朝五時を告げる目覚ましが鳴る。手探りで時計を探し、上についているボタンを叩く。途端に鳴り止む音。
少ししてまた目覚ましがなった。そこでようやく重いまぶたを開き、僕の一日が始まる。
いつもと違う点。横にいるはずの貴子がいない事。
つけっ放しだった電気とテレビを消す。
今日の現場は遠いから、会社へ六時半には到着するようだった。もっと近くの現場にしてほしいな。
昨夜食べ途中だった幸子の作ったおにぎりの残りを食べた。残りの二つは、今日の昼飯として持っていこう。すき焼きとお新香の残りは帰ってきて食べればいいや。
顔を洗い、歯を磨く。昨夜飲み掛けだった麦茶の入ったグラスへ目が向かう。幸子の鮮やかな真紅の唇がついたグラス……。
手に取り、その部分を舐めてみる。一方的な僕の間接キス。惨めさよりも、興奮がジワリと全身を覆う。
十五歳になった僕を見て、彼女はどんな風に思ってくれたのだろう。明後日…、いや明日、幸子はここへ料理をしに行くと言った。しかも一度だけでなく継続的に…。一体何を考えて来るのか。少なくても好意を持っているからこその行動だと信じたい。
彼女の握ったおにぎりを持って仕事へ向かう。
これからの未来なんてどうなっていくか分からない。だったら不意に訪れたこのつかの間の幸せぐらい大事にしたい。
そんな事を考えている内に会社へ到着した。
「おい、小坊主、おせーよ」
二トントラックの運転席に座る先輩の内野が僕の姿を見るなり怒鳴ってくる。時刻はまだ六時十五分。遅刻でも何でもないのにいつも難癖をつけてくる馬鹿。よく仕事でミスをする内野は親方からしょっちゅう注意を受けていた。その腹いせか僕には強く当たってくる風潮がある。
「オメー、口ねえのかよ? 先輩が声を掛けてやってんだ。返事ぐらいしろや」
「あ、はい…、おはようございます……」
「おいおい、誰が挨拶しろって言ったよ。おせーって言ったんじゃねえか。オメー、日本語もよく分からねえのか? これだから中卒って困るよ」
「……」
自分だって高校を一年で中退しているじゃないか。そう言い返したいのをグッと堪え、助手席へ乗り込む。
内野はポケットからタバコを取り出し、口にくわえる。そして僕の顔の近くまで顎を突き出してきた。火をつけろとでもジェスチャーしているようだ。生憎タバコは吸わないのでライターなんて持っていない。僕は気付かないふりをして、左側の窓の外を見た。
頭に痛みが走る。内野の奴が僕の頭を叩いたのだろう。
「おい、先輩がタバコを口にくわえたんだ。火ぐらいつけようって気遣いもねえのかよ?」
「あの…、前にも言ったと思いますが、僕はタバコを吸わないので、ライターを持っていないんです」
「チッ…、まったく使えねえガキだ。ライターぐらいいつも用意してろや」
不服そうにタバコに火をつける内野。大きく吸い込んでから僕の顔目掛けて大量の煙を吐き出した。
突然だったのでまともに煙を吸い込んでしまい、咳き込む僕。
「お子ちゃまは本当に駄目だな。明日からちゃんとライター持ってこいよ」
「……。はい……」
早く誰か来ないかな。この馬鹿と二人きりだと静かにしていた殺意が芽生えてくる。
「小坊主…、オメー、今まで喧嘩した事はあるのか?」
内野はどうでもいい質問をしてくる。
「ありません」
「やっぱな…、オメーみてえなのが喧嘩などできる根性なんぞねえよなあ」
「はあ……」
喧嘩はできないけど、人は殺せるよ。心の中で呟く。
「昨日なんて俺はよ…、あ、おはようございます、親方! ゆっくり眠れましたか?」
いきなり内野の声色が変わる。親方と職人の源田さんの姿が見えた。上の人間の前では猫撫で声を出し、機嫌ばかり伺うようなクズ。絶対にこんな男だけにはなりたくない。
僕たちを乗せたトラックは、現場に向かって静かに発進した。
今日の仕事はビルの内装。一階から三階までの小さな雑居ビルだが、エレベータがなく移動手段は階段だけ。なので物を運ぶ際、大変な労力がいる。
僕と内野はこれといった技術がないので、ボード板を一階から三階までひたすら運ぶ作業だった。数えるのも面倒なぐらいの量。憂鬱な気持ちになりながらも、仕方なくボードを持つ。
ゆっくりと一歩ずつ階段を踏みしめながら上がり、ようやく三階へ到着。全身から汗が噴き出してくる。日頃怠けている内野は数回この作業を繰り返すとへばったのか、床に尻餅をつく。それを見て怒鳴りつける親方。内野は慌てて立ち上がり、一階へ向かう。
まだ内装は何もしていない状態らしく、辺り一面の壁は剥き出しのコンクリート。窓には何もないので、ビルの壁に四角い穴が開いている状態だ。外では鳶職人さんたちが足場を組んでいた。
どのぐらい運んだのか分からないぐらいの数をこなすと、親方が一服休憩をとった。僕はタバコを吸わないので、親方から金を受け取り、みんなのジュースを買いに行く。
「あ、時田。下の階にいる職人さんたちの分も一緒に買ってきてくれ。おい、内野も一緒に行ってやれ。結構な量になるだろうからな」
「はいっ!」
こんな時ばかり威勢のいい返事をする内野。
「親方…、何を買ってきます? コーヒーとお茶でいいですか?」
「ああ、任せるよ。適当に買ってきな」
外へ出て自動販売機を探す。他の職人さんたちの分も買うとなると、十五本ぐらいは必要だ。内野は面白くなさそうに僕のあとをついてくる。
「おい、小坊主」
「何ですか……」
「おまえ、ボードを二枚ずつ持っていくようにしろよ」
「え、無理ですよ…。三階まで上がるようなんです。親方だって無理はするなって言ってたじゃないですか……」
二枚なら持てない重さではないが、持って行く場所を考えると一枚ずつのほうが無難である。内野は自分がズルをしたが為に僕へそう言ってくれるのだろう。
「いちいち逆らいやがって、このクソガキ」
僕の尻を蹴飛ばしてきた。
「やめて下さいよ…。親方に言いつけますよ?」
「ほう…、言ってみろや? いいか? 俺はここでもう二年は仕事をしているんだ。おまえみたいにたった数ヶ月の人間と信用が違う。親方は職場内のトラブルを嫌うからな。そうなったらその時点でおまえはクビだな。それでもいいなら言いつけな」
憎たらしい内野は意地悪そうな顔をしながら言った。
高校も行っていない僕が今、仕事をクビになったら次の仕事を探すまで大変だ。仕事ができない分、内野は親方に気に入られようと常にヨイショを絶やさない。しょうがなくグッと我慢をする。
自動販売機まで着き、コーヒーやお茶を買う。その時内野は突然手を伸ばし、桃のジュースのボタンを押した。
「これ、内野さんが飲むんですか?」
「違うって。飲むのはおまえだよ」
ニヤりとしながら口を開く内野を見て、また嫌がらせをしているのだと気付く。
「僕はこういうのは好きじゃないので……」
「しょうがないだろ、買っちゃったんだから。責任持って飲めよな」
「……」
ずっとこの馬鹿と僕は仕事をしていかなきゃいけないのか。たかが年が三つ四つ上だからって、こうまで威張る彼の神経が分からない。
現場へ戻るとみんな喉がカラカラだったのか、笑顔でジュースに近寄る。最後に残った桃のジュース。内野を見るとうまそうにコーヒーを飲んでいた。
一服を終えると再び仕事開始。汗を流しながら懸命に三階へボードを運ぶ。
昼飯時になり、僕は幸子が握ってくれたおにぎりをトラックの中から持ってくる。ちょっとしょっぱいけど、これだけ汗をかいたんだ。ちょうどいいかもしれないな。一階は色々な職人さんたちが自前の弁当を開き出し、座るスペースがなかったので三階へ向かう。
ここには僕一人だけかと思ったけど、内野がタバコを吸っていた。嫌なところへ来てしまったな。でもここで戻ろうとするとまた絡んでくるだろうし……。
仕方なく適当な場所に腰掛け、ビニールからおにぎりを取り出した。
幸子の顔を思い出しながら一つ目のおにぎりを食べてみる。うん、愛情が籠もっているからおいしい。
「おい、小坊主、うまそうなもん食ってんじゃねえか。一個くれよ」
「え…、すみませんが、これはちょっと駄目ですよ」
「ケチケチすんなよ」
強引に僕からビニール袋を取り上げると、内野は中にある最期のおにぎりを手に取ってしまう。
僕の為に作ってきたおにぎり。幸子の気持ちが籠もっているんだ。こんな奴に食わせる訳にはいかない。
「返して下さい…。それは作ってもらったものなので」
「作ってもらった? おまえ、親はいねえだろうが?」
「親じゃありません。友達が作ってくれたんです」
「友達? ひょっとして女か?」
「別にそんな事まで内野さんには関係ないじゃないですか……」
「関係ない? 職場の先輩に対してそういう風に言うんだ? 酷い奴だな。しょうがねえから、これは俺様が食ってやるよ」
そう言いながら内野は幸子のおにぎりを齧り出す。
「あ……」
目の前に見える視界が狭まり、血液が上っていくのが分かる。
「ペッ! 何だ、こりゃ? 塩が利き過ぎで食えたもんじゃねえや」
一口だけ齧った内野は、おにぎりを床に向かって叩きつけた。地べたに転がるおにぎり。辺りの埃やゴミで、汚くなってしまった。
「……」
「彼女が作ったんならちゃんと言っとけ。おむすびぐらいちゃんと作れるようにしとけってな」
それだけ言うと、内野は奥のほうへ行きゴロンと横になる。僕は地面に転がった幸子のおにぎりをしばらくジッとみつめていた。どんな想いでこれを握ってくれたと思っているのだ……。
根底で眠っていた静かなる憎悪が、沸々と熱気を帯びてくる。よくも幸子のおにぎりをあんな風に…。この償いはキサマの命を持って償え。
この日は仕事を終え、家に戻ってからも、苛立ちが治まらないでいた。すべての原因は内野である。
あいつは幸子の作ってくれた大事なおにぎりを奪っただけでなく、粗末に扱った。特に仕事上役に立つ訳でない。その存在がいるだけで周囲に迷惑を巻き起こすような害虫のような人間。以前僕がこの手で殺した藤岡と似たようなタイプだ。
僕が一度でも何か迷惑を掛けたというのなら話は分かる。でも、何一つしちゃいない。
それなのにあいつは常に何かしら難癖を言い、僕に絡んでくる始末。
生きている価値など何もないだろう。
では、どうやって内野を殺す? 藤岡の時は色々なタイミングが重なりうまくいっただけ。僕が手を下したと周りに分からないよう何かいい方法がないだろうか?
そもそも腕力では到底敵わないのは自覚している。僕にはあくまでも不意をついて命を奪う方法しかないのだ。だとすると、現場で作業中の事故なんて理想かもしれない。
よく現場の状況を思い出せ。そしてどうする事が最適なのか。それを考えろ。
今だと数日は三階までボードを運ぶ作業である。僕と内野は同じ作業。つまり一緒にいる機会が誰よりも多い。
奴の隙をついて殺す方法……。
手っ取り早いのは三階からの転落死……。
じゃあ、どうやって?
あいつは怠けているせいか、見掛けほど体力はない。ボードを持って上がってくるところをよろけたふりをしてぶつかる。三階の階段から転落すれば、打ち所さえよければそのまま…、いや、それじゃ駄目だろう。階段から落ちて亡くなったってケースはほとんど聞かない。
助かっては困るのだ、僕が。
なら、他に方法はないか。もっと確実に死ぬような何かは……。
腹が鳴る。昼はあのおにぎりを一つしか食べていなかった。昨日幸子が持ってきてくれたすき焼きとお新香を食べるか。でも、ご飯がないし…。面倒だけど、弁当を買いに行こう。明日用の弁当もついでに。
内野を殺す計画は、食欲を満たしたあとゆっくり考えればいい。
汚れた作業着を洗濯機へ放り投げ、私服に着替えようとして思い留まる。せっかく買い物に行くんだから、先に風呂にしよう。
母さんが死んだ場所である風呂場。いつ入っても気味のいいものではないが、あまり遅い時間になってからは遠慮したい。精神的な問題なのだろうけど、少しでも明るい内に風呂は済ませておきたかった。
今ではもう母さんの頭から流れた血の染みなんて、どこにも見えない。普通のタイルの床が見えるだけ。
あの時は様々なタイミングが重なり、母さんは死んだ。手首を切ろうとした母さん。それを必死で拒んだ僕。滑りやすい風呂場の中。
殺すつもりなんてなかったんだ。殺意でもなく故意でもない。言うならばあれは偶然による事故。ん、殺意がないから故意でもないと僕は今思った。
故意…。故意とは、行った行為が意図的なものを言う。では逆の言葉って何なのだろうか? 以前国語のテストに出た事あったよな。思い出せ。
故意の反対語…、過失? 過失って正確にはどんな意味だったっけ? 確か注意を怠った為に起こった失敗などを指す言葉だったような。もっと学校へ通っていた時、ちゃんとそういうのを勉強しておけば良かった。故意と過失。何か釈然としない。もっと適切な言葉ってないだろうか?
母さんを押してしまったあの行動。あれを故意でないとすると、僕は何で押した? もちろん殺されたくない為に必死で無意識の内に押す事で、自身の身を守った。
「無意識……」
思わず発する言葉。そう…、無意識の内に僕は押していたのだ。故意に押したと、無意識に押した。うん、これなら分かりやすいだろう。
「……」
それでもこの手が母さんの命を奪った事は変わらない。そんな手で髪の毛を洗う僕。
正直に言ったら、どうなっていたのだろう? 僕が母さんを殺したって……。
捕まって少年院送り? それとも正当防衛? 一応殺され掛けた訳だし。それでも周囲には僕が人を殺したって分かってしまう。ただの人殺しではない。親殺しなのだ。今をまともとは言えないけど、それ以上まともな人生なんて送れないだろう。だからこのまま黙った状態で間違いはないのだ。
幸子の昨夜の行動。あれは僕に対する好意かもしれないが、母さんを亡くしたという同情的な部分も絶対にあるはず。
もしも僕が殺したと彼女が知ってしまった場合、昨日のようにああして振舞ってくれただろうか? それは考えられない。
明日、幸子はここへ料理を作りにやってくる。僕はそれを楽しみに…、心待ちにしているのは否定できない。なら、絶対に僕が親をこの手で殺しただなんて知られちゃいけないのだ。
翌日も同じ現場で同じ作業が始まる。
何かとちょっかいを掛けてくる馬鹿な先輩の内野。今はそうやって自由に小馬鹿にしていればいいさ。いずれおまえの命なんて、僕が奪ってやるから……。
壁にぶつからないよう細心の注意を払いながら三階へボードを運ぶ僕。神経と体力の両方を使うから余計に疲れは倍増した。二、三回運んではヘトヘトになる内野。こいつのこのようなザマを見ると、楽しくなってくる。
今、僕がよろけ、その勢いで内野にぶつかったら、簡単に階段から転げ落ちるだろう。でもそんな事はしないから安心しなよ。それじゃ君は死ねないだろうからね。
まさか僕がこんな事を考えているなんて思っていないだろう。暇を見ては嫌味を言う内野に対し、心の中でほくそ笑む。
「くっ!」
ボードを窓際の場所へ置こうとした時バランスを崩し、壁に手をつく。まだ窓もついてないのだ。下手したらこのまま下へ落ちてしまうところだった。ちょっと大袈裟か。外では足場が組んであり、それで落下はいくらだって防げる。ん…、これってひょっとしたら使えるんじゃないのか?
足場は外壁をペンキ屋さんが塗る為に組んであるもの。数日もすれば撤去になる。まだそのあとまで窓はつかない。
うまくここへ内野を誘き出せれば……。
三階からの落下。それならいくら何でも死ぬはず。
「おい、ボーっとしてんじゃねえよ、小坊主。とっととボード運べや」
「あ、すみません……」
「何、外をジッと見てんだよ? ひょっとして近所で女が着替えでもしてんのか?」
内野はそう言っていやらしい笑みを浮かべながら近づいてくる。違うって馬鹿だなあ。おまえをここから落とす算段をしていたのさ。
僕の横まで来て辺りを凝視する内野。今、背中を押せば簡単に外へ転落するだろう。でも今はしない。足場が邪魔だ。これらがこいつの落下を絶対に防いでしまうから。
それに今日は幼馴染の幸子が家まで料理を作りに来てくれる日である。そんな嬉しい日に、人殺しなんてさすがにしたくはない。
命拾いしたな、クソ野郎……。
「何だよ、何もねえじゃねえか。おまえ、何を見ていたんだ?」
「いい天気だなって見ていただけです」
簡単に出てくる偽りの言い訳。
「ケッ、能天気な奴はいいもんだ。とっとと働けよ」
「はい」
素直に返事をして僕は階段へ向かった。
駅のホームへ呼び出して殺した藤岡の時と、似たような感覚。点が線で繋がっていく。
内野を殺す方法。足場のなくなったこの三階の窓枠。あそこで女が着替えをしていると偽って呼べば、あの馬鹿はきっと鼻息を荒くしながら来るはず。そこへ僕がそっと背中を押せば……。
現場での転落事故なんてよくある話。誰も僕を疑う人間なんていないだろう。
時田次郎、十五歳、中卒。これまでに殺した人間は二人。一人は自分の母親で、猛一人は中学時代の先輩。
殺意を持って殺したのはまだ藤岡だけ。これから殺そうと思うのは同じ会社で働く内野。僕にとって故意で動く二人目の犠牲者になる予定。
待てよ…、殺意を持ったという点で言えば、違う。
藤岡殺害事件のあの頃、同じ施設にいた知子は僕を疑っていた。あの場はうまく誤魔化す事ができたが、もしバレていたら、僕は彼女をこの手で殺そうと思っていたのだ……。
我ながら恐ろしい考えを抱いたものである。そのあと僕は知子とキスをしているのだから。
ちょっと自分は簡単に人間の命を軽く考えていないだろうか?
仕方なく殺さなければならなかったあの二人。
母さんは僕がああしなかったら、自分の命が危なかったのだ。
藤岡を殺さないと、妹代わりに可愛がっていた貴子が犯されていた。
そんな風に考えていた自分が、逆に貴子を抱くとは……。
藤岡の代わりに僕が貴子を抱いたようなもの? ちょっとそれは違う。藤岡を殺したからこそ、手に入った報酬のようなもの?
じゃあ、母さんの時は?
あのあと僕は、小学生では使いきれないような金を手に入れた……。
今ではこの住まいも手にしている。
僕が誰かを殺すと必然的に何かが手に入っていた。
母さんの時は金とこの家。藤岡の時は貴子の体。じゃあ、内野を殺したら?
自然と頭に浮かぶのは幸子の顔だった。内野を殺せば、あの子が僕のものになるかもしれない……。
そういえば幸子の奴、何時ぐらいに来るとか約束してなかったけど、そろそろ来るのかな。時計を見ると夜の七時。とっくに彼女の学校の時間は終わっている。今頃買い出しでもしているのか?
ピンポーン……。
「あっ」
きっと幸子だろう。噂をすれば何とやらっ言うし。僕は急いで立ち上がり玄関へ向かう。
「あれ?」
ドアを開けると男の姿が見えた。
「おっす、次郎」
「な、直樹君……」
何で彼がここに? そんな疑問が頭をよぎる。しかしそのあとすぐ彼の後ろに幸子が立っていた。
「ごめんね、次郎君…。直樹君と買い物しているところ会っちゃってさ。事情を話したら、自分も来るって強引についてきちゃったの」
「おい、何だよ? それじゃ俺がまるっきり邪魔者みたいじゃねえかよ」
「みたいじゃなくて、思い切り邪魔なの」
口を尖らせながら辛口の幸子。
「ひでーな~。なあ、次郎、俺も一緒にいいでしょ?」
「う、うん……」
心とは裏腹に、僕はつい返事をしていた。
幸子は十八番だと自慢する料理、ミートローフを作り出す。野菜を細かく切り刻み、挽肉と練り上げ、形を長方体に整えている。フライパンにケチャップと砂糖、そして粉辛子とナツメグという意味不明のものを入れて、じっくり火を通していた。
「あとはこれをアルミホイルで包んで、オーブンで一時間ほどじっくり焼けば完成なんだ」
「ミートローフって何?」
「元々はアメリカの田舎料理で分かり易く説明すると、ハンバーグの塊みたいなものかな」
「ふ~ん……」
まだ高校生の幸子がこんな凝った料理が作れる事に対し、素直に感心する。母親から習ったのかな。
「あとつけ合わせにパスタとか色々作るから、次郎君たちは向こうで待っていてよ」
「俺、何か手伝おうか?」
「こっちは大丈夫だから。直樹君も次郎君と積もる話いっぱいあるでしょ。料理できるまで次郎君を独占していていいからさ」
僕は麦茶の入ったグラスを二つ持って、居間へ直樹君を案内する。彼は興奮しながら学校の日常を楽しそうに話していたが、僕にとってどうでもいい事だった。
幸子とせっかく二人きりのいい時間をこの男は邪魔したのだ……。
これじゃ内野を殺したところで簡単に幸子が手に入らない。きっと直樹君が邪魔な存在になるだろうから。
子供の頃よく一緒に遊んだ幼馴染の三人。
男が二人に女が一人。
三人に共通するのが、全員自分を産んでくれた父親がいない事。
直樹君の家は母親だけ。
幸子の家は再婚し、血は違えども両親が健在。
僕だけが誰もいない。
そんな三人が数年の時を経て再会し、今僕の家で仲良く食事をしている。
施設にいた頃は、こんな風になるなんて想像もつかなかった。あの頃は知子と貴子、よく三人で一緒にいた。
あれだけ仲が良かったのに、今では知子も貴子もそばにはいない。何故か? 僕が異性として二人を見てしまったから。
キスをしたから知子は僕を避けるようになった。
貴子は抱いてしまったから? 違う。僕がここで彼女を怒り、叩いたからだ。お互い天涯孤独の身として抱き合った。身を寄り添い合い、同族とも感じた。でも貴子は子供過ぎた。僕一人の手には追えない。
寂しいのか、僕は……。
寂しくなんかない。だって今こうして幸子が横にいるから。
仕事先で内野のような嫌味な先輩がいたって、充分に幸せを感じている。それにしても三つ四つ先に生まれたぐらいで偉そうにしやがって、あいつ。
あ、そういえば憎い内野と同じ年ぐらいに小さかった僕を可愛がってくれた人がいたじゃないか。
隼人兄ちゃん……。
今頃どうしているのかな? よくお菓子をご馳走してくれたり、不良から助けてくれたり、色々な事でお世話になった。幼馴染の幸子や直樹君とこうしてまた再会できたのだ。隼人兄ちゃんともまた会えないかな。
「ねえ、次郎君ってば~」
「え?」
幸子の声で現実に戻る。何度も呼ばれていたようだ。
「どうしたの、ボーっとしちゃって」
「いや、昔をちょっと色々思い出しちゃってね……」
「もう…、まだ私たちは若いんだよ? 過去を振り返るのは、まだまだ先になってからでいいでしょ?」
「ハハ…、そうだね」
そうだ、幸子の言う通り、今はこの贅沢な料理を存分に楽しもう。彼女が一生懸命僕の為に作ってくれたのだ。
「ねえ、今度の日曜日って次郎君、予定は入っていない?」
「ん、何で?」
「うちのお母さんがね、次郎君を一度連れてこいってうるさいのよ。自分の料理を振舞ってあげるんだって」
「それは楽しみだな」
「ほんと? 次郎君がそう言ってたってお母さんに言ったら、きっと喜ぶよ~」
小さい頃何度か遊びに行った幸子の家。確か化粧品屋だったよな。綺麗なお母さんだったのは覚えている。
「おい、幸子。俺は?」
「あなたはちゃんとご飯を作ってくれる親がいるでしょ」
「何だよ、ちぇっ……」
直樹君は不服そうに足を投げ出す。
今度の日曜日か……。
この間のすき焼きは絶品だった。とても楽しみにしている自分がいる。直樹君には悪いけど、こうして幸子との仲がどんどん良くなっていく事を僕は願っていた。
幸子が料理を作りに来てから二日経った。
現場にある三階建ての雑居ビルの足場。それがとうとう明後日には撤去される。幸子の家に明日招かれているから、月曜日には内野殺害計画を実行に移せる訳だ。
ワクワクしながら仕事の時間を過ごす。
いつもと同じように絡んでくる内野。でもあと数日の命なんだと思うと、ほとんど気にならなかった。風前の灯なのだ。生きている間ぐらい、吠えさせてあげようじゃないか。
こうして一日が終わる。僕はいつもより丁寧に全身を洗い、指の先がふやけるまで風呂に浸かった。別に明日、幸子を抱く訳でもないのに、妙に張り切っている自分。まあ綺麗にしておく分には何の問題もない。
湯船の淵に両腕を置き、顔を乗せる。ボンヤリと鼻歌を唄いながら床を見た時だった。
「……っ!」
床の一部分が真っ赤に染まっているのが見える。まさか、血?
思わずギョッとして立ち上がった。
目を擦り、恐る恐る床を見てみる。
「あれ?」
今度は平凡なタイルの床が見えるだけだった。単なる僕の見間違い? でも、あきらかに血のような真っ赤なものが広がっていたように見えたんだけどな……。
ちょうどその場所は、母さんが頭を打って亡くなった場所でもある。
今でも鮮明に覚えている母さんの亡くなったシーン。
気のせいだって。変に意識するなよ……。
あれだけ風呂に浸かっていたはずなのに、僕の体は鳥肌が立っていた。
こんな場所で呑気に鼻歌を唄い、浮かれている場合じゃない。風呂場から出ると、急いで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かした。
居間に行くと、見もしないのにテレビをつけ、音楽のCDを掛ける。シーンとした空間に身を置くのが堪えられなかった。賑やかな音はそれだけで明るくさせてくれる。
明日、幸子のところに行くんだろ? もっと楽しい事を考えなくちゃ。
この間幸子が作ってくれたミートローフは本当においしかった。ピカントソースと彼女は言っていたけど、甘辛い味付けで、オーブンでじっくり焼いたせいか、肉の中までソースのうま味が沁み込んでいた。つけあわせのパスタやポテトフライも最高だ。
僕と幸子の二人だけだったら、あの量はさすがに一度じゃ食べきれない。気の利く彼女だ。残りをお弁当みたいにしてくれたかも。直樹君は大声ではしゃぎながら、たくさんの量を胃袋に詰め込んでいた。それで幸子の料理はほとんどなくなったのだ。
あれで直樹君がいなかったら、いい展開になれていたかもしれないのに……。
昔から彼が幸子へ気があるのは知っていた。それはきっと向こうも同じだろう。だからこの間は強引に僕の家まで来たんだ。幸子と僕を二人きりにしないように……。
小学六年生の後半から中学卒業までの期間、空白がある僕。
僕がいない間、ずっと一緒にいた直樹君。
少女から女に変身を遂げる過程を毎日のように眺める事ができた直樹君を、羨ましくも思う。
数年の差かもしれないが、この期間はとてつもなく大きく感じる。僕が幸子を望む限り、いつか障害になるような感覚がした。
僕はあれほど会いたかった幼馴染に対して、邪魔者という感情が芽生えつつある。
「しばらく見ないうちに逞しくなっちゃって…。おばさん、次郎君に会えて嬉しいわ~」
僕の顔を見た途端、幸子の母さんは妙にはしゃいでいた。
「もう、お母さんたら~…、少しは落ち着いてよ~」
横で幸子が止めるぐらいの喜びようだ。
「今日はね、幸子が次郎君を連れてくるって言っていたから、頑張ってご馳走作ったのよ。お腹いっぱい食べてね」
「すみません…。何だか気を使わせてしまったみたいで……」
「何水臭い事を言ってんのよ。急に次郎君、転校しちゃったでしょ? おばさん、ずっと気にしていたんだよ」
「ありがとうございます……」
こういう明るい人が僕の母さんだったら、こんな暗い性格じゃなかったかもしれない。久しぶりに会うおばさんと接している内に、僕はそんな事を思っていた。
幸子が健康的で性格のいい子に育つ訳だ。こんな親と一緒に暮らしているんだもん。
ご馳走と自分で言うだけあって、テーブルの上に並んだ料理を見た時は、あまりの豪華さに飲まれてしまうほどだった。
食卓には幸子とは血の繋がっていない父親の姿が見える。僕を見ると、ニッコリ優しそうに微笑み、椅子に座らせてくれた。
明るい家庭。
明るい食卓。
明るい家。
今までこんな明るいところにいた事がない僕は幸せ過ぎて、どう接していいのか困ってしまう。
暗い家庭で育ち、虐待を受け、ついには親を殺してしまった僕。
前は自殺したいって何回も思った。
でも、そんな時決まって写真でしか見た事がない兄さんが夢に出てきて、僕を止めた。そういえば最近兄さんの夢って全然見ないなあ……。
あれだけ自殺したかったのに、母さんを殺してから死のうって思った事もないや。
「ねえ、次郎君…、お仕事も色々と大変だろうけど、たまにはこうしてご飯食べにおいでよ。おばさん、料理作るの大好きだし、幸子にもちょくちょく持って行かせるからね」
「そんな…、申し訳ないですよ……」
「若いのに何を遠慮してのよ。食べ盛りなんだし、いっぱい食べてもっともっと大きくならなきゃ駄目よ。あ、ご飯まだ食べるでしょ? お代わりはたくさんあるから食べて」
「あ、はい……」
「次郎君、うちの幸子もお転婆で困るだろうけど、久しぶりに君と会って女の子らしくなってきたんだ。これからもよろしく頼むね」
「もう~、お父さんったら~。ちょっとその言い方って酷くない?」
暖かい家族の団らんの中に一人ポツンといる僕。それでも充分過ぎるぐらい楽しく幸せを感じられる。
幸子同様、何の見返りもなくこうやって優しく接してくれる人が、僕にはいた。
何だか胸の奥がギューッと締め付けられるような苦しさを感じたが、それに対し嫌な感じはしない。しばらくして、それは全身にジンジンしながら広がっていくような感覚。もしかしてこういう事を感動って言うのだろうか?
この人たちと僕はずっと仲良くやっていきたい……。
だから絶対に殺した事は、バレちゃいけない……。
自分で言わない限り、誰にも分からないんだ。生涯貝のように口を閉じ、生き続けなきゃ駄目だ。
懸命に笑顔を作りながら、僕はそんな事を考えていた。
すがすがしい朝を迎える。昨日の出来事が僕にとって大きな変化をもたらしたようだ。
世の中にはあんなにも明るく心優しい人たちがいる。
これまで暗く寂しい道のりを生きてきたけど、僕も将来はあんな風な明るい家庭を築きたい。
でも、こんな僕にあのような幸せに満ち溢れた家庭など作れるのだろうか? 少なくても自分の力だけじゃ絶対に無理だ。
人生の伴侶になる女性…。まだ気が早いけど、どんなタイプならうまく行くんだろう?
まず貴子のような横着でだらしない女では無理。
知子のようなタイプでは、陰りがあり過ぎて色々あるかもしれない。
幸子のような素直で明るく育った環境の女性こそが、伴侶にならないと駄目だろう。うん、彼女なら料理もできるし、よく気も利く。
ずっと暗い道を歩いてきたんだ。そろそろ僕にも明るい未来が訪れたっていい。そう考えると少しは気持ちが楽になる。
まだ十五歳なんだから、先の事を考え過ぎか……。
さて、これから仕事へ行かなきゃ。今日も内野の奴、絡んでくるんだろうな。だけど今日は足場が外れる日。僕の今後の人生を楽しく生きる為にも害虫駆除は必要だ。
いつもと同じように現場へ向かう。ボードは運び終えたので、今度の僕の作業は壁に大きな穴が開いている部分を補修するものだった。モルタルというコンクリートの元みたいなものを作るところから始まる。
砂とモルタルの元をネコと呼ばれる一輪車の荷台の上で水を加えながら混ぜ合わす。スコップでうまくやるようなのだが、僕はこの作業が苦手だった。数年やっているだけあって内野はこれをテキパキとこなす。
「おい、小坊主。まだチンタラやってんのかよ? モルタルが固まっちまうぞ」
そんなすぐ固まる訳ないのに、相変わらず嫌味を言ってくる始末。こぼさないように慎重に混ぜ合わせ、できたモルタルを木の板の上に乗せた。
まず一階から順々に見て、壁に補修箇所を探す。早く三階へ行きたい。もちろん内野も一緒に。あそこにはちょうど窓際のところに大きなヒビがある。それを補修する時が内野の最後だ。もう足場は撤去され、ないのだ。落下するのに邪魔は何もなくなった。
剥き出しのコンクリートの壁に開いた穴を埋める作業。垂直な部分に塗って直すので、モルタルの練り具合一つですぐにポロッとこぼれ落ちてしまう。ヘラを使い、丁重に平らになるよう施すようだ。
一階、二階と壁の補修を済ませ、三階へ向かう。他の職人さんたちは下で作業をほとんどしているので、三階には僕たち以外誰もいない。やっとチャンスがやってきたのだ。
まず僕は目をつけていた窓際の大きなヒビへ行く。そこへモルタルを練り込む作業をするふりをした。適当にやるから当然モルタルはポロポロとこぼれ落ちる。それを見て怒鳴ってくる内野。狙い通りの展開だ……。
「何やってんだよ、オメーは」
「すみません…。うまくモルタルがつかなくて……」
「給料もらえねえぞ、そんなんじゃよ」
おまえが給料を払う訳じゃないだろうが…、そう言いたいのを堪えながら、媚びへつらった愛想笑いをする。
「すみません…、あ、内野さん、ここ…、申し訳ないですけどお願いできませんか?」
「あ? テメーでやれよ。そのぐらい」
「窓際で結構目立つところじゃないですか。だからやっぱり大事なところは内野さんが仕上げたほうがいいかなと思いまして。内野さん、手先が器用なんで」
「あ、まったくしょうがねえ奴だな~」
おだてに弱い典型的な男。まざらでもないような表情を浮かべ、内野は重い腰を上げた。よし、これであとは窓枠のそばまで来させたら……。
「僕、内野さんの作業を後ろで見ながら参考にさせてもらってもいいですか?」
「ああ、ちゃんと見て参考にしろ」
僕に背中を向け、作業を始める内野。そこから一メートルも左に行けば、窓枠がある。少しでも身を乗り出した時に後ろから押せば、簡単に転落するぐらいの大きさの窓枠。
まだ今はしばらく作業に集中させろ。そしてタイミングを見計らって、ここへ誘き出せ。
「いいか? こういう溝を綺麗にするにはな、まずモルタルをこうやって奥へ敷き詰めるだろ? それから……」
僕に言っているつもりなのだろうが、それが最後の台詞になるんだ。もっと気が利いた台詞を使えばいいのにね。
僕はさりげなく外に視線を逸らし、横目で内野の様子を伺う。
「あ、内野さんっ!」
「何だよ?」
「あそこ! 女の人が、着替えをしてますよ」
「何? ほんとかよ?」
持っていたコテを投げ出すように床へ放り投げ、内野は窓枠へ駆け寄る。僕をつっぺすようにどかすと、身を乗り出して外の景色を見だした。
隙だらけの背中。ちょっとでも後ろから押せば、彼の命はこれでなくなる。
「……」
人生三度目の殺人の瞬間……。
一人目は母さん。
二人目は藤岡。
三人目は目の前にいる内野。
殺し方は簡単だ。この右手で押すというシンプルな行為。
僕はゆっくり息を吸い込んだ。
「二人で楽しいところへ行こう、ね?」
僕を一緒に道連れにしようとした母さんの最後の言葉。
「分かってるよ。早く行ってこい」
僕に騙されているとも知らず、半分ニヤニヤ、半分イライラしながら言った藤岡の最後の言葉。
案外僕って記憶力がいいのかもな。こうやって未だあの時の台詞は、頭の中で鮮明に覚えているのだから。
「おい、小坊主。どこら辺で女が着替えているんだよ?」
外を見たまま聞いてくる内野。
何だよ、それが君の最後の言葉か? つまらない人間だとは思ったけど、本当につまらない人間だな。もう少し気の利いた台詞を吐いてみなよ。
「えっとですね…、右側の青い屋根の家見えます?」
適当な事をでっち上げながら、足音を立てず徐々に近づく。そして右腕をゆっくり上げ、彼の背中へ手の平を向けた。
「ねえぞ、そんなもん」
そう言いながら内野はこっちを振り向く。馬鹿、何でこっちを向くんだ。それじゃ押せないじゃないか。
しょうがなく僕も一緒に窓際に立とうとすると、妙な点に気付く。内野は一瞬僕を振り返ったが、目を見開き、体を小刻みに震わせていた。何をしてんだ、こいつ? 早く外を眺めろよ。
「ぁ……」
僕を指差したまま、徐々に離れて距離を取ろうとする内野。
「ど、どうしたんですか?」
「な…、何だよ……、お…、お、おまえの…、よ、横に立っているの……」
「はあ?」
誰か来たのかと思い辺りを見るが、僕たち以外誰の姿も見えない。何で内野は怯えたように僕を見ているんだ? まさか、僕が殺意を持っている事に気がついて? いや、それはさすがにないだろう。
ん、僕を見ているのとはちょっと違う。どこを見ているんだ?
「よ、寄るなっ! ち、近づくなっ!」
「ちょ、ちょっと、内野さん…。どうしたんですか?」
「わーっ!」
僕が少し近寄っただけなのに、内野はすごい勢いで階段を駆け下り逃げてしまった。あのふてぶてしい態度のあいつが、何でああまであんな怯えているんだ?
誰もいなくなった雑居ビルの三階は、当たり前だがシーンと静まり返っている。
コト……。
「ん?」
背後で物音がしたので振り向く。
「あれ……」
誰もいない。何だか気味悪くなった僕は、みんなのいる一階へと急いで駆け下りた。