2025/02/05 wed
前回の章
家の隣の食堂『ひろむ』には、年上の兄妹がいた。
僕とは五歳離れた一久君と、二歳離れた良江ちゃんは、いつも非常に可愛がってくれた。
いや、良江ちゃんはそうでもないか。
学校が終わり塾に行く時間が空いている時は、いつも遊びに連れて行ってくれた。
近所のデパートのニチイへ遊びに行った時、僕はウンチをしたくて溜まらなくなった。
トイレに飛び込むと大便用のドアにはすべて鍵が掛かっている。
その場で足をバタバタさせながら足踏みしたが、十分経っても誰も出てこない。
「智ちゃんまだー?」
一ちゃんがトイレに入ってきた。
ウンチをしたと思われたくないし、僕は我慢して一緒にトイレを出る事にする。
妹の良江ちゃんは不機嫌そうに外で待っていた。
「遅いよ、智ちゃん」
「うるさいなあ。おかめみたいな膨れっ面してさあ」
「膨れていないよ!」
良江ちゃんは本当に変わった子だ。
僕らがもっと小さい時の話だけど、うちのお風呂で一緒にお風呂に入っていたら、突然良江ちゃんは僕と一ちゃんのチンチンを見て「それ、なーに?」と不思議そうに聞いてくる。
よく見ると、良江ちゃんにはチンチンが無い。
ビックリした僕は「良江ちゃん、どこかにチンチン落としちゃったんじゃないの?」と言った。
「えっ! どうしよ? チンチン落としちゃった! チンチン落としちゃった!」
そう言いながら股間を両手で押さえ、風呂場を飛び出し裸のまま家に帰ってしまった。
あとで一ちゃんから聞いた話だけど、一ちゃんのママに良江ちゃんはずっと「チンチン落としちゃった」と連発で泣き喚いていたらしい。
この件で女の子にはチンチンが全員無いと僕は知ったのだ。
「智ちゃん、早く行くよ。遅いと置いていくからね」
まったくいつもプリプリしやがって、こいつ……。
「うるさいなぁ」
「二人ともやめなよ。あ、一番上のゲームセンター行こうよ」
「うん」
最年長の一ちゃんはいつもまとめてくれ、どこに行くかもすぐに決めてくれた。
三階へ行くと、それぞれ好きなものを勝手に眺めた。
ところが僕は、楽しむどろこではない。
ウンチを我慢するのも限界が近づいている。
恥ずかしさから、またトイレに行くとも言えない。
そろそろ帰ろうかと、エレベーターの前で三人は待つ。
結局我慢できず、僕はその場で漏らしてしまった。
半ズボンの中がこんもりなっている。
エレベーターに乗ると、あっという間に臭いが籠もりだす。
自分でもそのウンチの臭いは強烈に感じた。
一ちゃんは臭いで顔をしかめ、良江ちゃんだけは普通に平然と澄ましていたが、鼻だけはヒクヒクと動いていた。
僕らだけしかエレベーターに乗っていない状況。
普通に考えてもこの三人しかいないのだ。
誰が犯人になるのは目に見えていた。
僕は自分でウンチを漏らしておきながら、絶対に知られたくないと思った。
「くせっ…、誰かウンチかオナラしたろ?」
一ちゃんがデパートの外に出た時、急にそう言い出した。
僕の顔は真っ青になる。
「ぼ、僕じゃないよ……」
咄嗟に僕は嘘をつく。
そうなると、疑われるのは良江ちゃんしかいなくなる。
「わ、私じゃないよ」
良江ちゃんも慌てて否定した。
僕は、このまま良江ちゃんのせいにしてしまえばいいと名案を思いつく。
「一ちゃん。ウンチ漏らしたの、絶対に良江ちゃんだよ。良江ちゃん、臭いよ」
「私じゃない! 私じゃないよ!」
懸命に否定する良江ちゃん。
当たり前の話である。
ウンチをしたのは僕なのだから。
「お兄ちゃん、私じゃないよ。臭いのは智ちゃんだよ」
良江ちゃんは僕を指差した。
「そんな事ないって! 良江ちゃんはいつもオナラの常習犯じゃんか」
「オナラなんか私はしないっ!」
「いつも頬っぺたをプクプク膨らませながら、ブッブッブーってオナラしてるじゃん」
「してないっ!」
お互いに譲らない僕と良江ちゃんは、取っ組み合いの喧嘩になった。
「この野郎!」
「私は野郎じゃない!」
少し身体を動かすとパンツの中の感触が気持ち悪い。
だから上半身だけを動かすよう心掛ける。
「やめなって。良江も智一郎も…。そっか分かった。いい方法を思いついたぞ」
一番年長の一ちゃんは僕らを止め、原因を突き止めようとした。
そんな余計な事なんて、しないでいいよ、一ちゃん!
心の中で必死に叫んだ。
僕は絶対に知られたくない。
「いい方法なんてある訳ないよ。だって良江ちゃんが漏らしたんだもん」
懸命に言い訳をした。
「私は漏らしてない」
良江ちゃんは涙目になっていた。
「二人とも黙って。誰が漏らしたか分かるいい方法があるんだ」
「どうするの?」
不思議そうな顔で良江ちゃんは、一ちゃんに聞く。
一ちゃんはニヤリと不適な笑みを浮かべながら口を開く。
「それはね、俺が一人一人お尻の臭いを嗅げばいいんだよ」
そんな事されたら一発で僕だとバレてしまう。
必死になって抵抗した。
「や、やだよ。そんな事されるんの嫌だよ」
「おいおい、ちょっと。うちの店の前でそんな会話しないでくれよ」
ホットドック屋のおじさんが、僕たちを見て怒っていた。
確かに商売の邪魔になるという以外、言いようがない。
僕はバレるのが嫌で、どさくさに紛れ家に向かって一目散に逃げた。
ある日の夕方、一番下の弟である貴彦が、いつまで経っても泣き止まなかった。
いつものようにママはいない。
途方にくれた僕は、おばあちゃんのところへ貴彦を連れて行った。
おばあちゃんが子守唄をしながら貴彦をあやすと、あっという間に眠りにつく。
ホッとした僕は部屋に戻り、徹也と一緒にテレビを見ていた。
「あ、ママ…。おかえりなさい」
「ただいま」
マズい……。
貴彦はおばあちゃんの部屋で寝たままだ。
「あれ、貴彦はどうしたの?」
いつもいるはずの貴彦がいなければ、ママだってすぐに気づく。
「……」
「智一郎、貴彦は?」
「……」
小刻みに震える身体。
僕の肩に手をかける徹也の手も震えていた。
「貴彦は?」
「……」
「もう一回だけ聞くよ? 貴彦は?」
「お…、おばあちゃんの部屋……」
それを聞くと、ママは血相を変え部屋から出て行く。
「お兄ちゃん……」
徹也が心配そうな表情で声を掛けてくる。
「シッ! 静かにしてろよ」
僕だって何もできやしない。今、できる事……。
それは出来る限り、ママの逆鱗に触れない事である。
弟と二人しかいないはずの部屋で、僕らは何故か正座をして姿勢正しくしていた。
「徹也、テレビ消して」
「え、何で?」
「お願いだから!」
ふてくされ気味の徹也。
理不尽かもしれないけど、少しでもママの怒りそうな要因を減らしておきたかった。
シーンと静まり返った室内。
映画館から流れてくる音楽と、道路を走る車の音だけが聞こえる。
「……!」
それ以外の音…、いや、声が聞こえたような気がした。
慌てて僕は部屋を出て、ベランダのほうへ向かう。
妙な胸騒ぎがしたのだ。
おばあちゃんたちの部屋は、段差違いの隣の家の二階。
何度も増築を重ねた僕の家は、他の家と少し変わった造りになっていた。
四段ほどの鉄筋階段を渡ればベランダ。
扉を開ければおばあちゃんたちの部屋になっている。
「あぁー……」
やっぱり声が聞こえる。
その時、鬼のような形相のママの姿が見えた。
そのあとで右手が視界に映る。
ママの右手には、まだ幼い貴彦の足首が握られていた。
「や、やめてっ!」
信じられない行為に、思わず口を開く。
下がザラザラしたコンクリートの上をママは貴彦の足首を持ち、引きずりながら歩いていたのだ。
弟の貴彦は強引に引きずられ、ただ泣くしかない。
「どきなよ、智一郎」
僕の抵抗など、ママの前では何の役にも立たない。
この間のみゃうの件で、嫌ってほど分かっているつもり。
それでも僕は、懸命に貴彦を助けようと向かう。
何度も殴られ、コンクリートの上に転ぶ。
どうなっても構わなかった。
この騒ぎを聞きつければ、おじいちゃんたちが助けに来てくれる。
そんな確信があった。
「おいっ! 何やってんだ!」
悪鬼羅刹と化したママに向かって、おじいちゃんが血相を変えて駆けつける。
家で働く従業員たちも大勢ベランダに駆けつけ、ただでさえ狭いベランダは大人数でいっぱいになる。
僕は貴彦と徹也の手を引き、二階のキッチンの片隅でその状況を震えながら眺めていた。
この日を境に、貴彦だけはおばあちゃんたちの部屋で寝る事になった。
もう貴彦があのような目に遭う事はないという安堵感。
だけど逆に一人安全で楽しい場所へ行けた貴彦を恨めしくも感じた。
この当時、めんこが大ブームになった。
形状として丸いタイプのものと、四角いタイプのものがあった。
僕らは丸いタイプのめんこをまるめんと呼び、蓮馨寺の境内の中にあるできるだけ平らな岩を見つけて遊んだ。
このまるめんと呼ばれためんこは、買う値段によって大きさが違った。
主流となったのは五円めんと十円めんだった。
手頃な値段で買え、大きさも直径五センチから十センチで持ちやすいのが特徴だ。
丸い厚紙の上に書かれたアニメや有名人のキャラクター。
パパはルパン三世が好きみたいだから、そのめんこだけは大事に保管している。
みんな、それぞれ好きなめんこを十枚は持っていた。
各自、平らな岩の上にめんこを置き、めんこは始まる。
勝負方法はいたって単純で、順番のきた人がめんこを叩きつけ、他のめんこが岩から落ちたり、ひっくり返ったり、めんこの下に自分をめんこを少しでも潜り込ませれば勝ちになった。
遊びとはいっても、負けたほうは自分の宝物同然のめんこを相手に取られるのである。
大事なものの奪い合いは、子供たちを真剣にさせた。
早めに家を出て、塾に行く前に僕はよく参加した。
センスがあったのか、めんこの数はどんどん増えていった。
同じクラスの内野正人が、僕のめんこコレクションを家まで見に来たくらいたくさんある。
日曜日の昼間などは、弟の徹也を連れ、公園に向かう。
その内、代えめん有りと呼ばれる変則ルールが流行りだす。
自分がめんこを置く時、とられてもいいやつに変えてもよいというルールだった。
逆にこれは、真剣勝負の醍醐味を半減させた。
中にはろうめんと言われた直径二センチ程度の小さなめんこがあり、それをかえめんに使う者まで出没した。
ろうめんは十枚ほどの小さなめんこがロウで簡単に固められて売られており、二十円ぐらいで購入できた。
気付けば、めんこブームはあっという間に過ぎ去り、僕の家には紙袋いっぱいに入っためんこが埃をかぶっていた。
近くの駐車場でスーパーカーの展示会があった。
僕は隣の食堂『ひろむ』の一ちゃんに連れられ、会場に行く。
チンチンのない良江ちゃんは、車に興味がないのかプクッとむくれて「私は行かないから」と素っ気なかった。
以前消しゴムのスーパーカーのガチャガチャをやり、カウンタックやフェラーリ、ランボルギーニミウラなどを僕は何個か持っていた。
会場に着くと、僕は圧倒された。
消しゴムでしか見た事がないスーパーカーが、目の前にたくさんあったのだから。
赤いカウンタック。
青のフェラーリ。
黄色のランボルギーニミウラ。
派手な外観の名前も分からない車。
今思えば、三十台も停められない普通の駐車場に、そのような展示会があったのだ。
非常に豊かな時代だったといえよう。
その記憶は今でも薄っすらと脳裏に焼きついている。
幼き頃の良き思い出の一つであった。
僕は興奮して鼻を膨らませながら、会場を走り回る。
名前の知らない車も多数あった。
車のドアが上向きに開く、ガルウイング型のカウンタックが一番のお気に入りだった。
他の車と違い、平らにつぶれているように見える低い車高。
フェラーリにしても、外観は非常に特徴的だった。
誰もがひと目で見て分かる外観を持つのが、スーパーカーなのだと思った。
一人ではしゃいでいた僕は、連れてきてくれた一ちゃんの存在を思い出し、辺りを見回す。
会場の中は多くの人で賑わい、子供だけでなく大人もたくさんいる。
僕は人を押しのけながら必死に探す。
遠くのほうで、見た事のないような車の前に一ちゃんはいた。
僕が近づいても、一ちゃんはその車をジッと眺めている。
「これって何の車なの?」
「ランボルギーニイオタって車だよ」
「へー、イオタ」
「そう、イオタ」
「ミウラの仲間かな」
「よく分からないけど、多分そうだよ」
「カウンタックは?」
「あれは違うんじゃないの」
「ふーん」
スーパーカーに対する知識など、ほとんど持っていない僕たちは適当な事を言っていた。
でも、見ているだけで楽しかった。
どの車も格好良かった。
僕の小遣いは一日百円。
お菓子は我慢して、蓮馨寺の敷地内にある『ピープルランド』でインベーダーを塾の帰りに一度やって無くなる。
その展示会を見てから僕はインベーダーを我慢して、ガチャガチャに小遣いを使うようにした。
蓮馨寺へ行く途中にある立門前通りの駄菓子屋『高松屋』。
店頭の横に一台だけ置いてあるガチャガチャは、一回二十円。
十円玉を二枚重ね、投入口に入れる。
レバーを右方向に一回転ひねると、うずらの卵をちょっと大きくしたぐらいのカプセルが出てくる。
中にはスーパーカーの消しゴムが一つ入っていた。
小学校一年生の頃はゴジラの消しゴムのガチャガチャだったが、『高松屋』のおばさんも時代の流行りを取り入れたのだろう。
僕は一ちゃんがお気に入りのランボルギーニイオタが当たるまで、インベーダーを我慢してやり続けた。
小学校二年生の二月になった。
寒さを振り切るように、僕は学校の帰り道を走っていた。
横にはレコード屋音羽屋の陽吾君も一緒に走っている。
基本的にこの二人で行動を共にする事が多く、帰りはほとんど一緒に帰っていた。
「うー、寒い」
「ブー」
「智ちゃんは、今日も帰ったら塾なの?」
「うん」
「たまには一緒に遊びたいなあ」
「無理だよ。塾に行かないとママに怒られちゃうもん」
「え、智ちゃんのお母さんって優しそうじゃん。たまに怒ったりするの?」
僕はちゃんと答えていいか、困ってしまった。
陽吾君はママの本来の顔を知らずにいるのだ。
わざわざ言う必要もないだろうと判断した。
「い、いつも優しくても、塾をサボったら怒られるよ」
「そりゃそうだね」
家の近くの十字路まで来て、お互いはそれぞれの方向に行く。
陽吾君の後姿を見ながら、今日は何の塾だったか思い出す。
今日は勉強塾だけだ。
今、帰っても行くまでに二時間はある。
そう思った僕は大声で叫んだ。
「陽吾くーん」
声に反応して立ち止まる陽吾君。
「やっぱり今日、ちょっとだけなら遊べるようー」
そう言いながら、僕は走り出した。
「ほんとー。じゃあ、うちにおいでよ。お母さんもきっと喜ぶよ」
「うん」
久しぶりにレコード屋の『音羽屋』を営む陽吾君の家へお邪魔した。
彼の家と店は別々にあって、『音羽屋』は銀座通りにあり、家は少しだけ離れたママの実家の本屋の裏通りにある。
陽吾君のお母さんは、笑顔で僕を出迎えてくれた。
「あらー、智ちゃん。ほんとに久しぶりねー。成績がいいんでしょ? うちの陽吾から、いつも聞いてるわよ」
「い、いえ」
照れ臭そうに笑うしか、対応のしようがなかった。
もちろん誉められて悪い気はせず、僕は嬉しかった。
お邪魔したのは一時間ぐらいだったが、ジュースとお茶菓子を出してもらい、丁重に扱ってもらえた。
陽吾君の家の麦茶は変わっていて、少しだけ甘い。
何でか聞くと砂糖をちょっと入れているみたいだ。
学校での些細な事をお互いに話してたくさん笑った。
陽吾君は漫画のコレクションを持っていて、ちばあきおの『キャプテン』と『プレイボール』を全巻持っていた。
陽吾君のお父さんは、レコード屋以外に二階にある書斎で油絵を書いている。
二階の書斎へ通されると独特の絵の具の匂いが充満していた。
友達と遊ぶのは楽しい。
そんな当たり前の事に、僕は感動を覚えた。
陽吾君と別れを済ませ、家に戻る。
ママに遊んだの、バレないかな…。
ドキドキしながら玄関のドアを開けた。
「チクショー!」
物凄い高音のママの声が響いてくる。
僕はランドセルを背負ったまま、玄関先で立ち尽くした。
一体、何が起こっているのだろう。
不安が心に覆いかぶさる。
「落ち着きなさい」
「うるせえ、チクショー!」
声は居間の方向から聞こえてくる。
声以外にも壁へ誰かのぶつかる音もした。
家の中の暖房が少し暑く感じ、ランドセルとジャンバーを床に置く。
「落ち着けって」
パパの弟である修叔父さんの声が聞こえてくる。
「離しやがれ!」
ママが怒り狂っている。
僕は直感的に理解し、身体が震えた。
二階の部屋に行くべきか。
でも部屋に今の状態のママが来たらどうしよう……。
色々考えを巡らせたが、結局玄関先でそのまま固まっていた。
「いい加減にしろ」
「うるせえ!」
居間の扉が勢いよく開き、廊下にママの姿が半分だけ見えた。
見た瞬間、僕の震えはさらに大きくなる。
修叔父さんがママの両肩を抑えていた。
周りにはおじいちゃんを始め、せっちゃんや健ちゃんも心配そうに眺めている。
「いいから落ち着きなさい」
「うるせえ、離しやがれ!」
「ほら、子供だって見ているだろ」
その言葉にママは僕の方向へ振り返った。
顔を見て、僕はギョッとなる。
以前見た、鬼の表情になっていた。
川に投げ捨てられた猫のみゃうの時を思い出す。
左目の上の傷が痛み、小刻みに痙攣していた。
「……」
僕は声も出せず、ただ立ちすくんでいた。
ママは僕と目が合うと近づいてきた。
ママの目は黒い涙が流れていた。
鬼が黒い涙を流している。
「智一郎、私はね……」
そう言いながらママは僕の両肩をつかむ。
爪が肩に食い込む。
鋭い痛みが走った。
ママのおばあちゃんが手首をつかまれ、血を流した時の事を思い出す。
「い、痛いよ……」
「私はね、こういう風にされたんだよ。分かるかい? こんな風に…。こんな風に両肩を強くつかまれたんだよ!」
怖さと痛みで僕は泣き出した。
「ママ、痛い……」
「私はね、こんな風にされたんだよ。分かるかい?」
「ママ、痛い…。痛いよー!」
爪はどんどん肩に食い込んでいくような感じがする。
僕は必死になって痛みを訴えた。
「何やってんだ。離しなさい。子供相手にやめなさい」
「馬鹿野郎、何をしてんだ!」
「奥さん、お願いだから落ち着いて……」
「いい加減にしろよ!」
色々な人の声が聞こえた。
涙で曇った僕の視界には、どのような状況になっているのか分からないでいる。
「関係ねえだろ。離せ、離しやがれ!」
肩をつかんでいた両手が離れる。
それでも痛みは残ったままだった。
涙が止まらずにあふれ出た。
誰かに抱きかかえられる感覚を覚え、僕の身体は宙に浮く。
「大丈夫だったか。可哀相に…、可哀相に……」
おじいちゃんの声だった。
僕は手で涙をぬぐう。
ぼんやりとおじいちゃんの顔が見える。
そして僕の両肩からは、血が流れていた。
「智一郎、大丈夫かい?」
おじいちゃんは泣きながら、僕に微笑みかけていた。
「うん……」
僕が返事をすると、おじいちゃんは顔をくちゃくちゃにして泣いた。
「こ…、こっちにおいで……」
抱いたまま、僕は居間に通された。
おばあちゃんやおばさんが泣きながら僕を見つめていた。
お手伝いのせっちゃんの顔も泣いていた。
「チキショー!」
玄関でママの声が聞こえる。
おじいちゃんは僕を降ろして、居間を出た。
ドアを何度も叩きつける音がした。
僕の左目の上の傷が疼きだす。
「何してんだ。やめなさい!」
「チキショー、チキショー、チキショー!」
声と同時にドアを叩きつける音がする。
僕は恐る恐る覗き込んだ。
「チキショー、チキショー、チキショー!」
ママは玄関のドアを何度も開けて叩きつけていた。
叩きつける度、ドアの横の頑丈な曇りガラスに、ヒビが入るのが見えた。
それでも構わずママは同じように叩きつけている。
「やめろ!」
みんな、言うだけで、その剣幕に圧倒されていた。
誰もママには近寄れない。
異様で恐ろしい光景だった。
外に出て、ドアを何度も叩きつけるママ。
ドアの隙間から見えるママの表情は、もはや人間に見えなかった。
僕はいつの間にか廊下に出て、母親の姿をジッと眺めていた。
まぶたはピクピクと細かく痙攣している。
「チキショー!」
その言葉以外の日本語を忘れたかのように、ママは錯乱していた。
瞬間的に視線が合った気がした。
その時、他の人の身体が視界を遮り、僕の目には横のガラスだけが映った。
ドアを叩きつける度に、ガラスにヒビが入っていく。
その様子を僕は、ずっと息をひそめて見つめていた。
ヒステリック……。
または、ヒステリー……。
こういう人間をそう呼ぶのだろうな。
この日は塾を休み、弟たちと一緒に部屋にいた。
ママはあれから外に飛び出したっきり、家に帰ってきていない。
まだ肩がズキズキと痛みを発していた。
塾にも行かず、弟らと呑気にテレビを見るなど、本当に久しぶりだった。
弟は仮面ライダーを見て、興奮して体を動かしている。
「お兄ちゃん、ジャッチーチュンと仮面ライダーどっちが強いのかな?」
先ほどの光景を知らない徹也は無邪気に質問をしてくる。
徹也の言い方がおかしくて、笑いそうになった。
おかげで少し気分も紛れたようだ。
「ジャッチーチュンじゃなくて、ジャッキーチェンだよ。うーん、どっちかな」
「どっちだろうね」
「分かんないな」
「貴彦はどっち?」
よちよち歩きの貴彦にも徹也は聞いていた。
何を言っているのか意味も分からず、貴彦はニコニコしている。
さっきのが僕じゃなくて弟たちだったら……。
想像すると身体が震えた。
夕方になってパパが部屋に帰ってくる。
おじいちゃんから様子を聞いたのか、僕の肩を真っ先に見た。
真剣な眼差しで僕の両肩を見るパパの目は鋭い。
僕の顔を見ると、笑顔で頭を撫でてくれた。
久しぶりに家族全員、一階の居間で食事をした。
珍しくパパまで食卓にいる。
当たり前だけど、その場にママだけがいなかった。
おばあちゃんは頑張って、豪華な料理を色々と作ってくれた。
胃袋が満足するまで腹に詰め込んだ。
誰も先ほどの話題には触れなかった。
みんな無理に明るく振舞おうとしているのが、僕でも理解できた。
強くなりたい……。
強くならなきゃ殺されちゃう……。
勉強だけできても、何の役にも立たないんだ。
頭の中で、ジャッキーチェンと自分を重ね合わせようとしたが、どう頑張っても無理だった。
二段ベッドの上で寝ていると、自然と目が覚めた。
電気を消して真っ暗なはずの部屋が、薄明るくなっている。
左を向くと、パパは布団でいびきを掻いて寝ていた。
ふと右側に人の気配を感じる。
ゆっくり振り向くと、ママがベッドに向かって立っていた。
ベッドの横の柵の間から見えるママの表情は、穏やかでとても優しそうに微笑んでいた。
こんな表情のママを見たのは久しぶりだ。
僕と目が合うと、ニコリと微笑んでくれる。
僕も見ていて自然と笑顔になった。
不思議と恐怖は感じない。
額に手がそっと置かれる。
ママの手だった。
気のせいか、小刻みに震えているように思えた。
徐々に手は額から目を覆っていく。
僕は視界を塞がれた状態になった。
何だか昔の優しいママに戻ったみたいだ。
目を閉じると再び睡魔が襲い掛かり、僕はそのまま寝てしまった。
「あー…。あー……」
泣き声で、僕は再び目覚めた。
上半身を起こし、辺りを伺う。
貴彦の鳴き声が聞こえてくるだけだった。
僕はベッドの二階から降りる。
まだ寝ている徹也の横で、貴彦は大泣きしていた。
パパは相変わらず、いびきを掻いて寝ている。
僕は貴彦を抱っこして、懸命にあやした。
すぐに貴彦は泣き止んでくれる。
僕の顔を見てニコニコしている。
まったく無邪気なものだ。
時計を見ると、朝の七時だった。
何故かいつもと部屋の中の空気が違うように感じる。
特にどこも変わった事はない。
でも、何かしらの違和感がある。
肌で分かった。
昨日の夜中の事は僕の夢だったのだろうか。
思い出すと、不思議な光景だった。
そういえばママがいない。
これまでもママのいない朝は何度かあった。
でも、僕には何となく理解できた。
もうここへ、ママは二度と戻ってこないのだと……。
七時半になると人形屋の守屋淳一君のお母さんが、何故か部屋にやってきた。
淳一君とは双葉幼稚園からの同級生。
ママと淳一君のお母さんが仲がいいのは知っていた。
前に本川越駅近くにある『パーラーイズミ』に親子同士で一緒に行った事もある。
僕や徹也の顔を見ると下をうつむき、静かに泣き出した。
「智ちゃん…。可哀相にね…。可哀相にね……」
何で淳一君のお母さんが泣くのか、僕にはまるで理解できなかった。
何が可哀相なのだろうか?
「おはようございます」
「おはよう…。おばさんが今、ご飯作ってあげるからね……」
そう言うと、淳一君のお母さんはバターロールをオーブントースターに入れて、キッチンに立った。
僕は黙ってその光景を見つめるだけ。
横で幼稚園の徹也も、不思議そうに眺めていた。
ジュージューとフライパンの音を立てながら、淳一君のお母さんは時折涙を拭う。
綺麗なお母さんなのに、顔がグシュグシュになっている。
おいしそうなハムエッグに野菜を盛り付けて、そのお皿はテーブルの上に置かれた。
「バター塗って上げようか?」
「うん」
淳一君のお母さんはとても親切に接してくれる。
とても優しかった。
丁寧にバターロールへバターをぬり、徹也や僕に手渡す。
食べている僕を淳一君のお母さんは笑顔で見つめていた。
何でママの代わりに朝食を作ってくれたのかは分からない。
当たり前だがこの日からママが、家に戻ってくる事は二度となかった。
でも、寂しさやショックを感じた事はない。
ママのいない生活を僕は自然と受け止めている。
どこかでホッと胸を撫で下ろしている自分がいた。
これでもう、殺される事はないのだから……。
ママが家を出て行ってから、僕の生活はかなり変化した。
最大の変化は習い事を八つもしていたのに、ピアノ以外の塾はすべて行かなくてもいいようになった。
ピアノだけは僕が先生に会えなくなるのが嫌で、自分から続けたいとお願いした。
優しく接してくれた先生と離れるのは嫌だった。
次に変わった事といえば、僕たち三兄弟は誰の前でも気にせず、心から笑えるようになったという事だろう。
好きな時、自由に笑ってもいいのだ。
それで誰かに怒られる事はない。
笑えるという行為に、僕は自由を感じた。
ご飯もみんなで食べられるようになった。
僕はいつも必死に焦って食べた。
「ほら、智ちゃん。ゆっくり噛んで食べなさい」
おばあちゃんにそう言われても、好きなだけ食べられるという環境がすぐには信じられなかった。
目を閉じた瞬間に、目の前のご馳走が無くなるかもしれない。
そんな変な想像ばかりしていた。
こんなに自由でいいのだろうか。
僕は急に訪れた自由に一抹の不安を感じる。
目の前で次々と実現する光景が、どこか夢の世界のように感じた。
学校が終っても、友達と好きに遊んでいい。
がま口の財布を持たされ、初めて一人で買い物にも行かされるようにもなった。
うちを出て真っ直ぐ進むとぶつかるT字路。
そこを左に行くと二軒先に『金子八百屋』があった。
ピーちゃんに頼まれ、ここでよく野菜を買いに行く。
家の床を毎日掃除するようになった。
やる事、すべてが新鮮に映る。
ある日、パパがどこからか猫をもらってきた。
みゃうと同じ三毛猫だった。
まだその猫は生まれたてで、とても小さかった。
僕はその猫に『ちゃけ』と名づけた。
ちゃけはあどけない表情でいつもボーっとしていた。
みゃうが生きていたら、もし、ここにいたら……。
そう思うと悲しくなった。
僕はちゃけに、みゃうの姿を重ね合わせている。
不思議と、誰もママがいなくなった事には触れなかった。
学校でもそうだった。
自然と友達も増えたような気がする。
学校の先生も、ママの事を何も言ってこなかった。
一つだけ気に掛かる事がある。
ママのお姉さんの子供、裕子ちゃん。
彼女とはクラスは違っても、同じ小学校に通っていた。
たまたま廊下で会うといつも笑顔で話をしていたのに、ママが出て行ってからは僕と会うと睨みつけるようになった。
そんな事から会話もしなくなる。
そのせいか近所に住むママのおばあちゃん家の本屋も、裕子ちゃんと顔を合わせたくない為に、自然と行かなくなったような気がする。
もちろんママがいる可能性もあるのだ。
本屋の隣には幼稚園から一緒の笠間靖史君の『笠間呉服店』、道路を挟んだ斜め向かいには守屋淳一君の人形屋『秀月モリヤ』がある。
あの辺りは歩かないほうがいいなと思う。
日曜日になると、伯母さんであるピーちゃんは、近所のデパートのニチイに連れて行ってくれた。
僕だけじゃなく、弟二人も一緒にである。
僕たちの目が二階のレストランのショーウィンドーに止まると、ピーちゃんはその場に立ち止まった。
「何が食べたい?」
「い、いいの……?」
「何、遠慮してんの。どれがいい?」
ピーちゃんは僕ら兄弟にショーウィンドーを指差して、ニッコリ笑う。
ガラスの中で飾られた食べ物の見本は、どれもこれもすべて美味しそうに感じる。
青い車の形をしたお皿の上へ、豪華に盛り付けられたお子様ランチ。
フォークが宙にパスタを巻いた状態で浮かぶミートソース。
にんじんとフライドポテトが添えられたハンバーグ。
鉄板の上で盛り付けられた焼きそば。
前にせっちゃんに連れられご馳走になったのと同じクリームソーダ。
厚く切ったパンの耳までチーズが垂れ下がっているピザトースト。
こんがりと焼けたグラタン。
どれを見ても目移りしてしまう。
徹也も同じようにショーウィンドーに顔をくっつけて、ボーっと眺めている。
家で出てくる食事とは違ったタイプのメニューは、見ているだけで楽しませてくれた。
いつもその場所をママと通り過ぎるだけだった僕。
こんなにゆっくりと、目の前で見られるだけで幸せだった。
「好きなもの食べていいのよ」
ピーちゃんは笑いながら僕たちに言った。
つい僕は飾られた料理の見本の下にある金額を見てしまう。
お子様ランチは六百円。
ミートソースは五百円。
メロンソーダは三百円。
ピザトーストは三百五十円…。
どれも僕のお小遣いでは食べられないものばかりだ。
「私も見てて、お腹減っちゃったよ」
「う、うん……」
「どれがいい?」
「ピ、ピザトースト……」
「徹也は?」
「お子様ランチ」
「はいはい」
素直にお子様ランチを頼める徹也が羨ましかった。
僕は値段を気にして、ピザトーストにしてしまった。
「あー」
「はいはい、貴彦は私と一緒に食べようね」
中に入ると、色々な家族がテーブルに座っている。
賑やかで楽しそうな空間。
初めてその空間を目にした僕は自然と笑顔になった。
窓際の席に案内され席につくと、徹也は窓の外をジッと眺めていた。
窓から見える景色。
同じ町並みが違った場所に見える。
運ばれてきたピザトーストはとてもおいしそうだった。
見本など比べ物にならないほど光り輝いて見えた。
徹也の頼んだお子様ランチが目につく。
チキンライスの上に刺さったアメリカの国旗が印象的だった。
徹也はおまけに車のおもちゃを店からプレゼントされ、満足そうに嬉しがっている。
僕もお子様ランチにすれば良かった。素直にいえなかった自分を恨めしく思う。
「智一郎、冷めちゃうよ。早く食べなよ」
「うん……」
一口齧ってみる。チーズは熱で長く伸び、出来る限り伸ばそうとした。
それだけで僕はお子様ランチの事など忘れ夢中になった。
喫茶店のピザトーストとは、一味違う美味しさだった。
僕の食べっぷりをピーちゃんは、目を細めて眺めていた。
家の目の前の映画館で、松本清張原作『鬼畜』が放映された。
不思議と自分の家の近くで撮影があったので、この映画だけは幼心ながら鮮明に覚えている。
この映画を初めて見に行った時、自分達の環境と重なるものがあり、最後には涙を流している自分がいた。
映画の内容は、確かこんな感じであった。
主役の男が妻と子供三人を残し、出稼ぎに出る。
勤め先で新しい女性と関係を持った男は、籍を入れた形で一緒に住んでいた。
いつの間にか仕送りも途絶え何も知らない元妻は、子供三人連れで職場まで押し掛ける。
修羅場となった職場。
二人の女はどちらも譲らず、押し掛けた元妻は子供三人を置いて消息を絶つ。
夜、それに気づいた男は慌てて外に飛び出すが、姿は見えなかった。
このシーンの時に、僕はママと一緒に撮影現場を見ていたのだ。
撮影なんて知らない僕は、道路へ出ると「駄目だよ、僕!」と怒られた。
後々知ったのが、俳優の緒形拳が飛び出すシーンは、僕のせいで一度NGとなったようだ。
子供三人もいたとは知らなかった現妻は、烈火の如く怒りを男へぶつける。
出て行った元妻を探すも見つからず、とうとうその職場で奇妙な共同生活が始まった。
我が子なので、どうしても放って置けない男。
一緒に住んでいた妻は激しく憎悪を燃やし始める。
一番下の男の子は、ある日ご飯の入った釜にいたずらで醤油をかけて遊んでいた。
まだ二、三歳ぐらいなので仕方ない。
そこを妻に見つかり「ふざけやがって、食ってみろ!」と強引に口の中へ飯を詰め込んだ。
僕と同じ三兄弟。
末っ子の貴彦とほぼ変わらないぐらいの子の虐待シーンは、見ていて吐き気がする。
それから妻の血の繋がらない子供三人への鬼畜な行為が始まった。
一番下の子は、寝ている最中シーツが顔にかぶり、窒息死してしまう。
見ているだけではそれが自然でなってしまったものなのか、もしくは現妻が意図的にした行為なのかは分からない。
二番目の女の子は東京タワーに置いてきぼり。
置き去りにする前に、食堂で「父ちゃんの名前分かるか?」と聞き、「父ちゃんは父ちゃんだよ」と苗字も分からないのを確認してからの置き去り行為であった。
しかし妙な違和感がある。
東京タワーのレストランで食事をという設定なのだろうが、地元にいる僕にはすぐ違いが分かった。
伯母さんのピーちゃんがよく連れていってくれたデパート丸広のレストランそのものだったからだ。
この時、映画でも嘘をつく事はあるんだなあと不思議に感じた。
そして残り一人、長男の男の子。
僕と同じ年ぐらい。
妻は男に殺せと促した。
動物園に連れて行かれ、青酸カリ入りのアンパンを食べさせられそうになったが、変な味がすると危険を回避する。
強引に食わせようとする父親。
たまたま通行人が通り掛かり、現実へと引き戻された。
男は長男と旅行へ行く。
昔話をしている内に寝てしまう長男。
男は無情にも長男を崖から落としてしまう。
無事三人の重荷をなくした夫婦に、ある日警察の調査が入った。
長男だけは、運良く崖の途中にあった木の枝に引っ掛かり、命は助かっていたのである。
警察署へ連行された男は、長男を目の前に出され、「これは君のお父さんかい?」と問いただす。
幼い長男は自分の父親だと言えば捕まってしまうと分かり、「違うよ。知らない人だよ」と懸命にかばう。
自分が殺され掛けたのに、けなげ我が父をかばう長男。
男は自分の子を人目はばからず、抱きしめ号泣するというお話だった。
同じ三兄弟。
鬼畜のような親。
どこか自分たち兄弟と重なり合う部分が多かった。
そして鬼畜のような現妻に、ママの姿を連想された。
いつも遊んでいる場所が、映画にも出てきて不思議な気分だった。
この映画の兄弟に比べたら、まだまだ僕らは幸せなのかもしれない。
何故なら、鬼畜のようなママは家を出て行き、今はいない。
捨てられる事も、殺されるような事も無いのだから……。
僕は、小学校三年生を迎えた。
出て行ったママの印象。
ヒステリーで、恐ろしかった。
過去、優しくされた事などいっぱいあったはずなのに、思い出すのは恐怖な出来事ばかりで、鬼のような形相のママしか思い出せない。
新しく学校生活を楽しく送りたい。
もう、怖いママは家にいないのだ。
自分自身、変わりたかった。
二年生の冬にママが家を出て、自由になった僕は開放感に満ち溢れ、その自由を少し履き違えていた。
新しいクラス、新しい先生。
母方の従兄弟の裕子ちゃんと同じクラスにならなくてホッとする。
クラスメイトも、かなり顔ぶれが違うというのもあって、自分の感情を表に出し始めた。
強めに発言すると、ほとんどのクラスの生徒たちは僕の言う事を聞いてくれる。
男と女は違うと感じたのもこの頃であった。
弟の徹也も小学一年生として、同じ学校に入学してきた。
不安と希望でいっぱいなのだろう。
心細そうな表情で僕の手を握ってくる。
学校から帰ると、徹也は少し興奮気味にクラスメイトの事や先生の事を話した。
隣の食堂『ひろむ』の一ちゃんは中学に行き、妹の良江ちゃんと同じ登校班になった。
二歳年上の良江ちゃんは一ちゃんがいなくなると、前よりお姉さんぶって接しているように見える。
朝、集合場所へ向かおうと徹也と一緒に家を出ると、隣からタイミングよく良江ちゃんが出てきた。
「良江ちゃん、おはよー」
「智ちゃん、ちゃんとしっかり帽子を被りなさいよ。徹也ちゃんだって、いるんだからお兄さんらしくしないとね」
弟の前でいきなり口うるさく言われ、僕はカッと頭に血がのぼった。
「ちゃんと被ってるよ」
「私は五年生で班の副班長になったのよ。ちゃんと私の行動に従ってね。いい?」
急に年上ぶる良江ちゃんの態度に、僕はイライラした。
「うるさいな、一ちゃんがいた時は、喋るの苦手だったくせに…。急に威張るなよ」
「別に威張ってないよ。私は副班長として、ちゃんとするように言ってるの」
「ふん」
「何よ、その態度は…。前にあなたがデパートでウンチを漏らした事、みんなに言いつけるわよ。いいの?」
「え、お兄ちゃん、ウンチ漏らしたの?」
僕は顔が真っ赤になった。
この女、あの時の事をまだ覚えてやがった。
徹也は不思議そうに僕を見ている。
このままでは兄として、威厳が保てない。
少しうろたえたが、すぐに冷静になる。
考えてみれば、あの時は誰がウンチを漏らしたのかちゃんと調べていない。
一ちゃんが家に帰って良江ちゃんだけお尻の臭いを嗅いだとは思えない。
「あれは僕じゃないよ」
このまま誤魔化してやればいい。
「何言ってんの。あなたしかいないじゃない」
「ふん、漏らしたのは良江ちゃんじゃないか」
「私じゃない! ふん、みんなに言ってやるから」
普段物静かな良江ちゃんは金切り声をあげた。
あの無表情な良江ちゃんがヒステリックになるとは……。
それでも、ママと比べるとまったく怖くない。
自然と顔がニヤけてくる。
横で徹也が不思議そうな様子で僕を眺めていた。
集合場所に到着。
「おはよう」
「おはよー」
最初の余裕はどこにいったものやら、良江ちゃんは挨拶も班員にしない。
同級生のパン屋の『ベーカリーナカノ』の健ちゃん、そしてラーメン屋『幸楽』の安達すみれ、『間中歯医者』の間中和恵もこっちを見ている。
徹也と同級生の『金子八百屋』の金子真弓まで驚いた顔をしていた。
この時を僕はチャンスと動く。
「みんな、聞いてよ。この間、良江ちゃんってデパートで、ウンチ漏らしたんだよ。良江ちゃん、臭いよ。臭い、臭い……」
「ウンチ漏らした。ウンチ漏らした。くちゃい。」
徹也まで僕の真似をして同じ事を言い出した。
ナイスな兄弟タッグだった。
みんなの前でいきなり切り出された良江ちゃんは、かなり動揺している。
「ち、違う…。私じゃ……」
「ほら、顔が真っ赤になったでしょ? 絶対にほんとだよ」
「……」
トマトのように真っ赤な顔で立ち尽くす良江ちゃん。
下を向いて涙を溜めていた。
本当は僕がしたのをうまくなすりつけられたなのに……。
班員はみんな、大笑いしていた。
「臭いよ、良江ちゃん」
さらに僕は繰り返し責めた。
良江ちゃんはとうとう泣き出してしまう。
やり過ぎたかな。
女の涙を見た僕は、少し後悔する。
無言で家の方向へ帰る良江ちゃん。
後ろ姿を見て、可哀相に感じた。
「やり過ぎじゃないの?」
パン屋の健ちゃんが声を掛けてくる。
さすがに僕も反省した。
良江ちゃんの気持ちをもっと考えてやんないと……。
彼女はそれから一週間、学校を休んだ。
僕はなかなか謝りにも行けず、心の中が常にモヤモヤしていた。