2025/02/04 tue
パパ、ママ……。
「何で僕を産んだの?」
死ぬまでに、一度でいいから聞いてみたい。
まだ自分の事を「僕」と呼んでいた時代。
俺は、男三兄弟の長男『岩上智一郎』として生まれた。
本家の初孫である。
近くの距離には親戚もたくさんいた。
だから当然色々な人に可愛がられる。
「智ちゃん」
みんなそう呼びながら、満面の笑顔で優しく接してくれた。
幼き頃の写真を見ると、非常にあどけない顔をしている。
この当時はまだこの先にある未来など知らず、幸せで無邪気だった。
二歳の時に弟の徹也が生まれ、四歳になって二人目の弟の貴彦が生まれる。
いつからなのだろう。
心の根底に、憎悪が流れている事に気がついたのは……。
己の人生を呪い、身体に流れる血を憎んだ。
何故こうなってしまったのか。
憎悪に満ちた人生をこれまで送り、たくさんの人間を傷つけてきた。
俺は凄い。
ずっとそう思いながら毎日を必死に生きてきたつもりだった。
しかし気つけば孤独で、周りには誰もいない現状が待ち受けていた。
孤独は非常に寂しいものだ。
携帯電話は、ほとんど連絡が掛かってこない。
俺はこの世から忌み嫌われ、家族からも必要とされていないのだろうか?
幸い一人で時間を潰す術など、いくらでも方法を知っている。
だからといって孤独を癒せるはずもない。
過去遣いきれないぐらいの金を稼ぎ、すべて遊びで使い果たした。
本当にくらだらない人生を送ってきたものだ。
誰かの為にと、誠心誠意尽くしてきたつもりなのに。
このまま俺は朽ち果てていくのだろうか?
誰からも愛されず、誰からも必要とされずに、一人孤独に生涯を……。
俺をうまく利用してきた人間を憎んだ。
俺を相手にしない人間を恨んだ。
成功して常に笑顔の人間を疎んだ。
ゴミ屑のような立ち位置。
この現世では、もう必要ない存在。
クソみたいな時間を過ごしながら無駄に生き、人々に迷惑を掛けてしまう公害のようなもんだ。
深夜、家族が寝静まるのを待ち、一階に降りる。
台所にある包丁を右手に持つ。
喧嘩で武器など持った事ない俺が、最後は包丁に頼るか。
ふん、それもいいんじゃないか。
手首に包丁を横にして、ゆっくり当てた。
鈍い冷たさが皮膚から伝わってくる。
思わず身震いした。
何の為の身震いだ?
もうこれから存在自体、いなくなるんだぞ。
おかしいじゃないか。
このままじゃ手首は切れない。
縦に刃を立てる。
そう…、あとはスッと力強く引けば、簡単に人間の皮膚など切れてしまう。
「……」
生きているさえ嫌なんだろ?
さっさと引いてしまえばいい。
血が吹き出して、あっという間に楽になれる。
ゴトッ……。
上から物音が聞こえた。
思わず見上げてしまう。
俺にはもう何もない。
だから死ぬのは構わない。
しかし、ここでこんな死に方をしたら、残された者がいい迷惑だろう。
馬鹿な…、死ぬのにそんな事をいちいち気にしてどうする?
つまらない事など気にするな。
包丁の柄を持つ右手に力が入る。
目を閉じると、頭の中で幼き時代の風景が蘇ってくる。
これが走馬灯というやつか?
木造の二階建て映画館のホームラン……。
お寺の敷地内にあるゲームセンターのピープルランド……。
駐車場で開催されたスーパーカーの展示会……。
古い作りのデパートのニチイ……。
隣の定食屋『ひろむ』……。
何を俺は懐かしさなど感じている?
目からこぼれる涙。
何故、俺は泣いているんだ。
女々しいなあ、俺は。
もう生きているのさえ辛いんだろうが……。
それでも包丁を手首に押し当てたまま、いつまで経っても引けない自分がいた。
死ぬのはいつでもできる。
「……」
嘘だ。
何もないこんな状態になってさえ、俺はまだ生に執着している……。
今一度、ここで過去を思い出し、自分自身を振り返る事が必要な気がした。
包丁を元に戻す。
そして再びゆっくりとまぶたを閉じる。
昭和の匂いのする古めかしい映像が、頭の中で映り始めた。
大所帯の家だった。
おじいちゃんにおばあちゃん。
パパ、ママ。
それにパパの妹である伯母さんのピーちゃん。
家では商売もやっていたので、住み込みの従業員もたくさんいた。
通いで働く職人も入れたら、家の中は常に十数名の人間がいた訳である。
住み込みで十年ほど働いていた健ちゃん。
僕が四歳の時、確か二十五歳だったと思う。
その健ちゃんは仕事が終わると、僕の手を引いて近所のデパートに連れて行ってくれた。
行くと必ず健ちゃんは少ない小遣いの中から、僕に色々なものを買ってくれた。
デパートの入り口のそばにある軽トラックを改造して店にしたホットドック屋。
ノーマルなホットドックの他に、長細いハンバーグのような変わったものもあった。
僕はそのハンバーグドックが大好きで、行くといつも食べていた記憶がある。
家の目の前には川越日高線の県道を挟み、二階建てのボロい木造の映画館『ホームラン』があった。
伯母さんの話によると、僕はいつも不思議そうな顔をしながら窓際に立ち、ジッと映画館を眺めていたそうだ。
まだ二歳ぐらいの頃らしい。
後ろから「智ちゃん」と背中を叩くと、目玉がこぼれてしまうのではないかというぐらい大きな目をしていたようで、いつも誰かしら背中を軽く叩いていた。
親戚の伯母さんは僕と会うと、そう目を細めながらよく言っていた。
三年保育の幼稚園に通うようになると、友達が一気に増える。
家の周りは商店街ばかり。
だから商売人の子供が園児の中で、三分の二は占めていた。
パン屋の息子やお菓子屋の娘、本屋の娘などが羨ましくて仕方がない。
だって毎日おいしい菓子パンを好きなだけ食べられたり、好きなだけ漫画を読めたりできるのだから。
レコード屋さんや薬屋さん、着物屋にガラス屋さんの子供もいる。
ラーメン屋の娘や呉服屋の息子だっていた。
同級生の家だけで、ほとんどの商売が集まるぐらいの環境。
そんな僕の家はクリーニング屋さん。
洗濯代などもちろん一切掛からない。
大きくなってから初めてそのありがたみが理解できるようになったが、幼い僕はいつも友達の家を羨ましがってばかりいた。
目の前の映画館ホームランは、僕にとって身近な遊び場だった。
そこで働くおじさんたちは、僕を見かけると笑顔で駆け寄り、抱っこしたまま中に連れていく。
いつも二階席の一番前に座らせてくれ、僕は何の映画か内容も分からずただスクリーンをジッと眺めていた。
酒井というおじさんはアンパンとコーラの入ったビンをいつも僕に手渡し、頭をゴシゴシと撫でてくれる。
今思えばその酒井のおじさんは、自分の小遣いで買ってくれていたのだろう。
ようするに僕は非常に可愛がられていた訳だ。
そんな状況でいたものだから、高校を卒業するまで、映画を見るのに料金を払った事が一度もない。
幼稚園の担任の先生とも非常に仲が良かった。
先生は大の映画好きだったので、僕は前の映画館に行き、ポスターやパンフレットをくれるようねだる。
映画館のおじさんはニッコリ笑って、快くプレゼントしてくれた。
僕はもらったものを先生に全部あげた。
先生は顔をほころばし、お返しにと別の映画館で上映された洋画のパンフレットを僕にくれた。
他の同世代と比べると、中々恵まれた環境で育ったといえよう。
家の中の従業員やお手伝いさんたちは、幼い僕の事をいつも『坊っちゃん』と呼ぶ。
常に僕は笑顔が絶えなかった。
毎日が楽しくて仕方がなかったのだ。
当時家の二階の一室に、両親と一緒に住んでいた僕。
いつもホームランからは、何かしらの上映している映画の音楽が聞こえてきた。
そんなある日の事だった。
まだ僕が、幼稚園の年長さんぐらいの時。
外をブラブラ歩いていたら、知らないおじさんが声を掛けてきた。
上目遣いにそのおじさんを見ると、優しそうに微笑んでいる。
「おじさん、誰?」
そう言うと、おじさんは少しだけ悲しそうな表情を見せた。
「何だ、おじさんの事分かんないか。僕は岩上さん家の智一郎君だろ?」
「うん」
「ちょっと見ない内に大きくなったなあ。おじさんはね、智一郎君のお父さんとお友達なんだよ」
「え、パパと?」
「そう、昔っからのね」
「へー」
「智一郎君のお父さんとお母さんが、結婚した時は凄かったんだよ」
「何で凄かったの?」
「ほら、お父さんて格好いいだろ。それにお母さんは綺麗だろ」
まだ幼い僕には両親が世間的に見てどう思われているかなど考えた事すらなかった。
おじさんにそう言われても、意味がよく理解できない。
僕にとって格好いいという定義は、ウルトラマンや仮面ライダーだったのである。
「だから近所のみんなも、俳優と女優が結婚したって感じで大騒ぎだったんだよ」
おじさんの言葉をうまく把握できないながらも、僕は何故か嬉しく感じた。
多分このおじさんは、僕のパパとママを誉めてくれているんだ。
そう思う。
僕の頭を何度も撫でながら、おじさんは満足そうに去っていった。
早速家に帰ると、その話を興奮しながらママに話す。
ママはニコニコしながら黙って微笑んでくれた。
夜中、ふと目を覚ます。
耳元に聞こえてくる騒がしい声で起きたのだ。
「いい加減にしてよ、あなた!」
「うるせーっ!」
寝たふりをしながらも、僕はその声がパパとママだって事がすぐに分かった。
二段ベッドの二階で寝ている僕は、布団の隙間からそっと様子を伺う。
思ったとおりパパとママが怖い表情で何か激しく言い争っている。
時計を見ると、夜中の一時だった。
「ふざけんじゃねえ!」
怒鳴り声を発しながら、パパは部屋を出て行く。
乱暴に閉まるドアの音。
その音で僕は寝ながら一瞬ビクッと身体を震わせた。
こんな夜遅くにパパは、どこへ行ったんだろう?
ママはガラスのテーブルに突っ伏して、肩を小刻みに震わせ泣いていた。
見てはいけないものを見てしまった。
そんな思いを幼いながらも感じる。
心臓の音が激しく音を立ててバクバクなっていた。
このようなパパとママの怖いシーンを初めて見たので、何とも言えない妙な気分だ。
目をつぶってジッとしていても、中々その日は眠れないでいた。
小学校に入学すると、家の中の空気が少し変わったのを感じた。
暖かい暖炉の中にいるような毎日だったのに、中の火が少し弱まってしまったような感覚。
パパのお姉さんの子供。
つまり僕にとって従兄弟の関係だが、同じ年の女の子がいた。
「智ちゃん、入学おめでとう」
僕の家の二階の部屋へ、お祝いを持って来てくれた親戚の京子伯母さん。
ドアのところでママと京子伯母さんが色々話をしている。
横には同じ年の従兄弟、舞衣子ちゃんがいるのにママは部屋の中へ入れようとせず、入り口で立ち話をしているだけだった。
「少々お待ち下さい」そう言ってママはドアを閉め、ガラスのテーブルの上で手に持っていた入学祝い袋を乱暴に置く。
僕は何も分からず袋をジッと眺めた。
「まったくあんたのせいで、こっちも大変だよ」
いきなりママは僕を睨みつけるようにそう言うと、祝儀袋を開き、中に入っていた一万円札を取り出した。
そのままそのお札を別の祝儀袋に入れ直す。
そしてそれを持ったまま部屋の外へ行き、廊下で京子伯母さんと話していた。
何でわざわざ中のお金だけ入れ替えて、袋の交換などするのだろう?
意味不明なママの行為を僕は黙ったまま考えた。
部屋に戻ったママは、険しい表情をしている。
僕を一瞬だけ見て、京子伯母さんからもらった封筒をビリビリに破きだした。
何でそんな事をしているの?
ママの行動が理解できないでいた。
ママのママ。
つまり僕にとってもう一人のおばあちゃんが、最近よく家に来るようになった。
おばあちゃんの家も、うちから歩いて五分ほどの距離。
僕も一人でよく遊びに行くぐらい近い距離だった。
普通ならそんなにおかしい事じゃない。
だけどおばあちゃんが来るのは決まって夜中だった。
怒鳴り声が聞こえ、目を覚ます僕。
きょとんとした僕と目が合うと、おばあちゃんはニッコリと微笑んでくれる。
何でこんな時間におばあちゃんがいるんだろう?
不思議に思いながら僕も微笑み返した。
笑顔だったおばあちゃんがママのほうを振り向く。
するとママと向かい合い、激しく口論しだした。
そんな状況にパパが帰ってくると、今度は三人の言い争いが始まる。
僕は布団を顔に掛け、僅かな隙間からその様子を覗き見た。
何でみんながそんなに怒っているのかは分からない……。
ママは僕が小学校へ通いだすと、色々な塾へ通わせるようになった。
勉強塾、ピアノ、習字、絵画教室、スイミングスクール、幼稚園で主催している体操教室、それに合気道。
いきなり八種類の様々な塾へ訳も分からず通わされる僕。
ピアノやスイミングは週に一度だけだったが、他の塾は二、三回あった。
だから一週間で塾のない日が一日もない。
でも文句も何も言わず、ママの言うとおり黙々と通う。
その代わり、学校が終わってから友達と遊ぶ時間はまったくなくなった。
ちょっと前までは一階の居間で、家族みんなで食卓を囲っていた。
最近は違う。
ママが二階の台所で食事を作るようになった。
何故かパパは、夜になるといない事のほうが多い。
なので必然的にママと僕ら三兄弟の四人だけで食べる機会が多くなる。
どんどんパパとママの仲は悪くなっているような気がした。
しばらくおじいちゃんや、おばあちゃんと一緒にご飯を食べてないなあ……。
この頃からママは、僕が塾から帰ると家にいないという状況が増えた。
パパは前から町内のお囃子をやっていたので、夜になるといない事はざらだ。
二階の一室で、僕たち三兄弟はジッとパパとママの帰りを待っていた。
幼くても当然お腹は減る。
弟たちはお腹が減ると、いつも泣き出した。
そんな時僕は弟二人を連れ、下に降りた。
一階に行けば、おじいちゃんやおばあちゃんがいる。
僕自身も一緒にご飯を食べたかった。
「おや、徹也と貴彦はどうしたんだい? お腹減ってるのかい? ちょっと待ってな」
おばあちゃんは笑顔でご飯の用意をしてくれた。
おじいちゃんも笑顔で、僕たち兄弟が食べる姿を見守ってくれている。
何でこんなにおじいちゃんとおばあちゃんは優しいのに、ママは一緒にご飯を食べないんだろう。
素朴な疑問が唐突に湧いてくる。
ご飯を食べ終わった弟たちは意味もなくゲラゲラ笑い出した。
さっきまで泣いていたのが嘘のようである。
そんな僕も満腹感からか、自然と笑顔になっていた。
玄関の開く音が聞こえる。
瞬間的にママだと感じた僕は、居間の扉を開け玄関に向かう。
予想通りママで、玄関でハイヒールを脱いでいる途中だった。
笑顔で駆け寄る僕。
ママも笑顔で迎えてくれるだろうと思った。
「……」
僕はママの目に、ビックリして立ち止まってしまった。
軽蔑するような冷ややかな視線。
今までこんな目は見た事がない。
子供心ながら不安を覚え、何か悪い事をしてしまったのだと感じる。
ママは僕にひと言も声を掛けず、素通りした。
「マ、ママ……」
無言で僕を押しのけるように、ママは通り過ぎていく。
そのまま居間へ入り、おじいちゃんと何か話している声が聞こえてくる。その内怒鳴り声が時折聞こえ、恐怖心が全身を包む。固唾を飲み込み、居間のほうを見つめる。
その時居間の扉が勢いよく開き、ママが出てきた。
両手に徹也と貴彦の手を掴んでいる。
まだ二歳の貴彦は大声で泣いていた。
徹也は何度もママの顔を不安そうに様子見している。
僕は玄関から、ただその光景をジッと見ている事しかできなかった。
ママは僕に話し掛けもせずに、鉄筋の階段を上りだした。
途中にある踊り場まで来ると、僕を見てやっと口を開く。
「何してんの。早く二階に行くよ」
僕は少し寂しく思ったが、無言で階段を上がった。
その時足の裏で感じた鉄筋の階段の冷たさは、今でも鮮明に覚えている。
最近夜中になると、よく目を覚ます日が多い。
身体は起こさずに二段ベッドの上で、その体勢のままいるように努めた。
ベッドの横で両親が、激しく口論を展開している。
かすかに目を開けて様子を眺めた。
パパとママが何を話しているかは分からない。
でも喧嘩しているのだなというぐらいは理解できた。
十分ほど経っても状況は変わらない。
二人の声は次第にエスカレートするばかりだった。
僕は怖くなり目を閉じた。
懸命に寝ようと努める。
でも横の様子が気になって仕方がない。
大きな音がして僕は再度、目を開く。
その時映ったのは、ママが部屋を出ていく姿だった。
遠くで玄関が閉まる音が聞こえ、静かな世界が戻ってくる。
パパは怖い顔をしながら、タンスの上にあるお酒のビンを手に取った。
キャップを外すと、そのままビンごと飲んでいる。
不思議な光景だった。
僕は必死に目をつぶる。
パパがベッドに向かってきたからだ。
起きているのが、いやさっきの様子を見ていた事が、とてもいけない事をしたように感じた。
心臓の音が激しく聞こえてくる。
まだパパは僕を見ているのだろうか?
どのぐらいの時間が経過したのか。
僕は恐る恐る目をゆっくりと開いた。
「何だ、起きていたのか?」
目の前にはパパの優しそうな笑顔が見えた。
僕はパパの表情に安心感を覚え、身体を起こす。
優しく僕の頭を撫でるパパ。
先ほどの恐怖心は、どこかにいってしまったようだ。
「眠れないのか?」
「ううん……」
パパの息は、酒臭かった。
「明日も学校だろ?」
「うん」
ママがどこへ行ったのか知りたかった。
でも聞いてはいけない気がする。
「裕子ちゃんとは仲良くしてるか?」
「ク、クラスが違うから、あまり会わないよ」
「そっか……」
裕子ちゃんとはママのお姉さんの子供。
僕にとっては従兄弟にあたる関係だ。
僕と同じ年で小学校へ入学する前、近所に越してきたのだ。
…というより、ママのおばあちゃんの家に住んでいる。
だから同じ中央小学校へ通う事になった。
「もう遅いんだから、寝なよ」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」
パパはおでこにキスをしてくれる。
結局ママの事は聞けずじまいだった。
朝になり目覚ましがなる。
目を覚ますと、普段のようにママが部屋にいた。
パパは、ベッドでいびきをかきながら寝ている。
昨日の事は夢だったのかな。
僕はそう感じるぐらい、いつもと変わらない日常の風景だった。
「おはよう、智ちゃん」
「おはよう」
ママは僕を見て優しそうに微笑む。
ベッドの横についている階段を使って降りると、徹也と貴彦はまだ寝ていた。
「ほら、早く顔を洗って」
「はーい」
部屋を出て洗面所に向かう。
二階の構図は一番奥が僕たち家族の部屋で、出ると廊下があり右側がお風呂場、左側がキッチンになっていた。
用を済ませ再び部屋に戻ろうとする。
「智ちゃん、カレー作ったから食べて」
ママがキッチンで僕の食事の用意をしていた。
時計を見ると、いつも家を出る時間まであと五分だった。
お皿を手に取り、カレーを一口食べる。
「岩上くーん」
キッチンの窓から声が聞こえる。
近所の友達が早めに迎えにきたみたいだ。
僕は二口目を口に入れる。
すると、ママは僕からカレーを取り上げた。
「早く行きなさい。友達が待っているんでしょ」
まだ空腹感があったが、厳しそうな表情で言うママが恐く、素直に従う。
急いで身支度を整え外に出ると、パン屋の健ちゃんが待っていた。
学校まで、町内に住む子供たちで班を二つ作り登校するのだが、ここ最近毎日のように健ちゃんは迎えに来る。
集合場所までの距離は、五十メートルもない真っ直ぐな一本道。
そんな短い僅かな距離でも、健ちゃんは迎えに来ていた。
この時ばかりは空腹も手伝って、健ちゃんを恨めしく思う。
集合場所に着くまでの二人だけの会話。
健ちゃんはそれを楽しみにしているようである。少しだけませた太郎ちゃんは、学校の同級生の女の子の話をよくしてきた。
誰々ちゃんは可愛いとか、誰々ちゃんはブサイクだとか、そんな他愛もない内容だ。
「ねえ、僕さー」
「どうしたの?」
「好きな子ができちゃった」
「へー」
「誰とか智ちゃんは聞きたくないの?」
「じゃあ、誰なの?」
「エヘヘ、やっぱ秘密……」
「なんだよ」
「智ちゃんの好きな子を先に教えたら教えてあげる」
「いないよ、好きな子なんて」
「ズルいなあ」
「ズルくないよ」
本当に僕は好きな子などいなかった。
毎日の塾通いで忙しく、そんな事など考えた事もない。
すぐに集合場所が目前に見えてきた。
「おはよう」
「おはよう」
健ちゃんに構わず、僕は班の列に並んだ。
「待ってよ」
健ちゃんも慌てて自分の列に並ぶ。
「あんたたち遅いわよ? 早く来なさいよね」
「おい、良江。智ちゃんたちはまだ小さいんだから、いちいちいいよ」
「何よ、お兄ちゃんはさ……」
家の隣の定食屋の兄妹、一ちゃんと良江ちゃんがちょっとした言い争いになる。
面倒見のいい一ちゃんは、たまに一緒に遊んでくれるいいお兄ちゃんだ。
妹の良江ちゃんは僕より二つ年上のせいか、いつもプリプリ頬を膨らませて怒っている。
朝食を少ししか食べられなかったので、グーグーと僕の胃袋は音を立てていた。
毎日のように果てしなく続く塾通い。
友達とまったく遊ぶ暇がないのにそれほど僕は不満に感じていなかった。
映画館で一人黙々とスクリーンを眺める機会が多かったせいか、一人で行動するという事にさほど抵抗はない。
放課後になり友達から遊びに誘われると、一緒に遊びたいとは思う。
でも塾に行かなければいけないので断るしかない。
「岩上君って、いつも断ってばっかり」
「付き合い悪いなー」
「もう誘わないからね」
たまにそうなじられる時もあったが、そんな気に留めなかった。
みんなより多く勉強をしているのだから、当然のように学校での成績は抜群にいい。
だから授業を真面目に受ける意味が分からなかった。
分かっている事を何でまた勉強しないといけないのだろう。
素朴な疑問が常にあった。
それは自然と態度に出ていたようだ。
よく先生にちゃんと授業を聞きなさいと、注意される事が多い。
ある日家に帰り塾の準備をしていると、お手伝いのせっちゃんに声を掛けられた。
「ぼっちゃん、お帰りなさい」
「ただいま」
「また今日も塾なの?」
「うん、今日は絵の塾。それが終わったら学習塾」
「たまには休んで、遊んでみたら?」
「だって……」
「どうしたの?」
「塾へ行かないと、ママに怒られちゃうよ」
「うーん、確かにそうだけどね」
地方の田舎から住み込みで出てきたせっちゃんは、まだ二十歳だった。
ちょっと年上のお姉さんのように僕は接している。
細い目を大きく見開きながら心配そうに僕を見ていた。
何でせっちゃんは、こんな会話をしてくるのかよく分からない。
「ママに内緒でさ、今日ぐらい、塾さぼっちゃえば?」
「え…。だって……」
「そうだ、私さー。今日休みだから、いいところ連れて行ってあげるよ」
「でも……」
「一回ぐらい、行かなくても大丈夫よ。塾なんて」
「だってこれから絵の教室だし」
「ぼっちゃんは将来、絵描きになりたいの?」
「ううん、そんな事考えた事ないよ」
将来何になりたいか。そういえば今まで何も考えた事がない。
「じゃあ今日は絵の塾をさぼって私と一緒に遊ぼうよ。それでちょっとしたら、そのまま学習塾に行けばいいのよ」
「どこに遊びに行くの?」
「うーん、そうねー…。ぼっちゃんが一人じゃ絶対に入れない場所。それでね、すごい美味しい飲み物が出てくるところかな」
「お、美味しい飲み物?」
家ではよく麦茶やオレンジジュースを出されて飲んでいた。
それ以外のおいしい飲み物って何だろう。
期待で胸が膨らむ。
せっちゃんの言うその場所に行きたくてたまらなくなった。
「ジュワーッとして、それでいて甘いの」
「ジュ、ジュワー……」
聞いている内に僕の口の中は、よだれでいっぱいになってきた。
今、僕は生まれて初めて塾をさぼって、お手伝いのせっちゃんと一緒にいる。
絵画教室と学習塾のカバン、二つを手に持って……。
いつも学校の登校時、班として集まる集合場所のすぐ近くに喫茶店があり、せっちゃんはそこへ僕を連れて入っていった。
アメリカンスタイルの狭い喫茶店。
初めて入った僕は、辺りをしばらく見渡した。
五名分の椅子が設置されたカウンター。
二つのボックス席。
壁には手書きで書いてある軽食メニューが貼ってある。
それ以外の空いたスペースには外国人歌手らしきポスターが数枚あった。
客は僕たち二人だけ。
マスターは僕を見るなり笑顔で挨拶をしてくれる。
せっちゃんはこの店の常連客らしく、勝手にボックス席に座り込んだ。
僕も向かい側に恐る恐る座る。
何かが視界に映った。
今までテーブルと思っていたものが、実はテーブル型のテレビゲーム機だった。
真ん中に画面が映り、横にはガラスの中に入った状態の紙がある。
僕はその紙を見てみると、インベーダーと書いてあった。
画面は白黒の状態で、何かがピコピコと動いている。
これがゲームとの初めての遭遇だった。
この年、インベーダーは爆発的なブームを迎え、どの喫茶店もテーブル代わりにインベーダーを置いてあった。
正式には千九百七十八年に発表され、左右の二方向レバーでビーム砲をコントロールし、徐々に襲い掛かってくるインベーダー五十五匹を倒すゲームだ。
ビーム砲が敵の弾に当たってすべてやられるか、インベーダーが最下段まで降りてこられるとゲームオーバー。
敵五十五匹をすべて倒すと一面クリア。
以後、自機がやられない限り、ゲームはずっと続く。
タイトーが生み出した不滅の名作である。
せっちゃんがお金を入れてくれ、僕は無我夢中でゲームをする。
世の中にこんな面白い物があったなんて……。
インベーダーとの出会いは僕にとって衝撃的過ぎた。
「はい、お待たせしました」
マスターがアイスクリームの浮いた緑色の炭酸水を、僕の目の前に置く。
見た事もない不思議な飲み物。
これがクリームソーダとの最初の出会いだった。
まず匂いを嗅いでみる。
鼻を近づけると炭酸の泡が弾け、少し掛かる。
バニラの甘い香りが鼻をつき、僕はしばらく見とれてしまった。
「ぼっちゃん、飲んでみたら」
せっちゃんは得意満面の笑顔で僕にせかす。
スプーンとストロー、両方ささっているのでどちらを使っていいか迷った。
しばらく考えて結局ストローを選ぶ。
ゆっくり口をストローに近づけた。
「美味しい!」
「でしょ」
初めて飲んだクリームソーダ。
口の中で炭酸が弾け、ほどよい刺激を与えながら僕の喉を通過する。
あとには甘美な味が中を支配した。
こんな美味しいものは、生まれて初めて飲んだ。
もの凄い感動が全身を包む。
一時間半ほど僕はインベーダーにのめり込んだ。
せっちゃんはゲーム機の上に両肘をつき、僕の姿を楽しそうに観察している。
そして目が合う度ニコリと微笑んだ。
学習塾へ行ったふりをして帰ってくると、玄関でママが仁王立ちで待っていた。
絵画教室をさぼった事がバレたのだと悟る。
何で分かってしまったのだろう。
誰かが言いつけたのだろうか。
僕はママの顔をまともに見られず、ずっと下をうつむいていた。
「何してきたんだ、このガキ!」
怒声と共に張り手が飛んできた。
目の前が急に真っ暗になり、廊下の冷たい感触が手に伝わってくる。
僕は玄関で倒れ込んだまま、必死に謝った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
「ふざけんな!」
両腕で顔面をガードしているところを無差別に叩かれた。
ママに打たれたのはこれが初めてだった。
誰か助けて!
心の中で懸命に祈った。
「奥さん、やめて下さい!」
奥でせっちゃんの声が聞こえる。
声というより叫び声に近かった。
僕は涙で曇った視界で様子を伺う。
ママはせっちゃんをすごい形相で睨みつけていた。
怯えるせっちゃん。
「すみません、私が悪いんです」
「あんたが勝手な真似したの?」
「す、すみませんでした」
「うちの子を勝手に連れて、あんた、一体何を考えてんのよ?」
「すみません」
玄関先の騒ぎでおじいちゃんがすっ飛んできた。
構わず怒り狂うママ。
その姿に恐怖という感情が、心に植えつけられる。
身体を震わせながら様子を見ているぐらいしか、僕にはできなかった。
ママの怒りは収まらず、僕の手を強引に引っ張り、階段を上っていく。
「おい、智一郎をどうするつもりだ!」
おじいちゃんの声が聞こえる。
「これは私たち親子の問題です。余計な口は挟まないで下さい。そんな事よりお父さんはお手伝いの教育をちゃんとして下さい」
ママの最近夜になるといなくなる原因。
その一つが直感的に理解できた。
家の中でママは、パパともおじいちゃんとも仲良くできていない。
僕は引きずられるように階段を上がり、部屋へ着いた。
この場から逃げ出したかった。
パパ、早く部屋に来て……。
必死で願う。
部屋に着くなり、ママは僕をソファの上に投げつける。
テレビを見ていた弟の徹也は、その急展開にビックリしたようで部屋の隅に行きビクビク震えていた。
まだ小さい貴彦は何も知らず寝ている。
僕は泣きながら何度も頭を地面にこすりつけ、必死に懇願した。
容赦なく手当たり次第叩くママ。
塾を一つさぼる事が、ここまで悪い事だなんて全然思ってもみなかった。
「まったく舐めた真似してくれたね。このガキは……」
いつもより感情が高ぶり、ママは高音で怒鳴っていた。
その声を聞いているだけで、心に冷たいものが通過する。
髪の毛をつかんで強引に立たされ振り回された。
僕には泣く事ぐらいしかできない。
視界がグルグル回り、様々な角度を映している。
自分が今、どのような目に遭っているのかすら分からなかった。
突然、ガラスのテーブルが目の前に迫ってくる。
僕は瞬間的に目を閉じた。
ガチャンという音と共に、激しい痛みが襲う。
気がつくと、僕は床の上で倒れていた。
ズキッとした痛みを左まぶた辺りに感じる。
そっと手を触れてみた。
ぬるっとした嫌な感触。
左手の指先を見ると、人差し指に赤い血がついていた。
僕はこんな痛みより、ママの手当たり次第の攻撃が止んだ事にホッとしている。
それでも痛みを感じ、泣いてみた。
こんなに涙があったのかと思うぐらい泣いた。
「お兄ちゃん!」
徹也が近づいて心配そうに覗き込んでくる。
僕は弟がママに打たれないかと思い、身体を起こす。
「……」
シーンとした空間。
ゆっくりと顔を上げて、辺りを見回した。
この部屋には僕と徹也と寝ている貴彦しかいなかった。
床に赤い血が数滴垂れる。
僕はティッシュで懸命に拭いた。
僕の傷を見て泣き出す徹也。
とても怖かったのだろう。
バンドエードを探し、鏡で見ながら貼った。
顔は両腕でガードしていたおかげか、思ったよりも腫れていない。
横ではいつもパパがお酒を飲む時に使うガラスのテーブルが割れていた。
ここに僕は頭を突っ込んだのだ。
今さっき起きた事なのに、それを想像すると身体がガタガタ震える。
「お兄ちゃん……」
泣きながら僕を見つめる徹也。
僕は弟を抱き寄せ、出来る限り優しく話した。
「大丈夫だよ、徹也。お兄ちゃん、大丈夫だよ」
僕と徹也は抱き合いながら、部屋の中でまた泣いた。
この日、僕の左まぶたの上に生涯消える事のない一つの傷ができた。
大きな雷のする嵐の日だった。
漢字のテストがあり、その答案が帰ってくる。
いつも百点満点だった僕は答案を見て、思わずギョッとした。
一問だけバツがついていて九十点だったのである。
ママに怒られる。
僕は瞬間的にそう思った。
間違えた部分の問題は「十回」をどう読むかという問いであった。テストの前に授業で「十回」は、「じっかい」と読むのだと教わった。
しかし僕は「じっかい」と読み方を教わったものの、誰も「じっかい」という言い方をしてないので、普通に「じゅっかい」と書いたのだ。
「十回」の正しい読み方は、「じゅっかい」でなく、「じっかい」……。
それがどう考えても腑に落ちなかった。
満点じゃない僕は、担任の浅井先生に抗議をしに行った。
どうしても納得いかないと……。
すると先生は赤い口紅が塗ってある口を大きく開き、こう言った。
「いい、岩上君。先生は授業で『じっかい』と、ちゃんと教えたでしょ?」
「はい」
「だから、ここはバツにしたの」
「でも、先生……」
「なあに?」
「誰も、『じっかい』なんて言ってません。みんな、『じゅっかい』って言ってます」
「いい? そんな事を今、先生は話しているんじゃないの。間違いは間違い…。ちゃんとね、先生は『じっかい』と答えた子には、丸をつけたわ」
それ以上、僕には何も言えなかった。
帰ったらどうなるだろう。
ママが怖かった。
この間つけられた左まぶたの傷。
二センチも満たないぐらいだったが、誰一人気付いてくれない。
僕が出来る限り隠していたというのもあるだろう。
でも誰かに自然と気付いて欲しかった。
先生だってこんなに目の前で話しているのに、傷には気付いてくれやしない。
僕は暗く沈んだ気持ちで家に帰った。
案の定ママは答案を見るなり、両肩を振るわせる。
その様子を見ているだけで怖かった。
答案用紙が下にさがり、ママの目が見えた。
打たれる……。
直感的に感じた僕は、床に尻餅をついた。
「あんた、何やってんの?」
苛立った声をしながら冷たい視線で僕を見るママ。
しばらく様子を伺い、何もないのを確認すると、僕はゆっくり起き上がり近くのソファに腰掛けた。
ママは怖い顔をしながら手紙を一生懸命書いていた。
ちょうど二枚目の便箋を書いていて、途中文字を間違ったのかその便箋をグシャグシャに丸めだす。
その姿は鬼気迫るものがあった。
「智ちゃん、あなたの先生にこの手紙を明日学校で渡してくれる」
枚数にして四枚の便箋。
中身を見ていないが書いてある内容は、幼い僕でもおおよその見当がつく。
「うん……」
素直に手紙を受け取り、忘れないようランドセルに入れた。
今から明日、学校へ行くのが憂鬱になっている。
翌日、暗い気持ちで学校へ行く。
一時間ごとの授業がとても長く感じる。
手紙を渡すタイミングを放課後に決めた。
ママからの手紙を浅井先生へ渡す姿など、クラスメイトにだけは絶対に見られたくなかったのだ。
ようやく給食の時間になる。
今日のメニューはソフト麺とうどんのつゆがメイン。
おかずのテンプラ箱はちくわの磯辺揚げ。
妙に油っぽく僕の嫌いなものだった。
大食管に入ったうどんの汁は、クラス全員に配っても四分の一は残っていた。
大半の男子生徒は、ソフト麺を半分だけ汁に入れ食べる。
もう一度おかわりする為にみんな、そうしているのだ。
もちろん僕も。
おたなという仇名の田中義和が食事中席を立ったと思うと、大食管に近づき自分の器の残った汁を入れてしまう。
クラスの大半が、おかわりをできないとブツブツ言い出す。
先生はその子を立たせたまま、説教しだした。
「田中君、あなたねー。まだ、みんな食べているのよ? そんな自分だけ食べて残りを入れちゃったら、みんながおかわりできないでしょ?」
言っている事は確かに正論だが、クラスのみんなの前で立たされて説教を食らう田中君を僕は可哀相に感じた。
「誰がこれでおかわりできると思っているの?」
先生はクラス中を見渡す。
みんなシーンと静まり返っている。
田中君は今にも泣き出しそうだった。
何故先生はこんな晒し者にするのだろう。
「はい、先生。僕、おかわりできます」
僕はつい立ち上がり手を上げていた。
先生が近づいてくる。
「岩上君、あなたは何を言っているの?」
「だって別に僕は普通に食べられますよ?」
クラスの何名かの生徒がクスクスと笑った。
「先生をからかってるんじゃないわよ」
そう言われてから僕の頬に痛みが走った。
ピンタを食らったのだ。
僕は懸命に涙を堪え、椅子に座る。
給食の時間が終わるまでクラスの雰囲気はずっと暗かった。
放送のスピーカーから流れるクラシックの音楽だけが、静かに耳に残る。
この給食の一件で、さらに僕は浅井先生へ手紙を渡しづらくなってしまう。
掃除の時間、ホームルームと過ぎ、帰りの挨拶をしてクラスメートが帰り始めた。
できれば僕もこのまま帰りたい。
そんな事ばかり考えている内に、教室内は僕と浅井先生の二人だけになっていた。
僕が一点を見ながら考えている様子が、気になったのだろう。
先生のほうから声を掛けてきた。
「岩上君どうしたの? みんな帰ったわよ。さっきの事、まだ気にしているの?」
「ち、違います……」
「じゃあ、早く帰りなさい」
このままだと渡しそびれる。
僕は無言のまま教壇に近づいた。
「どうしたの?」
「こ、これうちのお母さんから……」
やっとの思いで浅井先生にママからの手紙を渡した。
黙ったまま手紙を受け取ると、先生はすぐに封を開ける。
できる事なら僕のいない時に読んでほしかった。
僕はこの先生があまり好きじゃない。
「……」
手紙を読む先生の手が小刻みに震えている。
ママほど怖くはないが、見ていていい気分にはならない。
二人の間に流れる沈黙した重い空気。
それに押し潰されそうで嫌だった。
十分ほど時間を掛けて、先生は手紙を丹念に数回読み直す。
「岩上君、ちょっとそのまま待っててくれる」
そう言うなり先生は手紙を書き始めた。
ママへの手紙を書いているのだろう。
許されるならこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
先生は僕の事などまったく気にせず、黙々と手紙を書いている。
「智ちゃん、一緒に帰ろうよ」
いつの間にいたのか分からないが、教室の入り口にレコード屋の斉藤陽吾君の姿が見えた。
いい助け舟だ。
僕はいい言い訳ができたと思い、立ち上がろうとする。
「斉藤君…。岩上君は、これから先生と大事な用があるから、先に帰ってちょうだい」
表情に出さないよう僕は「先生の馬鹿野郎」と心の中で叫んだ。
陽吾君が用が終わるまで待っているとか言ってくれないだろうか。
僕は密かに期待した。
「はーい……」
うな垂れたように入り口から消える陽吾君。
淡い希望はすぐに掻き消された。
結局先生が手紙を書き終わるまで、待たされるハメになった。
「じゃあ、これ…。帰ったらお母さんに渡しといてね」
「はい……」
僕はさよならも言わず、短く返事をして教室を出た。
家に帰り、ママに手紙を見せると、顔色が変化する。
苛立ちを隠そうともせず机に向かい、また手紙を書き出した。
表情を見れば怒っているのは一目瞭然だ。
「じっかい」にまつわるやり取りだけで、こんな展開が三度も続いた。
先生とママの間に立ち、伝書鳩代わりのように命令される僕。
本当にうんざりだった。
二人とも直に会って話せばいいのに……。
素直にそう思う。
一年生の三学期に入る頃、両親の仲は以前よりさらに酷くなっているのを感じた。
ここ最近じゃ、毎日のようにママ側のおばあちゃんが仲裁に来ている。
おばあちゃんが間に立つと、パパは決まって外へ出掛けてしまう。
この日も部屋の前の廊下で、ママとおばあちゃんは言い争いをしていた。
恐ろしい表情で自分の母親を睨みつけるママ。
声もヒステリックに聞こえる。
ママがおばあちゃんの右手首をつかむのが見えた。
「……!」
異様な光景に僕は言葉を失った。
手首を握り締められた場所から、赤い血が流れるのハッキリ見えたからだ。
おばあちゃんの手首をつかむママの指先から、赤い一筋の血が静かに流れ落ちていくのを僕は息を飲みながら凝視して、その場に立ちつくしていた。
多分ママが爪を立てて、力一杯握ったからだろう。
それでもおばあちゃんは表情を変えず、真剣な眼差しで何かを訴えていた。
心配そうに見ている僕と徹也に気付くと、おばあちゃんはそんな状況の中でも優しく微笑んでくれる。
何故かその笑顔を見ると、ホッとした。
「智、徹也…。部屋に戻ってなさい」
ママが僕たちに気付き、怒鳴るように声を掛けてくる。
僕は足に力が入らず、その場で動けずにいた。
「ママの言う事が聞こえないの」
声のトーンが一オクターブ上がる。
その声は僕と徹也の身体の中を走り、恐怖感を増長させる。
「千鶴、子供を怒鳴るのはやめなさい」
おばあちゃんの声が鋭くなる。
それから僕たちのほうを振り返り、穏やかな顔で口を開いた。
「智一郎、徹也…。お願いだからおばあちゃんの言う事を聞いてくれるかい?」
右の手首から流れる赤い一筋の血が、僕の視界に映る。
「……」
「大丈夫だから、部屋に入ってな」
そんなに血が出ているのに大丈夫な訳がない。
「……」
僕は返事ができなかった。
「智一郎、おばあちゃんは大丈夫だよ。お願いだから部屋に入ってて、ね?」
「うん……」
僕は徹也の手を引いて部屋に戻った。
ドアを閉めると、何かが壁にぶつかった音が聞こえてくる。
見えないながらもおばあちゃんがママに突き飛ばされたんだと、頭の中でリアルに想像できた。
「何が大丈夫だからだ! うちの子たちに何を吹き込んでいるんだ!」
ママのキンキン声がドアを挟んで聞こえてくる。
徹也はその声にビックリして泣き出してしまう。
僕は頭を撫でてしきりになだめようとした。
弟を可哀相に思ったのもあるが、その泣き声で、ママがこっちに来たら嫌だという気持ちが強かった。
おばあちゃんは今、一体、どんな目に遭っているのだろうか。
止めに入れない自分が、非常に情けなかった。
週に一回ある恒例のピアノレッスンの日が来ると、僕の心はそわそわしだした。
数ある習い事の中で、ピアノに行く時だけが楽しみだった。
何故なら先生はとても優しく、いつも笑顔だったからだ。
真面目にレッスンをしたのは最初の頃だけ。
もともとピアノを覚えたいという意思のなかった僕は、遊びに行く感覚でいつも通うだけだった。
右手で鍵盤を音符の通り叩く作業。
何度か試してみたものの、どうしても好きになれない。
小一の僕はピアノを弾くという行為が女っぽく見えて仕方なかったのである。
音符は読めないので、先生にカタカナで振り仮名を記入してもらう。
僕はそれを見ながら右手で音を奏でた。
カタカナを読みながら鍵盤を弾く機械的な作業。
ピアノを弾く時いつもそう感じている。
「もっと感情を込めて」
いつも先生はそう言う。
だけど感情なんて愛着のないピアノに込められる訳がなかった。
通いだして二ヶ月が経過した時から、先生も僕の気持ちを理解してくれたようだ。
親のエゴで強引に通わせられる僕を見て、同情してくれたのだろう。
「智一郎君は他にいくつ塾へ行ってるの?」
レッスン中に先生は尋ねてきた。
「うーんとねー、ピアノでしょ。絵の塾でしょ。それからプールと体操教室。習字に学習塾かな。あ、あとね。合気道」
「合気道?」
「うん、道場にパパと行ってね。いつも先生が胸をドンって押すの」
「胸を?」
「うん、精神何とかって言ってたよ。僕、いつも倒れないように頑張るんだ」
「へー、凄いわね」
僕は少しだけ得意になって話した。
「でもそれは全部、自分で行きたいって言ったの?」
「……」
「どうしたの?」
「マ、ママには絶対に言わない?」
「え?」
「絶対に誰にも言わないって約束してくれる?」
「ええ、もちろん約束するわ」
先生は真面目な表情で答えた。
親にバレたらとんでもない事になるのだ。
左まぶたの傷が疼く。
僕は先生の顔をずっと真剣に見つめた。
この人なら大丈夫……。
妙な確信があった。
「ほんとはね、一つも行きたいなんて言ってないんだ」
「えー?」
「小学校に入ったら急に決まったの」
「行きたくないなら嫌だって言えば良かったのに……」
「そんな事、言ったらママに怒られちゃうよ……」
「そう……」
「……」
「智一郎君、ごめんね。先生、変な事を聞いちゃって」
「ううん……」
誰にも言えなかった自分の感情を少しだけでも初めて言えた。
この事で随分と心が軽くなったように思う。
この瞬間、僕は先生が好きになった。
「でもね、先生。僕、ピアノだけは続けたいんだ」
「そう。先生嬉しいわ」
「でもね、ピアノは嫌い」
「う~ん、ちょっとだけでもやろうよ、ね?」
話だけでまったくピアノを弾かない僕を先生はまったく怒らず、家まで送ってくれた。
この日先生は「お腹減ってない?」と聞いてきた。
「お腹は減ってないけど、楽しい場所を知っているよ」と言うと、「じゃあ、たまには寄り道しましょう」と先生は優しく微笑む。
家で働くお手伝いさんのせっちゃんが連れていってくれた喫茶店に先生と入る。
小学生の僕がこんな場所に出入りしている事実を知り、ピアノの先生は目を丸くしていた。
その表情が面白く、僕は久しぶりに心から笑った。
出入りといってもこれでまだ二回目なんだけどな。
それからピアノのレッスンに行くのが、楽しくてしょうがなかった。
早めに形だけのレッスンを終えると、喫茶店に向かうのが日課になりつつある。
先生はいつも自分のお金で、僕にインベーダーをやらせてくれ、クリームソーダを飲んた。