この日、内野は借りてきた猫のように大人しく、僕と目さえ合わせなかった。先ほどの異様な態度について聞こうにも、彼は完全に僕を避けているように思える。
結果、三度目の殺人にあたる内野殺害計画は、中止するしかなかった。
またいずれ何かしらの機会が来るだろう。その時まであの男の命は生かしておいてあげようじゃないか。
しかし、彼の姿をそれ以来見る事はなかった。何故なら次の日から内野は無断で仕事を休み、二度と会社に来る事はなかったから。
まあ僕に被害が及ばないのなら、特に殺す必要なんてないかも。ただ、あいつは以前幸子が作ってくれたおにぎりを強引に奪い取っただけでなく、粗末に投げ捨てた。その報いぐらいは償わせたかったが……。
幸子は約束通り、最低一週間に一度は僕の家までやってきて、手料理を作ってくれる。
月に一度は幸子の家の食事へ招待され、彼女の親とも親睦を深めた。
彼女の家にも招かれたというせいもあり、僕は幸子に対し手を出せず、いつも悶々としながら二人きりの時間を過ごした。
彼女は僕の想いに気付いているのだろうか? 二人でいる時間はいくらでもあるから、聞こうと思えば聞けた。だけどそうする事で、この幸せな時間が壊れてしまう可能性もある。なので僕は、自然の成り行きに身を任せる事にした。
そんな調子で三年ほどの月日は流れ、幸子や直樹君は無事に高校を卒業する。直樹君は就職。幸子は大学へと進む。三人共仲良くいるが、特に男と女の関係になるような事はなかった。
僕はと言うと、真面目に通っていた会社が倒産し、ガードマンをしたり、別の現場仕事へ行ったりと、ハッキリとした職が定まらない状態だった。それでも幸子が僕を気に掛けてくれているのが嬉しい。
これまで二人の人間を殺した僕。でも、あれ以来これといった殺意もなく、平穏で幸せな毎日を過ごしている。
施設で一緒に過ごした知子と貴子。彼女たちとはここ数年まるで接点がない。幸子に手を出せず、溜まった性欲をマスターベーションで処理するしかなかったので、一度施設へ顔を出した事があった。
しかし貴子は中学卒業と同時に施設を出て、どこかで一人暮らしを始めたらしい。何の仕事をしているのか、どこに住んでいるのか聞いてみたが、他人の僕には教える事ができないようだ。
知子は夜間学校を卒業して、どこかの専門学校へと聞いた。当然こっちも詳しい情報は教えてもらえない。
みんな、それぞれ自分で決めた目標に向かって頑張っているんだろうな。
僕に何か目的はあるのか? しばらく考えてみたが、普通に暮らしていければそれでいいぐらいしか思いつかない。何の仕事についてとか、将来どうなりたいというものがまるでなかった。
中途半端に毎日を過ごす僕。大学でテニスのサークルに入った幸子は、週に一度料理を作りに来るはずが、段々とその回数が減りつつある。そんな大学って面白いのかな。まさか彼氏でもできたのかと勘ぐった事はあったが、それを聞くのが怖くて僕は彼女に何一つ聞けなかった。
ガードマンのアルバイトが定着してきた頃、僕たちは二十一歳になっていた。そろそろちゃんと社員になって、安定した生活を送るのも悪くないだろう。
幸子は順当に行けば、来年で大学を卒業。直樹君は会社の仕事が忙しいのか、ここ数ヶ月連絡一つない。
今では月に一度か二度ぐらいしか家にこなくなった幸子。それでも僕はその事で彼女を責めた事は一度もなかった。幸子は幸子なりに色々な予定があるだろうし、僕だけの為に彼女の時間を拘束する訳にもいかない。
このままでは時間だけが経ち、幸子との距離はどんどん離れていってしまうんじゃないか。そのような焦りも感じたが、どう動けばいいのか分からなかった。
彼女に直接聞いて、彼氏ができたなんて聞いたら、僕は顔も知らぬ幸子の彼氏に殺意を抱いてしまう。それだけは避けたい。だから動きようがなかったのだ。
他に友達もいない状況で、僕は淡々と仕事へ行くだけ。
ガードマンの仕事は自分に合っているのか本当に気楽だった。深く物事を考えず、その場で立っていればいいのだから。自分の時間を切り売りして、その報酬をもらう。それだけだった。
ある冬の寒い日、仕事が休みで特にする事もなかったので、街をブラブラと目的もなく歩いた。
これといった趣味もなく、街を歩いてもゲームセンターへ寄ったり、喫茶店で漫画を読んで時間を潰したりするぐらいの方法しか僕にはない。惨めさと寂しさ、この感情が常に心の中を泳いでいる。
喫茶店でマズいカレーライスを食べ、そろそろ家に帰ろうと店を出た。
ボーっと歩いていると、一人の男の姿が目に止まる。あれ、どこかで見たような…。僕はその人の顔がハッキリ見えるぐらいの位置まで歩き、しばらく眺めた。
「あっ!」
間違いない。あれから時間が経ったから昔と比べればさすがに変わったけど、に子供の頃よく面倒を見てくれた隼人兄ちゃんだ……。
黒い短髪は前と同じ。黒のスーツで身を包み、ゴツい拳をいつも握り締めたあの立ち姿は変わらない。何といっても右のこめかみにある三本の傷跡…、あれこそが隼人兄ちゃんだって証拠だ。
懐かしさが込み上げ、視界が滲んでくる。小学校高学年の時だったっけ? よく一緒に遊んでくれたのは……。
ソフトクリームをご馳走になったり、不良に絡まれた時助けてくれたり。隼人兄ちゃんにはいい思い出しかない。
僕だってすぐ気付いてくれるかな? でも隼人兄ちゃん、女の人と一緒にいるみたいだ。このタイミングで声を掛けたらお邪魔だよな。彼女さんなのかな? ポニーテールがとても似合う綺麗な人だな。
隼人兄ちゃんは女の人と難しい顔をしながら話し込んでいた。しばらくその状況を見つめる。
「もうっ、隼人なんか、知らないから……」
そう言って走り去る彼女。
「……」
黙ったままその後ろ姿を眺め、その場へ立ち尽くす隼人兄ちゃん。何だかとんでもない状況に出くわしたみたいだ。久しぶりの再会なのに……。
彼女さんと喧嘩でもしたのかな?
少しして歩き出す隼人兄ちゃん。このままだとこれっきりで終わってしまう。僕は兄ちゃんのあとをつけるように歩いた。
昔母さんと一緒に行ったドイツ食堂の前を通り過ぎ、真っ直ぐ歩く兄ちゃん。いつ、声を掛けたらいいだろうか? 僕は軽く深呼吸をしてから口を開いた。
「隼人兄ちゃんっ!」
その声で彼は振り向く。誰だ、こいつってジッと僕の顔を見ていたが、やがて口元が釣り上がりニヤリと笑った。
「ひょっとしておまえ…、次郎か?」
約十年ぶりの再会。当たり前だがその期間お互い成長した。それでも隼人兄ちゃんの笑い方は、昔とまるで変わらない。その表情を見ているだけで、僕も一緒に釣られてつい微笑んでしまうぐらい。
赤ちゃんの時に亡くなってしまった僕の兄。生きていたら隼人兄ちゃんみたいな感じだったのかもしれない。そう…、僕はいつだってこの人と、亡くなった兄を勝手に重ね合わせて見ていたのだろう。
兄ちゃんの行きつけの店らしい『アラチョン』という洋食屋で、ハンバーグを食べながら昔話に花を咲かせた。お勧めのハンバーグはとても絶品で、今度一人でもここへ食べに来ようと思ったぐらいの味だった。
僕はこれまでの簡単な流れを伝える。もちろんこの手で母さんを殺してしまった事と、藤岡を殺した事は言わない。
嬉しそうに話を聞いてくれる隼人兄ちゃん。普段お喋りじゃない僕が、嬉しさのあまり饒舌になっている。
「色々と大変だったんだな、次郎は……」
優しそうな瞳で僕を見て、隼人兄ちゃんは口を開く。
「ううん…、そうでもないよ。でも、こうしてまた隼人兄ちゃんに会えて、本当に嬉しい」
「そっか…、そんな想われていたなんて、俺も果報者だな」
「さっき一緒にいたのは彼女さん?」
「ん? あ、ああ……、そうだったけど、もうそうじゃないかもしれないな」
あ、失礼な事聞いちゃったかな? 話題を変えないと……。
「今、隼人兄ちゃんは何の仕事をしているの?」
「い、いや…、ちょうど就職活動中ってところかな」
「あ、そうなんだ」
「次郎はどうしているんだ?」
「僕はガードマンのアルバイトをしてるだけ」
「まだちゃんと働いているだけ、俺よりマシだ」
そう言って隼人兄ちゃんは寂しそうに微笑んだ。
何の目的もなくただ生きているだけの僕。多分、隼人兄ちゃんも人生の目標が定まらない状態で、僕と同じような心境なのかもしれない。
喧嘩が強く正義感溢れる性格は、自分とはまるで真逆だけど、その存在でどれほど僕は救われた思いをしたか。初めて出会った頃、隼人兄ちゃんの右こめかみにある三本の傷は母親から受けたと言っていた。想像もつかないような虐待を受けたのだろう。二人に共通する点は共に親の虐待を受けて育ったという点。
いつも助けてもらってばかりだった。僕のほうが年下だったから? それを差し引いても、本当に優しく接してくれた。
その兄ちゃんが今、就職活動中と言う事は無職。僕に力があれば仕事を紹介したいのに、それさえできない現実。歯痒さを覚えるだけで何一つしてあげられない。
前に言っていた会社が倒産した時、僕は居場所をなくしたような錯覚がした。もちろん帰る家はあるけど、嫌な先輩の内野がいなくなり、非常に働きやすい環境になりつつあったのだ。仕事に対しても前向きに考えられるようになってきたというのに……。
それからまともな就職先が決まらず、こうしてガードマンのアルバイトに落ち着いた僕。隼人兄ちゃんも、おそらく同じような気持ちに違いない。
こんなにいい人が何でこんな風に生きなきゃいけないんだろう。
歪んだ世の中。目先の金ばかり追う人間が増え、自己の欲を満たし、簡単に人を騙そうとする奴が多くなる。正直者は泣きを見るだけで、抵抗しないと災いは延々と続く。
殺した母さんがそうだった。性欲をまず先行し、子供の教育などまるで頭になかったあの頃。入れ代わり知らない男の人が家に入り、母さんはよがり声を出していた。邪魔な存在でしかなかった僕は少ない小遣いを渡され、寒い時期でも構わず外へ放り出される。快楽を求めるまではいい。その行為が終わると、日々のストレスからか母さんは決まって僕を虐待した。挙句の果てには殺そうとまで……。
二度目に殺意を持って殺した藤岡もそう。他人を蔑み苛める事で快楽を感じていた。そして性欲が湧けば、どんな状況でもその欲を通そうとする。
だから殺してやったんだ……。
もっと人情味あふれる世の中になってほしい。
幼き時代では隼人兄ちゃん。
施設では親身に接してくれた留美子先生。
こっちに一人暮らしするようになってからは、幸子の家族。
みんな、見返りも何も求めずに、ただ善意の元で行動してくれた素晴らしい人たち。
「おい、どうした、次郎?」
「ん? あ…、昔の事をちょっと思い出してた……」
「俺がまだ約束したお子さまランチをご馳走してないって事をか?」
笑いながら隼人兄ちゃんは言った。
隼人兄ちゃんと別れ、浮き浮きした気分で道を歩く。無職なのに兄ちゃんは『アラチョン』で食べた料金をすべて出してくれた。今まで世話になりっ放しだった僕がご馳走しようと思っていたのに、兄ちゃんのプライドが許さなかったようだ。
どんなになっても隼人兄ちゃんは昔と変わらない。それが素直に嬉しかった。
誰かにこの嬉しさを伝えたい。でも直樹君は全然連絡くれないぐらい仕事が忙しいんだろうし、幸子もここ二週間ほど顔すら出していない状況だ。
こうしてみると、いかに友達が少ないかが分かる。二十一歳にもなって、自由に話したい時に話せる相手がいないのだ。だから休日なのにやる事が何もなく街をブラブラするぐらいしかない。今日はそのおかげで偶然隼人兄ちゃんと再会できたから良かっただけ。
ぼんやり歩いていく内に、幸子のお母さんの経営する化粧品屋の『加賀屋』が見えてくる。たまには顔でも出そうかな。あ、その前に先日給料が出たばかりだし、たまには何か持っていこう。いつもご馳走になってばかりで、お返し一つできていない。
僕は進行方向を変えて近くのケーキ屋へ入った。
おばさんは何が好きなんだろうな。無難にショートケーキ? それともモンブランかな? いいや、どうせ幸子も帰ってきたら食べるだろうし、色々買っちゃおう。ショーウインドーの中にあるケーキを全部一種類ずつ買う事に決める。
ガラス張りの『加賀屋』を覗くと、ちょうどお客さんはいないみたいだ。僕は自動ドアを開けて中へ入った。
「あら、次郎ちゃん。どうしたの、こんな時間に?」
カウンター席に座っていた幸子のおばさんは、僕の顔を見ると笑顔に変わる。
「今日仕事は休みなんです。それでいつもおばさんにはよくしてもらっているんで、これ持ってきたんです。良かったら食べて下さい」
「え、何よ…、そんな気を使っちゃって…。そんな事しないでいいのに」
買ってきたケーキを手渡そうとすると、おばさんはなかなか受け取ろうとしない。
「いえ、この間給料入ったんで、受け取って下さい」
「う~ん、でも、何だか悪いわ」
「ずっとご馳走になりっ放しじゃないですか。たまにぐらい僕からだって……」
「分かった…。ありがとね、次郎ちゃん。おばさん、ケーキ大好きだし、今回はじゃあご馳走になるね。でも、もうこんなお金使わなくていいんだからね」
「はい」
少しだけ心のどこかでつかえていた何かがスッと楽になったような気がする。
「今日は何かあったの? まだ幸子は大学で戻ってきてないけど」
「いえ、特に用と言う訳じゃないんですけど……」
僕は隼人兄ちゃんと再会した事をおばさんに話した。もちろんおばさんは、兄ちゃんの事なんて知らない。それでも笑顔で僕の話をうんうんと頷きながら聞いてくれた。
状況を分かってもらう為には、僕の幼少期だった辛い過去もある程度要約しながら話すようだった。
母さんから受けた虐待を話している時、おばさんの表情が曇りだす。そして目頭を押さえながら声をつまらせていた。僕がそんな目に遭っていただなんて想像もつかなかったのだろう。
「でも、母さんは僕が小さい時に亡くなったし、みんな『大変だね』って言ってくれたけど、逆にこれでもう叩かれないで済むぐらいに思っていたんです」
安心させるように僕がそう言うと、おばさんはさらに泣き出してしまう。随分昔の事なのに、何でおばさんはそんなにも泣くんだろう……。
いつも明るいイメージしかないおばさん。でも、僕の辛い過去の一部分を聞いただけで、こうも涙を流してくれる。
こんな自分の為に泣いてくれる人がいたという事実。
こんな人が僕の母さんだったら良かったな……。
僕は目の前で泣くおばさんの姿を見て、自然とそう思っていた。
ケーキを持っていった一件以来、僕と幸子のおばさんとの距離がグッと親近感を増したような気がする。暇を持て余している時は、ほとんどおばさんの化粧品店『加賀屋』へお邪魔した。娘の幸子よりも、おばさんと会っている回数のほうが次第に多くなっているぐらいである。
何とも言えない居心地の良さを感じた。それは一度でも悲しみを分かち合えたからだろうか? ちょっと違う。一緒に共有してくれたから? でも、それなら施設にいた時、貴子や知子とも同じような悲しみは共有していたはずだ。それともちょっと違う。
多分自分の中にある理想の母親像ってものがあり、きっとそれは幸子のお母さんに近いのだろう。
もしも母さんが今も生きていたら、こんな風に和気あいあいと話をしたかった。そんな願望があったのかもしれない。いや、自分で殺しておきながらそんな風に考えるのは、都合良過ぎるか……。
おばさんに対する僕のこの感覚は、単なるないものねだり? もしくは現実逃避に過ぎない。そんな自覚していても、おばさんと色々な話をするのは僕にとって幸せな事だった。
今日はもう一つの幸せな出来事がこれから来る。幸子が家に料理を作りに来てくれるのだ。
幸子は僕の家に来るなり、「最近次郎君、うちのお母さんとよく話をするようになったんでしょ? お母さん、次郎君が来るといつも喜んで興奮しながら私に話してくるのよ」と言ってきた。
それを聞いて心のどこかでホッとする僕。向こうは仕事中なのである。お客さんのいない時に話をするよう心掛けていたが、ひょっとしたら迷惑なのではないかという思いもあったのだ。
「うちって私一人でしょ? 多分お父さんもお母さんも、男の子がほしかったんだと思うよ。だからああして次郎君をよく家の食事に招いているんだろうしね」
「そうなんだ……」
「だから遠慮なんかしないでどんどん顔を出してやって。お母さんも喜ぶから」
「じゃあ、僕と幸子ちゃんは兄弟みたいなもの?」
「う~ん、幼馴染だけど、それが一番近いのかもね」
幸子がそう言うと、僕たちは顔を見合わせて大笑いした。
このままこの子とは、恋愛感情もなくこうやって過ごしていくのかな。そう考えると、寂しい気持ちもある。しかし仲良く笑顔で一緒に過ごせるのなら、それはそれで一つの形なんだろう。
もし、彼女の家に同じ兄弟として生まれていたら、僕のこれまでの人生どんなに明るく素敵で幸せな時間を過ごせたのかな。でも、それは無理だ。僕は幸子を一人の女としても意識はしている……。
「そういえば直樹君から連絡ある?」
「え……」
僕が質問すると、幸子の表情が曇る。直樹君は昔から幸子の事が好きだった。僕もそうだけど、彼が決定的に違うのは気持ちをちゃんと伝えた事である。
「どうしたの、幸子ちゃん?」
「これ、直樹に言わないでよ?」
「え? 何が?」
「今からする話」
「あ、うん……」
彼女の話した内容は簡単に言うと、彼が手を出そうとして幸子が本当に切れてしまい、完全にふってしまったという事だった。
「最初はさ…、カラオケに行こうって言うから、軽い気持ちでついていったの」
「うん、それで?」
「もちろん始めの内はちゃんと歌を唄っていたけど、急に部屋の明かりを消してさ…。いきなり私に抱きついて押し倒されたの……」
「……」
その様子がリアルに頭の中で浮かび上がる。
「直樹の事は嫌いじゃないよ? でもね、昔からの幼馴染だし、強引にそういう行為をしてくるって最低だと思わない?」
「そ、そうだね」
「だからその場で張り手を思い切りしてやって、『二度と私の前に姿を現すな』って本当に怒っちゃったの。それで次郎君のところにも連絡がなくなったのかもしれないよ」
「そうだったんだ……」
強引にキスをされたり、胸を揉まれたりしなかったのだろうか? もっとその辺を詳しく聞きたい。でも、さすがに僕からは言えない。
「次郎君は私の事好き?」
「え……」
いきなりそんな質問をされたので、心臓が大きく揺れた。
「ね、そういう風に来られると、困っちゃうでしょ? 直樹は相手にそういう気遣いが全然ないんだよね」
「確かに急に言われたら、困っちゃうよね」
ここで僕が好きだと言ったら、幸子はどんな反応をするのだろう……。
「まああんな奴の話なんてどうでもいっか。今日は野菜たっぷりのミネストローネと、チキンの照り焼き作るね」
張り切ってキッチンへ立つ幸子。僕は黙ったまま彼女の後ろ姿を見つめていた。
世間一般でいう、ごく普通の二十一歳。みんなから見れば、僕の事はそう映るだろう。十二歳で殺人を犯し、十五歳でも二度目の殺人をした二十一歳……。
誰にも言えない僕だけの秘密。
こんな男が恋心を抱く幼馴染の母親とも仲良くなり、内面では理想の母親像として接している。彼女らが僕の実態を知ったら、一体どんな反応をするのだろうか?
大事にしていたものが突然消え、知らない世界へ連れていかれ、今度は自分の意思で元いた場所へ戻ってきた。それからは平穏無事に過ごしつつ、昔からの知り合いとも再会していく現実。
ずっと会いたいと思っていた幼馴染の直樹君と幸子。そして隼人兄ちゃん。全員ひょんな形で再会し、現在幸子との仲は継続中。隼人兄ちゃんは一回会ってからまだ会っていないが、たまに電話がある。
施設で一緒だった貴子や知子とも、また会いたいという思いはあった。それに途中で辞めてしまった留美子先生とも……。
また貴子と会ったら、僕はどうしたいのか? 初めてセックスをした相手。初めて暴力を振るった相手。僅かな期間だったが、同棲まがいの事もした。願う事ならもう一度抱きたい。貴子が僕の家から消えて以来、一度も性行為をしていなかった。
一時は幸子をどうにかしてと考えた事もある。彼女の淫らな姿を想像し、マスターベーションした事は数え切れない。しかしこれまでずっと僕の妄想の中だけで済ませている。それはきっとこれからも同じだろう。
ファーストキスの相手である知子。貴子に手を出したのを見られてから、口も利いてくれなくなった。おそらくあれは、嫉妬心から来るものだったのだ。あれからかなりの年数が経った。まだ彼女は僕の事を考えてくれているのか? さすがにそれはないな。どちらにせよ、僕は貴子と知子を性の対象として考えている。
今度幸子が来たら、自分の気持ちを正直に伝えてみようか? 駄目だ…、そんな真似をしたら、ずっと続いていたいい関係は終わりを迎えるかもしれない。
何でこんな事ばかり考えているのだ、僕は……。
女の体を十五歳で知ってしまったのだ。それからもう六年も女を抱いていない。要するに女に対し、猛烈に飢えているのだろう。
貴子のような大きな胸を手で触り、口で乳首を転がしたかった。ギンギンに張り詰めた僕のを入れて、思う存分腰を振りたかった。
幸子や知子のようなスレンダーな体でもいい。とにかく女を抱きたいのだ。
今度給料が入ったら、風俗店に行ってみようかな……。
僕はまだ一度もそういう場所へ入った事がない。行きたい思いは強いが、恥ずかしさがありついつい躊躇してしまう。だからエロ本やエロビデオにも興味があるのに買えない。
いつまでも自分の右手で性欲処理をしているのは嫌だった。
こんな事をずっと考えていたら、頭がおかしくなりそうだ。淫らな想像をすると、もう我慢できそうもない。新宿か池袋まで出れば、たくさん風俗店はあるはず……。
一体ああいうお店っていくらぐらい金が掛かるのだろう?
とりあえず僕は財布の中に三万円を入れると、家を飛び出した。
時刻は夜の九時。都内へ出るまで一時間ぐらい掛かってしまう。終電ギリギリになるかな。下手したら逃す可能性だってある。明日は仕事なんだぞ? でも仮に終電を逃しても、始発で帰ってくれば問題ない。
自問自答をしながら駅前まで辿り着く。往復で二時間…、風俗店ってどのぐらいの時間が掛かるのだろう? 今度の休みにしたほうがいいかな……。
年末のせいか街に繰り出している人の数は多かった。
性欲の為にわざわざそんな手間を掛けて都内へ出ようとする自分を酷く惨めに感じる。冷たい外の風に当たったせいか、頭が冷え、冷静さを取り戻したようだ。
いくら掛かるか分からないけど、そんな何万も一気に使える余裕があるのなら、幸子へプレゼントの一つでも買ってやったほうが有意義な使い方ではないか。最近来る回数は減ったものの、数年間無償で僕に料理を作ってくれているんだぞ。お礼に何度かレストランでご馳走はしたが、そんなもので借りを返せたという意識は毛頭ない。
また、今度の機会にしよう……。
急に飛び出したからお腹が減っている。せっかく駅前まで来たのだから、何か食べて帰ろうかな。
僕は近くにある中華料理屋へ入り、味噌ラーメンと餃子を注文した。
胃袋に熱いスープを流し込むと、体内が暖まっていくのが分かる。餃子がおいしかったのでもう一皿注文した。
胃袋が満たされると、僕は冷たい水を一口飲んでからボーっと外の景色を眺める。クリスマスなど過ぎたというのに腕を組みながら仲良さそうに歩くカップルが多い。これから一緒に食事やお酒を飲みに行くのだろう。素直に羨ましかった。
僕はいつだって一人…、孤独だ。
ほとんどこうして一人で食べる食事は非常に侘しい。でもしょうがない。彼女もいなければ、友達だっていない。それに両親はとっくに亡くなっているから天涯孤独の身なのだ。
会計を済ませ外へ出ると、追い討ちを掛けるような寒さが襲う。もう帰って寝よう。この季節は僕にとって寂しさを余計に増す。すれ違うカップルを見ながら幸子の顔を思い出した。彼女とこんな風に一緒にいられたら、どんなに嬉しい事だろうか。誰でもいいから、こんな自分を癒してほしい。
「おい」
後ろから肩を不意に叩かれ、咄嗟に僕は飛びのく。藤岡を後ろから押して殺した僕は、どうも背後から人が来られる事を忌み嫌う。
「何をそんな慌てているんだよ、次郎」
「は、隼人兄ちゃん……」
久しぶりに再会してから約一ヶ月ぶりだった。たったそれだけの時間なのにとても懐かしさを感じる。多分それだけ僕の心が寂しさで満たされていたんだろう。
「こんな時間に駅前で何をしてんだ?」
「え、いや…、ご飯を食べに……」
「もう食べたのか?」
「うん、駅前の中華で」
「じゃあ、飲みに行かないか?」
「え、どこに?」
「どこだっていいさ。女のいる店でも、いない店でも。大人になったおまえと一度ゆっくり飲んでみたいって思っていたんだ」
そう言った隼人兄ちゃんの顔は、少し以前よりもやつれているように見えた。
僕たちは近くの居酒屋へ入った。
またしても偶然的な再会だけど、隼人兄ちゃんに会えて嬉しく思う。生ビールを注文して乾杯を済ませる。
もう兄ちゃんは仕事先決まったのかな? あれから一ヶ月も経ったんだ。さすがにもう働いているか。だから兄ちゃんは飲みに僕を誘ったんだ。
「隼人兄ちゃん今、どうしているの?」
「ん、俺か? 無職だ」
「え……」
あれからまだ働いていないって言うのだろうか?
「金の心配ならするな」
懐から兄ちゃんは財布を取り出し、テーブルの上で広げる。
「うわっ! 何…、この金額は?」
思わず驚嘆の声が出てしまうぐらいの札束。どのぐらいあるのか分からないけど、ギッチリ金が財布に詰まっていた。
「おまえと久しぶりに会ってから、新宿まで働きに行ってな…。もうこの間辞めたばかりだけど、気付けばこんなどうでもいい金だけは手にできた」
少しやつれたと思ったのは新宿へ行っていたのが原因? 隼人兄ちゃんはあの街で、何をしてきたのだろう。
「新宿って…、歌舞伎町?」
「ああ…、そうだ」
「……」
まさか犯罪に手を染めて? だからこんな大金を手にしたんじゃ……。
「おいおい…、次郎、おまえ変な勘違いするなよな。ちゃんととは言えないけど、悪い事はしてねえ。働いて作った金だ」
「でも…、百万ぐらいあるんじゃないの…、その財布の中……」
「惜しいな…、百万はないけど九十万ちょっとは入っている」
「すごいね…、僕なんて一ヶ月働いても二十万円にもならないから……」
「誰でもできるような簡単な仕事だったよ…。あんなんで金をもらえるのかってぐらいな」
「一体どんな仕事?」
僕の質問に対し兄ちゃんは答えてくれず、タバコを取り出して火をつけた。ゆっくり煙を吐き出してから、ビールを飲み、しばらくしてから口を開く。
「ゲーム屋って知ってるか?」
「ゲーム屋? ゲームセンターの事?」
「普通は知らないよな、うん…。知らないで当たり前だ……。ゲームセンターにもたまに置いてあるポーカーゲームの機械あるだろ?」
「ポーカー…、あ、うん」
「あれを使って実際に本当に金を賭けてやる場所をゲーム屋って言うんだ。俺はそこで一ヶ月働いた」
隼人兄ちゃんの言うゲーム屋…。映画とかでよく出てくる博打を打つ鉄火場のようなところを想像した。
「それってサイコロを使って半か丁かってやるような?」
「それは映画とかのヤクザ者の賭博場だろ。そうじゃなくて昔インベーダーゲームが流行ったろ? よく俺もおまえもゲームセンターで夢中になってやった」
「うん」
「ああいう平台にポーカーゲームが入っていて、それが店内に十台ほど並べられているんだ。客は金を出してクレジットを買い、勝てばもちろんその場で現金に換金できる。それがゲーム屋ってところだ」
「ふ~ん……」
そこで働けば、月に九十万近い金を手にする事ができるのか。
「実際の給料は日払いで、毎日一万二千円ずつもらえる」
「ん、ちょっと計算合わなくない?」
一日一万二千円じゃ休みなく出たとしても、三十六万にしかならないけど……。
「それ以外にその店の店長が売上をうまく誤魔化して金を抜いていてな、口止め料代わりに俺にも金を回してくれたんだ」
「へー、いい人だね、その店長って」
これまでの状況を色々と詳しく話してくれた兄ちゃん。内容を言われても僕にはよく理解できない事だらけだったけど、歌舞伎町という繁華街へ行けば、こんな僕でも金を手にするチャンスがあるかもしれないという事だけは分かった。
「いい人? ああ…、確かにいい人だったな」
奥歯に物の詰まったような言い方が気になった。
「何でそんないいところを一ヶ月で辞めちゃったの?」
「その店長がホモで…、俺に気があったからだ……」
「いっ……」
そこまで話すと隼人兄ちゃんはビールを一気に飲み干した。
「おい、次郎…。おまえ、全然酒飲んでねえじゃねえか。もっと飲め」
酔ったのか段々横柄な話し方になってきた隼人兄ちゃん。まったく飲めない訳じゃないけど、明日は仕事がある。あまり支障をきたすような飲み方は避けたい。
兄ちゃんの働いていた店の店長がホモというところまで聞いたけど、そのあとはただ酒を黙って飲み交わすような感じだ。そろそろお開きにしたほうがいいかな。
「兄ちゃん…、僕、明日仕事だから、この辺で帰るよ」
「何だよ、付き合いの悪い奴だな~。もうちょい付き合え、この野郎」
うわ、酒癖悪そうだ…。でも、この状態で兄ちゃんを放って帰るのも後ろめたい。僕は立場的にアルバイトだし、明日の仕事は体調悪かったら最悪休もうかな……。
隼人兄ちゃんに肩を貸しながら居酒屋を出る。酔っていても、ちゃんと兄ちゃんは奢ってくれた。
「おう、次郎っ! 次行くぞ、次」
「次ってどこへ?」
「女のいる店だ。キャバクラでもスナックでもどこでもいい」
「え~、でも、ああいうところって結構金額取られるんでしょ?」
「うるせー、金ならあるんだ。今日はとことん付き合え」
「そんな無駄遣いしちゃ駄目だよ、隼人兄ちゃん……」
いくら止めようとしても、兄ちゃんはどんどん先へ進んでいく。こうなったらもうしょうがない。明日の仕事は休み確定になりそうだ。
千鳥足の兄ちゃんのあとを黙ってついていくと、キャバクラへ入っていった。
騒がしく薄暗い店内。黒い服を着た従業員が笑顔で近づいてくる。何か言っているようだけど、音楽があまりにもうるさいのでいまいち聞こえづらい。とりあえず僕たちは席へ案内され座る。
少しして女の子が二人やってきた。一人はキャミソール姿、もう一人は大きめの白いワイシャツしか着ていない。よくこんな格好で男の前にいられるものだ。恥ずかしさとか感じないのかな……。
「いらっしゃ~い」
ワイシャツ姿の子が僕の隣へ座る。ムッチリとした太腿が当たり、それだけで妙にドキドキした。
「お客さん見た事ないけど、ここは初めて?」
「う、うん……」
「やだ、固くなっちゃって。ひょっとして緊張しているの?」
「こ、こういう店に来る自体初めてだから……」
チラッと兄ちゃんを見る。キャミソール姿の女の子と楽しそうに話をしていた。
「じゃあ、キャバデビューなんだ。私が初めてつく女になるんだね」
「……」
何でこの子はこんなどうでもいい事を話してくるんだろう? 女の子が横についてお酒を飲みながら話すだけ。こんなお店のどこが面白いのだ? これなら兄ちゃんと二人だけで話をしているほうが良かった。
僕は先ほど兄ちゃんが言っていた歌舞伎町の話を思い出していた。不正をしながらも月に百万近くの金を稼げる職場なんて、他にあるのだろうか。三ヶ月も働けば、僕の一年分の給料を簡単に稼げてしまう。一日一万二千円の日払いと言っていたから、一ヶ月で約三十六万。つまり六十万以上の金はホモだったという店長からもらえていたという事になる。
いくら兄ちゃんに気があったからって、何でそんな環境を辞めてしまったのだ? 喧嘩の強い隼人兄ちゃんなら無理強いさせられる事もないはずなのに。
今のガードマンのアルバイトを続けていても、この先光明なんて何も見えない。もしも僕が歌舞伎町へ行ったら?
「ん?」
女の話を上の空で適当に相槌を打ちながら店内を眺めていると、一人の女に視線が止まった。化粧でずいぶん雰囲気が変わったみたいだけど、あれは知子だ……。
三席ほど向こうの客と楽しそうに会話をしている知子。確か専門学校へ行っているんじゃなかったのか? 何故こんな場所で……。
茶色に染めた髪。施設にいた頃は肩ぐらいまでしかなかったのに、今は完全にロングヘアーになっている。前よりも長くなったまつ毛、そしてすっぴんだったはずの顔には化粧が施されていた。
知子は客と会話しながら口に手を当てて何度も笑っている。あいつ、あんな表情なんてできたのか。もの静かであまり笑う事がなかった彼女がこんな感じになっていたので、違和感があった。
「ねえ、どこ見てるのよ?」
隣のワイシャツ女が怒ったように声を掛けてくる。
「ん、いや…、店内を眺めていただけ」
「誰か気に入った子いたの? それなら場内指名すれば? 私とじゃ、あまり面白くなさそうだしさ」
「場内指名?」
「指名料千円別に払えば、気に入った子を自分の席に呼べるの」
「ふ~ん」
千円出せば知子をここへ呼べる……。
「誰を気に入ったの?」
「い、いや…、気に入ったとかじゃないんだけどさ…。あ、あの子とちょっと知り合いだったから」
僕はそう言って知子をほうを指差した。
「え、真珠ちゃんと知り合いなの? あの子、まだここに入って一ヶ月も経っていないけど、店で人気ナンバーワンだよ」
「し、真珠? 知子じゃないの?」
「知子? あ、それってひょっとして本名じゃないの? みんな、ほとんど女の子は源氏名って言って、違う名前をお店用に使っているから」
複雑な心境だった。知子とは施設を出るちょっと前から避けられたままで、それっきりなのだ。
もちろん聞いてみたい事はたくさんある。
何故ここで働いているのか?
今、どうしているのか?
どこへ住んでいるのか?
何故そんな風に変わってしまったのか?
僕のファーストキスの相手でもある知子。あの頃間違いなく彼女は僕に対して好意を持っていたはず。貴子に手を出したのを見られるまでは……。
中学を卒業した時期だったから、あれからもう六年以上経っている。僕の事を覚えていてくれているのか? いや、その前にここで知子とどんな顔をして会えばいいのだ。軽蔑の眼差しを向けられるのではないか? そう思うと怖くなった。
「店長に言ってこようか? 真珠ちゃん、指名するって」
「……」
「ん? どうしたの?」
「い、いや…、大丈夫。君と話がしたい」
僕は自分の気持ちを誤魔化そうと、そんな台詞を口走っていた。今は隼人兄ちゃんも一緒にいる。知子の働いている場所は分かったのだ。また今度機会を見つけて一人で来ればいい……。
完全に酔い潰れてしまった隼人兄ちゃんをタクシーへ乗せ、自分の家に向かう。結局知子は僕に気付く事はなかった。少し寂しい気持ちになったけど、それで良かったんだ。いきなり会って、どう話せばよいか戸惑ってしまっただろうから。
兄ちゃんの体を背負い、玄関を開ける。本当に重いなあ。でも、あの兄ちゃんとこんな風に酒を飲み交わすなんて、想像もつかなかった。しかも今、自分の家に運んでいる。
幼い頃ゲームセンターで偶然会い、可愛がってもらっただけの関係。それが互いに年を取り、こうしてまた交わる。
「明日は仕事を休むしかないな……」
布団に寝かせると、上から毛布を掛ける。しばらく隼人兄ちゃんの寝顔を眺めた。
親から虐待を受けた者同士。僕は自分の母親を殺してしまったけど、兄ちゃんの母親はどうしているのだろうか。今度その辺も聞いてみたい。
さすがに酒を飲んだせいか、僕も気だるさを感じる。
貴子が当時使っていた布団を引っ張り出し、居間の床へ引く。埃が舞うが、酔っているのでどうでも良かった。
今度、知子のいるあの店に行こう。そして色々話してみたい。拒絶をされないのなら。
そっと唇に手を当ててみる。自然と抱き寄せキスをした知子。あの時彼女は何を考えていたのだろうか? あの頃にもう一度戻りたいのか、僕は……。
彼女も友達もいない現実。寂しさを常に感じながら目的もなく、かろうじて生きている僕。施設にいた頃は貴子と知子がそばにいた。それを壊してしまったのは間違いなく自分である。男と女の関係を意識してしまったから。
今はどうか。幼馴染の幸子と隼人兄ちゃん…、あ、あと幸子のお母さんも。
どっちが幸せを感じている? 施設にいた頃と、今は……。
「……」
やめよう。考えたって答えなど出ない。それにタイムマシーンなんてないから、願っても昔になど戻れやしないのだ。
もし、戻れるならいつ戻る?
母さんを殺す少し前……。
この手で押さなければ、母さんは死ななかった。
でも、そうしなければ僕はあの場で手首を切られ、殺されてしまうのか……。
「い、泉……」
兄ちゃんの寝言が聞こえる。彼女さんの名前だろうか? 久しぶりに再会した時一緒にいたポニーテールの綺麗な女性。別れてしまったような事を言っていたけど、未練がまだあるんだろうな。
でもそんな風に想える相手がいるって幸せな事だ。
僕は誰を想っている? 頭に浮かぶのは幸子。でも彼女とは幼馴染の域を出ない。知子は? あいつは今日偶然見掛け、気に掛けるようになっただけじゃないのか。
でも僕はまたあの店に…、知子に会いに行こうと思っている。彼女と話をしたいのは自覚した。しかしそのあと自分はどうしたいのだ、知子と……。
風変わりした彼女の姿を見て、綺麗になったと思う自分がいた。
堅くなる下半身。そう……、僕は、知子を抱いてみたかったのだ。
無性に性欲が出てくる。溜まったものを出したい。僕は足音を立てないように廊下を歩き、トイレに向かう。そして成長した知子を思い出しながらマスターベーションをした。
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