俺は放心状態のようになり、親父を起こしていた。
「けっ、このクズが! 親に手など上げやがって!」
「おまえが親? ふざけるなっ!」
「よくもそんな台詞が言えたな?」
「ああ、ハッキリ言ってやる! おまえは親なんかじゃない。ただお袋に精子をぶっ放しただけの男だっ!」
「覚えてろ? キサマ…。俺にどれだけの知り合いがいると思っている?」
「じゃあ、たった今すぐ連れてこい。誰だっていいぞ? ヤクザか? それとも政治家か? こんな時によ。おまえの味方する奴なんて、俺がこの拳で全部砕いてやる」
「ふざけんな。大和プロレスも務まらない中途半端なおまえに何ができる?」
親父は鼻で俺を見て笑った。
「確かに俺は中途半端だ。ただ、こんな状況でこの場に駆けつけおまえの味方をするような腐った人間は、絶対に俺はぶっ飛ばす。どんな奴でもだ」
「じゃあ、朝青龍でも呼ぶか? 俺はこの間あいつと一緒に飲んだんだ」
「だったら連れて来い! 本当に来るなら誰だってやってやる! 俺の強さはな、こういう時の強さだっ!」
「は、笑わせんじゃねえ」
「笑って誤魔化すな。家の金が今、あといくらあるのか知ってんのか?」
家のみんなが言っていた。親父は三村にうまく操られていて、家にいくら金がとか一切興味がないと。
「知らねえな、そんな事。だいたいおまえに何の関係がある?」
「もう十分の一。たった四百万しか残っていないんだぞ?」
「だから何だ」
「現状を分かってんのか? あんな年増に好き勝手やられてよう。そんなんでいいのかよ? おじいちゃんがずっと苦労して一から築いた店なんだぞ?」
「おまえが安く売ったんだ」
この後に及んでまだ支店との土地騒動を憎む親父。
「使ったのはおまえらだろうがっ!」
「オメーが売った」
何でこんなに俺の親父は馬鹿なんだろう。何故何も聞く耳を持ってくれないのだろう。
「それに従業員の伊橋さん。あの人に強制解雇の金、給料の一か月分から三か月分だって、何も渡していねえじゃねえか?」
「何だ、おまえはあんな女とつるんでいるのか?」
「ふざけるなっ! あの人はこの家をずっと心配して、おまえらが好き勝手やってても、残業代だってもらわず請求もせず、ずっと必死に働いてきたんじゃねえか」
「偉そうに抜かすな」
「毎日飲みに行く金あるならよ? 何故伊橋さんに残業代を払ってやらない?」
「大きなお世話だ」
「あの人は俺が整体を開業した時、なけなしの金なのに一万円も包んでくれた」
「一万なら俺だってやったろうが」
「三村がだろ? あんな金よ。袋ごと破って捨ててやったよ。それが俺の意地だ」
「この馬鹿が。おまえが何をできる?」
「リングの上で戦えば金をもらえる。小説を書ける。患者を治せる。カクテルを作れる」
「ふん、笑わせてくれる」
親父はテーブルの上にあった漫画を手に取り、呆れた顔で口を開いた。
「いい年こいて漫画なんて読みやがって。このクズが」
「俺が何をしてようと、おまえには関係ねえ」
「いいか? こうやってどんな内容であれ、本にした人間は偉いんだ」
「じゃあ、俺も偉いんだな? 俺だって『新宿クレッシェンド』を本にしている」
「ふざけるな、出来損ないが」
「いい加減さ…、自分の馬鹿さ加減に気付けよ?」
「ふざけんな」
親父はそのまま居間を出て行った。
俺は自分の部屋に戻り、小説フォルダーの中から『鬼畜道 ~天使の羽を持つ子~』を起動する。
グーで殴った訳じゃないのに手が痛かった。初めて親父を叩く。本当に嫌な感触だった。一発叩く度、心がズタズタに切り裂かれるような想いだった。
何で分かってくれないのだろう……。
視界が滲み、小説を書けない。
俺はインターネットを立ち上げ、最近知り合った志保さんのメールを眺める。
彼女は下読みをしていたという経歴の持ち主で、とある賞の選考委員をした事もあるそうだ。ただ感想を言ってくる読者と違い、彼女の意見は常に的確で俺が唸るしかない。
最初の取っ掛かりの作品は『かれーらいす』。俺が過去パクられた巣鴨警察の留置所の話の短編である。志保さんはこの作品をとても不思議がっていた。それから俺の作品に興味を持ったようである。
自信を持って書いた『忌み嫌われし子』を見せた。最初は面白いと言ってくれた。俺は得意げに『江戸川乱歩賞』にこれを応募したらどうかと尋ねた。いい返事がもらえると思っていたのだ。
しかし彼女の意見は違った。一次選考すら通らないと言われた。作品自体、設定の甘さ、ちょっとしたケアレスミス。様々な点をこれでもかとつっ込まれる。
素晴らしいと感じた。この人なら俺の小説家としての能力を伸ばしてくれるだろう。
小説を書こうと思ってただ書いた処女作の『新宿クレッシェンド』。あの時の担当は本当に酷かった。こっちが本を出してあげるんだからというようなオーラが常にあり、俺を小者扱いし、いつも適当だった。
本を出すまでに校正という面倒な作業がある。スラスラ思った事をただ作品として書く俺にとって、この校正作業は苦痛以外何者でもない。
何も考えていないのか、出版社は『新宿クレッシェンド』を三種類の色の紙で三等分しながら印刷し、赤ペンで誤字脱字や矛盾点をつけてくる。
送られてきたのはこちらの作業など、何も気にしないようなものだった。最初の部分は縦書きで印刷。文字も三十字×四十字。次の部分は赤い紙に横書きで印刷され、二十次×三十字。最後の部分は黄色い紙で印刷され、四十字×四十字。これでは俺の小説のデータと照らし合わせ、どこがどうなのかすぐに分からない。
文句を言うと、担当は「三人の人間でそれぞれを分担しているんです。もう印刷して送ったので、とりあえずそれで校正して下さい」と冷たく言われた。
訂正箇所に『ドビュッシー』のところに赤丸がついていて『ドビッシー?』と書かれている。本当に馬鹿にしている。俺はドビュッシーの月の光をピアノ発表会で弾いたぐらいなんだぞ? 向こうがそれを間違ってどうする。
患者を施術しながら暇を見て校正する日々。次第にイライラは溜まる。
何とか校正を済ませ、出版社に郵送すると、三日後にまた新たなチェックした印刷した紙を送ってくる。何故だと文句を言うと、「最低三回はこの行為をしてもらう」と言われた。
またバラバラに印刷されたクレッシェンド。俺は嫌気を差し、一ヶ月ほど放置した。もう本なんて出さないでいい。知った事か。患者を治して普通に生活していけばいい。そんな風に考えていた。
ある日、患者が整体に来て「先生、本はまだですか?」と言われる。俺は事情を話し、本は出ないかもしれないと答えた。
「先生! 私はこれでも先生の本を買って、サインしてもらうの楽しみにしているんです。近所のみんなにだって、もう自慢しちゃっているんです。お願いだから嫌でもやって下さい。出版社が気に入らないのなら、私がお願いします。やって下さい」
「……」
何度も頭を下げる患者を見て、俺は再び校正作業に没頭した。もう自分の考えだけじゃ、済まないところまで現実は来ているのだ。
皮肉な事にこうなると患者はたくさん予約を入れてくる。だから夜は寝ずに校正をするしかなかった。患者から必要以上に金を取れない性格が災いし、駅前の高い家賃が現実問題として重く圧し掛かる。
三回目の校正をやっと仕上げた時、同級生のヤクザ者をしている内野が顔を出した。
「おう、神威。またさ、足が痛くて」
「そうか。おまえが一番の重症患者かもしれないなあ」
「ちょっと診てくれよ」
「ああ、もちろん。ベッドに横になって」
高周波をそれぞれの体の箇所につけ、ゆっくり電気を流す。
「痛いか?」
「いや、気持ちいい」
「もうちょっと強くするぞ?」
電気を流しながら俺は指先で痛む箇所を触診する。神威流三点療法と名づけたこの施術。指先で二点療法を施しながら、電気でさらに奥の痛みを消していく。
「どうだ? 今、さっき痛い場所を同じ強さで押しているけど痛むか?」
「いや、全然」
「じゃあ、あとは回りに筋肉をつけておくようだから、このまましばらく電気を流すからね。おまえの場合さ、全身に足首まで刺青入れちゃっているでしょ? 皮膚呼吸も悪いし、普段楽こいてっから筋肉もないんだ」
「まあな。どこ行ってもまるで効果なかったんだ。ずっと寝てもいつも夜中に目を覚ますしさ。朝までゆっくり寝れたなんて事なかった。この間おまえの受けたら、久しぶりに朝までゆっくり眠れたんだ」
「それは良かったな。まあヤクザな商売をしているんだ。みんなビビってちゃんと体を押せないんだろ。また痛んだらおいでよ。いつだって楽にはするよ」
「ありがとな。この間、初島組の組長来たか?」
「ああ、とても俺の施術を気に入ってくれた。事務所でさ、腰が痛いと、組員にテーブルの上からジャンプさせ、寝転がった組長の腰に着地させてたんだってよ。悲鳴を上げながら転げ回るらしいけど、そのあとちょっと楽になるなんて言うからさ。だったらここに来ればいいと。そんな事したら腰をもっと悪くするぞって脅しといた」
「そっか」
「まあ、柄の悪い患者だけど、紹介してくれてありがとな」
ヤクザ者の内野とは、小学生時代の同級生。他人から見ればコテコテのヤクザにしか見えないだろう。しかし昔の面影はある。俺がこうして『神威整体』を立ち上げた時、顔を出してくれた数少ない同級生の一人だ。
周りの同級生は内野にビビり、顔を合わせようともしないが、俺はいつも時間がある時は普通に接するようにしていた。彼は寂しがり屋なのだ。ひょっとしたら今の人生を後悔しているかもしれない。せっかく地元でまたこうして再会したのだ。他の同級生同様俺は同じように仲良くしたい。
帰り際俺は同級生のよしみでいつも安く請求をした。
「おい、内野。今日は三千円でいいぞ」
「神威さ、悪いんだけど……」
「ん? 今日は持ち合わせがないのか?」
「それがさ、兄貴分に今日中に何とか二十万を用意してくれって言われててさ」
「大変だな」
「ちょっと貸してくれねえか?」
「無理だよ。家賃だってやっとなんだ。力になりたいけどさ」
「だっておまえ、本を出すんだろ?」
「だからってすぐ金が入っている訳じゃない」
「頼むよ。俺、今日中に二十万集めないと、指を詰められるかもしれないんだ」
「……」
「明後日にはまとまった金が入る。だから二日間だけ貸しといてくれないか?」
「分かったよ…。たださ、俺、本当にまだ家賃払ってないんだ。だからちょっとこっちは払うの遅らせるから、必ず明後日返せよな」
「分かってるよ。同級生じゃねえか」
俺はなけなしの二十万円を内野に貸した。
その日から内野の携帯電話は二度と繋がらなくなった。「同級生の絆だろ?」と言った内野。あの顔を思い出すだけで、殺したくなる。
まったく余裕のない俺は途方にくれた、同級生とはいえ、ヤクザ者に金を貸して家賃を払えないなんて言えなかった。どうしたらいい? 今からどこかへ働きに行くとしても、二十万円なんて金をすぐには作れない。
出版社に印税を早くくれと頼んでみるか……。
俺は恥を忍んで出版社に電話をしたが、印税は五千部本が売れないとくれないらしい。
じゃあ、どうする? そんな時、後輩のたー坊が『神威整体』に顔を出した。
「龍さん、おめでとうございます」
「運が良かっただけだよ。本当は小説なんかよりも、リングの上で戦っていたかった」
「え、とうとう上がる? 龍さんが上がるとOK出すなら、すぐ主催者試合組むと思いますよ?」
「馬鹿、あれから何年経っていると思うんだよ? 最後に出たのが二十九歳の時。あの時なら俺は日本で一番強いって自負があったけど、今はもう三十六歳だぜ? 七年もリングから過ぎている」
「でも、俺、今でも試合していますけど、龍さんのような殺気を持った格闘家はいないですよ?」
「殺気を出すだけと、実際に動くのは違う。もうトレーニングだって全然していないしさ……」
本当はこの時点で自分を偽っていた。機会があるなら試合に出たい。そんな願望があった。
「龍さんが試合に出てもいいと言うなら俺、掛け合ってみようかな……」
「笑われるぞ、こんなおっさん捕まえて……」
一人になると過去の自分を思い出していた。最高に幸せだったあの頃。女も抱かず、稼いだ金はすべて食費につぎ込み体をデカくする事だけに没頭できた日々。
本当に強くなりたいなら、女を抱く事なんて覚えなければいいのだ。女だけじゃない。競馬も、パチンコも、酒を飲むという行為も、欲というものすべてにおいてだろう。
何も知らなければその分トレーニングに没頭でき、自身を追及できる。
しかし今はどうか?
色々な事を覚えた分だけ俺はどんどん弱くなっていった。しかも人間の骨をへし折った俺が、今じゃこうして人を治している。
もう戦いのステージなど、とっくに降りていたのだ。
師、大地さんの顔を思い浮かべる。本当にこのような日々を送っていていいのだろうか? 自分ではいくら考えたところで答えなど出ない。
分かるのは、強さという答えを『打突』と履き違えたまま、俺はステージから降りたという事だけである。
思えばたくさんの時間を費やした割に、表舞台で戦ったのはあの一試合だけ。他の格闘家連中なんかより、戦いに対する飢えは人一倍ある。でも、前を思い出せ。俺は本気で人を殴れず、『打突』だってできなかったじゃないか。向いていないのだ、格闘家には……。
「龍さーん!」
再び後輩のたー坊が整体にでかい声を上げながら飛び込んでくる。
「何だよ? おまえ、患者いたらどうするんだよ。そんなでかい声出すな」
「決まったんすよ!」
「おまえの試合が?」
「違います。龍さんの試合が!」
「はあ?」
何故俺の試合? この馬鹿、何て主催者に言ったんだ?
「龍さんが試合に出てもいいと言っていたと、総合格闘技のDEEPあるじゃないですか? あそこの社長に言うと、じゃあ一ヶ月間でリングを用意しましょうって」
「おいおい…、俺はリングから降りて七年半何もしていないんだぞ?」
「でも龍さんは強い。実際に会った人間はみんな見ただけでそう思います」
「違う! もう体の鍛錬をやめてから俺はどんどん衰えている一方だ。現役でやっている連中とは違う」
「龍さん!」
「分かり易く言ってやる。例えば俺とおまえ、体だっておまえのほうがでかい。でも、二人並んで『どっちかと絶対に喧嘩しなきゃいけない』って質問した場合、みんなどっちを選ぶと思う?」
「みんな、俺を選ぶでしょうね」
「何で?」
「龍さんに喧嘩を売る奴は、多分いないと思います」
「それは見た目と言うか、殺気をはなっているからだけだ。実際におまえと俺がやり合ったら、俺は簡単に負ける。もうそういう体力なんだ。おまえは根っこの部分で優しい。だから非情になれないだけで、素人連中はそこのところを分かっていないだけ」
そんな事を言いながら、俺も自分が甘いのを自覚していた。格闘技なんて相手の顔面を躊躇なく殴れるほうが強いのだから。
「俺、龍さんとは七つ年が違います。俺の試合にセコンドついたり、応援に来てくれたり、龍さんには感謝いっぱいです。この間だって俺の通う道場の先生だって治せなかった俺の肩を簡単に治してくれた事だって。でも、ずっと思っていたんです。そういう龍さんもすごいなと思っているけど、実際にリングに上がるところをこの目で見てみたかったって」
「……」
本当なら俺のリングに入場するシーンからすべて格好いいところを見せたいに決まってるさ。でも、あれから時間が経ち過ぎた。
以前のような強さは今の俺にない……。
今の俺に何ができる?
もし試合で勝つ事を優先するなら『打突』しかない……。
でも、あんな卑劣な技を罪もない対戦相手に使ってまで勝利する事に何の意味があるのか……。
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