訴える。「必殺のパンチが決まっていますよ！」
「そうなんだけどね……」ミルカがつぶやく。「接近し過ぎだわ……」
　ジェシルの左拳を受けたケレスは両腕を大きく左右に拡げると、腕を交差させてジェシルの後頭部を強く抱きしめた。ジェシルの顔がケレスの胸を包むユニホームに密着する。そのままケレスはからだを反らせた。ジェシルの両の爪先が床から離れた。ジェシルは手足を激しく動かし、ケレスに拳や膝蹴りを繰り出すが、ケレスは笑顔で受けている。効いていないようだった。
　顔を完全にケレスの胸に押しつけられているジェシルの動きが緩慢になってきた。拳も蹴りも弱まって行くのが分かる。
「どうした、ジェシル？　もうおしまいか？」ケレスが小馬鹿にしたように言うと、ジェシルの動きが素早くなる。しかし、それは続かない。「おやおや、息が詰まっちまったのかい？」
　振り上げていた両拳がだらりと下がった。両脚も爪先が力なく床を向く。
「……これは勝負あったわね……」ミルカがつぶやく。「下手したら、命が無いわ……」
　ジェシルは動かなくなった。それでも、ケレスは腕の力を緩めない。ジェシルのからだが痙攣を起こしたのか、二、三度震えた。そして、動かなくなった。
「ジェシルさん！」
　ノラの悲痛な叫びが、しんとなった会場に響く。


つづく



作者註：とうとう100回目を迎えてしまいました。長々と申し訳ありません。今少し（だと良いのですが）お付合い下さりませ。