2024/11/29 fry
前回の章
大日本印刷引継ぎ時に会う同僚の石川。
彼はミクシィでムッシュー石川と名乗っている。
真面目なくせに、どこかひょうきんな彼。
俺は彼を三章へ登場させようと決意した。
彼女がいるらしく、俺のミクシィ記事でミートソースを作ったのを見て、食べてみたいとカップル揃って言ってきた。
家では俺の作る料理など、誰一人口にしない。
冷蔵庫へ入れていて、腐ってカビが生えても、叔母さんのピーちゃんはそのまま平気で放置をしている。
だから自分の作った料理を褒められ、求められるのは嬉しい。
お互いが時間合うタイミングで、俺はミートソースを作って、石川へ届ける約束をした。
三章を書いている途中、石川の彼女の姉が飛び降り自殺で亡くなったと報告があり、料理を作ったあとなので、彼の元へ届けに行く。
元々精神的に弱かった石川の彼女の姉は、周りが気に掛けても深夜家族が寝静まった時に、飛び降りを決行したようだ。
彼女の顔を初めて見たが、初対面なのに精神的疲労が凄いのを分かる。
ミートソースを渡してすぐ帰ったが、あの子大丈夫かなと気になるほどだった。
家に戻り、『パパンとママン』三章の続きを書き始めた。
第三章《先輩》
ここ最近のパパンとママンは仲が悪い。
だって常連客の竹花さんと、過去に関係があった事をママンがつい口を滑らせてしまったんだから。
何もあのタイミングで言う事ないと思うんだ。
自分の女房が、過去の話とはいえ昔からの友人に抱かれたという事実。
知らないでいるほうが、人間幸せな時だってある。
パパンが気の毒に思えた。
僕にとって幸いな事といえば、夜オナニーする時、両親の卑猥な声を聞かずに済むという点である。
ゆっくり自分の好きな時間を堪能できる訳だ。
うちの両親はどちらかといえば、パパンがママンに惚れているという図式である。
パパンはママンに当たる事ができないので、必然的に僕が八つ当たりの対象になってしまう。
先ほどパパンが気の毒だと感じたが、そんな気持ちはあっという間に吹き飛んでしまう。
「おい、努! おまえはこんな事もできないのか?」
店を開けて間もないのに、パパンは無理難題を押しつけてくる。
「今まで料理を運ぶだけだったのに、いきなりキャベツの千切りをしろって言われたってできる訳ないじゃん。包丁一つ、ロクに扱った事ないのにさ」
「気合いだ。気合いさえあれば、何でもできるものだ」
そんなもの、気合いなんかでできる訳がないのだ。
頑固になった時のパパンは本当に性質が悪い。
「今まで通りでいいじゃんか。別にここを継ぐって訳じゃないんだから」
「駄目だ。おまえはここを継ぐ運命にあるのだ」
パパンはすっかり僕に継がせるつもりでいる困ったちゃんだ。
職業選択の自由など、まるでお構いなし。
つい、年を取った自分を想像してみる。
頭に捻りハチマキを巻きながらフライパンを片手に転がす僕。
カウンター席には、『肥溜めブラザース』こと、パパンと竹花さんが二人でいつも飲んだくれている。
注文が殺到し調理場が火の車なのに、「おい、努。早くレバニラ作れや」とパパンが真っ赤な顔で怒鳴りだす……。
「冗談じゃないよ! 小汚い連中を相手に、生涯をまっとうしろって言うのかよ?」
「何を抜かす、この小僧が! 小汚い連中だと? おまえの給料はその小汚い客が払う金が収入源なんだぞ」
自分が小汚いなんて、露ほども思っていない幸せなパパン。
「何が給料だよ? 一ヶ月必死に働いたって、十万もないじゃないか」
「ふん、おまえは黙って俺の言う通りに働いてりゃあいいんだ。余計な事を考えるのは、あと十年経ってからにしとけ」
「冗談じゃないやい。労働基準法に違反してるじゃないか。こんな安賃金でボロボロになるまで働かせてさ」
「何が労働基準法だ。このコッパが。おまえがやっている事は仕事じゃない。ただのお手伝いに過ぎん。それで十万ぐらいのお駄賃もらえているんだから、俺に感謝しやがれ」
いくら何でも酷過ぎる。
僕が毎日ひいひい言いながらやっている事をお手伝いだなんて……。
「う、訴えてやるからな」
「どうぞ、ご自由に。民事不介入に過ぎん。まあそんな面倒な事をしたら、もっとお小遣いを下げてやるだけだけどな」
「き、汚いぞ」
「汚くねえよ」
とぼけ顔で口を開くパパン。
無性に腹が立ってきた。
「汚いじゃないか!」
「いや、北あるよ」
こんな時にクソつまらない駄洒落など使いやがって……。
「つまんないんだよ!」
「ふん、おまえなど黙って俺の言う通りに生きていればいいのだ」
「酷いや。それじゃあまるで僕は、パパンの道具じゃないか!」
「け、道具? おかしな事を言うな……」
「何でだよ? 指図されっ放しの人生なんて、まるで道具じゃないか!」
「チ・チ・チ……。道具は喋らん。愚痴も言わん。それに飯も食わん」
勝ち誇ったような表情でパパンは言った。
「ひぃ~、酷いや……」
「ふん、泣いたってキャベツの千切りを誤魔化せた訳じゃないぞ? とっととやれ」
「パパンの馬鹿」
「何だと?」
「そんなんだから、ママンを竹花さんに寝取られるんだ」
「馬鹿者!」
パチンと乾いた音がして、僕の頬は熱を帯びたように熱くなる。
パパンが感情的になり、僕のつるんつるんの頬に平手打ちをしたのだ。
「ち、ちくしょう~!」
僕は泣きながら、家を飛び出そうとする。
その時、階段から足音が聞こえ、二階からママンが降りてきた。
必要以上にお尻をプリプリ揺らしながら階段を降りるママン。
いつもそんなオーバーアクションだから、うちの小汚い客どもに、「あんなケツに、チクワぶっ刺したらどうなんだろうね?」とか言われるんだ。
ひょっとしたら、あいつらのマスターベーションのおかずにされているかもしれないのに……。
「あらあら努。何を泣いているのよ?」
僕のキラリと光る涙に気付いたママンは、覗き込むようにして声を掛けてきた。
「パパンが酷いんだよ、ママン」
「う~ん、何でそんな状況になったのか、私は分からないわ」
「あのね……」
「ううん、私はそんな事を聞きたい訳じゃないのよ、セニョリータ」
「ぼ、僕はセニョリータなんかじゃないよ」
「いいのよ、今はセニョリータで。じゃないと話が進まないから」
「はあ? 訳が分からないよ」
「いいから黙って私の歌を聞きなさい。ほら、耳を澄ませて。私が唄うなんて滅多にない事なんだから、耳をかっぽじってありがたく聞きなさい」
そう言うとママンは階段の途中で立ち止まったまま、両腕を組み、天井を見上げながら唄いだした。
「男は~、な~み~だ~を~流さない! プリプリン! ロボットだから、マシーンだ~から~、プリプリン!」
何だ?
どこかで聞いた事あるような曲だが……。
「あ、ひょっとして『グレートマジンガー』の主題歌じゃないの? それならちょっと違うよ。最初は『男は~』じゃなく、『俺は~』だし。それに『プリプリン』じゃなくてさ、『ダダッダン』だよ?」
「いいの、いいの。そんな細かい事は。私が歌う時は『プリプリン』でいいのよ」
「そんなの変じゃないか」
「ちっとも変じゃないわ。それに最近ね、近所で『若奥さまカラオケ突撃隊』ってグループ作ったのよ。私はそれの副会長でもあるんだけどね」
また訳の分からない怪しい団体を……。
「全然ママンは若奥さまじゃないじゃないか」
僕の台詞にママンの目がキッと釣り上がった。
「いいのよ、実際の年齢なんて。見た目が若く見えればそれで若奥さまの条件を満たしているんだから」
「だって僕が十八で、パパンが四十二でしょ。パパンとママンは二つ違いだから……」
「努! つまらない計算なんかしてんじゃないよ。今日の晩御飯のおかずのコロッケ。努のだけ半分にするわよ。いいの?」
「何でそうなんだよ」
「目上の年を気にすると、そういう目に遭うという教訓よ」
いつもママンは自分が不利になると、これだ。
我が家の食卓の実権はママンが握っているから、ここは大人しくしておこう。
「悪かったよ。ママン、うちのお客にも人気あるもんね」
「そうそう、私って自分で思っているよりも人気者なのよね。うちが何とか常連客ついているのも、私のプリプリのお尻が目当てに決まってんだから」
「……」
一体、何て台詞を……。
パパンが聞いたら烈火の如く怒り出すだろう。
ママンは自分から狙ってお尻をプリプリ動かしていたのだ。
店の手伝いなど何もせずに……。
「そういえば、あなたは私の歌の真意が何も分かっていないようね」
「真意? 何それ? そんなの分かる訳ないじゃないか」
「私が言いたいのはね。男は涙を流さないって事を伝えたかったのよ。お分かり?」
それなら普通に言えば済む事じゃないか。
別にわざわざ古いアニメの主題歌を変えて唄う必要など、どこにもないのに。
「何がお分かりだよ。何で僕が泣いていたのか理由すら聞かないでさ」
「今はもう泣いてないじゃないの。早くパパンの手伝いをしないと、また怒られるわよ」
まったく誰のせいでパパンの機嫌が悪いと思っているんだ。
毎度の事ながらママンは本当にお気楽だ。
この人と話していても何の解決にならないので、仕方なく僕は食堂へ戻る事にした。
パパンはタンタンとリズミカルな音を立てながら、キャベツの千切りをしている。
僕が来たのに視線すら向けようとしない。
「お手伝いに来ましたよ」
あえて嫌味ったらしく言うと、パパンは包丁の手を止め、「とっととのれんを出せ、このちょんまげハゲ」と偉そうに抜かしてきた。
「くっ……」
思わず「何がちょんまげハゲだ」と怒鳴りたかったが、また平手打ちを喰らうのも嫌なので、ここは我慢して言われた通りに動く事にする。
外に出てゆっくり深呼吸をしてみた。
熱かった頭が少し冷静になった気がする。
考えてみると、竹花さんの事まで言ったのは言い過ぎだったかもしれない。
パパンが怒るのも無理はないだろう。
だけど、僕の存在を道具以下と抜かし、平手打ちまでするなんて酷過ぎる。
こうなったら早いところ次の就職先を見つけ、あの小汚い定食屋から脱出する以外、方法はない。
「おい、早くのれん出せよ」
背後から声を掛けられたので振り向くと、捻りハチマキを巻いた小汚いオヤジがイライラしながら待っていた。
「すいません、もうちょっとで開きますので」
出来る限りの笑顔で明るく言うと、「口を動かす暇あるなら、ちゃっちゃと店開けろや」と傍若無人な態度で返ってきた。
「は、はい……」
何も言い返せない自分が悔しかった。
僕の気持ちが暗く沈んでいようと、客には何の関係もないのだ。
そしてこんな日に限って、うちの定食屋は忙しかったりする。
「はい、肉団子クリームシチュー風!」
「へい!」
最近のパパンは妙なメニューを増やしていた。
何がクリームシチュー風なのか、僕にはさっぱり分からないが、おかげで客に対する対応が余計に面倒になっている事だけは確かだ。
「ねえ、お兄ちゃん。焼そばイタリアンって何?」
牛乳ビンの底をメガネにつっくけたようなおばさんが、パイナップルのような髪の毛をボリボリと掻きながら聞いてくる。
水を注がなきゃいけないし、料理のオーダーだってとらなきゃいけない。
大忙しの時に、このようなメニューの説明を求めてくる客は非常に邪魔だった。
「太麺焼そばをナポリタン風に作ったものです」
簡単に説明すると、牛乳ビンメガネのおばさんはジッと僕を見つめながら言った。
「何故ナポリタン風だとイタリアンなの?」
そんなの僕が知る訳ないじゃないか。
パパンの気まぐれで一昨日追加されたメニューなんだから……。
「さ、さあ、何でなんでしょうかね」
「ちょっとあなた、ここ大事よ」
「へ?」
「こう見えて私はナポリタン愛好家なのよ。それを焼きそばの麺を使ってというだけでも邪道なのに、イタリアンとは何事よ」
メガネを掛けたおばさんは、髪の毛を両手で掻き毟りだしながら口を尖らせ、どうでもいい事を言っている。
どうしてもパイナップルのようなヘアースタイルに視線が行ってしまう。
僕はこのおばさんを『パイナポー』と呼ぶ事に決めた。
「ちょっとあなた、何をボーっとしているのよ。人の話をちゃんと聞いているの?」
「き、聞いてますよ」
「じゃあ、何でナポリタン風がイタリアンなのか説明してみなさい」
このクソ忙しいのにパイナポーめ……。
「知りませんよ。お気に召さないなら、他のメニューを注文すればいいじゃないですか」
「私はね~、この焼そばイタリアンが気になって気になって仕方がないのよ。分かる、この気持ち?」
「いえ、分かりません……」
何でパイナポーの気持ちなど僕が理解しなきゃいけないんだ。
「例えばの話よ? 私がナポリタンを食べたとして、口の周りにいっぱいケチャップがくっつく。私はそれに気付かず、家に帰ってお化粧を落とそうと鏡を見た時、ふと思うのよ。あら、私ったら口の周りにナポリタンのケチャップをくっつけちゃってまったくって…。こういうの何だか非常にイタリアンチックだと思わない?」
「全然思いませんが……」
「キー! あなた、サービス業失格よ? そんな事じゃ」
参ったな。
こういう時に限って店内はほぼ満席だったりする。
僕は、他の客の水を注ぐ振りをしながら、その場からうまく逃げた。
ガラッと音がして入口の戸が勢いよく開く。
ここの常連客であり、パパンの幼馴染、そしてママンと昔関係があった竹花さんが威勢よく店に入ってきた。
「竹花君、格好いい! さすが私が昔、抱かれた事だけはあるわ」
ママンのいらぬひと言以来、店に来るのは初めてである。
恐る恐る僕はパパンの顔を盗み見た。
ヤバい…、こめかみの辺りがピクピクと動いている。
「おう、努ちゃん。今日は混んでいるね」
竹花さんはいつもと変わらない陽気さだ。
前回パパンと大喧嘩したのが嘘のような振る舞いだった。
「い、いらっしゃいませ……」
よくもまあぬけぬけシャーシャーと来られたものだ。
竹花さんはごく普通にカウンター席に腰掛けた。
パパンが目の前で料理を作っているというのに……。
「とりあえずビール。泡多めでな」
「へ、へい……」
心中穏やかではないパパン。
竹花さんのほうを向こうともせず、黙々と料理を作っている。
僕は二人の挙動を見ながらビールを注いでいたので、つい泡をこぼしてしまった。
「おい、努! 何をボーっとしとるんだ」
パパンが唾を吐きながら怒声を浴びせてきた。
見ていないようでこんな時ばかりしっかり見ているのだ。
「わ、悪かったよ」
「こぼれた分のビールはおまえの給料から天引きだからな」
「そ、そんな殺生な……」
だいたいこぼれたビール分の天引きなんて、一体いくらぐらい引くつもりなんだ。
「おまえは物のありがたみが分からんから駄目なのだ。少しは身に沁みてみやがれ」
ただでさえ機嫌の悪かったパパン。
竹花さんが来た事で、さらに拍車が掛かっているようだ。
「まあまあ落ち着けって、弟よ」
陽気な竹花さんは、訳の分からない台詞を言いながら仲裁に入ってきた。
「おい、何が弟なんだ?」
確か二人は同じ年。
それなのに『弟』と呼ぶ根拠は、僕の中で一つしか考えられなかった……。
「俺っちが先。おまえはあと。だから俺っちがお兄ちゃんで、あんたが弟」
そう言うと、竹花さんはいやらしい顔で二マッと笑った。
歯を磨いていないのか、前歯には青ノリみたいなものがついている。
いや、そんな事より何て事を言ってしまうのだ。
またパパンが烈火の如く怒りだす……。
「き、貴様~!」
パパンはその場にあったキャベツの千切りをわし掴みすると、カウンター席に座る竹花さんに向かって投げつけた。
呆然とそれを見る店内の客。
「おぉー!」
思わず店内でどよめきが起こった。
竹花さんは飛んできたキャベツを手でかわしながら全部よけたのだ。
その動きは千手観音を連想させた。
見事としかいえない動きを見せた竹花さん。
パパンはとても悔しそうに恨みの籠もった目線で睨みつけている。
「まだまだよの~。しょせん弟はお兄ちゃんには勝てん。お兄ちゃんより優れた弟など存在しないのだよ、カカカ……」
ん、どこかで聞いた事のあるような台詞……。
「何が弟だ、竹花の! まだキャベツなど序の口に過ぎんわ」
パパンはケチャップを手に持つと、「ふんはっ」と掛け声を出しながら発射させた。
四方八方に乱れ飛ぶケチャップ。
「いや~!」
「うげ、マジかよ?」
客の悲鳴が店内にこだました。
「甘い。甘過ぎる。おまえの拳には甘さが抜けきれていないのだ、弟よ」
何と騒ぎを巻き起こした張本人の竹花さんは、先ほどのパイナポーを盾代わりに隠れ、一切ケチャップを浴びていなかった。
「えへへ、私の顔にたくさんのケチャップ……。これってイタリア~ン」
パイナポーは自分の顔についたケチャップを指でなぞり、ペチャペチャと舐めている。
ひぃ~、何もかもメチャクチャだ。
「冗談じゃねえよ」
「ふざけんな!」
客たちは文句を言いながら金も払わず店を飛び出していく。
頭を抱えながらその場にしゃがみ込んでいると、背後から肩を叩かれた。
「相変わらずすごい状況だな、努」
振り向くと、いつも仲良くゲームセンターに一緒に行く先輩のムッシュー石川が立っていた。
ソースと醤油の入ったチューブを両手に持ちながら、「二刀流だぁ~」と叫ぶ竹花さん。
ケチャップとマヨネーズを乱射しながら、「何クソ、我も二刀流だぜよ」と対抗意識を燃やすパパン。
どっちも目くそ鼻くそのレベルの低い争いである。
さすが『肥溜めブラザース』と呼ばれた事のある二人だ。
当然の事ながら店内にあれだけいた客は、みんな金も払わず逃げていく。
しばらく争いが収まりそうもないので、僕と先輩のムッシュー石川は一番奥の席に腰掛け、勝手にビールを飲んでいた。
「先輩、酷いでしょ? うちの店……」
「先輩と呼ぶな。ムッシューと呼びなはれ」
「そういえば、何でムッシューなんですか? 先輩は、石川智之という立派な名前があるのに……」
「フ、フルネームで呼ぶなっちゅーの。我輩は生まれた地である道産子を捨て、関東人となったのだ。そこで私は『ムッシュー石川』と名乗る事にしたのさ。随分と古い話だがな、ふっ……」
この人の脳みそはどうなっているのか、一度頭を割って中を見てみたいものだ。
何故、名前を変えなきゃいけないのか意味不明だし、最後に『ふっ……』とか気取っているのも分からない。
それに自分の呼び方を『私』だとか『我輩』だとか全然統一性がないのだ。
「じゃ、じゃあムッシューさん……」
「おお、いいねえ。その響き。あ、響きって言ってもさ、サントリー響じゃないよ」
この人のギャグセンスはまったく面白くなかった。
「ムッシューさん、それ、寒いですよ……」
学生時代の頃、本気でお笑い芸人を目指していたらしいが、もちろんその願いは叶っていない。
「まあ、そんな時なんて誰にだってあるさ」
そう言って先輩はメガネを少しだけずらし、遠くを見るような目で気取りだした。
「今日はどうしたんです? うちに来るなんて珍しい」
「ああ、今日は待望の給料日でな。努に酒でもご馳走してやろうじゃないのって感じで来た訳」
「また牛をしばきながら、ビールをチビリと飲むんですか?」
「馬鹿者、何てレベルの低い発想を…。今日は私に感謝するぞ」
「え、感謝?」
「ああ、感謝と言っても、官が泊まったりする『官舎』じゃないよ?」
「そんな事いちいち言わなくても分かりますよ」
「あ、『愛は勝つ』のカンでもないからね?」
「つまらないですよ!」
「ノンノンノ~ン!そこ、突っ込みかた甘い」
「え?」
「どうせなら『誰がそんな事思うかいな』って我輩の頭をピシャンと叩くぐらいじゃないと駄目じゃん」
「先輩にそんな事できませんよ」
「駄目駄目。ここはやっとかないと先に進まないから」
「何の為に先へ進む必要があるんですか?」
「ちゃうねん、ちゃうねん。ここは恥ずかしさを捨てなきゃ、あかん」
「もー、意味不明ですよー。だいたい何ですか、恥ずかしさって」
「我らの夢を叶えるには、恥ずかしさを捨てなきゃ」
「ぼ、僕らの夢? 何ですか、それ……」
「ま、詳しく話すから場所変えよか」
「だって僕はまだ仕事中ですよ?」
「これでもか?」
先輩がパパンと竹花さんを指差す。
二人とも調味料だらけでメチャクチャだ。
「貴様、この豆泥棒が!」
「ふん、お下がり野郎め」
パパンたちの視界に、僕らはまるで入っていないようだ。
「な? こんな状態じゃ客も入って来れないだろ。さっさとのれんでも閉まって、飲みに行こうぜ」
「う~ん……」
確かに店を閉めるのが最善の方法かもしれないが……。
「男なら迷わず行けよ。行けば分かるさ、竜宮城」
「何ですか、竜宮城って?」
何だか甘酸っぱい匂いがしそうなところだ。
こんなソースや醤油が四方に飛び散っているところなんかよりはいい。
「ふふふ、嫌なら別に君は来なくてもいいのだよ」
まったくものを含んだ言い方が好きなんだから、この人は……。
「嫌なんて言ってませんよ~。とっとと店閉めて行きましょう、その竜宮城とやらへ」
僕は入口に掛かっているのれんをしまいに行った。
時間はまだ夕方の七時前。
僕らは以前揉めた『兄弟』の前を通る。
あの昭和の香りを醸し出す悪徳女将は、偉そうにタバコを吸いながら足を組んで座っていた。
ひと言怒鳴りつけてやりたかったが、今は先輩のいう『竜宮城』が気になっているのも事実だ。
「ムッシューさん、一体どこへ行くんですか?」
「甘酸っぱい若い女子のいる店ぞよ」
「ほ、ほんとですかっ!」
「相方に嘘を言ってもしょうがないじゃないか」
「相方って何の相方ですか?」
「ふっ、それはおいおい話すさ」
ムッシューはどこを見ているのか知らないが、遠い目をしている。
その時、『兄弟』のドアが勢いよく開き、女将が出てきた。
「ちょっと、そこの小坊主!」
もの凄い形相で睨みつけてくる女将。
もはや完全に女を捨てている。
よくこれで客商売が勤まるものだ。
「こ、小坊主って何だ!」
僕の大事なデジカメを叩き壊しやがって……。
あの時の恨みはまだ消えていない。
「いつになったら、このドアの弁償代持ってくるんだい?」
「じょ、冗談じゃないや。元々あんなの壊れていたじゃないか! それに何だい。そっちの常連客なんてうちの小松菜を盗むわ、泥棒に入るわ最低じゃないかよ」
「ふん、何を抜かす。このこわっぱが」
「な、何が『こわっぱ』だ!」
「ふん、とっとと有り金置いて消えな。営業妨害で警察呼ぶよ?」
「ぐっ……」
自分たちが最初に汚い事をしておき警察を呼ぶなんて、何て卑怯な女なのだろう。
確かにここは『兄弟』の店前だ。
警察が来て現場検証でもしたら、僕が不利になる。
「ほら、とっとと有り金を出しなよ」
女将がにじり寄り、僕のポケットに手を入れようとした瞬間、その手首を誰かが掴んだ。
「おいおい、マドモゼア~ル。フェアじゃないぜ」
先輩のムッシュー石川だった。
しかし『マドモゼア~ル』とか言っていたけど、『マドモアゼル』の間違いないじゃないだろうか?
それに『マドモアゼル』って、お嬢さん、または娘さんって意味だったような……。
「あらま、いい男」
女将は、いきなり先輩に抱きつきだした。何だ何だ……。
予想外の展開に戸惑う僕。
「……」
しかもムッシューは、そんな女将のお尻に手を回し、いやらしい手つきで撫で回していた。
何て節操のない男なのだ。
「おい、努。まあ、そういう訳だ。竜宮城はまただな」
「え~?」
先輩ことムッシュー石川は、女将にべったりくっついたまま『兄弟』の中へと消えていった。
本当に今日はメチャクチャな一日だ。
帰り道、僕は一人でブツブツ言いながら歩いている。
さっきまで若い女子のいる店で、ご馳走してやるとか言っていたのに、先輩は酷い。
酷過ぎる。
しかも『兄弟』の女将なんて、どう見たって五十後半だぞ?
よくあんな物の怪に抱きつかれてその気になれるものだ。
あの人とは縁の切り時がきたのかもしれないな。
家に帰ると、ちょうど店の入口から竹花さんが出てきた。
ひょっとして今まで暴れていたのか……。
「おい、努ちゃん。俺は勝ったぞ」
僕を見るなり竹花さんは鼻息を荒くしながらガッツポーズをしている。
身体中、ケチャップやソースで調味料まみれだ。
「勝ったって何をです?」
「弟に負けるお兄ちゃんはいない」
それだけ言うと、とても嬉しそうに竹花さんはスキップをしながら帰っていった。
店の中、メチャクチャだろうな……。
恐る恐る覗き込んでみると、パパンが床に倒れていた。
慌てて僕は駆け寄る。
「パパン! どうしたの?しっかりして」
酷い有様のパパン。
鼻の穴から耳の穴までマヨネーズが練り込まれていた。
僕は急いでテッシュを使い拭き取った。
「う~ん……」
「あ、大丈夫、パパン?」
「どけっ!」
覗き込む僕を払いのけ、パパンは不機嫌そうに立ち上がる。
「ひ、酷いや……」
パパンは店内をグルリと見回し、「こんなに店を汚しおって、貴様、ちゃんと片付けていけよ」とだけ言うと、階段を上がって二階に行ってしまう。
「何で僕が……」
この酷過ぎる現状に思わず涙が出る。
僕は涙を拭い、仕方なく散らかった店内の掃除を始める。
床をモップで擦りながら、絶対にすぐ別のところへ就職してやると自分自身に誓った。
後日、先輩のムッシュー石川から一通のメールが届いた。
《おう、努。元気かいな? 我は雲。雲ゆえに自由気まま。なのであの女将と付き合う事にしたんだ。もちろん結婚を前提にね。披露宴には必ず呼ぶぜ、相方。友人代表のスピーチ、ちゃんと今から考えておいてくれよな、ベイビー。 ムッシュー石川》
「え~?」
この時、自分が広大なカオスの中に、いつの間にか放り込まれた感覚がした。
三章終わりっと。
これ、石川が読んだら「えー、勘弁して下さいよ、岩上さん」とか言ってきそうだな。
まあ、いいや。
今はとにかく頭を空っぽにして、どんどん作品を書けばいい。
望もこの作品を望んでいるし、ネット上でもいい反応なんだから。
昼時なので一階へ降りる。
叔母さんのピーちゃんが、昼食を作っていた。
特に俺の分が用意されている訳ではないが、簡単なサラダにベーコンエッグがテーブルに置かれていので「いただくよ」と小さな声で呟き食卓へ座る。
パンを焼いている間、おじいちゃんが「仕事の方はどうだ?」と聞いてくる。
「ん-、今やっているのが新しい生産ラインを向上させる部署みたいで、毎日インクの調合をしているよ」と、両手を見せた。
完全にインクが落ちていないので、指先はところどころ黒く変色し、ひび割れの部分はすっかり固まって妙な腫れを残したままだ。
「智一郎、今やっている仕事は大変そうだな」
「まあしょうがないよ、自分で決めて働いたからね」
「そんな汚い指を食事中に見せるな」
ピーちゃんが口を挟んでくる。
今は金も無く食事を恵んでもらっている身。
俺は大人しく指を引っ込め、焼き上がったパンにバターを塗った。
二枚目を焼こうとすると、「おまえは食い過ぎなんだ。少しは遠慮しろ」とピーちゃんから言われる。
俺は取ったパンを置き、黙って二階へ上がっていく。
今の俺には何一つ言い返せる立ち位置ではない。
階段を上がる途中「由美子、おまえは少し言い過ぎなんだ」とおじいちゃんが叱咤する声が聞こえた。
とても惨めだったが、自身がやった行為の報いである。
後先考えずに突っ走った俺が、すべてはいけないのだ。
記録として、本を出した事と試合に出て負けたという結果。
残ったものは金の無い現実と、プライドを捨てながら給料が入るのを待ちながら働く日々。
まああと数日で給料さ。
あんな小言を浴びせられながらの食卓になど、着く必要がようやく無くなる。
課長から誘われた大日本印刷の社員の話、あの時すぐ受ければ良かったのかな……。
給料が入り、整体時使っていた高周波とエアーコンセラーのリーズ代を振り込む。
こんな事をあと三年ちょっとも繰り返すのか……。
俺は食材を買ってきて、自分で料理をまた作るようにした。
これ以上ピーちゃんからグダグダ言われながら、食事を食べるのにはうんざりしている。
億単位の金を持つピーちゃんは、親父が社長になってから一切仕事をしていない。
昼になるとおじいちゃんとのご飯を作りに一階へ降り、夕方になるとスポーツクラブへ行く。
夜になると一階の居間でテレビを見て、三階へ上がるだけの生活。
昔から結婚願望など無いようで、俺が小さな頃はおじいちゃんがよく見合いの話を持ってきたが、迷惑そうに逃げ回っていたのは記憶している。
いつぐらいから、ここまで仲が悪くなってしまったのだろうか?
気付けば俺の分だけ食事が用意されなくなり、何をしても否定しかされなくなった気がする。
高校三年生くらいからだったっけ?
今親父の妻の座に就いた加藤皐月が、家の外でストーカーをしている時期だったよな。
当時パートだった緑を含む人妻三人でこの家に乗り込んできた加藤。
高校生の俺は、あれを見て女の醜さを知った。
あのあと親父は加藤から逃げ回っていたからこそ、あの女は毎日のように家の外で張り込み、ストーカーまがいな行動をしていたのである。
勝手に籍を入れられたから正確な時期は分からないにせよ、おそらく家へ勝手に住み着いた頃だろう。
俺の時期で言えばSFCGで働いていた頃。
二千六年だから、三十五歳もしくは三十四歳の時。
高校三年だと十八歳だから、この十六年間で親父は何故そうなった?
一時は逃げ回るほど嫌だった女から、一転してその十六年後に結婚しているんだぞ?
何が理由で親父をそうさせた?
自分に置き換えて考えてみろ。
「……」
いや、無理だ。
十六年前と言ったら、俺が思い出すのは永井泉くらいしかいない。
高校時代の同級生であり初デートした相手。
『新宿クレッシェンド』のヒロイン役の名前を泉にしたのも、この子の影響が大きい。
裏稼業ゲーム屋時代に一度久しぶりに会ってデートしただけで、それ以上の進展はなかった。
いやいや、違うだろ。
脱線するなよ。
親父が何故加藤皐月と結婚などしたのか?
何かしらの弱みを握られたから?
しかし結婚しなきゃならない弱みなんてあるのか?
こればかりは親父の口から真相を聞きたいが、これだけ拗れた親子関係では通常の会話すら無理だろう。
家の中のゴタゴタ。
俺は以前弟の徹也から責められ、SFCGを辞めて家の役員会議に首を突っ込んだ。
あれ以来俺はあまり家の騒動には一歩引いて、無関係を装うようになっている。
自身の何のプラスも無く、やり場の無い怒りとストレスが溜まるだけなのを分かったからだ。
昔から家の実情も知る先輩の坊主さんは「智、おまえ、あの家から出ろ! あそこにいるのは絶対に良くない」と何度も忠告されていた。
何故俺は家を出なかったのだろう?
決まっている。
おじいちゃんの存在があるからだ。
例えば新宿歌舞伎町時代、新宿へ住んだとする。
そしたらあの家で叔母さんのピーちゃんやら、親父と加藤皐月が何をしでかすかリアルタイムで分からない。
だからこそ俺は岩上整体を新宿でなく、川越でやったのだ。
俺がおじいちゃんを守る。
だがそうした結果、俺は何か役に立ったのか?
今じゃ出ようと思っても、その金すら持っていない現実。
力無き正義など、クソと変わらない。
何でこんな風になってしまったのだろうな……。
小説を世に出したくて頑張って出して、またリングに上がりたいから戦って負けて、今では大日本印刷で手を汚す日々。
まあいいや、腹が減った。
ジミードーナツのミートソースでも食いに行こう。
下へ降りると、パートの伊藤久子が駆け寄ってくる。
「智ちゃん、ちょっと来ておくれよ」
嫌な予感がした。
「さ、智さんがさ、またおじいちゃんに……」
居間へ行くと親父が、おじいちゃんにまた金の無心をしていた。
横には加藤皐月も一緒になって何かを抜かしている。
加藤の義理の息子であり会計士として入った大室の姿まで見えた。
南大塚の支店を売った金額四千万。
それさえも、コイツらは勝手に使い込んだ。
最近ではまだおじいちゃんから金を引っ張ろうとしていると、よく聞く。
「何やってんだ、おまえら!」
俺が怒鳴りつけると、親父は睨み付けてくる。
「テメーには関係ねえ! すっこんでろ!」
「すっこまねえな。おじいちゃんを困らせんじゃねえ」
そう…、いつだってこういう時、ピーちゃんも徹也もいない。
誰が困り果てたおじいちゃんを守るんだ。
「ですから甲子郎さん。あなたの息子の智さんはですね……」
加藤がおじいちゃんへまた話し掛ける。
その時怒った事の無いおじいちゃんが立ち上がり、メガネを外した。
「もういい! あなたはこの家から出て行ってくれ!」
こんな厳しい口調のおじいちゃんを初めて見た。
この家の主はおじいちゃん。
親父は会社の社長というだけ。
形式的にはおじいちゃんの土地を会社に貸し、本来なら家賃を払うべきなのだ。
しかし社長になった親父は、金を使うだけで家賃など一度だって払った事がない。
ここにいる加藤皐月が家に住み着いてから、すべての歯車が狂った。
常に温厚なおじいちゃん。
その家長が出ていけと言うほどなのだ、加藤は……。
すると加藤は悪びれずに薄ら笑いを浮かべる。
「あーら、お父さんが智を支えてやってくれと頼むから、私はわざわざこの家にやって来たのよ?」
白々しい嘘。
誰一人この女が家に住むのを賛成などしていない。
親父が勝手に招き入れ、気付けば物の怪のように住み着いたのだ。
「私はそんな事言っとらん!」
激高するおじいちゃん。
「あーら、年を取るって嫌ねー。自分で言った事すら年で忘れちゃうのかしら」
どこまで図々しくできているのだ、このクソ女。
「もういい! あなたはこの家を出て行ってくれ!」
「分かりました。なら、最低一千万でいいのでマンションを買って下さい」
「ふざけるなっ!」
「人に物を頼んでおいて、出て行けと言う事はそういう事です。お父さん、今すぐ現金でもいいですから用意して下さい」
これ以上おじいちゃんにストレスを与えたくなかった俺は、間に入り引き離す。
「おじいちゃん…、こんなの相手にしてたらおかしくなっちゃうよ」
「……」
「ね、お願いだから離れて! こんなのまともに取り合っちゃいけない」
おじいちゃんを離し、俺は加藤へ向き合う。
勝手に人様の家に上がり込み、略奪の限りを尽くし、まだ貪ろうとしている守銭奴。
この女との因縁は小学校三年生の頃から。
俺のお袋が家を出て行ったあと現れ、それ以来いくつもの迷惑行為を掛けられた。
高校生の頃は三人の人妻の一人として、この家へ押し掛けてきた。
そのあとは家の外で常に親父のストーカー。
俺が二十九歳で総合格闘技の試合前夜、家へ勝手に上がり込み大騒動を巻き起こした。
おかげで俺は徹夜で試合へ臨む羽目になったのだ。
親父を社長にする為、毎日のように早朝おじいちゃんの部屋へ勝手に上がり込み困らせた。
加藤は間違いなくおじいちゃんの寿命を縮めている。
二年前の家族会議、役員会議でも滅茶苦茶にされた。
この女が絡むと、いつだってロクな目に遭わない。
「おい、加藤さんよ……」
「何よ、智ちゃん。あなたには関係無いでしょ?」
「ふざけんじゃねえ! 俺はおじいちゃんの孫なんだ。テメーこそ関係ねえだろうが!」
目を見開き、右拳を握る。
「智一郎、おまえメイさんに何て口の利き方をしやがるんだ!」
「どけ、クソ親父!」
俺は親父を跳ね除け、加藤の目の前に近付く。
思い切り腕を振り被り、加藤の真横を狙って壁にパンチをした。
木の壁に拳はめり込み、勢いでそのまま右腕の肘くらいまで壁を突き抜けた。
壁から腕引き出す際、無数の破片が腕に刺さり血だらけになる。
ゆっくり引き抜いて、目の前に血だらけになった腕を見せた。
舌を出してゆっくり腕の血を舐める。
「悪いな…、腕が滑っちまったよ。加藤さん…、あんた本当に気を付けな。この家にいたら、今みたいに腕が滑る事あるからよ」
すると加藤皐月はまるでビビる様子も無く「あーら、やーねー。ああ怖い」と二階へ上がって行った。
それに親父と大室も続く。
何なんだ、あいつらは……。
本当に殺してやらないと分からないのか?
「智ちゃん、腕から血が酷いよ。早く止血しないと」
パートの伊藤久子がタオルを持って来る。
「おじいちゃん…、家の壁壊しちゃってごめんよ……」
「私は疲れたから上で寝る」
誰もいなくなった居間の中、俺一人ポツンと座る。
何でいつもこんな風になってしまうのだろう……。
こんな状況でも、夜になれば俺は大日本印刷へ行き、インクの調合をしに行かねばならない。
腕の止血をしてから食事をする為、外へ出掛けた。
美味いものを食べて、とりあえず落ち着こう。
やっぱり幼少の頃から通っているジミードーナツのミートソースしかない。
俺を癒せるのは……。
道路を歩いていると、近所の吉岡金物店が見えてくる。
ちょうど中から先輩の吉岡さんが姿を現した。
「おう、智一郎」
「あ、どうも」
「そうそう、うちのお袋から聞いたんだけどさ。おまえんとこの加藤さんいるだろ? メイさん」
「家の人間じゃないですけどね、別にあいつは」
「あれさ、本当に智一郎が言ってるようにとんでもねえな」
「あの女が何かしたんですか?」
「岩上家には二人のパラサイトがいるとか近所に言い触らしているらしいぜ。うちのお袋にも直接言ってきたって」
「パラサイト?」
嫌な表現の言葉ではある。
寄生…、主に寄生虫、寄生植物などを言う。
他のも厄介者という場合や、居候などにも現代だと使うケースもある。
親の脛を齧って生きる引き籠もりなどもパラサイトと表現されるのだろう。
「智一郎の事と、おまえの叔母さんの二人。それを指して言っているらしいぜ」
「勝手に住み着いたあの守銭奴こそ、パラサイトじゃないですか」
「うちのお袋も岩上君の家、大変ねって心配していたぞ」
本当に何故俺の親父は、あんな女を家に引き込んでしまったのだろう?
面の皮の厚さ。
何を言われても動じない太々しい精神力。
どんな風に生きてきたら、ああなるのか不思議でしょうがない。
そんな女が現在、戸籍上俺ら三兄弟の母親になっているのがとにかく許せない。
「智一郎、腕どうしたんだ? 血だらけだぞ?」
「ちょっとトレーニングで無茶しちゃいましてね」
そう言いながら俺は笑顔で答えた。
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