2024/10/01 tue
前回の章
隣の一室は問題児部屋と呼ばれていた。
通常では留置の中に入ると、みんな仲良くしようとするものである。
何故ならつまらない事で喧嘩をしたりイザコザを起こしたりすると、留置所だけじゃなく刑務所に送られる可能性が大になるからだ。
だからみんな暇つぶしも兼ね、とにかく話をするか昼寝をする。
横が何故問題児部屋と呼ばれるかは、その名の通り問題児で困ったちゃんだからだ。
現在は一名しか一室にはいない。
こいつは公務執行妨害で捕まったらしいが、馬鹿なので一ヶ月以上もここにいる。
三度の飯を食べ終わると元気になるのか、いつも大声で叫びだす。
「俺の家族に連絡しろー、警察! 俺の家庭を壊す気か~、警察! どういう事だ、警察!」
こんな感じで十五分はずっと鉄格子越しに吠えている。
始まるとまたかと俺たちは大笑いした。
一日に食事後、三回。
これが彼の日課になっている。
ある日、隣の一室にもう一人の奴が入ってきた。
一室に入るなんて、一体どんな奴だろう?
俺とヤクザ者は、色々好き勝手に想像をして話し合った。
そんな中、声が聞こえてきた。
「担当さん、座ってればいいんでしょ?」
「ん?」
「俺、ここに座っていればいいんだよね?」
「ああ、中で大人しく座ってろ」
「うん、うん…。俺、ここに座ってればいいんでしょ? だ、駄目?」
「駄目じゃない。そのまま、座ってろ」
「担当さん、立っちゃ駄目なんでしょ?」
「うるさいぞ、おまえ。五番、大人しく座ってろ!」
「うん、うん…。座ってればいいんだよね? だ、駄目?」
「うるせえって言ってんだろ! 少しは黙ってろ!」
「座ってればいいんでしょ? 駄目?」
俺とヤクザ者は、お互い顔を見合わせて大笑いした。
中にいるとほぼ自由がないので退屈だった。
でも、ちょっとは退屈しのぎになりそうだ。
おかしな奴が入ってきたものである。
五番……。
この日、新たな要注意人物が俺たちの仲間に加わった。
同室の若い自衛官は年を聞くと、まだ二十歳だった。
いつも両膝を抱えてうずくまり、会話に参加しようともしない。
「何をして、ここに来たの?」
そう優しく聞いても、一切答えようとしなかった。
ある日、その自衛官に面会があった。
面会時間は十分。
しかし、彼は五分もしない内に戻ってきた。
「どうしたの? 妙に早かったじゃん」
暗い表情の自衛官に声を掛けると、泣きそうな顔になり少しずつ話し出した。
「お袋が面会に来て、おいおい泣かれまして……」
「捕まっちゃったもんはしょうがねえじゃんよ」
「いえ…、そうじゃなくて…。ああ……、もう…、自分は終わりです……」
「何を大袈裟な…。何があったんだよ?」
「実は、初めての外出で浮かれていたんです……」
彼の浮かれる気持ちは非常によく理解できた。
入ったばかりの新人自衛官はすぐ教育隊へ配属される。
そこで自衛隊の基本的な訓練や勉強などをする訳であるが、当然教育期間という名目なので規律はうるさい。
一ヶ月間駐屯地の中だけでの生活を強要され、休みなのに外へ一度も出られないなんて事もざらにあるのだ。
「うん、それで?」
「酒を飲んで池袋の駅でフラフラしながら、携帯の写メで女のスカートの中をパシャッて撮って『エヘヘ……』って笑っていると、気付いたら駅員に両脇を抱えられて、ここにいました……」
「当たり前だろ! 馬鹿か、おまえは?」
「でも、パンツは写ってなかったんですよ? スカートの中で真っ暗で……」
「そういう問題じゃねえよ!」
「隊の誰一人も僕のところに来てくれません…。もう終わりです…。ああ、人生、真っ暗です……」
本当にどうしょうもない奴である。
こんな馬鹿に国は税金を払っているのだ。
「岩上ちゃんよ~」
ヤクザ者が声を掛けてくる。
「どうしました?」
「自衛隊ってよ。普段は連帯だ責任だってギャーギャー騒いでいるけどさ。結局こういう時になると、本性って見えるよな」
「……と言うと?」
「俺の場合、傷害でここに入った訳よ。酔っ払って相手殴って訴えられてさ。で、周りの仲間はさ、弁護士は当たり前だけど、色々動き回って出来る限り早く俺を出そうとする訳ね。もちろん面会だって毎日誰かしら来るし、差し入れもたくさん持ってくるしね」
確かにそうだ。
本当の窮地の時に知らんぷりをする連中なんて仲間でも何でもないし、日頃の連帯責任の意味がまるでない。
「いいっすねえ…。俺なんて検事に目をつけられちゃってるから、一切接見禁止ですよ。誰か面会に来たって一人も会わせてもらえませんから」
「だって岩上ちゃんはアルバイトだって言い張ってんだろ?」
「まあ、形式上は……」
「岩上ちゃん見てバイトだって思う奴はいねえよ」
そう言ってヤクザ者は大笑いした。
「まあ、そりゃそうですけどね…。でも叩いても誇りを出さなきゃ、俺は不起訴になりますからね」
「そうだな。それにしても僕ちゃん、元気ねえよな」
二十歳の自衛官の事をヤクザ者は『僕ちゃん』といつも呼んでいた。
「まあ、自衛隊って偉そうな事を言ってても口先だけの奴ら多いですからね」
過去自衛隊に所属していた俺は、嫌ってほどあそこの実態を知っている。
「ほんと自衛隊なんかよりヤクザ者のほうが、断然生き方が格好いいよ」
哀れみの眼差しを向けながら、ヤクザ者は言った。
それに関しては本当に同感だと思った。
同室のヤクザ者は一日数名もの面会に来てくれる人間がいる。
彼を何とかしようと同じ組員が色々と動き回り、元気づけに来るのだ。
それに引きかえ自衛官の子には先ほどのお袋さんが一度来ただけである。
臭いものにはフタをする自衛隊。
臭かろうが仲間の為に動くヤクザ。
ヤクザ自体は嫌いであるが、格好良く生きているという点ではどちらがそうかといえば明白だ。
そんな若い自衛官の男は、十日もせず釈放が決まる。
結局面会に来てくれたのは、お袋さんだけだった。
「おい、十五番」
寝転びながら漫画を読んでいた俺に、留置の担当が声を掛けてくる。
「何すか?」
「出ろ、取調べだ」
やった。
心の中で大きくガッツポーズをとる。
俺は刑事に呼ばれ、取調べを受けに行く。
これが何を意味するかというと、毎日朝に二本しか吸えないタバコが好きなだけ吸えるのだ。
俺はウキウキしながら檻の扉をくぐる。
留置所を出る際、手錠を掛けられ、さらに縄で縛られる。
その状態で生活安全課の取調室に向かう。
二室を出て、一室を通り過ぎる途中、俺は新参者の変な奴をチェックした。
「おい、余所見すんな。真っ直ぐ歩け、十五番!」
堅い性格の担当は、真面目な顔で言ってくる。
「いいじゃねえの、堅い事抜かしてんじゃねえって」
さっきの変な奴はいるかな?
一室を見て、俺は驚いた。
パッと見、ただの乞食にしか見えなかったからである。
髪の毛はすっかり禿げ上がり、耳の上の部分しか残っていない。
その部分もずっと風呂に入っていないせいか、サリーちゃんのパパのようにボサボサに逆立っていた。
「ほら、さっさと歩け」
まだ若い担当は乱暴に押してくる。
俺は一瞬立ち止まり、ゆっくり睨みつけた。
「おいおい、担当さんよ。大人しく俺が笑顔でいるんだから、あんまそういう真似すんなよ。娑婆に出たらよ…。おまえなんぞ……」
「な、何だ、キサマ……」
若い担当の顔が青ざめる。
さすがにここで暴れるのはマズいよな。
俺はすぐ百万ドルに値する作り笑顔をした。
「ほらほら、早く行かないと、刑事さんに怒られますよ。担当さん……」
「あ、ああ……」
格もねえのに無理して粋がっているからだよ。
俺は心の中でほくそ笑む。
まあ、こんな場所で本当に揉めても意味がない。
今度は作り笑顔でなく、自然と微笑んでいた。
いつものように取調べが始まる。
「まず、おまえは歌舞伎町の……」
「ねえねえ、刑事さん」
「何だ?」
「昨日言ってた三国志と日本の繋がりがあるとかって話…。あれって……」
「おうおう、それか! やっぱりおまえも気になっていたか。ちょっと待ってろ」
出口刑事は嬉しそうに二枚の白い紙を持ってきて、地図を書き出す。
中国の三国志時代の地図を丁寧に書いているようだ。
これで今日もいい退屈しのぎができる。
不思議なもので取調べ中は全館禁煙のはずの警察署が、ここだけはタバコを吸ってもいい場所になる。
法律上そうさせるように定められているらしい。
だから生活安全課の刑事たちもドサクサに紛れ、タバコを吸いに色々やってきた。
その中には俺は捕まえる際、土木の格好をした刑事もいる。
「土木の刑事さん」
「何だ、その言い方は!」
土木刑事は顔を真っ赤にして怒鳴りだす。
「だって俺をパクる時、その格好をしてたじゃないですか」
「仕事だからだ」
「一つ質問いいですか?」
「何だ?」
「あの格好、どこで着替えたんすか? タオルまでわざわざ汚して首に巻いて……」
俺はそこまで言うと、つい吹き出してしまった。
「うるせえ!」
乱暴にタバコを揉み消すと、土木刑事は取調室を出て行ってしまう。
「おい、岩上!」
目の前の出口刑事が睨みつけてくる。
「何ですか?」
「あんまいじめるな」
「はい、すみません……」
「おい、おまえが本当はあの店のオーナーなんだろ? アルバイトなんて惚けやがって」
メガネを掛けたカマキリみたいな顔をした刑事が睨みつけてくる。
別におまえが俺の担当じゃあるまいし、何をそんなに張り切っているのだ?
「いえいえ、俺は週に一度のアルバイトですって。小説を書くネタにしたかったって何度も言ってるじゃないですか。まったくしつこいなあ」
「何が小説だ、馬鹿野郎」
「あれ、信じてくれないんですか? 俺のパソコンあったでしょ? あれの中身を調べれば、『新宿クレッシェンド』や『でっぱり』という小説の作品のデータが本当にあるでしょうが。あれ、俺が本当に書いたんですよ? 『打突』なんて原稿用紙換算すると、八百枚以上書いたんすよ」
「ふん、何が小説だ」
「嘘じゃないですって。あとで読んでおいて下さいよ。感想待ってますから」
はたから見れば、取り調べの最中だというのにお互い世間話をしているかのようなのどかな風景に見えるだろう。
「だいたい裏ビデオなんて売りやがって」
「違いますよ」
「じゃあ、何を売ったと言うんだ?」
妙にしつこいカマキリ。
もしここが警察署の中でなく、こいつが刑事じゃなかったら、問答無用でぶっ飛ばしているだろう。
「裏DVDです」
「同じだろうが!」
「同じじゃないですよ。ビデオはビデオデッキじゃないと再生できないし、DVDはDVDプレイヤーじゃないと再生できませんよ?」
「舐めてんのか、キサマ!」
「刑事相手に舐めてどうするんです?」
「こんな猥褻なものを国中にばら撒いて恥ずかしいと思わんのか?」
「まったくそれについては思いません」
「何だと?」
「だって逆に聞きますけど、日本全国にレンタルビデオありますよね?」
「それがどうした?」
「どのビデオ屋も大きく分けて二種類のビデオしか置いてません。さて、何と何ですか?」
「何だ? 早く答えろ」
「アダルトかそうじゃないか。そうですよね?」
「だから何だ?」
「言い換えれば、それだけニーズがあるから置く訳ですよね?」
「それとおまえの裏ビデオと何の関係がある?」
「ありますよ。だって男にはある意味必須のものじゃないですか、AVって。刑事さんだって男だからそれは分かるでしょ?」
「ああ、だから何だ?」
「すべての男が女を抱ける訳じゃないんですよ。そりゃあ金を出せば風俗だってあるし、いくらだって抱けますよ。でも金がない奴はどうなるんです?」
「エロビデオを見ればいいだろうが?」
「ええ、それで済まない奴が痴漢や強姦などをする訳です」
「理屈ばっか言ってんじゃねえぞ」
「理屈かもしれませんが、法律ってそもそも人間の作った理屈の集合体じゃないですか。普通のAVにはモザイクってものがありますよね? それってその法律ってもんが勝手に判断してけしからんってモザイクを掛ける訳ですよね。お国事情で勝手にそうするのは仕方ないとして、女のあそこを実際に見た事ない奴はどうするんですか?」
「知るか!」
「ええ、知ったこっちゃないですよね。でも、そういう連中が犯罪に走りやすい傾向にあると思うんですよ」
「そんなもんはただの屁理屈だ」
「屁理屈と判断するのは自由ですけど、俺たちは必要悪な事をした訳になるんです」
「ふざけるな!」
カマキリは顔を真っ赤にして顔面をピクピクさせていた。
吹き出しそうになるのを堪え、俺は続ける。
「ふざけてませんよ。犯罪の抑制にはなっているはずです」
「だからって犯罪は犯罪だ」
「モザイクを外したものを売ってるからですよね。じゃあ、刑事さん。モザイクって何ですか?」
「けじめだ!」
「けじめって何ですか?」
小馬鹿にしたように言うと、カマキリは俺の胸倉をつかんでくる。
慌てて出口さんが間に入った。
その時、隣の取調室から怒鳴り声と共に机を叩く音が聞こえた。
「おい、名前はっ! キサマ、名前はってさっきから言ってんだろ!」
まるでテレビドラマに出てくるような取調べ。
一体隣の奴は何をしたんだろうか?
「横、すごい凶悪犯でも入ってきたんですか? ちょっと覗かして下さいよ」
「駄目だ。大人しく座ってろ」
「ちぇ、ケチだな~」
「うるさい、黙ってろ。そうそう、おまえ、何か飲むか? コーヒーでいいだろ?」
「いや、コーラがいいです」
出口刑事はムスッとした表情で俺を見る。
カマキリは今にもつかみ掛かりそうな表情で睨んでいた。
実際に戦ったら、簡単にこの馬鹿のメガネを割れるんだけどな……。
「十倍の料金とるぞ?」
「どうせここにいたんじゃ、自弁とタバコがなくなった時ぐらいしか使い道ないですからね。全然構いませんよ。十倍でも、二十倍でも…。それでコーラが飲めれば俺は何だっていいですよ。」
強がりでも嘘でもなかった。
この中にいるとどうしても炭酸が飲みたくなってくる。
出されるものはいつも水道水かただのお湯だけなのだ。
食事の時、飲み物を注いでくれる人間がいるが、決まって偉そうにこう言う。
「ここは全員ハーフでいいのかな?」
ハーフといっても、ただの水道水とお湯を混ぜただけのぬるま湯である。
「何がハーフだ、馬鹿野郎! たまにはお茶でも持って来い!」
「うるせぇー、じゃあ、何もやらんぞ!」
いつも目くそ鼻くそのような会話になった。
そういった環境のせいか、死ぬほどコーラが飲みたかった。
欲を言えばマウンテンデューかメロンソーダ、もっと欲を言えばメローイエローが飲みたい。
しかしメローイエローはとっくに売ってないしなあ。
炭酸のすごいやつで喉を思い切り刺激したいのである。
「まったく……」
呆れ顔の出口刑事。
怒ったようにカマキリは取調室から出て行った。
あんな短気な性格でよく警察が勤まるものだ。
「頼みますよ。留置に戻ると、炭酸飲料飲めないじゃないですか。お願いしますよ」
「…たく、しょうがねーな…。俺の奢りだ。感謝しろよ!」
「え、奢ってくれるんすか?」
「当たり前だろうが! わざわざコーラ買うからおまえの金を取りに来ただなんて、留置の人間に言える訳ねえだろが…。感謝しろよ、この野郎」
「当たり前じゃないですか。俺はいつも感謝してますよ。出口刑事さんのほうへ足向けて寝られないですからね」
「嘘こけ! 俺がどの辺に住んでいるのかも知らんくせに…。調子のいい野郎だ」
出口の刑事はブツブツ言いつつもズボンのポッケから小銭を取り出し、部下のカマキリにコーラを買ってくるように命じる。
「あ、メガネの刑事さん!」
「何だ?」
「できればこの階の自販機じゃなく、二階にあったペプシの五百がいいです」
留置所から生活安全課の取調室まで連行される際、俺は目ざとく自動販売機の品をチェックしておいたのだ。
「おまえなあ……」
「だって、どうせ飲むなら量が多いほうがいいでしょ?」
「しょうがねえな…。買ってきてやれ」
苦虫を潰したような顔でメガネ刑事カマキリは取調室を出て行く。
警察をパシリにして、しかも奢らせるコーラは格別にうまかった。
隣ではずっと怒鳴り声が聞こえていた。
非常に気になる。
何時間経っても「おまえの名前は!」の繰り返しだった。
昼になると食事の為、一度留置所に戻される。
先に取調室を出た俺は、さり気なく隣の部屋を覗く。
その瞬間危なく吹きだしそうになった。
なんと一室の乞食が取調べを受けていたのである。
彼は自分の名前さえも満足に言えないようであった。
なるほど、刑事もこれじゃてこずる訳だ。
今日は月曜日。
昼飯時に担当が明日の自弁を注文するか聞きに来る。
明日はカレーライス。
うまくないがそれでもほとんどの人間が頼む。
一室は問題児集団扱いで、自弁の注文すら聞いてもらえない。
自業自得だから黙って食パンを齧るしかないのだ。
昼飯を喰い終わり再び手錠を掛け取り調べに向かう途中、俺は一室の乞食に話し掛けた。
「おい、五番。五番……」
「ん、ん…。立てばいいの? 立てばいいんでしょ?」
乞食は鉄格子の前まで来た。
「おい、十五番。勝手に話をするな。五番、おまえはちゃんと座ってろ」
「明日はカレーだよ……」
俺はボソッと呟く。
その途端、乞食の反応が変わった。
鉄格子にしがみつき、「カ、カレー……」と大声を出しながら興奮しだした。
「おい、五番。大人しく座ってろ!」
「担当さん、明日はカ、カレー? カレーだよね? 違う? だ、駄目? カ、カレー……」
「うるせえ、座ってろ!」
「カ、カ、カレー…。だ、駄目? カレー……」
「いいから座ってろってっ!」
「座っていればいいんでしょ? カ、カレー……」
「うるさいっ!」
そんなやり取りを見て、俺は笑いながら取調室へ向かった。
この日、五番はずっと明日はカレーなのかと担当に尋ねていた。
「カレー」という単語をこの日だけで、千回は叫んだんじゃないだろうか。
交替で代わる担当も、みんな、さすがにうんざりして無視を決め込んでいる。
同室のヤクザ者は俺に笑いながら尋ねてきた。
「ねえ、岩上ちゃん。何で彼は、カレーにあんなこだわるんだろ?」
何故カレーなのか?
すぐピンとくる。
「例えばですけどね。歌舞伎町とか繁華街って、残飯にしても結構いいものがあるじゃないですか」
「そうだね」
「でもカレーって結局のところ、残飯でも液体だから生ゴミと混じってしまう。よって彼らは、カレーライスというものをちゃんとした形で食べた事がないと思うんです。だからあれだけのこだわりがあるんじゃないですかね」
「そ、そうか…。なるほどな……」
ヤクザ者も納得した表情で隣の部屋の方向を見ていた。
「担当さん、明日はカ、カレー? カレーだよね? 違う? だ、駄目?」
「……」
もう誰も彼の台詞を聞いて笑う人間はいなかった。
軽い冗談のつもりで言った台詞。
徐々にそれは俺の心を重くしている。
朝の運動でタバコを吸っている時、五番の乞食と一緒になった。
乞食はタバコを吸いたそうにこっちを見ていたから、俺は吸いかけのセブンスターをあげようとした。
乞食は手を震わせながらタバコを取ろうとする。
「おい、十五番。駄目だ。規則で他人にものをあげてはいけないんだぞ」
融通の利かない担当が注意をしてくる。
「いいじゃねえっすか。タバコの一口や二口ぐらい」
「駄目だ。規則で駄目と決まってるんだ」
乞食は物欲しそうな顔で、ジッと俺のセブンスターを眺めていた。
「可哀相に…。彼だってタバコぐらい吸いたいだろうにな」
俺は独り言のように嫌味を言いながら、担当を睨みつけた。
みんなの吐き出す煙をただ眺めるだけの乞食。
俺はまだ半分も吸っていないかったが、すぐにタバコを揉み消した。
その日の昼飯時は、うるさくて堪らなかった。
一室の乞食が、ずっと鉄格子にへばりつき、「カレー、カレー……」と千回ぐらい叫んでいた。
「明日はカレーだよ……」
からかい半分で言った台詞。
彼にとても悪い事をしたみたいで心が痛む。
「担当さん。俺の金からでいいから五番にカレーライスをくれてやってよ。頼むよ」
いたたまれなくなり俺は担当に声を掛けた。
「駄目だ。気持ちは分かるけど、それは許可できないんだ……」
「俺の金をどう使おうと自由じゃねえか。な、頼むよ」
「悪い…、本当に規則で禁止にされているんだ。すまない」
担当も力になれず、非常にすまないという表情をしていた。
これ以上は、何を言っても変わらないか……。
「カ、カレー……」
初めは笑って聞いていたが、何だか乞食がとても哀れに思えた。
ここを出たら、好きなだけカレーライスを奢ってやろう。
できもしないくせに、そんな事を考えていた。
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