岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド
とりあえず過去執筆した作品、未完成も含めてここへ残しておく

07 擬似母

2023年03月01日 00時16分46秒 | 擬似母

 知子の事を考えながら仕事へ行き、暇な時は隼人兄ちゃんと食事へ行くか、幸子のおばさんの店『加賀屋』へ行き、他愛もない話をして過ごす日々が続く。そんな感じで新年を迎える。気付けば僕は二十二歳になっていた。

 行こう行こうと思っていても、なかなか行動に移せない自分。知子に会いたい。会って色々話をしたい。そして家に連れ込んで思い切り抱きたい……。

 今、幸せかと言うと幸せではある。寂しさも同居した幸せ。

 何が足りない? 愛情? セックスする相手?

 全部だ。寂しいから癒してもらいたい。常に心の中に開いた空洞。それを埋めてほしかった。では誰に? 知子でも幸子でも誰でもいい。

 でもどうやって? 金だって地位だって何もない。女の子と気軽に話せるような性格でもない。そんな僕がどうやって女を口説く?

「……」

 何とかなりそうなのは金だった。隼人兄ちゃんが言っていた歌舞伎町の世界。あそこに行けば、僕だってある程度の金を稼げるんじゃないのか。明日辺り兄ちゃんに連絡をして聞いてみよう。歌舞伎町で働くには、どうすればいいのかを……。

 その前に知子と会っておくか? いや、多少の金を持ってからのほうがいいだろう。あのような飲み屋の世界に足を踏み込んでしまった知子なのだ。控えめだったはずの彼女が、キャバクラで働きだした理由。それは金を稼ぐという以外思いつかない。相手の土俵へ上がって動くのだ。なら僕も金を持っていないと話にならないだろう。

 今の生活の基盤になっているガードマンのアルバイトに、未練はあるか? そんなものあるはずがない。自分の時間と引き換えに金を得ている行為に過ぎない。

 同じ施設にいた知子だって金の為に、あんな店で働いている。金をある程度つかめばこのつまらない人生も、少しはマシになるような気がした。

 後日、隼人兄ちゃんに連絡をした僕は、歌舞伎町で働く方法を聞いてみた。

「あの街で働きたい? やめとけ! 自分が嫌いになっていくぞ?」

 兄ちゃんの台詞をよく理解できなかった。でも、現状を僕は変えたい。

「頼むよ。あの街で僕は働いてみたいんだ」

「……。本気で言っているのか?」

「うん」

 しばらくの間沈黙が続く。

「駅やコンビニで売ってるスポーツ新聞あるだろ? あの中に三行広告がたくさん載っている部分がある。そこで『喫茶』って書いてあるところがゲーム屋だ。場所は『新宿』って表記してあれば、歌舞伎町。俺が教えられるのはそんなところだ」

「ありがとう、兄ちゃん!」

「礼などいい。ただ、一つだけこれは言っておく」

「何を?」

「『ダークネス』…、この店だけはやめておけ。いいな?」

「何で?」

「俺がいた店なんだ。店長がホモだからって言うのもあったけど、一番の問題は二人いる共同経営のオーナーの一人が酷い奴なんだ。俺は一ヶ月しか精神が持たなかった……」

「分かった……」

 兄ちゃんが恐れるような男がいたという現実を知り、僕は歌舞伎町にある『ダークネス』という店に対し、非常に興味を覚えていた。

 僕は隼人兄ちゃんと食事へ行く約束をする。何故ならば歌舞伎町で一ヶ月働いた兄ちゃんの状況を詳しく聞いてみたかったのだ。

 あの街へ僕が行く事をあまり乗り気ではない兄ちゃんは、多分、止めようとしたつもりなのだろう。何でそんな反対するのか? その理由も知っておきたい。僕は隼人兄ちゃんの話に耳を傾けた。

 

 新宿歌舞伎町裏稼業の中で、初めて働いた職種であるポーカーゲーム屋『ダークネス』。

 働いた店は、思い出すと酷いものだった。

 共同経営としていた二人のオーナーの鳴戸と水野。鳴戸はきっとヤクザ者か何かだろう。自分の考えがすべてといった感じの無茶苦茶な人間である。他がいくら不平不満を口にしても、尋常でない甲高い声だけで、すべてを黙らせてしまう迫力があった。

 何故か俺は彼に気に入られ、妙に買われていた。それだけでもの凄いプレッシャーで胃に穴が開くようだった。

 もう一人のオーナー水野は、鳴戸にまんまと嵌められ金をなくした被害者である。それでも彼自身の持つ陰湿さが分かると、あまり同情はできないような性格だった。

 店長だった岩崎。彼はとても入ったばかりの俺に親切で、暇さえあれば金をくれた。もちろん店の売り上げを誤魔化した汚い銭ではあったが、あえて俺にまで渡す必要性などどこにもない。それでも彼は、毎日のように金を抜いては俺に分け前をくれた。いつも不思議でしょうがなかった。しかし、その謎はすぐに解けた。彼はホモだったのだ。

 一ヶ月働いただけで百万近い金額が溜まろうとする矢先、岩崎の抜きが、オーナーの鳴戸にバレた。岩崎は俺の目の前で容赦なく制裁を加えられる。顔面血だらけで元の原型など分からないぐらいになっているのに、それでも岩崎は鳴戸から俺をかばってくれた。

 嫌気を差した俺は『ダークネス』を辞め、歌舞伎町を去った。

 

 地元でアルバイトをしつつ、ゆっくり就職先を探そうと思った。そんな頃、ちょうど僕と偶然再会したようだ。

 ここまで話すと隼人兄ちゃんはタバコを吸いだす。

「じゃあ、隼人兄ちゃんは、その鳴戸ってオーナーが理由で?」

「そうだな…、あの男とはできればもう…、今後の人生で関わりたくないな」

 一体どんな感じの人なんだろう、鳴戸って人は?

「そんな酷い人なんだ?」

「ああ、あれは実際に触れた人間じゃないと、この嫌さ加減はきっと分からないだろうな」

「従業員をすぐ殴るから?」

「それは違う…、殴る蹴るじゃ、俺だって喧嘩は腐るほどしてきたんだ。そうはビビらないさ。あの男の怖さは、得体の知れなさかもしれないな……」

「得体の知れない怖さ?」

「ああ、何て伝えたらいいのかな…。こいつとだけは絶対に揉めたくない。そんな風な考えになるような感じだな」

「よっぽど怖い人なんだろうね、その人……」

「だな…。少なくても俺はもう、あそこでは二度と働きたくない」

「……」

 隼人兄ちゃんがこんな弱気になる姿なんて初めて見た。

「次郎…、おまえが歌舞伎町で働きたいって言うのを止める権利など、俺にはない。だけど、あの店だけはやめておけよ」

 繰り返し僕はそう言われる。これまでの話を聞いたけど、いまいち釈然としない自分がいた。だって兄ちゃんは百万ぐらいの金を稼げる環境にいたから。

「うん、分かったよ。心配してくれてありがとう」

 でもとりあえず返事だけはしておく。

「おまえをあんな場所で働かせたくないんだ。本当はゲーム屋自体反対したいところだけどな」

 ゲームセンターとはまったく別物のゲーム屋。どんな世界なんだろうか?

「ところでさ、前に兄ちゃんが付き合っていた人っていたでしょ?」

「付き合っていた? ああ、泉の事か。あいつとなら、まだ最近だけどヨリを戻したんだ。それがどうかしたか?」

「ううん…、それならいいんだ。この間、酔い潰れてうちで泊まったでしょ? あの時隼人兄ちゃん、寝言でその人の名前を言っていたから」

「恥ずかしいところを見られた訳だ」

「そんな事ないよ。でも、元に戻ったのなら本当に良かった。僕さ、隼人兄ちゃんには幸せになってもらいたいんだ」

「ありがとな、次郎。おまえも幸せになってほしいよ」

「こうしてまた出会えて、子供の頃以上に仲良くしてもらっている。充分に幸せだよ」

「何だか野郎同士で傷を舐め合っているようで、気持ち悪いな」

「それはちょっと僕も思った」

 僕たちは顔を見合わせて大笑いした。

 

 新聞の求人広告を見て隼人兄ちゃんが歌舞伎町のゲーム屋『ダークネス』へ行ったのと同じようにして、僕は別のゲーム屋『ポッカ』という店で働く事にした。とりあえず兄ちゃんの忠告を聞く事にしたのだ。怖いオーナーの下で働くのはさすがにお断りしたい。

 ゲーム屋『ダークネス』が早番二人、遅番二人の二交代制十二時間勤務なのに対し、『ポッカ』は全然内容が違った。早番四人、遅番五人体制で、勤務時間も十時間である。その分、日払いの金額は少々落ちるが、休みも週に一度はとれるし、結構気楽かも。

 実際に働いて思ったのが、ゲーム屋って何気に忙しい体力仕事だという点。兄ちゃんは暇でやる事がほとんどないって言っていたけど、店によってそれぞれなんだろう。

 二十四時間体制で営業をするのが当たり前のゲーム屋にとって、客がいなくなる状況をノーゲストと呼ぶが、『ポッカ』は二十四時間切れる事なく常に誰かしら客がいた。

 店内のコールもマニュアル帳があり、働くのが決まった際、『ポッカ』の店長に言われた。

「じゃあ、時田君…。これ渡すから、明日出勤してくるまでに三回は最低でも目を通しといてね」

 一日十時間働いて日給一万千円と食事代の千円がもらえる。当たり前だが電車賃など出ない。

 普通の仕事をしたってそんなに稼ぐ術のない僕は何の文句もなく、ゲーム屋『ポッカ』で働くようになった。

 店内にあるゲーム機の台数は十三台。『ダークネス』よりも三台多い。

「入れてー」

 椅子に座りながら千円札をヒラヒラなびかせる客。僕たちの仕事は、ダッシュで金を受け取り、インキーという鍵を使って、金額の分だけクレジットをゲーム機に入れる。これを『IN』と言う。

 あくまでも裏稼業なので正式名称と言ったらおかしいが、『ポッカ』は一円ゲームと呼ばれる。これは隼人兄ちゃんもいた『ダークネス』も同じらしい。

 一円ゲームと言うのはクレジット一で、一円という意味合い。なので一ゲームプレイするのにマックス百ベット掛かり、一度ゲームをやると百円単位で金額が消えていく。要はトランプのポーカーとルールは同じだが、一回チェンジだけで何かしらの役を作らねば、あっという間に百円は消えていくという訳である。

 ツーペア、スリーカード、ストレート、フラッシュ、フルハウスといった役が揃えば、それぞれ二、三、五、七、十倍といった点数がもらえ、そこからダブルアップでビックかスモールを叩いてスコアを倍にしていく。

 この店のゲーム機種は『赤ポーカー』と言う名の機種で、通常ダブルアップで叩いて当たれば点数は二倍になるが、『七』が出た時のみ、無条件で三倍になる。つまりノーマルの台より、多く稼げる可能性がある訳だ。

 一円ポーカーの最大の魅力は、ダブルアップを叩き続け、点数が一万点を超えるところにある。

 一万点を超えると『一気』と呼ばれ、画面は赤く点滅しながらゲームオーバーになる。例えば『一気』をして上がった点数が一万六千六百点なら、一万七千円の金がその場でもらえるというシステムになっているのだ。百の位は四捨五入なので、五百点以上なら繰り上げ、四百点以下なら切捨てになる。アウトボタンと呼ばれる赤いボタンがあり、そこを押すと、画面はリセットされクレジットもセロに切り替わる。

 画面上の点数をリセットして換金する時を業界では『OUT』と呼んだ。継続してプレイする場合、客ももらった金を再度出す面倒を避ける為、『OUT』下時の点数から前もって何本入れるか聞く。一本は千円。二本なら二千円。上がった点数が一万三千点だとして、客が二本入れると言うなら、差し引き一万一千円の金が、客の手元にいく訳である。これを『オリ』と呼んだ。

 フォーカードは六十倍なので、出れば六千点になる。ダブルアップで一回当てるだけで『一気』になる。ストレートフラッシュは百五十倍、最高の役であるロイヤルストレートフラッシュは五百倍なので、その役が揃うだけで、それぞれ一万五千円、五万円となる。

 普通のノーマルゲーム機の一番高い点数は、スリーカードを揃え、ダブルアップを叩いて当てていき、一万九千二百点が最高得点であった。しかし、赤ポーカーの場合、『七』の三倍当たりがある為、スリーカードの「一気」手前点数である九千六百点の時に『七』が出れば、二万八千八百点という高得点になる可能性もかなりあるのだ。

 僅か数分で稼げる一円ポーカーは、歌舞伎町で大人気となり過激な台がどんどん出始めた時期でもあった。

 逆に負ける時は、一時間で六万から七万円の金額が消えていく怖いギャンブルでもある。

 

 僕は『ポッカ』の遅番に配属され、基本的な『IN・OUT』以外の仕事も下っ端なのでこなさなければならない。

 店内のドリンクは無料でサービスするので、夜混んでドリンクが無くなれば、すぐ買い出しに行かなければならない。

 もちろんタバコの注文もある。一人の客が「マイルドセブン買ってきて」と頼まれると、従業員が一斉に声を張り上げるようだった。

「只今からお煙草の買い出しに行きます。お手元のおタバコよろしいでしょうか?」

 一人が言うと、残りの従業員全員で「よろしいでしょうか?」と大きな声で復唱し、それぞれの客に聞きにいくのが決まりであった。

 メモ用紙に、マイルドセブン、セブンスター、パーラメントなどの頼まれたタバコと受け取った金額を書き込み買い出しに行くが、ほとんどそれは僕の役目だった。

 コンビニエンスストアであるタバコならまだいい。中には聞いた事もないようなタバコを頼まれた場合、『東通り』沿いにある世界のタバコまで買い出しに行かなければならないのだ。この時、夜道の騒々しい歌舞伎町の町並みを歩きながら痛感する。今の僕は非常に惨めであると……。

 二十二歳にもなって、客のタバコを笑顔で使い走りしなければならないのである。施設で貴子や知子と仲良くしていた頃を懐かしく感じた。

 店に戻り、それぞれの客にタバコを吸いやすいようにビニールを取って一本だけ出しながら手渡す。

 ひと通り配り終えたあとで、わざと「タバコ買ってきて」と抜かす客もいた。ムカッとくるが、仕事なのでそれでも我慢しながら業務をこなす。店長の横沢はそんな時、何一つフォローをしてくれなかった。ひと言ぐらい客に注意してくれればいいのにな…。内心、そう思いながらも、黙々と使い走りに行く僕。

 中には「IN」に行く際、「ほんと、この店は出ねーよなぁ?」と嫌味を言う客もいる。

 そういったすべてをひっくるめて歌舞伎町なのだ。

 慌しい日常の中、俺は同じような簡単な業務を淡々とこなしていく。

 客入りは日に日に多くなり、食事休憩以外、ほとんど『IN』や『OUT』で動きっぱなしだった。

 店長の横沢は、誰が見てももの凄いデブの三十三歳独身男。本人曰く、「プロテインを飲んで鍛えようとしたら、失敗してこんな体になった。昔はもっとほっそりしていた」と言っているが、誰一人それを信じている者はいない。

 二番手の葛西は、僕と同じ年の二十二歳。一応この店では上司なので仕方ないが、とても横柄な口を利く。「目上を敬うって事を知らないのか、このガキが!」と思わず怒鳴りたくなるのを我慢しつつ、僕は接していた。

 三番手の小林は、店長の横沢と同じ年の三十三歳。地元は新潟らしく、新宿に来る前はとても羽振りが良かったらしい。「今度、詳しくその時の事を教えてあげるよ」というが、一ヶ月経っても彼と話す機会はなかった。インキンに掛かっているので、暇さえあればズボンの上から年中右手でボリボリと痒そうに掻いていた。

 四番手の久保山は、かなり巨体の三十二歳。一度、仕事が終わったあとモーニングに連れて行ってもらった事がある。その時、聞いた彼の話はすごかった。小さな頃相撲を見に行ったら、高見山親方に「相撲は好きかい?」と聞かれ、当時から体格の良かった彼は相撲取りを目指したらしい。入門したものの、練習の激しさについていけず、すぐに脱落。そのあと料理人の道を目指そうとするが、それも脱落。ギャンブル好きが災いして借金を作り、逃げるようにして歌舞伎町の住人になったようである。

 繁華街で働いている人間は、どこかしらみんな一癖ある連中だ。

 僕はこのメンバーと一緒に働き、生活をしていくようなのである。

 

 ある日、仕事を終え帰ろうとすると、同じ八時上がりだった三番手の小林が声を掛けてきた。

「時田君、これから何か用ある?」

「いや、ないですけど」

「じゃあ、一緒に飯でも行こう」

「いいですよ」

 僕は笑顔で応対すると、小林は肩をポンと叩いて微笑んだ。「いつもチンコをいじっている手で汚いな」と言いたかったが、上司なのでとりあえず我慢しておく。

 店のコスチュームは、黒ズボンに白ワイシャツと青ネクタイ。歌舞伎町のほとんどのゲーム屋はこのスタイルで仕事をしている店が多い。中にはネクタイでなく、蝶ネクタイをしている店もあるらしい。

 小林は私服に着替える間も絶えず、右手で下半身をボリボリと掻いていた。

「いや~、またこの時間になるともの凄く痒いんだわ」

 僕の視線に気がつくと、恥ずかしげもなく自然に話し掛けてくる小林。彼は将来ひょっとしたら大物になるかもしれないと感じた。

 西武新宿駅前通りにあるロッテリアに入ると、小林は「何でも好きなもの注文しなよ」と言った。

 僕はチーズバーガーと照り焼きバーガーを頼み、ポテトのセットもお願いする。

「お支払いはご一緒でよろしいでしょうか?」

 アルバイトの女性店員が聞くと、小林は耳元でボソッと呟いた。

「時田君、今月ワシ、苦しいんだわ…。今度、もっとええもんご馳走するから、ここ出してもらってもいいかのぅ~」

 自分から誘っておいて、しかも部下で年下の僕に金を払わせるなんて何て野郎だ……。

「い、いいっすよ……」

 すでに注文したあとなので断りようもなく、僕は仕方なしに今日の日払いから金を払う。

 席に着いて向かい合わせになると、小林は腹が減っていたのか犬がガツガツ食い漁るようにハンバーガーを食べだす。品という言葉があるが、彼にはその品というものがまった感じられない。

 この男…、とんでもない奴かもしれない。まだ、『ポッカ』に入りたてで間もないから、こうして付き合っているが、深くは関わらないほうが賢明だろう。

 彼は口に玉ねぎのきれっぱしがついたままなのも気づかず、ストローでアイスコーヒーをジューっと汚らしい音を立てて飲み、そのあとでタバコを吸った。

 いつも店長の横沢から「小林、おまえは落ち着きがねえんだよ」と怒られるのも無理はないなあと思う。

「いや~、ロッテリア。ほんとうまいわぁ~。のう、時田君」

「え、あ…、ああ…。そうですね……」

 ここでハンバーグを作っているアルバイトも、小林の台詞を聞いたら喜ぶだろう。ロッテリアのハンバーガーをここまでうまそうに食う人間もなかなかいない。

「そうそう、ワシな。地元で羽振りいいって言っただろ?」

 こいつは人の奢りで食べているのに、何を羽振りいいとか抜かしているのだろう。神経を疑ってしまう。

「ええ、何をされていたんですか?」

 一応上司は上司だ。表情に出さず、僕は丁寧な口調で聞く。

「マルチや。マルチ」

「マルチってマルチ商法ってやつですか? ねずみ講の……」

「まあ、そうやな。下の者が紹介で新しい人間を連れて来るやろ? ワシが商品の説明を話すと、みんな笑顔で仲間になってくれるんやで」

 何でこの人は新潟出身なのに、中途半端な関西弁を使うのだろう。マルチの話題よりもそのほうが気になる。

「でな、ワシが説明していると、どんどん人が増えよってなぁ~。気づいたら一ヶ月で二百万円が、ワシの講座に振り込まれていたんや」

「え、二百万ですか?」

「ええ、そうや。もちろん一ヶ月でやで」

「すごいですね」

「でな、どんどん振り込まれる額が増えてのぅ~。調子に乗ったワシは家を購入したんや」

「い、家をですか?」

「ああ、ほんまやで。三千四百万の家のローンを組んでなぁ~。ほんと、あの頃は景気良かった……」

 そう言うと小林は窓の外に視線を向け、遠くを見つめて過去を懐かしんでいるようである。

「それからどうなったんですか?」

「ああ、それからな。ワシはずっとその銭が口座に入ってくるもんだとばかり思っててのぅ~…。いや~、ほんと失敗したわ」

 普通で考えても、そんな馬鹿な真似を誰がするのだろうか。しかし小林の真剣な話口調を見ている限り、嘘をついているようには見えなかった。

「それじゃあ何故、この歌舞伎町に来たんです?」

「結局羽振り良かったもんで、いつも派手に金使っててのぅ~。気づけば借金だらけで首回らんようになっての。弁護士に相談して自己破産や」

「……」

 自己破産…。よく雑誌やテレビで最近聞くが、身近で自己破産したという人間は、初めて見た。

「地元から逃げるように、こっち来てのぅ~…。それで今の『ポッカ』に拾われたんや」

「何だかすごい人生ですね……」

「天国から地獄やったなぁ~…。最初はデズラあるやろ?」

「デズラって?」

「日払いの事や」

「ああ、はい」

「それを店で預かってもらって、毎日サウナ代だけもらってのぅ~」

「え、住むところもなくて、こっちに来たんですか?」

「だから逃げるようにって言っただろ」

「ま、まあ……」

 自分でその姿を想像してみた。仕事が終わり、帰る場所はサウナのみ。雑魚寝でたくさんの人間が寝ている中、自分も一緒にそこへ……。

 想像しただけで身震いがした。僕にはそんな生活、絶対にできないだろう。

「ワシは遅番やから、上がる時間が八時か、十時や。早い時間、サウナ行くと料金が安いんやで。二千円掛からんもん。駅前のグリーンプラザってあるやろ?」

 確か西武新宿駅前の道路沿いにグリーンプラザというサウナがあったような。

「での、デズラ必死に溜めて、ここ最近でようやくアパート借りられたんだわ」

「この辺ですか?」

「う~ん、西口のほうや。風呂無し、便所共同やけど、家賃四万で済むからのぅ~」

 三千四百万の家を買った人間が、風呂無しの四万の家賃のアパートで生活。彼も相当辛い生活をしてきたのだろう。

 どこか人懐こいところのある小林。僕は話を聞いている内、いつの間にか同情していた。

 

「四卓さん、二本入ります」

「はいっ!」

 僕が働くポーカーゲーム屋『ポッカ』の『IN』を入れる際の掛け声。これもすべてマニュアルに従っての行動である。

 入れた人間が大きな声で言い、他の従業員は大きな声で「はいっ!」と叫ぶ。最初は恥ずかしく馬鹿みたいだなと思ったが、店内を活気づけるには一番いい方法らしい。

「おい、時田君、ちょっと」

 いきなり店長の横沢に呼ばれる。

 俺は、店内のゲーム機の記録がすべてしてあるモニターのある『リスト』へ向かう。

「自分さー。ちょっといつも声小さいんだよね。この商売、恥ずかしがってちゃ、勤まらないからさ。もっと自分、大きな声出してよ」

「はい、すみません……」

「頼むよ」

「はい、気をつけます」

 横沢に注意される際、醜く突き出る腹に目線がどうしても行ってしまい、吹き出すのを堪えるのが大変だった。よくもまあ、あそこまで醜く腹をダランとされられたものである。

 まあ、どうせ歌舞伎町は地元でないし、知り合いに会う事もない。店の従業員みんなが大きな声で言っているのだから、横沢の言っている事ももっともな事である。僕は今まで感じていた照れを捨てて、その日から大きな声で叫ぶように言った。

「おい、時田」

 二番手の葛西は何か機嫌悪そうにしていると、決まって僕に八つ当たりをしてきた。

「何ですか?」

「おまえ、一番下っ端なんだからよ~。俺が動こうとしたら、気づいて先に動けよ。使えねえな」

「す、すみません……」

 このクソガキが…。後ろで右の拳をギュッと握り締め、何とか堪える。何でこんな同じ年の若僧に、そんな口を叩かれなきゃいけないんだ。仕事じゃなかったら、ぶっ飛ばしてやりたい。

「おい、久保山」

「は、はい……」

 クソガキの葛西は、小さな身長を目一杯背伸びしながら、目を剥き出して怒鳴りつける。

「おまえも、もっとキビキビ動けよ」

「は、はい……」

 十歳も年下のガキに、こんな言われ方をされた久保山。非常に憐れである。

 身長百六十センチぐらいしかない葛西は、何かあると、僕や久保山に当たってきた。比較的同じような身長の小林には、あまり文句を言わない葛西。あくまでも推測であるが、自分より背の大きな人間を怒鳴りつける事で、葛西のアイデンティディーは守られているのではないかと感じるぐらいだった。

 仕事帰り、一緒の時間に上がれた久保山に声を掛けてみる。

「久保山さん。今日良かったら飯一緒に行きません?」

「う、うん。いいよ」

 もそっとした言い方で返事をする久保山。いつもながら彼はマイペースな男だった。

 

「葛西さんの事なんですけど……」

 喫茶店ルノアールで、僕はアイスコーヒーを頼み、久保山は梅昆布茶を頼んだあとで、単刀直入に話を切り出した。

「うん、どうしたの?」

「ちょっと何だかんだで色々と文句言い過ぎだと思いません?」

「確かにね…。葛西さんはあのゲーム屋で二年働いているから、そこそこ長いし」

「でも、まだ二十二なんですよね? もうちょっと口の利き方考えろって思いません?」

 同じ境遇に立たされる者同士なら、分かってくれるのではないか。でも、僕はただ単に愚痴をこぼしたかっただけなのかもしれない。

「これは僕が言ってたって言っちゃ嫌だよ?」

「ええ、もちろんです」

「あいつさ…。あ、葛西の事ね……」

 僕が本音で話しているので、彼も本音を言い出したようだ。

「ええ」

「実は、横沢さんが休みでいない時だけなんだけどさ。店の金、抜いてるらしいんだよね」

「え、本当ですか?」

「うん、証拠はないけどさ。この間横沢さんと一緒に飯食いに行った時、横沢さんが次の日出勤するとね。何か伝票がおかしい部分あるんだって言ってたよ」

 売り上げから金を抜く……。

 隼人兄ちゃんが働いていた店『ダークネス」の店長だった岩崎を思い出した。そういえば兄ちゃんも前は、そういった汚れた金を手にしていた側の人間であるのだ。

 今の給料でも充分生活はまかなえる。

 一日働いて一万二千円。食事休憩で千円は毎回使うから、実質一万千円。いや、電車賃などの交通費も出ないから、それを考えると実際に溜められるのは一万円を切ってしまう。

 隼人兄ちゃんの場合、店長の岩崎が毎日のようにくれたと言う一万円札。多い時は数万という時だってあったとも言っていた。

 それが僕は真面目に一万ちょいの金をもらうだけの毎日……。

 金の魔力に一度でも掛かった者は、なかなかその魔力から抜け出せないと言う。誰かがそんな事を言っていたような気がする。歌舞伎町へ来て、隼人兄ちゃんと連絡取っていないけど、これからどうするのかな。

「時田君、どうしたの?」

 久保山の声で現実に引き戻される。

「い、いや、何でもないですよ。少しビックリしただけです」

「ならいいけど、絶対に僕がこんな事を言ってたなんて、周りに言わないでよ?」

「当たり前じゃないですか」

 こんな事を他の人間に話したって何もならない。

「そういえば時田君って、彼女はいるの?」

「え、彼女ですか?」

 幸子の顔を思い浮かべる。でも彼女とはただの幼馴染だしな。

 知子の顔を思い浮かべた。一緒の施設にいてファーストキスをしただけだし……。

「う~ん、たまに僕の家まで来て、料理を作ってくれる子はいますけど、彼女って訳じゃないんですよね」

 正直に現状を伝える。

「いいなぁ~…。僕なんか、こんな体してるでしょ? だからみんな、僕の相手なんてしてくれないんだ……」

 久保山の表情はとても悲しそうだった。しかし僕が彼に何かできるかといえば、何もできない。

 待てよ、今度久保山も一緒に誘って、知子のいるキャバクラへ行ってみようかな。一人であの店へ行くのはどうも抵抗がある。いや、それじゃ何の為に知子と再会するのか意味がないか。

「ねえ、誰か紹介してよ」

 女友達だって幸子ぐらいしかいないのに、どうやって紹介しろと言うのだ。断るが久保山はしつこかった。

「だって料理を作りに来る子がいるぐらいなんだもん。誰か頼むよ~」

「今度機会あったら、女の子紹介しますよ」

 面倒だったので適当に返事をしておく。

「えっ、ほんとっ!」

 小さな目が一気に見開き、身を乗り出す久保山。

「で、でも機会があればですよ……」

「うん! その時は、ほんと頼むよ!」

 細かい唾を飛ばしながら、久保山は急に元気になったようだ。僕は顔を背けながら、どうしてこの街の人間は一癖も二癖もあるのだろうかと考えていた。

 

 ゲーム屋の常連客の中では、一度来ると、一晩でも二晩でもぶっ通しでゲームをやり続ける客もいる。

 矢部というヤクザチックな五十過ぎの客は、週に一度『ポッカ』に来店する。

 彼が来ると、最低でも丸一日は連続でやり続けた。

 途中腹が減ると、「おい、何か食い物のメニューを持ってきてくれ」と従業員に言い、ゲームをしながら店屋物を胃袋にかき込み流すように食べていた。

 出前を頼む際、絶対にカレーや丼物といったやつしか頼まない矢部。片手でゲームをしつつ、空いたほうの手で飯をかき込むので、そういった物しか頼めないのだろう。

 そんな彼は、いつも一晩で二十万ぐらい負けて帰るのがパターンになっている。

「おい、時田ちゃん。出番のメニューちょうだい」

「はい、すぐお持ちします」

 矢部は比較的早めに僕の顔や名前を覚えてくれたので、自分にとっては好感の持てる数少ない客の一人であった。

 カツカレーを頼み、半分ほど食べた時点で「もうお腹一杯」と渡してきた。僕が皿を受け取り奥に下げようとすると、小林がすごい勢いですっ飛んでくる。

「あ、時田君! ワシが…、ワシがそれは下げるよ!」

 何でカレーを下げるだけで、そんな一生懸命になっているのだろう? 不思議に思ったが、言われた通りカレー皿を彼に渡す。

「時田君、奥で一服してきていいよ」

 店長の横沢は、たまに気を利かせて一服を行かせてくれる。僕は「いってきます」とだけ言い、奥の休憩室へ入った。

 休憩室へ入ると、目の前の光景を見て絶句してしまう。

「な、何をしてんすか、小林さん…」

 台所のシンクへカレー皿を持っていったはずの小林。彼は客である矢部の残したカレーをその場でがっついて食べているところだった。

「うめぇー。うめぇ~よ!」

 僕がその状況を見ているのにも関わらず、小林はカレーをあっという間に胃袋へ流し込んだ。

 どのくらい借金があって、自己破産になったのかは分からない。しかし彼のハングリーさを見ていると、生きる事への執着心を感じずにはいられなかった。

 飲み屋のママらしい格好のおばさんが食い残した出前も、小林は裏まで下げると嬉しそうにがっついて食べていた。

 そんな彼を見ていると、内緒で店の金を抜きつつろくに仕事もしないでえばっている二番手の葛西が許せない気持ちでいっぱいになってくる。

 たまたま食事休憩でマクドナルドのバリューセットを持ち帰りした時だが、深夜十時を過ぎると、歌舞伎町のマクドナルドは深夜料金三割増しになるのを初めて知った。最初頼んだ時、歌舞伎町はマクドナルドもぼったくりなのかと思ったぐらいである。

 ポテトをLサイズに変えてもらい、『ポッカ』まで持ち帰ってきたが、ちょうど休憩室では小林さんが一服をしている途中だった。

「おう、時田君。今日はほんと忙しいのぅ~」

「そうですね。でも、そういうほうが時間経つの早く感じますしね」

「いや~、しんどいわぁ~」

「あ、ちょっと僕、トイレ行ってきますね」

 製氷機の上にマクドナルドの袋を置き、休憩室を出た。

 用を済ませ、休憩室へ戻り袋を開けると、目を疑った。

 Lサイズで頼んだはずのポテトの量が、半分ぐらいまで減っていたのである。確認するまでもなく、犯人は小林だとすぐに分かった。彼の行動を見ていると、まさにハングリーという言葉がピッタリ当てはまる。

 特に苛立ちも感じず、残りのポテトを食べだした。

「おい、小林っ! 自分さ~、あれほどホールに出てくる時、口の中でモゴモゴさせてくるなって、散々言ったじゃねえかよ~!」

 店長の横沢の怒鳴り声が、休憩室まで聞こえてきた瞬間、その状況がリアルに想像でき、僕は口の中のポテトを吹き出して大笑いした。

 

 競馬狂いの二番手葛西。

 まだ二十二歳の若さで、GⅠレースになると、一レース二、三十万円の勝負をしていた。デカい金額を賭けるので当然狙い馬券も固い倍率のものになるが、葛西の博才の無さは酷いものである。馬連一点で十万以上の金をつぎ込むのだから、当たれば配当金額もそこそこいいものになる。しかし、デカい勝負をすればするほど、葛西は蟻地獄にはまったかのように負け続けた。

 翌日の月曜日になると、葛西の機嫌の悪さは僕たちまで飛び火する。少しでもこちらが悪ければ仕方ない事だが、ただの因縁をつけているとしか考えられないような文句を葛西はしてきた。

「おい、時田!」

「何ですか?」

「ちゃんとトイレ掃除したのかよ?」

「してるじゃないですか」

「ちょっと来いよ」

 チビが偉そうに胸を張って歩くさまは、見ていて滑稽だ。仕事じゃなかったら後ろからアイスピックで後頭部を突き刺したい。そんな衝動に駆られてくる。

「見ろよ、ここ!」

 目を凝らしながら、床を見ると、縮れた毛を一本落ちている。

「チン毛ですか?」

「そうだよ。ちゃんと掃除してねえじゃねえかよ! やる気あんの?」

「さっき客がトイレ使ったじゃないですか。多分その時、たまたま落ちたんじゃないですか?」

「言い訳してんじゃねえよ、ボケ!」

 僕の頭を小突く葛西。自分の視野が、次第に狭くなっていくのを感じる。

「何だよ、その目つきはよ? 生意気なんだよ、オメーは」

 こいつの人生、ここで終わりにさせてやろうか…。右の拳を固く握り締めて、臨戦態勢に入る。同じ年の人間にこうまで小馬鹿にされたのは初めてだった。

 ここでこいつを殴ったら、『ポッカ』での仕事はクビになるだろう。それでもどうしても引けない意地とプライドはある。

「便器は舐められるぐらい綺麗にしろよって言ったろ?」

「綺麗にやってますよ」

「じゃあ、今、便器舐めてみろよ」

「……」

 全身の血液が沸騰する。

「ほら、早くやれよ」

 もう限界だ…。やっちまうか、この世間知らずの小僧を……。

 その時、トイレのドアが勢いよく開く。自然とドアの方向を向く視線。

「何をやってんだよ、自分らさ~」

 店長の横沢が、不機嫌そうに立っていた。僕は見つからないよう右の拳を解除する。

「いや、横沢さん。時田がちゃんとトイレ掃除してなかったんで今、教育してたところなんすよ」

 クソ生意気な二十二歳の小僧。感情に任せてこの馬鹿の横っ面を殴り飛ばせたら、どれだけスカッとするだろうか。

「時田には俺が注意するからいいよ。それより葛西はタバコ買ってきてよ」

「え、タバコなら時田とか久保山に行かせれば……」

「いいから、俺のタバコを買ってきてくれよ、葛西!」

 いつもと様子の違う横沢に、葛西は戸惑いを隠せないでいた。

「は、はぁ……」

 僕がいる手前、葛西は素直に従うのを躊躇しつつ、苛立っているぞといった感じのポーズをしながら金を受け取り、店を出て行った。

 

 状況がよく飲み込めないでいるが、どうやら僕は店長の横沢に助けられたらしい。

「自分、掃除なんてもういいよ、充分綺麗だから。それよりこっち来てくれる」

 そう言いながら横沢は不機嫌そうな表情のまま、トイレから出て行く。

 何か僕、へまをやらかしたんだろうか?

 トイレからホールに出る際、数メートルの距離が妙に長く感じる。

 いつも横沢がモニターを見つつ、立ちながらホールを眺める『リスト』まで行くと、彼は一枚の新規伝票を見せてきた。

 新規伝票とは、どのゲーム屋でも使っている新規サービスの為の伝票で、ほとんどのゲーム屋ではゲームを始める際、この伝票にサインしてもらい、二千から三千のサービスクレジットを入れている。

 分かり易くいえば、初回に限り二千円払ってこの伝票に自分の名前を書けば、うちの店だとクレジット合計で五千点からスタートできる訳だ。

 確かにこのシステムだと、新規伝票を書きさえすれば、不正なんていくらでもできる。

 その為か『ポッカ』では、新規伝票をもらうと必ず自分の捺印代わりに手書きでサインを必ずするようになっていた。

 一番右側の担当係の欄に俺や小林、久保山のサイン。一番左端の欄に責任者の横沢か、もしくは二番手の葛西のサインがあって初めて、この新規伝票は書類上有効となっている。

 そうでないとこの伝票に架空の名前を書けば、三千円の金を抜く事が計算上可能らしい。

 以前隼人兄ちゃんのいた『ダークネス』の店長だった岩崎は、あらゆる方法で金を抜いていたのだろう。一枚三千円の新規伝票を書いているだけじゃ、毎日兄ちゃんに対し一万円以上の金など渡せるはずがない。彼はどんな方法で計算を誤魔化し、売り上げから金を抜いていたのだろうか?

 まだこの業界に入って間のない僕が、いくら思案を巡らせたところで分かるはすがない。

「時田君。この伝票さ~、自分で書いたサインかな?」

 目の前に出される一枚の新規伝票。名前の欄には『田中一』と書かれていた。担当係の欄には僕がいつも簡易な手書きサインで使っている『時』と言う字が書かれ、丸で囲っている。

 一見僕が自分でサインしたものと似ているが、若干違う部分を感じた。一円ゲームでいくら客が来て忙しいと言っても、伝票にサインしてもらった客の名前ぐらいはある程度頭に入っているものである。この伝票の『田中一』と言う名前は全然身に覚えがなかった。

「う~ん、自分が書いたサインと似てはいますが、やっぱり違うと思います。第一この客の名前は覚えがないですね」

 眉間に皺を寄せながら伝票を見つめる横沢。一体、この伝票に何があるのだろう?

「そっか。分かった…。じゃあ、ホール戻って仕事してくれるかな」

「はい、分かりました」

 リストには小林が立ち、ホールでは久保山一人が忙しそうに、体中の贅肉をブルンブルン揺らしながら走り回っていた。

 店内のゲーム機の設置は、白い壁に向かってゲーム台が十台横一列に並び、残り三台は後ろに横向きになって並んでいる。随分と変わった置き方をしていたが、そう大きくない横長の店舗なので、そう置くしか他に方法がなかったらしい。

 すぐ僕も『IN』の仕事に加わり、久保山を助ける。

「あ、時田君。あの伝票のサイン、君のじゃなかったの?」

「う~ん、似てるけど何か違うんですよね」

「そっか……」

 そう言うと久保山は一人で汗を吹き出しながらもニヤニヤし始めた。

「どうしたんです?」

「いや、今さ…。葛西の奴、横沢さんにタバコ買いに行かされてるじゃん」

「ええ、それが何か?」

「帰ってきたら面白い事になるよ」

 それだけ言うと、久保山は客の「入れて~」という声に素早く反応し、ホール内をバタバタと駆け出した。

 

 クソ生意気な葛西が、店長の横沢の命令でタバコの買い物に行き、戻ってきた瞬間の事だった。リストのところで、いきなり頭突きを葛西にかます横沢。小声で何か言っているのでよくは聞こえないが、怒った形相で葛西の胸倉をつかみ出した。

 本当なら僕があのガキにしてやりたい気分だったが、ワクワクしながらその光景を眺める事にしとく。

「葛西、何をやったんですか?」

 ホールで『IN』を死ながら、小声で久保山に聞いてみた。

「さっき、新規伝票確認してたでしょ? あれで決定的になったんだよ」

「決定的って?」

「入れて~!」

 五卓の客が、千円札を二枚手に持ちながら大袈裟に振っている。僕はすぐ駆け寄り、インキーで『IN』を下。

「五卓さん、二本です」

「はいっ!」

 仕事をこなしつつ、視線はリストの横山と葛西の様子を見ていた。

「あれだろ。新規伝票を数枚書いて、店の金を抜いていたのが、あれでバレたんだよ」

 なるほど…。それで先ほどの展開となっている訳か。

「でも、リストで従業員が殴っているのに、お客さん…。誰一人も気にしないでゲームやってますね……」

「歌舞伎町の人間なんて、そんなもんだよ」

 二年早くこの店に入っただけで、今までえばり散らしてきた葛西の泣きそうな顔を見物するのはとても愉快なものだ。

 それにしても散々陰でコソコソと新規伝票を偽造し、金をちょろまかしていた葛西。とんでもない奴である。

「すいません。すいません……」

 必死に謝る葛西。この稼業でやってはいけない抜きがバレたのである。いくら謝っても、許される事などないだろう。

「店員さん、コーラちょうだい」

「はい」

 僕は客に頼まれたコーラを作りに、奥のキッチンへ向かう。途中リストの前を通り過ぎるので、どんな会話をしているのか楽しみだ。

「自分さ~、何をしてきたのか、分かってんの?」

「すいません、すいません……」

 葛西の視界には、僕の姿など映っていないようである。ちょうど通路の壁に寄り掛かるようにいたので、無言のまま乱暴に手で葛西をどかす。

「お、おい!」

 自分の現状の立場も忘れたのか、葛西は僕の肩をつかんでくる。

「おいじゃねえだろが!」

 怒声がして、横沢のパンチが葛西の右頬にクリーンヒットした。

「自分さ~、うちの店の仕事の邪魔すんの、やめてくれないかな」

「ぐっ…、す、すいません」

「とりあえず上には連絡して、これから来るって言うからさ、それまでに自分の荷物まとめときなよ」

 葛西は左手で鼻を押さえ、僕の後ろをついてくるように歩いてきた。知らん顔でコーラをグラスに注いでいると、葛西が睨みつけながら口を開く。

「おい、時田! 何だよ、さっきの態度はよ?」

 さっきまで横沢に殴られ、情けない姿を露呈したにも関わらず、未だ虚勢を張る葛西。どうせ今日でクビになる人間である。今までの鬱憤もあったので、ここはハッキリと言ってやろう。

「うるさいよ、この泥棒が。仕事の邪魔しないでくれる?」

「な、何だ、おまえ…。その口の利き方は?」

 僕はよく喋る口元目掛け、右の拳を叩きつける。いきなり殴られるなんて想定していなかったのだろう。葛西は口元を押さえたまま両膝をつき、床に突っ伏した。

 意識して人間を殴ったのはこれで二度目。貴子にした時以来だ。

「金を抜いていたくせに、いつも偉そうにしやがって」

 うずくまる葛西の横っ腹をつま先で蹴飛ばすと、葛西は腹を抑えて九の字になる。全然殴り足りないが、これで少しはスッキリした。

 本当に嫌いな人間は、殴ると気持ちがいい。初めて知った感覚。

 本当なら殺してやりたいぐらいだった。

 仮に葛西が横沢に今の行動をちくったところで、仕事の邪魔をしていたのは事実である。抜きをしてクビになる人間の話など、まともに取り合わないだろう。

 倒れているクソガキを無視して客にコーラを持っていく。リストを通る際、横沢に何か言われるかと思ったが、彼はモニターをジッと見つめていただけだった。

 この街に来て、僕は少し暴力的になっているのかもしれないな。

 

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