2024/11/2
前回の章
家に帰ると、腹の音が鳴る。
そうだ、飯を食いに行くつもりが吉岡さんとバッタリ会って話し込み、何も食べていなかった事に気付く。
俺はジミードーナツへ向かい、ミートソースとミックスサンドを注文した。
このミートソースが俺にとって世界で一番美味しい。
おそらくこの店で俺が、このミートソースを世界で一番食べている自負がある。
この店を知ったきっかけが、お袋だったんだよな……。
もう十数年会っていないけど、まだここを知った頃は普通の親子関係だったはずだ。
いつからお袋は俺たち三兄弟を捨て、家を出ていく覚悟をしたのだろうか?
まあ決まっている。
二階堂さんと知り合ったから、お袋は男を選んだだけなのだ。
腹を痛めた母親が、子供を捨てる理由。
世の中でシングルマザーという言葉が今では定着するほど、子のほとんどは母へつく。
子供を捨ててまで母親が別行動を取る理由を一時俺は色々調べてみた。
子を捨てる母。
それをするには二種類しかないのだ。
一つは命の危険まで感じるほどの家庭内暴力による逃走。
もう一つは他に愛すべき男ができた時。
その二つしか、母親は子供を捨てる決断をしないはずだ。
世間的に見ればうちは珍しい父子家庭。
実態は親父も育児放棄のおじいちゃんやおばあちゃん、そして今となっては忌々しいが叔母さんのピーちゃんがいたからこそ、俺ら三兄弟は生きてこられた。
まあいいや……。
今さら何を考えたところで現状が変わる訳でもない。
そういえば世間的には、そろそろ母の日か。
俺にとって母親像を思い描くと二人の女性が出て来る。
一人は岩上整体へ頻繁に来てくれ支えてくれた森田昇次郎の母親。
もう一人はこれまた同級生の滝川兼一の母、化粧品加賀屋を営むお袋さん。
帰り道クレアモールの花屋へ通り掛かると、自然と花束を買ってしまう。
こんなもん買ってどうするんだよ……。
花をその辺の道端へ捨てるわけにもいかない。
俺はそのまま真っ直ぐ歩き、旧銀座通りへ入る。
方向は加賀屋へ向かっていた。
自動扉を開くと、おばさんが俺に気付き声を掛けてくる。
「あら、智ちゃん。お花なんか持ってどうしたの?」
「何かつい…、買っちゃったんで、おばさんにあげます」
ニコニコしながら受け取るおばさん。
俺の『新宿クレッシェンド』が賞を取った時、この人は目の前で泣いて喜んでくれた……。
変な言い方をして花を渡したが、照れ臭くて正直に感謝を伝えられない。
「ありがとうね、智ちゃん。でも私は智ちゃんのお母さんじゃないぞ」
笑顔でそう言いながら花瓶に花を入れる。
うん、そうなんだよな。
俺は何馬鹿な事をしたんだろ……。
「じゃあ俺、そろそろ仕事あるんで行きますね」
「え、もう行っちゃうのかい? おばさん、けんちん汁作ったから食べていきなよ」
「いえいえ、お気持ちだけ頂きます。ほんと仕事で、時間無いんですよ」
嘘を言って加賀屋を出た。
この孤独感が遣る瀬無かった。
家に帰ると一番下の弟の貴彦がいた。
結局都内に出てまで個人店のイタリアンで修業するつもりが、途中で逃げてきた弟。
子供があみっことの間で生まれるからという理由で、住む家も店をやる場所も、すべてお膳立てされているだけ。
俺は作者寄贈用で残っていた『新宿クレッシェンド』の一冊を貴彦へあげた。
「ほら、たー。俺の本、おまえにもやるよ」
貴彦はしばらく本を見てから、俺の顔を見ながら言った。
「兄貴さ…、本を出したのは確かに凄いよ。ただね、家にいつまでも住んで自立できないでさ……」
「何だと、このクソガキが……」
怪我して収入無い時に俺から散々金をもらい、感謝の欠片すら覚えない屑。
自分はすべて用意してもらって、どの口がそんな台詞抜かしているんだ?
「おまえみたいに俺は逃げ帰ってきてねえんだよ! 何が年商一億の厳しいイタリアンだよ? 結局逃げて家に戻ってきただけじゃねえか。俺はな、本だって世に出したし、総合の試合にだって出てるんだよ。おまえと一緒にすんな」
「あのさ…、兄貴が試合に出られたのは兄貴のせいじゃないでしょ?」
「はあ? 何抜かしてんだ、おまえ…。いい加減口の利き方気を付けろよ? 明日も五体満足で歩きてえだろうが、おい!」
近付いて凄むと、騒ぎを聞きつけおじいちゃんが居間へ降りて来る。
「何を騒いでいるんだ、智一郎!」
「いや、コイツが舐めた口を利くからさ……」
「兄貴はさ、本当に自分の力で試合に出れたと思ってんの?」
貴彦が勝ち誇ったように口を挟んでくる。
「はあ? どういう意味だよ?」
「ター坊がDEEPに口を利いたから出れただけじゃん」
頭に血が上る。
この馬鹿、自分は何もできないくせに何を抜かしてんだ?
「誰がそんな事抜かしてんだよ、おい。おまえよ…、弟だからって危害加えられねえと思って何を勘違いしてんだ?」
「止めないか、智一郎」
おじいちゃんが間に入る。
「ター坊自身だよ! 俺が口を利いたから智さんは試合に出れた。そう言ってたからな!」
「……」
あのクソガキ……。
俺の前じゃお兄さんお兄さんだ調子こいて、貴彦の前じゃ陰口か……。
俺は向きを変え、玄関へ向かう。
「どこ行くんだよ、兄貴」
「あ? 川越水族館。ター坊の野郎、引きずり出して、殺してくるわ」
「やめろよ! 俺に言ったんだって内緒であいつは言っただけだ」
無言で貴彦を殴りつけた。
「どけよ、ゴミが……」
俺は倒れている貴彦の身体を蹴飛ばすと、靴を履き外へ出た。
トンカツひろむがあった目の前の駐車場。
今では弟の徹也の会社が管理しているが、そこ一台のベンツが停まっていた。
「おう兄貴、どうしたの?」
傍にいる徹也が声を掛けて来る。
「……!」
徹也の横にはこれから殺しに行く予定のター坊が立っていた。
俺と視線が合うと、すぐ顔を反らす。
この小判鮫野郎が……。
俺が近づくと怯えた表情になる。
「おい、ター坊……」
「な、何ですか…、先輩……」
「おまえがDEEPの社長に言ったから、俺は試合に出れたのか?」
「い、いえ…、確かに智さんが試合に出ると伝えたのは俺ですが、決めたのは主催者側です……」
「おまえよ…、調子いい事ばっか言ってんじゃねえぞ、おい」
徹也が尋常ではない空気を感じ、間に入ってくる。
「何してんだよ、やめろよ、兄貴!」
「テメーはどけよ、この野郎」
徹也を突き飛ばす。
勝手に試合の時セコンドにつき、終わった後の赤っ恥を掻いたというあの台詞。
俺はまだ、徹也も許せないでいた。
「ター坊。おまえの理屈だと、おまえが口を利いてくれたからこそ、俺は試合に出れたんだろ?」
「い、いえ……。ち、違います……。もし智さんが勘違いして気分を害されたのなら謝ります」
「おまえよ…、調子いい事ばっか抜かしてんじゃねえぞ、おら」
貴彦の口調は、実際に俺を軽蔑の眼差しで見ながら言っていた。
「兄貴止めなって! ター坊だって謝ってんだろ!」
「おい、ター坊…。おまえ、パンクラスで現役だからって、俺を舐めてんのか? 悪いけど、俺はルールのある試合じゃなくて、この手の戦いのほうが断然強いからな? 今俺とやるか、おい」
「い、いえ……」
「止めろって、兄貴! これじゃ、ただの虐めじゃんかよ!」
「都合よく取り繕ってんじゃねえよ、ボケ……」
俺はイライラしながら、そのまま行く当ても無く歩いて行った。
ター坊が口を利けば、徹也でも貴彦でも試合に出られるのか?
素人でリングに上がった事が無い奴は、プロの世界を舐めるなと言いたい。
ター坊は同類だと思ったんだけどな……。
非常に残念な気持ちで一杯だった。
四面楚歌……。
誰も俺の味方などいない。
「あんたね、普通じゃない事やってんだよ! だから俺だけでなく色々な人が先生のところへ集まってる。それを辞めて好きな格闘技へ行くんだろ? 何で全然嬉しそうじゃないんだよ!」
岩上整体を贔屓にしてくれていた銀行員渡辺信さんの台詞が蘇る。
いや、それは違う。
例え家族全員から嫌われていようと、俺にはまだ認めてくれる人たちはいる。
飯野君だっていつも気に掛けてくれているじゃん……。
一人で勝手に落ち込みいじけるのはやめよう。
何も生まれない。
あー、岩上整体続けときゃ良かったなあ……。
あと俺に残されたもの…、小説っきゃないじゃん。
書こう。
どんどん書こう。
大日本印刷の時間まで、まだ時間はある。
書いて書いて書きまくってやる。
世の中になんて認められなくてもいいさ。
俺が俺を認めてやる。
俺はこの手で書いた処女作を言った通り、世に出したんだぞ!
だから書こう。
俺は『パパンとママン』を立ち上げる。
第四章《月の石》
先日はまさかの展開になり、未だ戸惑っている僕。
先輩のムッシュー石川は、一体今度どうなってしまうのだろう。
結婚を前提に付き合うというメールが送られて以来、彼からの連絡はなかった。
近所の居酒屋『兄弟』に行けば、詳細が分かるかもしれないけど、もうあんな女将に関わりたくない。
そんな訳で僕は、必然的にムッシュー石川と距離を置いていた。
まあムッシュー石川が、『兄弟』の女将と出来ている限り、僕にドアを弁償しろと迫ってくる事はなさそうだし、これで良しとしなきゃ。
パパンと竹花さんはというと、店全体を巻き込む大騒動を起こしたせいか、普通に仲良くしている
非常に不思議な関係だ。
そして自分を振り返ってみる……。
「あー、嫌だ嫌だ。早く次の仕事を探さなきゃ……」
つい出てしまう独り言。
こんなおかしな環境にいたら、僕自身おかしくなってしまう。
ママンはママンでマイペースだし、パパンはいつだって僕に当たってくる始末。
こんな生活を送りながら年を重ねたって、絶対にいい事などない。
それにしても、何故僕の周りには変な人ばかり寄ってくるのだろうか?
今日はうちのお店が休みなので、外へ出掛ける事にした。
あんなジメジメして隣から両親の喘ぎ声が聞こえてくるような部屋にいるから、僕の運気が下がるのだ。
忌々しい『兄弟』の前を通る。
本当にここにいる連中はクソどもばかりだ。
小松菜泥棒やオカマの泥棒まで常連客の中にいるから呆れてしまう。
「んっ……?」
少し開いた窓の隙間から、ムッシュー石川の姿が見えた。
彼は、『兄弟』の女将と店内でイチャイチャしていた。
駄目だ。
先輩はもう人として終わっている……。
一瞬だけムッシュー石川と目が合ってしまう。
このまま黙ってやり過ごそう。
関わりを持たなければ、僕はある程度幸せに生きられるはずなんだ。
自分にそう言い聞かせ、前を向いて必死に歩いた。
「おい、こわっぱ。ちょっと待ちなよ」
「……」
振り向くと『兄弟』の女将が外に出て、僕を睨んでいる。
横にはニヤけ面のムッシュー石川までいた。
「おいおい、努。ちょっと冷たいんじゃないの? ワテと目が合ってんのに、無視するなんてつれないのう」
「え…、でも……」
「いいからこわっぱ。うちに寄ってけ」
「あっ……」
僕は『兄弟』の女将に手首を掴まれ、強引に中へ引っ張りこまれてしまった。
すっかりとしなびた天ぷらと、水道水を目の前に置かれ、僕は『兄弟』のひと席に座っている。
ん、この天ぷら……。
よく見ると、小松菜の天ぷらじゃないのか?
女将とムッシュー以外、誰もいない空間。
僕はどうしていいか分からず、ただ黙っていた。
「相棒…、いや、ここはあえて努と呼ばせてもらうわ。何で自分、今ここにおるか分かるか、あ?」
相変わらずどこの方言か分からない言葉を使うムッシュー。
「な、何でですか?」
「うちの女の店、自分さ、ドアを破損させた訳でしょ?」
何だこいつまで一緒になって……。
僕は呆然としてムッシューを見ていたが、慌てて口を開く。
「いや、あれは元々じゃないですか。僕が壊したという訳じゃなく……」
「言い訳を聞きたくて、ここへ呼んだんじゃなんだわ。のう」
「ええ、そうよ。私のダーリン」
そう言って二人は、目の前でおぞましいディープキスをしだした。
見ているだけで全身に鳥肌が広がる。
「努、おまえ今いくら持っとる?」
「え?」
「いくら持っとるってこっちは聞いとんじゃい。さっさと答えんかい」
「な、何でですか?」
「おらっちの女の店のドアを弁償しろって言ってんだよ、オラッ!」
この男は、何を急に凄んでいるのだ。
下品極まりない顔をしている。
「キャー、ダーリン。ス・テ・キ……。そんなあなたにミッシングユー」
五十後半ぐらいなのに、この女将もよく「ミッシングユー」だとか恥ずかしげもなく言えるものだ。
そんな言葉に照れているムッシューもムッシューである。
「い、今は持ってないですよ」
「んだと、あん? じゃあ、ジャンプしてみい。ジャンプと言っても少年ジャンプの事じゃないよ」
「あ、あのムッシューさん……」
「何じゃい?」
「非常につまらないです……」
「何じゃと、ワレッ! 金ねえなら、誓約書書かんかい」
「そ、そんな……」
「そんなもへちまもあるかい。それが嫌なら…、え~と、いくらぐらい必要なんだっけ?」
女将に話し掛ける時だけ、急に穏やかになるムッシュー。
もはやこんな男、先輩でも知り合いでも何でもない。
「う~ん、そうねえ…。五万ぐらいもらっておこうか、ダーリン」
「うん、そやなあ。五万もろうとこか。ま、努。そういうこっちゃ。はよ、紙に一筆書けや、おら」
こうして僕は、五万円を後日払うという理不尽な誓約書を書かされるハメになってしまった。
月に十万も僕の給料ないのに……。
途方にくれながら適当に歩き回った。
そんな金をどうやって工面すればいいんだ。
オカマのせいにしてレジの金を盗む……。
いや、いけない。
そんな事しちゃ、絶対に駄目だ。
パパンはともかくママンに悪い。
じゃあ、どうする?
いいアイデアが何も浮かばないまま、頭を抱えた。
どのぐらい時間が経ったのだろう。
背後で何か物音がしたが、僕は体育座りのまま塞ぎ込んでいた。
「あの~、ごめんなさい。お店の看板を出したいんだけど……」
女性独特の甘い声が聞こえ、僕は慌てて立ち上がった。
「す、すみません!」
「やだ~、そんなに飛び跳ねるようにしないでよ~」
振り返り声の主を見た途端、僕の心臓は一瞬止まったような錯覚を覚えた。
ウェーブの掛かった茶色い綺麗なロングヘアー。
パッチリ開いた乙女座のような目。
真紅の口紅を塗ったおいしそうな唇。
透き通った細い首。
身体の線は細いのに、出るところはボンボンと飛び出ている。
見事なロケットおっぱい……。
目の前にいる女性は、完璧な美貌の持ち主であった。
「そんなジッと見つめないでよ。どうかしたの?」
エレガントな女性は、電光看板を転がしながら店の片隅に置き、コンセントを繋いでいる。
少し屈んだ時、たわわに実った胸元がチラリと見えた。
「はぅ……」
思わず漏れる吐息。
甘く心地良い匂いが漂ってくる。
僕の視界は目の前のビーナスに釘付けだった。
「あの~、これからお店オープンするから、そこにいられても困るんだけど」
「あ、違うんです」
「はあ?」
「お、お店が開くのを待ってたんですよ」
適当な嘘をいつの間にかついている僕。
「え、そうなの?」
「ええ……」
「あなた、うちに来た事あったっけ?」
「あ、あのですね。それは初めてです」
スナックという店自体、今まで来た事がなかった。
もちろんこんな僕でも、お酒を飲むところぐらいの認識はある。
「ふ~ん、まあいいわ。こんな早い時間からお客さんが来るなんて珍しいけど」
時計を見ると、夕方の七時を回っていた。
平日なら今頃僕はあの小汚い食堂で、一生懸命仕事をしている時間だ。
あんなに働いているっていうのに、僕の給料の酷い事といったら……。
ムッシューの奴め……。
どうやってそんな中、五万もの金を工面するんだ?
目の前が真っ暗になっていく。
「あの~?」
奇麗なお姉さんの声で我に返る。
いけないいけない。
ついさっきのムッシューとの事を思い出してしまう。
あんな外道の事なんて気にするな。
あやつは後輩であるこの僕を裏切ったんだ。
「お客さん、そんなとことに立ってないで、中へどうぞ」
「あ、は、はいっ!」
そう、今の僕には天使の微笑が必要なんだ。
あとの事はあとで考えればいいさ。
「ふふふ、随分と元気のいいお客さんね~」
僕は店に入る前に、先ほどお姉さんが出していた看板をチラリと見た。
『スナック 月の石』と書いてあった。
目の前に出されたお店のメニュー。
それを見て僕は呆然としてしまった。
何もする事がなく、ただ外へ出ただけだから今の僕の手持ちは全部で二千円しかない。
それなのにこのお店では、焼酎だけで四千円もするのだ。
「飲み物は何にする?」
天使のようにニコリと微笑みながら僕を見るお姉さんを前に、今さら金がないなど言えないしな……。
「ビ、ビールを……」
この中の飲み物じゃ一番安い。
でもビールで千円も取られちゃうのか。牛飯を何杯分になるのだろうか。
「は~い」
小ぶりなお尻を振りながら、お姉さんはカウンターのほうへ去っていく。
思わず綺麗なお姉さんに釣られて入ってしまったが、僕みたいな若僧には、まだ早過ぎる店なんじゃないか。
フカフカしたソファに腰掛けていても、どこか落ち着かない。
これは僕自身金を持っていないからだろう。
「ん?」
床に何か落ちている。
拾い上げるとそれは免許証だった。
『青木怜子』と書いてある。
写真を見る限り、あのお姉さんのものだろう。
青木怜子……。
れっこ……。
僕は心の中で呟き、ひっそりニヤけた。
向こうのカウンターからお姉さんが出てくるのが見えたので、僕は咄嗟に彼女の免許証をポケットにしまい込んだ。
お姉さんは自分の免許証を落としたのも知らず、笑顔でテーブルの上にビールを置いた。
「ごめんね~。女の子、早い時間だからまだ私一人だけなんだ」
「いえいえ、充分ですよ」
「お名前は何て言うの?」
「え、えっとですね…。本田努です」
自分で名乗りながら、何て平凡な名前なのだろうと両親を呪った。
「ふ~ん、素敵な名前ね~」
「え、素敵?」
「うん、今の時代、変わった名前ばかりつける親が多いでしょ? だから余計そういう名前ってシンプルで覚えやすいし、素敵だなって思うわ」
「でへへ……」
パパンにママン、努という名前をつけてくれてありがとう。
心の底からそう思えた。
「あ、私も喉渇いちゃったから、ビールもらっていい?」
「え……」
そんな…、一杯千円もするビールを僕が奢るとなると、それで手持ちの金がなくなってしまう。
しかし、ここで断ったら彼女の天使のような微笑みはどうなる?
ケチ臭い男として見られるのは嫌だ。
『腹を決めろ。この場は男らしくキッチリ奢ったれや、努』
僕は自分に向かって必死に言い聞かせていた。
もう一方で別の声が聞こえてくる。
『あら、いいのかい? この店で二千円も使っちゃうのかい? おまえの好きな牛丼、何杯食べられるんだろうね~』
悪魔の囁き……。
そう今現在で、僕はすでに千円分のビールを飲んでいるのだ。
彼女へビールを奢ったら、牛をしばきに行けなくなるのだ。
よく一緒に行ったムッシューの横顔が頭に浮かぶ。
ち、あの野郎。よくも僕を裏切りやがったな。
あんな五十後半のババーなんぞになびきやがって……。
「あら、どうかした?」
「あ、いえいえ、どうぞどうぞ」
思わず格好つけてしまう僕。
「ありがとう。ちょっと持ってくるから待っててね」
れっこの後ろ姿を眺めながら、僕は明日から牛丼が食えなくなったんだと落胆した。
時間だけはどんな人間にも平等なはず。
それなのに楽しい時間ほど過ぎていくのは早い。
至福の時を実感している僕は、あっという間にビールを飲み干してしまった。
「ビールなくなったけど、どうする? ボトル入れる?」
優しい顔して何て事を言うんだ。
もう僕は、お酒を頼める金などないのに……。
「あ、いや…。あのさ、ぼ、僕、ちょっと用事を思い出しちゃった……」
「え、まだ来たばっかりなのに?」
「ご、ごめん…。また来るからさ」
「ほんとに? じゃあチェックでいいの?」
「チェックって?」
「もう、冗談ばっかり。お会計してもいい?」
「は、はあ」
れっこはカウンターのほうへ行き、小さな紙を持ってきた。
「はい、ありがとうございました」
「……」
小さな紙切れに提示してある額を見て、僕は目玉が飛び出そうになった。
何と紙には『五千円』と書かれていたのだ。
僕はしばらく固まってしまった。
「あれ、どうしたの?」
「いや、あの、その……」
何でそんな金額になるんだ?
ひょっとして僕はボッタクリの店に来てしまったのだろうか。
あとで怖いお兄さんが奥から出てくるんじゃないか……。
考えろ。
必死になって考えろ。
今の僕は二千円しか持っていない。
そんなのを知られたら、一貫の終わりである。
パパンに電話してみるか……。
いや、「馬鹿者、勝手にしろ」と電話を切られるのがオチだろう。
ママンはどうだろう?
また都合のいい事を言いながら、「自分の事は自分で解決しなさい」で知らんぷりされるだろうな……。
「どうかしたの?」
れっこがまた尋ねてくる。
どうしよう……。
「……!」
その時、いいアイデアが僕の頭の中に浮かび上がった。
とりあえずこの場へムッシュー石川を呼び出そう。
あの野郎、先輩のくせに後輩の僕より、『兄弟』の女将を取りやがった。
先日、竜宮城へ連れて行くだなんて言っていたくせに、あれから音沙汰など何もない。
それに加え、僕に誓約書なんて書かせやがって……。
「ちょっと会計の前に、知り合いへ電話してもいいですか?」
「え、いいけど」
「じゃあ、ちょっと外行ってきますね」
僕は外へ出て、ムッシュー石川へ電話を掛けた。
数回鳴って、ムッシュー石川は電話に出た。
「もしもし、何じゃい、努?」
「あ、先輩ですか……」
「その呼び方はやめなはれ。もっと他にあるやろが、お?」
この男は先ほど僕にあんな仕打ちをしておいて、よくそんな口調で話せるものだ。
しかし今は自分の感情よりも、『月の石』で飲んだ飲み代を何とかしないといけない。
「ム、ムッシューさん……」
出来る限り明るく言ってみた。
「おう、何じゃらほい?」
先輩の機嫌良さそうな声が聞こえる。
ふん、シンプルなものだ。
「じ、実はですね。今、僕、竜宮城で飲んでいるんですけど……」
「なぬ、竜宮城やと? ワレ、どないつもりやねん、お? アチキを差し置いて一人楽しんでからに、ほんま」
お、乗ってきた乗ってきた……。
「す、すみません。で、ムッシューさん好みの子がわんさかいるんですよ。先輩の事を話したら、みんなキャーキャー言い出して、今すぐ呼んでってうるさいんです」
少し調子良く言い過ぎたかな?
「ほ、ほんまか? ギャグちゃうやろな? ワテ、本気にしてまうど、お?」
乗っているムッシューの頭の中には『竜宮城』を勝手に描いた淫らな映像が浮かんでいるのだろう。
「ええ、本気にして下さい。僕がそれは保障しますよ」
「ほんまかいな。今ワレ、どこにおるんや? はよ言えや、コラ! ジャンプさせるど」
鼻息の荒いムッシュー。
受話器からもそれが伝わってくる。
僕は『月の石』の場所を分かり易く言うと、先輩は「すぐ駆けつけたるぜ」と電話を切った。
再び店内へ戻ると、れっこは天使のような笑顔で迎えてくれる。
「電話終わったの?」
「ええ、さっき用事あるって言ってましたけど、これから会う知り合いがここに来るそうなので、もうちょっと飲ませて下さい」
「ええ、じゃあ何か飲む?」
「とりあえずビール下さい」
れっこの後ろ姿を見ながら、僕は思わずニヤけていた。
ここの代金は、すべてあの男におっかぶせてやろう。
僕ってワルだ。
いや、どちらかと言えば小悪魔系かな、うふ……。
れっことの楽しいひと時を過ごしながら、僕はムッシュー石川の到着を待っていた。
さっきの電話から十五分ぐらい経つ。
僕はポケットに手を入れ、小銭をジャラジャラまさぐりながら話をしていた。
手にカードみたいなものが当たる。
あ、僕、れっこの免許証をポケットに入れたままだった。
どうしよう……。
「ねえねえ、努君に私の名前言ったっけ?」
「れ……、い、いえ、聞いてないですよ。お姉さんの名前、何て言うんですか?」
あぶないあぶない……。
「れっこでしょ?」なんて思わず口走るところだった。
そんな事を言ったら、「何で私の名前知っているの?」って突っ込まれて路頭に迷うところだった。
「私、レイカよ。麗しい麗と、華やかの華で麗華って言うの。よろしくね」
麗華……。
このアマ、僕に偽名なんぞ使いおって……。
本名は『青木怜子』だって僕は免許証を見て知っているんだ。
何が『麗華』だ。とんでもない女かもしれない。
二千円分しか使っていないのに、五千円も要求してくるし……。
「あ、もうちょっとしたら、うちのママ来るわよ」
「ママですか?」
僕は『兄弟』の女将を想像した。
「うちのママ、すっごい面白いんだよ。美人じゃないけど、面白いからうちのお客さん、結構ママのファンが多いんだから」
「へえ~、一度会ってみたいですね」
「すぐ来るわよ」
れっこの優しい笑顔。
「僕はそんな君を見ているだけで幸せなのさ、ルルル」と心の中で言ってみた。
その時、入口のドアが勢いよく開く。
見ると、ムッシューが立っていた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャ~ン、あり?」
ハイテンションで登場したムッシューは、店内を見て不思議そうにキョロキョロ辺りを見回している。
きっと女が一人しかいないと思っているのだろう。
僕はそばへ行き、「さ、ムッシューさん。こっちですよ」とボックス席へ座らせた。
「おい、努。どういうこっちゃ? オナゴ一人しかおらんじゃないの。どういう事かいな?」
「よく見て下さいよ」
「何がじゃ、オラ?」
彼の目は血走っていた。
「ほら、目の前にいる麗華さんを…。もの凄い美人でしょ?」
ムッシューは目の前に座るれっこの顔をまじまじと見だした。
「い、いらっしゃいませ、麗華です」
無理に笑顔を作ろうとするれっこ。
「むむむ……」
腕を組みながら首をすくめだし、ムッシューは口元でブツブツと何かを言い始めた。
「先輩、どうしたんですか?」
「むむむ……」
「先輩…、いやムッシューさん……」
突然ムッシューは立ち上がり、天井に向かって両腕を突き上げた。
「あんた、最高やー! ビ~バ~メヒコ~!」
「あの先輩、この店とメキシコ、どこが関係あるんですか?」
耳元で囁く僕の顔をムッシューは手で押しのけ、れっこの前で片膝をついた。
「ムッシュ~マドモゼアル~」
「先輩、それを言うならマドモゼアルじゃなくて、マドモアゼルですよ」
「えーい、黙れい黙れいっ! キサンは引っ込んどけや。あんた、お名前は?」
「あ、あの麗華ってさっき言いましたけど……」
「ブラボー。ブラボーや、あんさん。無粋な事聞くけども、生まれはどこ?」
「ほ、北海道です……」
すっかり怯えた口調のれっこ。
「なぬ、北海道やて? こらまたブラボー! ワイも道産子なんやで」
「あ、そうなんですか。同じ道内なんですね」
「おほっ! こらまた何かの縁や。きっと麗華はんとワイは、生まれた時から小指と小指が赤い糸で結ばれとるんやで」
「……」
「よっしゃ、そうと分かったら麗華はん。こっち、ワイの横おいでや」
「い、いえ…。ここスナックなので横には……」
「な~に照れてんのや。照れはこの商売禁物やで」
「あのそういう問題じゃなく……」
「あっはは、気に入ったわ。ええわええわ、麗華しゃん」
「あ、やめて下さい」
ムッシューは席を立ち、強引にれっこの手首を掴み隣へ座らせようとしだす。
必死に抵抗するれっこ。
慌てて僕は止めに入った。
「せ、先輩、やめましょうよ。嫌がっていますよ」
「放せや、ボケ。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでまうぞ、おら」
「そんな事言ってると、あの女将に言いつけますよ?」
僕の台詞にムッシューの動きが止まる。
「むむ、キサン…。なかなか卑怯な手を使うじゃないのさ」
ようやく手を放すムッシュー。
ここまでとんでもない男とは思いもよらなかった。
れっこは手首を押さえながら涙目になっている。
可哀相に……。
そんな状況下の中、また入口のドアが勢い良く開いた。
「ナッポリナッポリ~、私は~ナッポリ~ノ~。誰が呼んだか、ナッポリ~。それはそう、私が~呼び始めた~。パルメザン」
いきなり訳の分からない歌を唄いながら入ってきた女性。
あさがおの柄の入ったワンピースを着て、妙に陽気である。
ウェーブの掛かった髪をなびかせているが、どう見ても四十過ぎのおばさんにしか見えない。
僕は、この人をどこかで見た事があった。
でも、どこで会ったんだろう?
「あ、ママ!」
れっこが助けを求めるような目で立ち上がる。
「あらあら、麗華ちゃん、お疲れさマンボ。お客さんがこの時間いるなんて珍しいわね」
「え、ええ」
「ん、あなた、私とどこかでお会いしてないかしら?」
そう言って『月の石』のママは、まじまじと僕の顔を覗き込んだ。
「あっ!」
思い出した。
先日うちの店に来た変なおばさんだ。
パイナポーだ。
あの時は、牛乳ビンメガネを掛け、パイナップルのような頭をしていたから気付かなかったが……。
マズい。
あの時は確かパパンと竹花さんが店内で大暴れをしたっけ。
この人はその巻き添えを食う形で、全身にケチャップを浴びたんだ……。
まさかこの店のママだったとは……。
「あ、思い出したわ。あの店の坊主ね?」
ゲ、すぐバレた。
「は、はい……」
「ちょっとそこへ座りなさい。話があるわ」
「あの…、もう座っていますが……」
「いちいち揚げ足を取るんじゃないよ、この小坊主!」
「す、すみません……」
「まあいい。私の話を黙って聞きな」
「あの~、ワテの飲み物、先出してーな」
ムッシューが横から口を挟んでくる。
「何を飲むんだい?」
「とりあえず麗華はんの母乳なんぞ、ホヘヘ……」
何て馬鹿な事を……。
れっこは自分の胸を両腕で押さえ、気味悪そうな目でムッシューを見ていた。
「そんな飲み物でいいのかい?」
「え、いいんすか?」
太陽のような笑みを浮かべ、ムッシューは手を擦り合わせる。
「いいよ。ただし、一杯三万五百円だけどね」
「え、ほんと?」
嬉しそうに身を乗り出す先輩。
三万五百円でれっこの生乳が吸い放題なら、僕、貯金しちゃおうかなと本気で思った。
「ママ、安過ぎる!」
れっこが慌てて怒鳴りだす。
当たり前か。
「ちょっと待ってて……」
ムッシューは財布を取り出し、中身を確認しだした。
この人、本気で三万五百円を払おうとしているのか……。
「じゃあ、麗華ちゃん。いくらならいいんだい?」
「そういう問題じゃないでしょ」
「何だい何だい。あんた、旦那の『ぜんまい』って言ったっけ? 奴にしか、その乳を吸わせないとでも言うのかい?」
え、れっこって結婚しているのか?
「当たり前でしょ! 夫婦なんだから」
「バッカだね~。今のあんたは、その乳吸わせるだけで、三万五百円の価値があるんだよ?それを活かさないで、いつ活かすって言うんだい?」
「もう、冗談じゃないわ!」
プリプリ怒りだすれっこ。
そんな彼女にムッシューが驚いたように近づく。
「おいおい、麗華……。君は私を裏切って、先に結婚していたのかい? すぐに別れろ。そしてすぐ私と結婚しろ。いいな、これは命令だ。上司の命令には絶対服従だぞ?」
相変わらず訳の分からない事を抜かしている。
「はあ、バッカじゃないの? 今、ミルク持ってきてあげるから、それ飲んで頭冷やしな」
「え、生ミルク? デヘ……」
途端にムッシューの顔はだらしなくニヤけた。
「ママ、私、頭痛い…。今日は上がるね」
「駄目だよ。そんな自分勝手など、この店じゃ通用しないんだから。早くうすらメガネにビール持ってきてやりなさい」
「何がうすらメガネじゃい!」
ムッシューとパイナポーが醜く罵り合っている間、れっこはカウンターへ行き、グラスにビールを注ぎだした。
ビールを数杯飲んだだけで、酔っ払いだすムッシュー。
何かを話しているが、何を言っているか分からないぐらい呂律が回っていない。
少ししてソファに横になると、いびきを掻きながら寝てしまった。
幸せそうな寝顔をしながら、よだれを垂らしている。
『月の石』のママであるパイナポーが、僕に話し掛けてきた。
「そうそう、さっき言い掛けたままだったけどね。私は大のナポリタン好きなんだよ。まだあんたの店のナポリタンは食べた事ないけどね。暇さえあれば、ナポリタンを求め、色々な店に行ってるのさ。分かるかい、この気持ち?」
そういえばうちの新メニューである『焼そばイタリアン』とは何だと、小忙しい時に色々質問してきたっけ。
あの時は本当にいい迷惑だったな。
「分かりませんよ。別に僕、ナポリタンなんてそんな好きじゃないし」
「キー! 何がナポリタンなんてよ? あなたにナポリタンの何が分かるっちゅうのよ。私の歩んできた歴史。それはすなわちナポリタン道とも呼べるものなのよ。まあいいわ。あんた、うちのナポリタン食っていきなさい。れっこに、星四つぐらいのナポリタンを作らせるから。分かった?」
「え、別にいりませんよ。僕、そんなお腹減ってないし……」
「ムキー! まったくあんたは男らしくないわね。そんなんだからいつまで経っても童貞なんだよ」
「何でナポリタンを食べないぐらいで、童貞扱いされなきゃいけないんですか?それに僕はこの店の客ですよ? 客に対して、よくそんな事言えますね!」
本当の事を言われ、僕は思わず逆上してしまった。
「ふん、じゃあとっとと帰りな。後日あんたの店のナポリタンを食いに行かせてもらうから。その時、私の舌を満足させられなかったら、どうなるか分かってるかい?」
「何でそうなるんですか? 別に僕が料理を作っている訳じゃないし、それにうちのメニューにナポリタンなんてありませんよ」
「じゃあ、今すぐメニューに加えなさい。そして私の舌を満足させなさい」
「もう、さっきから言う事すべてメチャクチャじゃないか」
「ふん、グダグダぶりがナポリタンの王道ってもんなのさ、この青二才め」
青二才だと?
言うに事欠いてこのパイナポーめ……。
「もういいです。僕は帰りますから」
「あっそ。麗華ちゃん、お会計お願い」
「は~い」
果たしていくらぐらいの金額を請求してくるのだろうか……。
れっこは先ほどと同じような小さな紙切れを持ってきた。
「はい、ありがとうございました」
「……」
紙には『二万七千円』と書かれていた。
何でビールを数杯飲んだだけで、こんなに高いんだ?
僕の手持ちじゃ、二万五千円も足りない。
まあいい。
こういう時の為にムッシューを呼んだのだから。
僕は寝ているムッシューを叩き起こした。
「先輩。先輩ってば。起きて下さいよー。もう帰りますよ、先輩!」
「ん……」
まだ寝起きのムッシューは、ここはどこだと言うように辺りを見回している。
「先輩、お会計です。二万七千円ですよ」
「んー」
視線の定まらないムッシューは、ヨロヨロしながら立ち上がった。
不思議そうな表情で店内を見ている。
「先輩ってば……」
「おっ! ビーナ~ス!」
れっこの姿を見るや、ムッシューは急に飛び出した。
慌てて避けるれっこ。
「先輩……」
ムッシューはゆっくりと振り向き、静かに口を開いた。
「麗華…。我の生き様、とくと見てくれ。行くぞっ!」
そう言うと、勢いよく入口のドアを開け、道路へ向かって走り出した。
「ちょっと先輩!」
このまま走って飲み逃げして、僕に代金をすべて押し付けようっていうのか?
あとを追い駆けると、ムッシューは道路に立ち、こちらを振り返っていた。
交通量の多い道路なので、すぐ後ろには車がビュンビュン走っている。
「危ないって、先輩!」
僕は連れ戻そうと向かうと、「麗華ー、僕は死にましぇ~ん!」と怒鳴りだした。
数台の車がクラクションをずっと鳴らし出す。
「危ないですよ、先輩」
彼の耳は、まるで僕の言葉など届いていない。
一心にれっこの方だけを見ている。
「僕は死にましぇ~ん。ほら、大丈夫でしょ? もう一度言うよ。僕は…、グギャッ!」
ムッシューの身体がゴムマリのように弾む。
道路に出過ぎて走行中の車に激突されたのだ。
その弾け飛ぶ様は、まるでスローモーションのように見えた。
「センパーイ!」
こうしてムッシュー石川は、うちの近所の病院へ救急車で運ばれた。
全身骨折で、すぐ入院となったようだ。
結局代金を払えなかった僕は、ママであるパイナポーへ散々詫び、『月の石』で深夜タダ働きをさせられるハメになった。
四章を一気に書き上げ、タバコへ火をつける。
よやく公約通り、奥尻島のれっこを作品に出せた。
続いてうめちんや熊倉瑞穂も出さないとな。
そういえば書いている内に、あれだけあった苛立ちや怒りが消えていた。
書く事で俺は浄化をする……。
群馬の先生がそう言っていたっけな。
そういえば前回行った時、俺はまだまだこれから試練の連続とか言っていたよな……。
じゃあ今の混沌とした家族関係も、ター坊の裏切りに近い行為も、すべて試練?
馬鹿な……。
もしそうなら本当にいい加減にしてくれ。
試練とは別だが、昔の金を持っている俺は本当に馬鹿だった。
スナック『月の石』。
英語のすると『ムーンストーン』。
このムーンストーンは川越で実在したスナックだった。
二十代の頃、スナック『五次元』でふざけた真似をされ、切れた事があったが、この『ムーンストーン』も当時散々通い、切れて行かなくなった店である。
このエピソードもいずれ何だかの形で小説として書いてやろう。
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